「あ」
summer_afternoon
第1話 「あ」がいない
目の前には、左の頬にピンクの「あ」を発光させながらシフォンケーキを頬張る美少女がいる。
「わん」
「美味しいねー、ラッシー」
美少女は呑気にオレんちの犬、ラッシーに笑いかける。
「あ」の消失が発表されたのは昨日だった。
テレビのテロップでは「あ」の部分が空白で表示されている。アナウンサーが話す言葉の「あ」の部分は聞こえない。
「本日未明、五十音の最初の文字、 が消失しました」
別のチャンネルではお笑いがツッコミをしていたが、「あ」がない。
「お前、 ほちゃうか。そんなんしたら かんで」
「 にき、そやかて そこんとこの れが1番旨いんや」
スマホで入力しようとしても空白になる。
世間が混乱していても、オレの生活には大きな支障はなかった。挨拶は「うっす」、同意は「ウケる」、驚きは「マジで?」。高校生の友達との会話なんて、それでなんとかなる。
授業で「あ」があろうがなかろうが、どうせ聞いてないし。中間テストが急遽中止になって嬉しい限り。どうせなら積分の記号もベンゼン環の亀の甲もなくなればいいのに。
「あ」が消失して2日目の帰宅途中だった。オレは最寄駅から家までの道を歩いていた。
女の子が体操座りで川に石を投げている。
黄昏時。茜色に照らされた紺色のセーラー服の背中は小さくて、頼りなくて、いかにも声をかけて欲しそうに見えた。だってさ、人に話しかけられたくないなら、人通りのある場所じゃなくて橋の下とかで石投げるじゃん。
誰も声をかけない。そんなもん。
オレもその他大勢と同じく、視界に入った女の子をスルーするつもりだった。一定の速度でその場を通り過ぎようとした。
「本田君」
女の子はいきなりくるっと振り向いて、川縁からオレを呼んだ。マスク越しなのに張りのある声。
女の子は立ち上がり、土手の草を踏みながらオレのところへ走ってきた。
マスクの上にあった目は大きくてイタズラっぽい。こんな可愛い知り合い、いないって。
「ごめん。同中だった?」
他の高校の制服だから、中学のときの知り合いかも。
女の子は首を横に振った。
「ううん。でも、知ってる。すっごく前から」
顔が緩みそうになったが、心の中で「冷静になれ」と唱える。オレは他校の女子に覚えていてもらえるようなイケメンじゃない。まして「すっごく前から知っている」なら、こんな可愛い子、絶対に記憶に残ってるはず。
「あ、ども。じゃ」
返事をした直後に別れの挨拶をして、オレは早足で歩き出す。と、後ろに足音がする。振り向けば、女の子がいて、マスクの上の目を細めて笑う。
「ね、本田君。私ね、お腹空いてるの。
本田君ちでシフォンケーキ食べたい」
訳分かんないこと言ってるし。どーしてオレんちにシフォンケーキがあるんだよ。ケーキ屋じゃねーし。
「……」
オレは無視して更に歩くピッチを上げた。着いてくる。怖っ。
「本田君ちのラッシーと遊びたいな」
ピタッ
オレは固まった。なんだよラッシーのことを知ってたのかよ。犬繋がりかよーーーなんて平和なことを思ったんじゃない。今、女の子は「遊びたい」とはっきり発音した。世間では「あ」が消失しているのに「あそびたい」と。
例えば自分がJKで、見知らぬ同い年くらいのヤローに声をかけられたとしたら、危険すぎて家には
家には絶対的なオレのボディガード、ラッシーもいる。
「ウチ来る? シフォンケーキはないかもだけど、食パンならあるし?」
誘った。あれ? オレ、「あるし」って発音できたよーな。気のせい? 消失してたはずなんだけど。もう、戻ったのか?
「わーい♪」
女の子はオレに並んで歩き出した。
家ではラッシーが留守番していた。初対面の女の子を自室に連れ込むのは気が引ける。だからダイニングテーブルで食パンを出そうと思っていた。のに。
ラッシーは喜んで尻尾をふりふり。女の子に
「きゃっ」
ラッシーは、女の子のスリッパ片方を咥えて階段を上がってオレの部屋へ持っていってしまった。
「こら、ラッシー!」
「お邪魔します」
こうして、オレの部屋に見知らぬ女の子が入った。
「わん」
ついでにラッシーも。ラッシーはラフコリー。もふもふの毛の大型犬。いつもはもう少し落ち着いていい子なんだけど。
「そこ、座ってて。食いもん持ってくる」
オレはトースターで食パンを焼こうと思った。すると不思議なことに、戸棚の食パンの横にシフォンケーキがあった。いつもだったら手で持って食べる。が、来客は女の子だから皿に載せてフォークを添えた。飲み物と一緒にラッシー用のクッキーも用意。
部屋では女の子とラッシーがお座りをして待っていた。
シフォンケーキに「わぁ」っと声を上げて女の子はマスクを外した。
「えっ!」
驚かずにはいられない。
女の子の左の頬には、ピンク色に発光する「あ」の文字が輝いていた。
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