第5話 柴田と直美

 仙台から柴田は帰ってきていた。

ある日の会社の昼休み、柴田に同僚の前川が話しかけてきた。

「柴田、お前美術に興味はないのか。有名画家の絵なんか見ないか」

「興味がないわけじゃないが・・・」正直、そんな興味を感じるほどいろんな絵を見てきたわけでもない。


「今度の美術館の展示会のチケット。貰い物なんだけど1枚余ってしまってな。欲しけりゃやるぞ」

彼の表情も貰ってくれないか。そう言わんばかりだった。

「誰の絵なんだ?」


 柴田は面倒くさそうに聞いた。

「ミレーやら、ゴッホ、フェルメールなんかのヨーロッパの有名画家だ。正直、俺もよくわからんのだ。俺たち理系の人間にはちょっと理解しがたい世界かも知れない」


 前川はすまなそうな顔で言った。

 柴田が手に受け取って、チケットを見てみると、1200円もするチケットだ。こんなものが1200円もするのか。そんなことを思いながら、とりあえず受け取った。


「ま、次の休みは、特に何もないしな。2枚ありゃよかったんだけどな」

 そう言ったが、特にあと一枚がそんなに必要だとも思ってはいなかった。

 そしてその週の休み、彼は圭子に、本屋に行く。そう言って美術館に出かけた。

「本屋に行く」そう言えば圭子は何も言はない。便利な通行証である。

 彼は美術館について絵を見て回った。

 思ったより印象深い絵がそろっていた。


 柴田は、ただなら来て見てよかった。内心そう思っていた。

 フェルメールの絵だ、柴田は、その絵の中の大きな目をした少女、その少女の目がまさに何もしらない処女そのものの女の目に見えた。しかし、その目が、好奇にあふれた、狡猾な女の目にも見えた。

 どこかで見た、「そうだ、あの喫茶店、あの絵」。柴田は何かを思い起こした気がしていた。


 絵を見て回っている彼は、何が自分を錯覚した想に導き、自分で自分の、本当に望むところを理解できなくなるような、誤った人生に自分を陥れたかが理解できてくるような気がしてきた。つまり、真実が見えてきたような・・・・・。

 そして今まで彼の中の、愛と言う付き添い人のない孤独な悦び、真実はどこにあったのかが理解できてくるような気がしてきた。


 柴田はその美術館の帰り、久しぶりに喫茶店でコーヒーでも飲んで帰ろうと。圭子に教わったコーヒーの美味しい店に来ていた。

 彼は見てきた絵から気づいていた。「愛」と「婚姻」の結合。

 それは彼に死というものさえ覚悟させるものだった。


 その時、まったくの偶然だった。運命という偶然だった。直美が店に入ってきたのだ。柴田は直美に気が付くと、「心のベルが鳴った、この人だ」こころの眼を開いていた柴田は自分の「想い」に気が付いた。


 直美は黙って彼の席の前に腰を掛けた。二人は黙ったままコーヒーを飲み続けた。 

 長い時間だった、黙ったままコーヒーを飲み続けた。その沈黙はちっとも息苦しいものではなかった。

 その沈黙は心地よかった。

 いつまでもいつまでも黙ったまま、座っていられた。

 二人とも、コーヒーのおかわりを2杯、注文した。


 そしてこれも全くの偶然だ。

 何という偶然かは分からない。

 そこへ、圭子が入ってきのだ。


 そして離れた席で圭子が妬まし気に二人を見つめていた。

 彼女は外を見るふりをして、美しく澄んだ、透明な窓のガラスに映る、直美と柴田の柔らかな絵顔を、少し悲し気に見つめていた。そして長い時間の後、もう耐えきれずに、圭子は帰ってしまっていた。そしてその時、直美が言った。


「私はあなたを愛している」


 直美は静かに、力強く、柴田の眼を見つめ、彼に言った。

 あの時の彼の本心がどこにあったのかを直美は知らなかった。

 彼の心の眼は直美を見ていた。しかし直美はそれを知らなかった。

 二人は立ち上がった。


 そして彼は彼女を抱きしめて言った。

「君を愛している。どこか遠くへ行こう」。


 そして二人は旅立った。

 何処かへ行った。何所へ行ったかは知らない。

 それが何所かは二人の問題だった。

 二人だけの・・・。


 それでも圭子は、部屋に戻り、柴田のために料理を作って待っていた。

 カレーライスを作って待っていた。

 一人で待っていた。


「ももたろさん、ももたろさん・・・・」

 圭子は歌った、大きく、元気いっぱいに、 そして悲しげに。    


「ももたろさん、ももたろさん・・・・」歌っている。

「ももたろさん、ももたろさん・・・・」歌い続けている。

「ももたろさん、ももたろさん・・・・」


 明日も、あさっても。

 彼女は待った。

 しかし、彼は帰ってこなかった・・・。

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恋愛不信 -keikoとsibataのすれ違い夫婦の物語- 吉江 和樹 @YosieKazuki

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