とある作者の備忘録

トン之助

はじめての美容室

 これは普段自分で髪を切ったり、カットのみの床屋でササッと済ませてしまう男が初めて美容室なるものに行った時の話である。


 男というか、作者自身なんだけどね。


 敢えてここでの一人称は「俺」とさせてくれ。そして話し方も砕けた感じでいこうと思う。




 ――――――



 ちょっといつもと違う事をしたかっただけ。

 ちょっと他人の容姿が羨ましいなと思っただけ。


「そうだ美容室に行こう!」


 何を思ったか唐突に思いついた俺はその日にネットで調べた駅前の美容室に電話をした。


「すみません今日って空いてますか?」

「はい、本日の夕方頃でしたら空きがありますよ」


 対応してくれたのはなんとも柔らかい声の女性だった。俺がカナリアなら一緒にハーモニーを奏でてしまいたいと思うほど綺麗な声だった。


「じゃあ夕方に行きます。名前はトン之助です」

「かしこまりましたトン之助様、ご来店心よりお待ち申し上げております」


 あぁ、俺はカナリアになりたい。



 そうと決まった俺は美容室について少し調べた。いつも行く床屋が理容室で、今回予約したお店が美容室。


 なんだかこんがらがってきたが要約すると、髪の専門が理容室、トータルコーディネートが美容室という認識でおおよそは大丈夫そうだ。


 とはいえ、ろくに注文をした事がない俺がはじめての美容室に行って上手く伝える事ができるのか?


 否だ!

 出来ない自信しかない!


 残り時間を鑑みて俺は一つの策を思いついた。考えてみれば簡単な事、これをするだけで自分の思い描いた理想の髪型になれるのだ。


「ぐへへへへへへっ!」


 はやる好奇心を抑え、万全の状態で美容室までの時間を俺は過ごした。




 夕方

 約束の時間の五分前に俺は店の前に立っていた。

 五分前行動ができるなんてえらい!

 と自画自賛していたが、ハイカラな扉から圧倒的なオーラを感じていた。


「俺が入ってもいい場所だろうか」


 心の声が口から漏れ出る程に緊張してしまう。

 入口には整ったモデルがポーズを決めてコチラを見ている。隣のモデルも「早く入りな」と言わんばかりに胸元を開けているではないか。


 萎縮する俺、無言のモデル。

 しばしそうしているとやはりというかなんというか、扉の向こうから店員さんがやってきた。


「いらっしゃいませ」


 ヒュヒッ


 喉から変な音が漏れたがなんとか隠せただろう。俺はボブカットが素敵な店員さんに自己紹介していた。


「トン之助です。こんにちは、僕は元気です」


 学校の朝礼かな?


 一瞬キョトンとしたボブ姉さんはこれまた見事に返してくれた。


「初めまして。ご予約のトン之助様ですね。お待ちしておりました」

「は、はひ」

「ちなみに私も元気ですよ」


 ボブ姉さん、あんたぁプロやで!

 カナリアさんはボブ姉さんで間違いない!


 その一瞬のやり取りで俺はこの店に来て良かったと思えた。



 さて、小粋なジョークはそこそこにフッカフカのソファに座った俺は、受付票という名の個人情報を書いてボブ姉さんに渡した。


 改めて店内を見るとやはり世界は違うとわかる。

 白を基調とした室内。

 磨きあげられた床、オシャレな音楽、紅茶とコーヒーの香り、曇り無き鏡。

 曇っていたのは俺の心の方だったのかと思わせる空間だ。


「トン之助様、もうしばらくすると担当の者が参りますので」


 終始にこやかなボブ姉さんの言葉を受けて俺は驚愕していた。


 担当とはなんぞ?


 まぁ当たり前に本日担当してくれる美容師さんなのたが、そんな事を考えられないくらい緊張していたんだろう。


 そして待つこと数分。

 颯爽と現れた人がソファの前にやってきた。


「こんにちは。本日トン之助様を担当します――」


 アゴヒゲが似合う髪の明るい美容師が爽やかに笑う。きっと俺が乙女だったらコロッといってしまいそうなぐらい爽やかだ。

 初めて来る美容室に緊張しないよう同性の人をチョイスするなんて仕事ができると感心してしまった。

 もういっそ、アナタと同じにしてくださいと喉まで出かかった言葉を呑んで俺は席まで案内された。



 案内される時に見たが、店内の半数近くの椅子が埋まっていた。ほとんどがハイカラな大人の女性に否応なく緊張してしまう。

 そんな俺の心情を察してか、雑誌やドリンクお茶菓子を持ってきてくれるボブ姉さんに頭が上がらない。こんなに至れり尽くせりなのか美容室はと驚いたものだ。


 そしてアゴヒゲ兄さんがお決まりの言葉を口にする。


「トン之助様、本日はどのようにしましょう?」


 この言葉を待っていた。

 朝、予約をしてから何度もシュミレーションし、これしかないと確信した最高の一手。

 言葉じゃ伝える事は難しい、細かい注文も出来そうにない、そもそもバリカン一つでやってきた俺にできるのはこれしか無かった。


 俺は懐に忍ばせた手をを引き出しながら、アゴヒゲ兄さんに見えるようにキメ顔でこう言った。





「ブラッ○・ピットにしてくださいっ!」






 さっきまでオシャレな音楽や小さな雑談、ハサミの軽やかなリズムが響いていた店内は何故か静寂に包まれた。


 俺は何かしたのだろうか。

 もしかして聞こえなかったのかもしれないと思い、もう一度一音一音ハッキリと告げる。


「ブラッ○・ピットにしてください」


「フヒュッ」


 なんだかアゴヒゲ部分から空気が漏れる音が聞こえる。

 隣の客の雑誌が小刻みに揺れる音も聞こえる。

 周りの美容師の人が前かがみになっているのが見える。

 受付のボブ姉さんが口を抑えて裏に消えた。



「あの……」

「でき……やっ……挑戦してみます!」


 俺が何かを言う前にアゴヒゲ兄さんが力強い返事をくれた。

 そうだとも、人類の歴史は挑戦と失敗の連続だ。


 一瞬「できない」と聞こえなくも無かったがそこはプロ。挑戦する事を選んでくれた。


 小刻みに揺れる肩はきっとこれから挑む未知への武者震いだと信じたい。


「あっ、ちなみに前後左右の写真もあります」

「ゴフッ」


 どこか遠くでお茶を吹く音がした。






 さて、アゴヒゲ兄さんに写真を見せて方向性は決まった。

 ちなみに俺が見せた写真は戦車を題材にした映画でブラッ○・ピットが主演の手に汗握るバトルアクションだ。


「それでは、はじめさせていただきます」

「よろしくお願いします」


 目の前の雑誌に手をつけようかと思ったが、動いちゃいけない気がして鏡を見る。

 鏡を見ると必然的にアゴヒゲ兄さんと目が合う。

 アゴヒゲ兄さんと目が合うと兄さんは口をモゴモゴしながら目をチラッと逸らしていた。

 俺は仕事の邪魔をしてはいけないと思い瞼をそっと閉じたのである。



 ウィィィィン

 唸るバリカン

(;´・ω・)ウーン・・・

 唸るアゴヒゲ



 ウィィィィン

 唸るバリカン

(;´・ω・)ウーン・・・(;´・ω・)ウーン・・・

 唸るアゴヒゲと誰か



 ウィィィィン

 唸るバリカン

(;´・ω・)ウーン・・・(;´・ω・)ウーン・・・(;´・ω・)ウーン・・・

 唸るアゴヒゲと誰かと誰か



 きっと後ろではダブルチェックならぬトリプルチェックをしてくれているんだ。

 流石オシャレ!

 流石ハイカラ!

 流石美容室!


 と俺の心はすっかり美容室の虜になっていた。髪の毛が軽くなるにつれて俺の心も軽くなっていくようで「もっと早く来れば良かった」と少し後悔したくらいだ。


 バリカンが終わり、ハサミのリズムが耳に心地よい。俺の耳に入るのは自分の髪の毛が切れる音だけという極地に達していたと思う。


 そして遂にその時は来た。



「…………トン之助様、いかがでしょう?」


 いかがでしょう。

 つまり目を開けて確認して欲しいという事だ。

 名前を呼ばれるまで随分溜めた気がするが気のせいだろう。

 瞑想の極地から呼び起こされた俺は、期待とはやる好奇心を内に秘めながら意を決してパンツァーフォー!




「ッ!!?」





 曇り無き鏡の中には――





 たわしが居た。





「…………」

「…………」


 静寂が店内を支配する。

 まるで上映直前の舞台の張り詰めた空気を思わせるようだ。


 今ならわかる。

 美容室にいる全員が俺の言葉を待っているんだという事が。


 だが俺は鏡の向こう側のたわしに目を奪われていた。


 美容師とはすごい職業である。

 有機物の人間から無機物のたわしを生みだすのだから。

 一体どんな錬金術を用いれば見事に切りそろえられた立派なたわしになるのだろうか。


 髪を洗うついでにお風呂も洗えちゃうよ!

 とキャッチコピーが付きそうな程見事なたわしだ。



 暫く見ていた俺は思ったまま口に出す。


「たわ……」

「ブラッ○・ピットさんに近づけたと思いますっ!」


 被せるように声を張るアゴヒゲはそんな事を言ってくれた。


 なるほど、俺がブラッ○・ピットになる為には一旦たわしを経由しなけれはだいけないのか。「急がば回れ」の諺があるとおり、なるほどと言いたくなる。

 とはいえやはりどう見ても。


「やっぱりたわ……」

「あと一歩まで来ましたね! これは快挙です」


 なるほど。

 あと一歩何かがあれば完全なるブラッ○・ピットになれるというのか。たしかに今のままの状態は完成形極硬たわしと言えるだろう。

 それでもそこはかとなく。


「でもたわ……」

「トン之助様は、な、何が原因だと思いますか?」


 早口のアゴヒゲは質問を投げかけた。

 なるほど、俺が何かを言う前に質問をする事で「たわし」という言葉を回避しているのだな。

 流石はプロだ。

 散髪だけでなくトーク術も必要になるなんて恐れ入ったぜ。


 しかし、どう答えればいい?

 何が原因かなんて挙げればキリがない。

 逆に共通点と言ったら同性か人類かと言った所だろうか。今は無機物のたわしだがここは人類だと言い張ろう。


 いつの間にか店内の音楽も止み、パーマをかけ終わったマダムも食い入るようにこちらを見ている。店内にいるほとんど全ての人が俺の事を注目していると言っても過言では無い。


 ここで何か下手な事を言えば一生の恥になりそうだ。

 極度の緊張と他者からの視線、何か言わなければといった強迫観念に駆られた俺は、たわしヘッドをフル回転。


 そして苦し紛れに口にした言葉は。




「こ、骨格が……違いますかね?」




 骨のせいにした。



 恐らくここで店内は限界だったのだろう。


 吹き出すアゴヒゲ、咽せるマダム、ソファに蹲る待ち人、バインダーで顔を覆うボブ姉さん。


 オシャレでハイカラな美容室は堰を切ったように笑いの渦が巻き起こる。



「ヒィヒィ……お腹痛いっ。ト、トン之助様ってお笑いか何かやってるんですか?」


 尽力してくれたアゴヒゲ兄さんがそんな事を聞いてきた。少しフレンドリーに接してくれた俺は嬉しくてこう返した。




「たわしを少々嗜んでおります」








 今日もまたハイカラな扉を潜った俺は笑顔でこういうのさ。




「ブラッ○・ピットにして下さい」

 ってね。


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