五〇七号室のアネクメーネ

木古おうみ

 こんなに疲れてるのにまだ火曜日なら死んだ方がマシだなと思いながら帰宅した。

 ドアを開けた瞬間、部屋を間違えたのかと思った。


 俺は一度ドアを閉めて部屋の番号を確認する。五〇七号室。確かに俺の部屋だ。鍵も問題なく開いた。

 もう一度ドアを開ける。



 靴を三足置いたら埋まる狭い玄関から見渡せるワンルームの部屋で、知らない男がカップ麺を啜っていた。昨日から俺が背にスーツの上着をかけたままの椅子に座って。


 俺は男を見ながら記憶を探る。パサついた長い黒髪をひとつにまとめた色黒な男だった。

 ダウンジャケットは高級そうなのに、海外のヘヴィメタバンドのTシャツとジーンズはコインランドリーから盗んできたように古くて皺くちゃだ。赤いスニーカーには新品のタグがついている。何もかもがチグハグだ。そして、全く記憶にない。


 男はようやく顔を上げ、俺に気づいて「あっ」と叫んだ。それから、腰を浮かして逃げようとした。

 俺は咄嗟に玄関にあったプラタナスの鉢植えを掴む。隣人が引っ越すときに押し付けてきたやつ。

 俺が放り投げた鉢植えは土とプラタナスを撒き散らして、男のこめかみに吸い込まれた。

 男はどさっと倒れ込む。散らばった土が広がる血痕に見えた。


 何だこの状況は。

 死んだ方がマシだと思っていただけで、殺人者になろうと思ってた訳じゃない。いや、こいつが空き巣なら正当防衛か。


 そう思ったとき、今まで男の影で見えなかったものが見えた。ニトリで買った安きダイニングテーブルの下に、寝袋のようなものが転がっている。埃まみれの布地には黒い水が染み出して、流しの三角コーナーと同じ匂いが漂っていた。死体。

 空き巣を殺して、この死体も俺が作ったことになったら、死刑囚になるんだろうか。


「痛ぇ……」

 後ろから物音がして、男が身を起こした。余罪がひとつ減った訳だ。



 俺は微かな体温が残る椅子に座り、土まみれの床で正座する男を見下ろす。

「で?」

「ええっと、すみませんでした……」

 男はこの状況に不似合いな人懐こい笑みを浮かべた。

 俺は煙草に火をつけ、アルミの灰皿を引き寄せる。男は俺の動作をじっと見つめていた。根性焼きでもされると思ったんだろうか。

 こいつは馬鹿だ。恐らく二十代前半。俺より三、四歳若い。


「随分大胆な空き巣だな。若いんだからまともに働けよ」

 老人のような台詞に自分が嫌になる。男はこめかみを摩ってから苦笑した。

「いやあ、おれ、これでしか生きられなくって……」

「強盗殺人でしか?」

「殺しはしてない!」

「どう見たって死体だろうが」

 俺は煙草の先端で足元の寝袋を指す。


 男は頭を掻いて立ち上がった。

「あー……これ、見てもらった方が早いな。ちょっと来て?」

「来て?」

「来てください!」



 男は玄関へ向かった。逃げる気か。俺が男の襟首を掴んだのと、男がドアノブを掴んだのは同時だった。


 ドアが開いた瞬間、光と音の洪水が溢れ出した。俺は言葉を失う。扉の向こうにあるのは、寒々しいマンションの廊下ではなく、無数のパチンコ台と背中を丸めて電子タバコを吸う中年の姿だった。


 黄色い箱にジャラジャラと銀の玉が落ち、溢れたひとつが俺の足元に転がる。

 呆然とする俺の前で男はドアを閉めた。

「俺が扉を開けると、こうなっちゃうんだよね」



 信じられないことが続けて起こると、人間は馬鹿になるらしい。俺は男と向かい合わせに座ってさっきの光景を反芻していた。

 男は困ったように笑いながら俺と煙草を見比べた。


「一本いいっすか?」

 断るのも馬鹿らしくなって、俺はライターと煙草を机に滑らせる。男は慣れた手つきで煙草に火をつけると、美味そうに吸った。

「マジで助かる。中々手に入んなくてさ。飲み屋とかに通じたときは盗みやすいんだけど。コンビニは駄目だね。店員いるし、監視カメラあるし」

「お前、どうなってんだよ……」


 男は浅黒い手の平を俺に見せつけた。

「呪いみたいなもんでさ。おれが扉を開けると、外じゃなくてどっか別の部屋に繋がるんだよね」

 馬鹿げてると笑い飛ばすのを、さっき見たものが邪魔をした。パチンコ玉はまだ俺の足元にある。


「どっかって……」

「とりあえず、日本のどっか。外国には行ったことないな。映画館とかカラオケとかスーパーマーケットのバックヤードとか部屋なら全部。ラブホに繋がっちゃうと気まずいんだよね。で、今日カザマさんの部屋に偶然繋がった」

「何で俺の名前知ってんだよ」

 男は冷蔵庫に貼った水道料金の請求書を指す。俺は男の脚を蹴った。


「いやあ、これ大変でさ。服とかも選んでられないし、飯も食えるとき食わなきゃいけないし。風呂入れるときは本当にラッキー。一日中ドア開けまくっても廃墟しか行けない日もあるしね」

 男は平然と語る。信じられないが、信じるしかない。


 俺は煙を吐く。

「お前が厄介なことになってるのはわかった。でも、一個説明がつかないよな」

「何?」

「死体だよ。何だこれ。お前が殺したのか」

「……殺してない。おれの相棒だったんだ」

 男は初めて間抜けな笑みを消した。



「去年、偶々おれと同じようなことになってる奴と会ったんだ」

「ドアを開けると別の部屋に通じる呪いをかけられた奴に?」

「そう。びっくりしたよ。それからずっと一緒に行動して、タダで映画観たり、ホテルのバイキングを盗み食いしたり、楽しかったな」

「思い出話の全部が犯罪じゃねえか」

「しょうがないじゃん……でも、そいつ病気でさ。おれは片っ端から扉を開けて病院に行こうって行ったんだけど、保険証もないしって断られて、最期まで遊んで、結局死んじゃった」


 俺は寝袋に視線を移す。

 この男の相棒の死体だ。確かに、死体を遺棄する場所を探すのも一苦労だろう。


「で、死体安置所として俺の部屋を選んだって訳か?」

「違うよ。カザマさんの部屋は中継地点」

「図々しいんだよ」

 俺は再び男の脚を蹴る。男は申し訳なさそうに笑った。


「あいつ、海が見たいって言っててさ。おれたちいろんなところには行けるけど、外には行けないから。だから、海の見えるところに通じるまで扉を開けまくってたんだ」

 俺は煙を天井に吐きかけた。

「月並みだな。部屋から出られない奴が最後に海を見たいなんて。映画の脚本ならボツになってる」

「カザマさんには悪いと思ってるよ。ちゃんと死体は回収していくからさ」


 男は煙草を揉み消すと、椅子から降りて、机の脚から寝袋を引き摺り出した。男の痩せた腕に筋が浮く。俺は信じられないことを口に出した。

「手伝ってやろうか」

「何を?」

「死体遺棄」


 男は目を丸くする。

「いいの?」

 よくはない。明日は仕事だ。今日中に作らなきゃいけない資料もある。ただ、ひとりで仕事をするのと、呪われた馬鹿と死体遺棄をするなら、後者の方がまだ良さそうだ。


 男は意を決したように言った。

「じゃあ、お願いします」


 俺は灰皿に吸殻を捨てて立ち上がった。

 窓の向こうには見慣れた街が映っている。マンションの前にはラブホテルの赤いネオン。店名のHeaven's Hallが所々消えてHellになっている。

 俺がこの男だったら、部屋から出た後は二度と見ない光景になるんだろう。



 男が俺の部屋の扉を押し開けた。先程のパチンコ屋が再び現れる。

 男はドアのプレートを眺めて言った。

「五〇七号室、いいね。おれと同じだ」

「何が?」

「おれ、ゴウナって呼ばれてんの」

「寄居虫……ヤドカリか。ぴったりだな」

「何それ知らねえ、めっちゃ頭いいじゃん」

「馬鹿かよ」


 俺とゴウナは死体袋の両端を持って、パチンコ屋に踏み出した。

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