【第八羽】四、天使
一人取り残されたレインは、ディルクとリヴの姿が視界から消えるまで見送った。赤い液体がすぐ背後まで迫ってきている。異常な温度の熱が空気の水分を蒸発させ、至る所から白い湯気が上がっていた。息を吸う度、肺が焼かれるように熱い。レインは目を閉じた。背中に意識を集中させる。白い大きな翼が現出した。だが、これまでのような力が出ないことも感じていた。
リヴと出会い、人間を知った。今なら解る。何故、天使が人間と必要以上に関わってはいけないのか。純粋な存在である天使は、最も“歪み”の影響を受けやすい。善と悪、強さと弱さの両面を持つ人間は、天使にとって“毒”にもなるのだ。
レインにもその“歪み”の影響が現れつつあった。自分の天使としての力が日に日に弱まっていくのをレインは感じていた。それでも、リヴの傍を離れようとは思わなかった。
天使としての力がなくなった時、自分が一体どうなってしまうのかは分からない。人としてリヴの傍で生きていけたら良いとは思うが、それは神様が許さないだろう。いつか離れる日がくるとは解っていたが、その時がこんな形で早く訪れるとは思わなかった。
ここへ来る前、レインは、天使の翼を使って他の天使たちへ救援要請を送った。それは、天使だけが使える能力の一つで、どこにいても他の天使たちに言葉を伝えることができる。何か大きな予期しない力が働いて、天使一人の力ではどうにもできない事態が起こった時、他の天使たちの助力を請うために使える力だ。レインが村の異常事態に気付いた時、既にマグマが村へと到達しかけているところだった。村の大きさから考えて、マグマに村が飲み込まれてしまうまで時間がない。レインは、自分一人の力では対処しきれないと即座に判断し、他の天使たちへ助けを求めた。救援信号を受けた天使は、今自分が抱えている仕事を放棄してでも、救援を優先しなくてはいけない。それだけ大事な伝達手段でもある。
レインの呼び掛けに、たくさんの天使たちが即座に集まってくれた。そこには、よく見知った顔もあれば、名前も顔も知らない天使までいる。風の天使、火の天使、水の天使、緑の天使……と、その能力も実に様々だ。
レインは、彼らに村人たちを安全な場所へ運んで欲しいと頼んだ。天使たちが互いに顔を見合わせる。通常、天使が人間の生死に関わることはできない。自然災害で人間の村が一つ滅ぶのだとしたら、それは自然の摂理であり、天使が村人たちを助けることは神の意にも反することとなる。だが、今回の騒ぎがただの自然災害でないことは、その場にいた天使の誰もが見ても一目瞭然だった。
天使には、他の天使が能力を使った痕跡を感じ取ることができる。問題の火山からは、天使の力の痕跡が見てとれた。サニアだ、とレインには分かっていた。でも、彼女を責める気はない。自分が彼女を傷つけた所為で、彼女を追い詰めてしまったのだから、それは自分の所為だ。この事態の責任は自分が取らなければいけない、とレインは考えていた。
「大丈夫、責任は俺がとる。だから、頼む」
その言葉に、天使たちは心得た様子で、方々へと飛び去った。
これがただの自然災害ではないのだとしたら、それは誰かが責任を取らなければいけない。天使にとって責任をとるということは、天使の力の源である〈翼〉を奪われるということ。それは、天使にとって《死》を意味する。半永久的に生きることができる天使にとって、《死》は何よりも恐ろしい。それはレインも同じだ。けれど、レインの心は不思議と凪いでいた。誰かを責めたり恨んだり、運命を呪うことはもうたくさんだ。今は、ただ助けたい人がいる、それだけだ。
レインは、リヴを探しに村へ戻った。オンバの家に行ってみたが、家は既にもぬけの殻だった。
(もうどこかへ避難したのだろうか)
そうだったらいい、と願った。村の様子は様変わりしていて、あちこちで岩が家屋を壊し、瓦礫の山となっている。もし、このどれかの下敷きにでもなっていたら、と考えると背筋が凍る思いがした。頼むから無事でいてくれ、という想いと、何故彼女の傍を離れてしまったのかという後悔の念がレインの胸中を舞う。リヴは、レインがどこに居ても、いつも見つけてくれていた。それはレオンの嗅覚によるものなのかもしれなかったが、今度は自分がリヴを見つけてやる番だ、と思った。
その後、リヴを探しに戻ったディルクと、取り残された妹を探しているという青年らに遭遇した。他の住人たちは、無事に高台へと避難できたらしい。天使たちが姿を消して彼らを手助けしてくれたのだろう、とレインは一先ずほっとした。そこへレオンが吠えながら現れた。彼の誘導で、手を血だらけにしながら瓦礫を掘り起こそうとしているリヴを見つけた時は、息が止まるかと思った。こんな時にも誰かを救おうとするリヴの姿勢がレインには眩しく、何よりも美しく感じた。と同時に、こんな時でさえ、自分のことだけを考えていられないリヴの気質とその境遇を悲しく思った。そして、その責任は自分にある。
誰かを頼る術を知らない少女が初めて口にした「助けて」という言葉が、レインには、涙が出るほど嬉しかった。思わず、リヴと初めて出会った時に交わした言葉を口にしたのは、自分を頼ってくれた少女の気持ちが嬉しかったからだ。その照れ隠しのためでもあったのだが、リヴはそれに気付いただろうか。
レインが目を開けた。今、目の前に逼迫してある問題は、あの火山から流れ出す溶岩を止めることだ。すぐ足元に溶岩が流れこんできている。レインは、空へ舞い上がった。
全神経を集中して、背中の翼に力を込める。周囲の空気から目に見えない小さな水分を吸い上げて、身体に取り入れていく。レインは祈った。天使は、祈りを捧げることで天使の力を使うことができる。
やがて鉛色の空から雨が降り始めた。レインの祈りに天が答えたのだ。雨の天使であるレインは、自由にいつでもどこでも雨を降らせることができる。雨が熱い溶岩に触れると、白い水蒸気となって空へと戻り、再び雨となって地に落ちる。それを繰り返した。
(頼む、止まってくれ)
溶岩が冷えて固まってさえくれれば、村を助けることができるとレインは考えている。
もちろん、ただの雨では無理だ。だが、レインの降らす雨は、特別だった。
レインの行く先々では、いつも雨が降っていた。雨を身にまとった天使。雨に愛され、祝福されし雨の天使。それがレインの通り名だ。
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