【第七羽】四、約束

 夜半過ぎ、リヴが一度目を覚ました。水、と言うので、急いで台所にある甕から水を汲んでくると、リヴの身体を少し起こして飲ませてやった。二口ほど飲むと満足したのか、再び眠りにつく。はっきりと意識を取り戻したのは、翌朝になってからだった。

 どうしてあんなことを、と静かに聞くレインに、リヴは、死にたいと思ったわけではない、と答えた。ただ楽になりたかったのだ、と。

 レインは、リヴが目を覚ましたら言ってやりたいことがたくさんあった。だが一晩経った今、リヴを目の前にして、あんなに荒ぶっていた気持ちが嘘のように引いていることに気付く。オンバのあの言葉がなかったら、真っ先にリヴを責める言葉を投げていたかもしれない。逆に何と言ってやればいいのか悩んでいると、リヴが先に口を開いた。


「私ね、父さんの本当の娘じゃないの」


 レインの両目が驚きに見開かれた。リヴは知っていたのだ。娘を何よりも大事に想っていたマルクスならば、決して娘に悟られないよう口にしなかった筈だ。


「……目の見えない人が、耳まで聞こえないわけじゃない」


 それは、レインがリヴと初めて出会った時、


『お前、俺の声が聞こえるのか』


 と聞いたレインに対して、リヴが批判を込めて口にした言葉だ。レインは、天使の声が聞こえるのか、という意味で言ったつもりだったのだが、リヴには盲目の自分へ対する嫌味と受け取った。それは、決してリヴが卑屈だったからではなく、それまで彼女が人から受けてきた扱いが彼女にそう言わせていたのだ。

 リヴは、表面上いつも明るく振舞ってはいたが、心はいつも孤独だった。目が見えなくなった時から暗闇に一人取り残された。その頃からだ。周囲の陰口がやけに耳に付くようになったのは。目が見えない人は、耳も聞こえないとでも思うのだろう。リヴを目の前にして、皆口々に好きなことを言う。その中に、リヴが捨て子である事も聞こえてきたのだ。悪魔の子だと罵られることもあった。それでも父だけがリヴを庇い、ここまで育ててくれた。それなのに、とリヴが顔を覆って嗚咽する。


「わたし、とうさんの顔さえ覚えてないのよ」


 夢の中で父の顔を見た気がした。でも、それが本当に父の顔だったのか、自分の中で作り上げた夢だったのか、確かめる術がない。

 リヴという名は、〝生きる〟という意味だと父が教えてくれた。だから、どんなに辛くても生きていこうと、顔を上げて歩いていこうと思っていた。でも、その魔法の呪文を唱えてくれる優しい人はもういない。


 レインは、顔を隠し、声を押し殺して泣くリヴを見ながら、胸の痛みを感じていた。彼女はこうしてずっと一人で隠れて泣くのだ。今までも、これからも。今やっと、リヴが言っていた言葉の意味を理解できた気がする。人間は、強さと弱さの両方を持っているのだと。彼女を支えてあげたい、という気持ちが自然とレインの心に沸き上がる。


(生きていた……生きていてくれた)


 レインの脳裏に、冷たくなった母の腕に抱かれて必死に泣き声をあげる赤子の姿が浮かぶ。とっくに死んだものと思っていたが、こうして自分の目の前に生きている。幸せにさせてやることができなかった彼女へのせめてもの償いのつもりだった。そして、自分の罪の意識から逃れるための贖罪でもあったのだ。それが彼女だとマルクスから知らされた今、リヴは、レインにとって生きる意味でもある。

 俺がいる、とレインは言った。それでも、リヴは首を横に振る。


「あなたは、いつかここを去って行くでしょう。そうしたら、私はまた一人……」


 顔を覆ったままのリヴの両手をレインが引き離す。露わにされたリヴの泣き顔を、今度はレインが両の手でしっかりと包みこんだ。リヴの灰色の瞳が動揺して揺れている。


「俺は、どこにも行かない。ずっと君の傍にいる」


 だから、辛い時は泣いていいんだ、とレインが言うと、リヴの灰色の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。寒くて凍えていたリヴの孤独な心に暖かな火が灯った。レインは、リヴの涙をぬぐうと、彼女の唇にそっと自分のそれを重ねた。リヴもそれを受け止める。それは、優しい誓いの口づけだった。



  †††



 しばらく何事もない平穏な日々が続いた。リヴは、あの日以来、少しずつだが笑顔を取り戻しつつあった。父を失った心の痛みは消えることはないだろうが、レインは、リヴが心から笑えるようになるまでずっと傍にいて見守っていようと思っていた。


 レインは、リヴの仕事を手伝いながら村の人たちにも受け入れられていった。相変わらず子供の扱いには慣れなかったが、逆に子供たちからは何故か好かれていた。ディルクは、リヴの肩から力が抜けたような柔らかな表情を見て何かを察したようで、何も言わなかったが、いつも会う度に目でレインに訴えている。リヴを泣かしたらただじゃおかないぞ、と。あとで他の人から聞いた話では、近い将来、許嫁との結婚が決まっているらしい。あの時、俺じゃダメなんだ、と言っていたのは、自分ではリヴの支えになってやれないという意味だったのだろう。


(俺は、今度こそリヴを幸せにしてみせる)


 彼女の幸せな笑顔を見ること、それが今のレインの幸せでもある。


 ある日、腰を痛めたというオンバの手伝いにリヴが行くというので、レインも付き添うことにした。リヴが海へ飛び込んだ日以来、レインはリヴの傍を片時も離れないようにしていた。たまにリヴがレオンと呼び間違えてしまうほどだ。リヴがまた同じことをしないかという心配もあったが、それ以上に今はレイン自身がリヴと一緒に居たかった。


 リヴがオンバの着替えを手伝おうとするのをレインが見ていると、怒ったオンバがレインを家の外へ追い出した。


「婆ぁだと思ってバカにするんじゃないよ。あたしゃこれでも立派な淑女なんだよ。わかったら、さっさと出ていきなっ」


 仕方がないので、家の前で座って待つことにした。見上げた空は、相変わらず晴れているのか曇っているのかわからない。そう言えば、最近雨を全く見ていないことに気付く。マルクスの葬儀の日も、今にも降りそうな曇り空だったものの、結局雨は降らなかった。


 ぽつん、と灰色の空に小さな鳥の姿が見えた。赤い炎のような翼を持つ珍しい鳥だ。それを見たレインの表情が固くなる。ふぅ、と一息吐き、顔を引き締める。次の瞬間、レインは人間からは見えない速さで翼を現出させ、一瞬で姿を消した。


 村から少し離れた小高い岩の上に、赤い鳥が降りて行くのを白い鳥が追う。鳥ではない。それは、大きな翼を背中に生やした天使だった。


「久しぶりだな、サニア。……少し痩せたか」


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