【第二羽】五、新しい命


 住宅街から畑へと続く道の途中に、一人の大柄な女性が倒れて声を上げていた。近づいて見ると、お腹が大きい。妊娠していると一目で解った。


「おっかあ」


 ユタが後ろから追いついてきて女性にしがみついた。女性は、脂汗をかきながら息を吸うのがやっとのようだ。どうやらお産が始まったらしい。


「……予定より半月も早い。

 カリヤさん、大丈夫だから落ち着いてくださいね」


 傍にいたレインには、リヴの言葉がはっきりと聞こえたが、リヴは、最後の言葉だけ聞こえる大きさで話しかけた。カリヤは、その言葉に少しだけ笑みを返した。


「俺が頭の方を持つ。お前は、足を持て」


 命令されたことに多少の苛立ちを覚えたが、今は文句を言っていられるような状況ではない。レインは、ディルクの指示に従い、カリヤを家まで運ぶのを手伝った。



 †††



 カリヤを家の寝室まで運ぶと、リヴは、てきぱきと皆に指示を出した。ディルクは、村の産婆の家へ走って行き、ユタは、家にある清潔な布をかき集めに、リヴは、お湯を沸かす。一人残されたレインは、お産の痛みに泣き叫ぶカリヤの傍で、どうしていいのか解らずにいた。


 人の子が生まれる方法は、天使のそれとは違う。知識として知ってはいたが、実際に目の当たりにするのは初めてだった。命が生まれる瞬間に天使は必要ないからだ。


 少しして、ディルクが産婆を連れて戻ると、レインは、寝室から追い出された。居間では、ユタが一人きり部屋の隅っこに座り込んでいた。


「ディルクは」

「おとうを呼びに行った」


 昼間聞いた、ユタの父親が炭坑夫だという話を思い出した。しばらくして、ディルクがユタの父親を連れて戻ってきたが、やはり産婆に邪魔だと寝室には入れてもらえず、男四人と犬一匹は手持ちぶさたのまま、その時をただ待つこととなった。時々、リヴが手伝いで寝室に入ることはあったが、中の様子は全くわからない。カリヤの叫び声が聞こえる度、レインは身が縮まる思いだった。


「こういう時、男ってのは無力だよなぁ」


 ユタの父親が肩を落として呟いた。ユタに似て、柔らかな顔つきをしており、身長はディルクよりも低い。炭坑夫というよりも聖職者の方が合っている気がする。


「俺に妹か弟ができるんだ」


 そう嬉しそうに何度も話していたユタは、父親の顔を見ても強張った表情のまま、じっと座って動かない。今にも泣き出しそうだ。


「どうした、トイレでも我慢してるのか。

 生まれたら呼びに行ってやるから、行ってこい」


 半ばからかうようにユタの頭を小突くと、ユタは、ぱっとその手を払い除けた。


「違うよ。だって、だって……」


 それを口にすることすら恐ろしいとでも言うように、口をぱくぱくさせる。見かねたディルクが口を開いた。


「大丈夫だ。お前の母さんは強い。死んだりなんかしない」


 ユタは、溢れてくる涙をぐっと堪えた。


「なんだ、大げさだな。昼間の元気はどこへいった」

「数週間前、お産で亡くなった人がいた。こいつが怖がるのも無理はない」


 余所者には解らないだろうが、と最後に付け足すのを忘れない。

しかし、そんな嫌みが気にならないほどレインは衝撃を受けていた。


(お産で、死ぬなんて……そんなこと、天界では習わなかった)


 どうして、とレインは呟いた。


「そこまでして、どうして子を産もうとするんだ」


 自然と湧いて出てきた疑問だった。ディルクは、少し眉をしかめると、言葉を探し、口を閉じた。


「そりゃ、それが人間の自然な姿だからだろうなぁ」


 ユタの父親が微笑みながら答えた。


 レインには理解出来なかった。天使は、死を何よりも恐れる。そうまでして子を産もうとする人間の気持ちが解る筈もない。


 その後は、誰もが押し黙り、時が経つのを待った。それぞれがそれぞれの思案と葛藤を抱える中、夜の女神ニクティスは、いつもの倍以上の時間をかけて天空を駆けているように思えた。手伝いの合間にリヴが夜食を作ってくれたが、誰も喉を通らない。


 そして、空と大地の境界線がうっすらと明るんできた頃、元気な赤ん坊の泣き声が聞こえた。緊張の糸が解けたユタは、泣きながら母のいる寝室へ飛び込んで行く。


 麻布にくるまれた赤ん坊を抱いてリヴが現れると、皆に安堵のため息がもれた。父親は、目を赤く腫らしながら我が子を腕に抱いた。ユタがそっと赤ん坊の手をつつくと、彼女はその指をきゅっと握り返した。女の子だという。


「ユタ、あなたもこれでお兄ちゃんね」


 新米のお兄ちゃんは、感極まって、妹ができた、妹ができた、と部屋中をぐるぐると飛び跳ねて回った。放っておくと、外にまで出て叫び回りそう勢いだ。


「こらユタ、赤ん坊がびっくりしちまうだろう。

 母さんも疲れて寝とるんだ。静かにおし」


 寝室から一人の老婆が姿を現した。ディルクが連れてきた産婆だ。赤ん坊が生まれたというのに、しわくちゃの顔をむすっとさせている。ユタは、そんな彼女の威圧感にぴたりと静かになった。


「レイン、あなたも抱いてあげて」

「俺はいいよ」

「良ければ抱いてやってください。あなたのおかげで妻も娘も助かった。ありがとう」


 父親からそう言われると無下にもできず、レインは、リヴから赤ん坊を受け取った。腕の中で小さな命が暖かく、ふにゃふにゃと頼りない。


(この子は、生きている)


 レインの胸の中でとくんと何かが音を立てた。つい先程までこの世に存在しなかったものが今ここにある。その不思議な感覚に酔った。レインの抱き方がぎこちなかった所為か、赤ん坊が泣き出してしまったので、慌ててリヴに返す。


 赤ん坊の声は、生に満ち溢れていた。私は今ここにいる。ここに生きている。そう言っているような気がした。その時、レインは、妙な既視感を覚えた。いつだったか、これと同じ声を聞いたような気がする。


 皆の顔は、喜びに溢れていて、暖炉の火はとっくに消えていたのに、空気が暖かい。レインは、先程自分が問うた疑問の答えがなんとなく分かったような気がした。


 しばらくして赤ん坊も落ち着いたので、リヴとレインは家に戻り、仮眠を取った。


 その日、レインは夢を見た。一人の女性が木の根本に寄りかかって死んでいる。その腕には、小さな赤ん坊がいて、真っ赤な顔で泣き叫んでいる。


 私は今ここにいる。ここに生きている。

 そんな赤ん坊の泣き声だけがずっと響いて聞こえる。

 はっと目が覚めて、レインは自分が過去の夢を見ていたことに気付いた。


(何故、今になってこんな夢を見るんだ。

 仕事は仕事と、今まで割り切って上手くやってこれたじゃないか)


 頭が重い。眠くはなかったが、身体がだるく起き上がれそうにない。


(まさか、これが神の言う〝歪み〟だって言うのか)


 天使は、この世の中で最も純粋な存在であるが故に、最も〝歪み〟を受けやすい。その為、仕事でも、仕事以外でも人と深く関わってはいけない、というのが天界の掟だ。それは世界の均衡を守る為に必要なこと。でも、それがレインには納得がいかない。


「あんなに弱くて欲にまみれた人間達が、俺たち天使よりも強いっていうのか。

 何よりも純粋な存在こそが強いんだ。

 見てろ、俺は歪みなんて受けないからな」


 悪夢は、歪みの始まり。まさか、と思いつつもそれは、レインの心に小さな黒い影を落とした。

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