【終幕】福音 ―雨の降る理由―

【終幕】一、雨の降る村

「これが私の知っている話の全てよ」


 全てを語り尽くした老婆は、一息つくと、さすがに語り疲れたのか、揺り椅子に深く身を沈めた。部屋の中は、暖炉の火が弾ける音と、老婆が揺り椅子を動かす度に床が軋む音と、子供たちの安らかな寝息だけが聞こえている。老婆の長い長い話を最後まで聞いていられたのは、旅人だけだった。老婆は続けた。


「それ以来、村には雨が降るようになり、荒野だった土地に緑が芽吹いた。緑は、やがて村を覆い隠すほどの大きな森となった。村人たちは、雨のことを〈レイン〉と呼ぶようになり、村の名を【雨の降る村(レイン・ヴィレッジ)】と名付けた」


 それがこの村の秘密、と言って老婆は笑った。


「単なるお伽噺ね」


 だが、そう言った老婆の目は真剣だった。


「そのリヴという少女と、レインという天使は、もう二度と会うことは叶わなかったのですか。だとしたら、あまりも悲しすぎる物語だ」


 老婆は、旅人の問いに肯定するように、ゆっくりと首を横に振った。


「あなたがもし、天使がいるという噂を耳にして、この村へやって来たのだとしたら、とんだ見当外れね。悪いけれど、この村に天使はもういないのよ」


 老婆の答えに旅人は押し黙った。この家に入ってから決して脱ごうとしないフードの下で、どんな表情をしているのか老婆からは見えない。でも、こんな樹海の奥深くにある村まではるばるやって来たということは、それほどまでに叶えたい願いがあったのだろう。それが徒労に終わったと知って、さぞ気落ちしていることだろう、と老婆は旅人のことを哀れに思った。これまでにも、救いを求めてこの村へとやって来た漂流人が何人かいた。その度に、老婆は彼らにこの物語を話し聞かせてやった。中には、そのままこの村に居ついた者もいたが、大半は自分の生きる場所へと帰って行った。


「何があなたを苦しめているのかは知らないけれど、救いや希望というものは、神や天使から無条件に与えられるものではないわ。リヴとレインがそうだったように、自分自身で見つけて手に入れるべきものなのよ」


 しばらく旅人は無言だった。何かを考えている風でもあったが、老婆は、じっと彼が立ち直るのを待った。


「ただ一つだけ、解らないことが」


 旅人は、諦めきれないのか、顔を上げて老婆に問うた。


「あなたは何故、その記憶をお持ちなのか。

 あなたの話が真実なら、今あなたが語った物語は、一体誰が……」


 〈天使の羽根〉を目にした村人たちは、天使の存在自体を忘れてしまった筈だ。それでは、今の話を老婆が語ることができる筈がない。


「彼女は、彼を忘れなかった。ただ、それだけのことよ」


 老婆は目を細めて遠くを見つめる仕草をした。そこに何かが見えているのか、老婆の目は、綺麗な空色をしている。


 外からは雨の音が止むことなく続いており、まだ夜は明けそうにない。


 しばらく雨の音に耳を傾けていた旅人は、ふと何かを探すような仕草で部屋を見渡した後、ここは暖かいですね、と呟いた。暖炉の火が煌々と燃え、外は冷たい雨で寒いほどだったが、旅人の濡れた外套も既に乾いていた。


 老婆は、揺り椅子の上で目を閉じて眠っているように見えた。


「あなたは今、幸せですか」

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