秘密は目の前で

リエ馨

秘密は目の前で

 森の国の王子の呪いが発動した。

 王子が十二歳になったからだ。

 教育係であるフェレナードは発動を阻止しようとしたが、間に合わなかった。



    ◇



 深い青ばかりの調度品の中、同じ色の厚い布で仕切られた作業台で、風が大きく渦巻いた。

 フェレナードがその上から大判の布をかぶせると、風は弱まるばかりか、布を弾いて吹き飛ばした。


「――――っ!」


 咄嗟に手をかざし、暴れ出そうとする風を抑えつけると、相殺された力の余波で手元の源石がいくつか音を立てて割れた。


「……大丈夫?」


 少し離れたところから椅子に座って見守っていたインティスが声をかける。今のはどう見ても魔法が暴走しているように見えた。


「…………」


 フェレナードは黙って備え付けの椅子に腰を下ろす。質問に応えるのが億劫だ。頭は冴えているはずなのに体は重く、いつもは従順な風の精霊が今日は言うことを聞かない。

 時計に目をやると、時刻はそろそろ夕食の時間だ。


「……大丈夫?」


 察したように、インティスがもう一度聞いてきた。これは恐らく体調のことではなく、夕食を取れるかどうかという意味だろう。


「……いや」


 それだけ答えると、重い頭を片手で支えて溜息をついた。精霊には正しく指示を出しているのだから暴走するなんてあり得ない。何を間違えたのだろう。今日は朝からずっと同じ検証の繰り返しだったが、どこかで指示を取り違えたのだろうか。


「……厨房に行って断って来る」


 インティスはそう言って席を立ったが、彼は何も言わなかった。わかりにくい返事だったが、夕食はいらない、という解釈で合っているようだ。


「少し休んだら?」

「まだいい」


 今度は答えが早かった。意見がちゃんと届いているという点では安心したが、頑なに休息を取らない様子はこちらまで焦燥感に駆られる。いつものことと言えばその通りではあるが、言うことを聞かないのでさっぱり護衛の役割を果たせない。

 インティスが部屋から出て行った後も、フェレナードはじっと考えていた。王子の呪いの進行を遅らせる方法は、去年呪いが発動してすぐに形だけは整えた。魔法を仕込んだ布で呪いごと体を包む方法だが、以来改良を重ねて今に至る。

 魔法を呪いに見立てて布の強度を高めようと検証しているが、なかなか思うようにいかない。しまいには先ほどのように魔法自体が暴れ出す始末だ。

 彼が戻って来るまでベッドで休もうかとも思ったが、検証は終わらせておきたい。

 それが一段落したら、呪いに関する文献の調査も進めなければ。文献が保管されている墓の持ち主からようやく調査の許可が下り、内部のからくりを解いて、先日遂に一冊目の文献を持ち帰ることができた。細くて長い尻尾を持った大きな灰色の生き物が襲って来たが、試行錯誤の末、インティスが討伐に成功した。生き物は造られたもので、その体内にある赤い核を壊せばいい、ということまではわかった。

 文献は現代と同じ文字が使われているが、ところどころ見慣れない表記や文字がある。いつ頃のものなのかもまだ特定できていない書物だから、同じ語句でも今と意味の違う言葉はあるかもしれない。

 優先順位などなく、全てを急がなければ王子の命に関わる。彼がいなくなれば森の国の王位継承者が不在となり、近しい三家のいずれかが次ぐことになる。争いは酷くなれば水面下では収まらず、北の自治区のように表面化するかもしれない。そうなると治安は一気に悪くなり、犠牲者が出る可能性も十分考えられる。

 呪いが解けなければ惨憺たる未来しかない。だから、正体のわからない呪いと戦う王子との、その呪いを解くという約束はどうしても守りたかった。だが困難は未知数で、いつまでにやり遂げればいいのか、具体的な期限すらわからない。わかっているのは、急がなければ、王子の命はないということだけ。いつも知恵を借りる魔法の師はずっと所用で不在のまま、連絡も滅多に取れない。たった一人でやらなければいけないという不安と焦りと孤独感が喉を掻きむしり、心臓を握り潰そうとする。

 息が苦しい。吐き気と目眩がする。

 迫り来る重圧を何とか思考の隅に追いやり、やっとの思いで深呼吸した。

 幸いまだ時刻は夜が始まる頃だ。深夜になったらダグラスの部屋にでも行こう。彼に一晩付き合ってもらえれば、頭はすっきりする。

 そう決めて立ち上がり、検証を再開するのだった。



    ◇



 厨房へ行く、と言ったインティスの足は、城内にある近衛師団の詰め所へ続く廊下を歩いていた。今の時間ならまだ人は多いが、このタイミングでなければ行くことができない。フェレナードと王子の護衛という仕事はもう三年目になるが、今が一番彼から目を離してはいけないような気がしていた。

 初めて会った時、彼は正しく見本とするべき大人という印象だった。いつも堂々として落ち着いていて、先の生き方に迷っていた自分にこの仕事を与えてくれたのも彼だ。

 そんな彼(と王子)の護衛の仕事を引き受けたわけだが、側にいる以上、見えてくるのは彼の秀でている面ばかりではない。

 王家の呪いの調査を優先させるあまり、自分のことを顧みない行動が随分続いた。寝起きの時間が不規則になったり、食事を取ったり取らなかったり。先ほどのような魔法の暴走も最近は多い。呪いの進行を一刻も早く防ぐためにとにかく魔法を使い、力の供給の補助となる源石は魔法学院から援助されているが、それも何度も使い切ってしまう。源石がなければ自らの力を使うしかなく、そのせいで精神が疲弊する。魔法を使う力と精神は密接に関係していて、魔法を使うための体力のようなものだ。

 それは休息を取らなければ回復しないのに、彼はそのための時間をダグラスの部屋へ通うことに使う。何をしているのかを具体的に聞いたことはないが、聞きづらい内容であることだけは何となく気付いていた。

 結果的に、そのおかげで疲労は取れなくても気持ちだけは安定するようだった。睡眠不足や体調不良と引き換えに、のしかかる焦燥感を和らげて帰って来る。自分にはまだそこまでのことはできないから、インティスは止めようにも止められなかった。知り合って三年経っているとはいえ、まだそこまで彼に踏み込めずにいた。

 けれど、心配であることに変わりはない。だからこうしてダグラスに相談に行こうと思ったのだ。体調が悪いのも魔法の暴走も、きちんと体を休めないせいだとインティスは思っている。ダグラスとは六年の付き合いだと言うから、フェレナードに言うことを聞かせるためのコツを知っているだろうか。藁をも掴む思いである。


「…………」


 歩きながら、視線は自然と沈んだ。コツを知りたいと思う自分と、そんなものなどないと否定する自分がいる。第一、そんな秘訣があるならこの三年のうちに既に教えられている気がする。

 それでも、現状を切り開くヒントでももらえればと、インティスは詰め所の扉を押し開いた。

 詰め所の連中にとっては不意に開いた扉だ。石畳が広がる空間で、全員の稽古の手が、話し声が止まる。彼らとは親しくしていることはないが、必然的に集中する視線を無視して、インティスはダグラスがいる一番奥のカウンターへ向かった。


「……ダグラス」


 名前を呼ばれた第三近衛師団長は、インティスの表情を見るなり、嫌な予感に眉根を寄せた。


「……あいつのことか」


 彼はいつもフェレナードをあいつ呼ばわりする。相談事が見透かされたのだろうか。呼び方はいつも通りだが、その声音には面倒臭さが滲んでいる。インティスは小さく頷いた。


「飯は。寝たか?」


 人がいる手前、ダグラスの質問は必要最小限だ。インティスは首を横に振るしかできない。

 ダグラスは大きな溜息をつくと、手にしていた書類を一旦置き、声を潜めて指示を出した。


「お前、夜になったら俺の部屋に来い。夜中の一の刻でいい」

「……わかった」


 何をするのかと今聞いても、周りにこれだけ人がいては教えてもらえないだろう。王子に関することは、教育係についても大っぴらにはしたくない。周辺を嗅ぎ回る貴族の耳に入れば、たちまち水面下の王位継承権争いに巻き込まれてしまう。

 ダグラスのことだからフェレナードの行動は把握しているはずだ。彼と鉢合わせないようこっそり二人で作戦を立てるのだと、その時までは思っていた。

 少しだけ、ほんの少しだけ嫌な予感が頭をよぎったけれど。





 護衛の仕事はありとあらゆる最悪の自体を想定する。

 そのせいか、嫌な予感だけは当たるようになっていた。





 フェレナードは夕食を取らないまま、検証を終えた布を持って王子が住む塔へ行くといい、部屋を出て行った。

 護衛だから当然ついて行こうとしたのに、何故か断られてしまった。この後もやることはある、自室にはちゃんと戻るから、とのことだった。確かに、布はしっかり完成したとは言っていなかったから、戻って微調整でもするのかもしれない。

 部屋で帰りを待っていたが、時刻は深夜になろうとしている。ダグラスに呼ばれているから行かなければ。彼が自室に戻った時に自分がいなかったら、彼はおかしいと思うだろうか。

 まあいいや、言い訳はそうなった時に考えよう。待機していた部屋を出て、ダグラスのところへ向かう。

 インティスは今夜こそ疑問を解消させたいと思っていた。真夜中にフェレナードが彼の部屋で、彼と何をしているかは想像はついている。それは本来ダグラスではなく、自分が担う役割ではないのか、という疑問だ。護衛になって三年経っても、誰からも触れられなかった部分だが、いつまでもそのままにしてはいられない。

 自分がやらなければならないとして、その先はまだ何も決めていなかった。とりあえず結論だけでもはっきりさせたくて、インティスはダグラスの部屋へ急ぐ。

 彼の話を聞いて、そこから改めて自分はどうするかを考えなければいけないと思っていたのだ。フェレナードはマントにかかりきりだから、ダグラスに話をするなら今日しかない。

 だから、先ほどよぎった嫌な予感の通り、まさか本当にダグラスの部屋にフェレナードまで来ているとは思っていなかった。


「ダグラス! お前……!」


 状況を瞬時に察したフェレナードが、腰掛けていたベッドからダグラスを睨む。サイドテーブルには持っていた布が置かれていた。彼は王子の塔へ行き、まっすぐここへ来たようだ。自室に戻ると言ったのに。

 扉を開けたインティスを出迎えたのはダグラスで、彼が先導するから疑いもなくついて行ったが、応接室を通り過ぎ、行き着いた先が寝室だということに初めて気付いた。


「どういう……こと……?」


 嫌な予感が膨らみ始めるのをインティスは感じた。どうして自分がここにいるのか言い訳を考えようと思っていたが、それどころではない。

 ダグラスは寝室の扉を閉めると、フェレナードの抗議の視線に答えた。


「いやなに、こいつも大分心配してることだし、いい加減だんまりも悪いんじゃねぇかと思ってな」


 そう言ってダグラスは親指でインティスを指したが、目線はフェレナードに留まったままだ。


「お前、どうせ未だに適当なこと言ってここに来てんだろ? 言えねぇんだったら見せてやりゃいいじゃねぇか」


 何のことを話しているのかはインティスにもわかった。真夜中に、彼らがここで何をしているかということだ。


「そういう問題じゃないだろ。だったら今日はいい」


 フェレナードが腰を上げると、わかっていたような顔でダグラスが道を塞ぐ。


「いつまでもガキみてぇなこと言ってんじゃねぇよ。こいつは何のための護衛だ? 結果的に愛想尽かされるんなら、それはそれで終わりってだけだ」

「そんな単純には済まない。インティスは故郷を……」


 フェレナードがすかさず反論した。事情はあれど生まれ育った地を離れてこの国にいるのだから、ここで生きていかなければならない。三年経ったとはいえ、言葉だってまだ不自由なことはある。


「心配すんな。護衛じゃなくなったとしても、こいつの生活くらい俺が保証してやる」


 ダグラスは平然と答えると、フェレナードの腕を乱暴に掴み、インティスの方を振り返った。


「お前は口挟まなくていいからそこで黙って見てろ、わかったな」


 インティスが完全に固まって動かないので、ダグラスは返事を待たずにフェレナードに向き直る。


「ダグラス、俺は嫌だって……」


 抵抗を試みたが、近衛師団長に力で敵うわけがない。


「お前はいつも通り感じてればいいんだよ。そのうち見られてるどころじゃなくなるだろ」

「あ、……っ!」


 ベッドに投げ出されたフェレナードはすぐに起き上がろうとしたが、覆いかぶさるダグラスがその両腕を抑えつけた。


「ダグ、冗談はやめろ」

「お前こそ、往生際が悪いな」

「……っ!」


 フェレナードの抵抗は唇で遮られた。



    ◇



「護衛には教えてやらなきゃ駄目だろうが。現実逃避でここまでされないと夜も眠れませんってな」


 フェレナードの抵抗や拒絶を逆撫でし、容赦なく攻め立てる様子は野生の獣のようで、そうして次第に快楽を互いに貪り合うだけの生物にしか見えなくなってしまった。

 まともに見ることなんて到底できない。


 こわい。

 気持ち悪い。

 どうしてこんなことするの。


 目を逸らし、視界を覆う度に、こっちを見ろと何度も怒鳴られた。



    ◇



 声が止んだような気がする。

 耳を塞いでいた手を恐る恐る離すと、部屋には真夜中の静寂が戻って来ていた。


「……ったく、手間かけさせやがって」


 大きな溜息と共にダグラスが吐き捨てた。対するフェレナードはぴくりとも動かない。


「よぉ、大丈夫か」


 いつの間にか壁際でへたり込んでいたインティスにダグラスは声をかけると、慣れた様子で自らの着衣を整えた。


「…………」


 獣の交尾を無理矢理見せつけられ、インティスは動けない。


「今日はキツめにやったが、まあ大体こんなもんだな」

「……だ、大丈夫なの……?」


 何とか立ち上がったインティスは、依然として壁に貼り付いたままベッドの方に視線をやった。

 髪は散々に乱れ、体中汚れたまま、フェレナードは意識を失っていた。あんなに乱暴にされて、体に支障はないのだろうか。

 ダグラスが答える。


「こいつはこれで当たり前だ。こんだけやっときゃ、明日の朝までは起きねぇだろ」


 そう言ってベッドからシーツを剥がすと、それを使ってフェレナードの汚れた体を拭き始めた。壁から離れないインティスに、ダグラスは目を細める。


「……幻滅したか?」


 インティスに護衛を依頼したのはフェレナード自身だと聞いた。こんな子供相手に務まるのか、ダグラスは甚だ疑問だったが、それでもフェレナードは譲らなかった。いずれ話すつもりだったのだろうが、三年もだんまりは甘すぎる。

 インティスは無言のままだ。


「……ま、これは奥の手だからな。一歩間違えるとこれなしじゃ生きられなくなっちまうから、しないで済むならそれに越したことはない」

「…………」


 インティスは壁から背中を剥がすと、数歩だけベッドの側に来た。ダグラスの手によって汚れは全て拭き取られ、片腕に支えられて服を着せられている様子は、寝ている子供を着替えさせているようにさえ見えてしまう。ぐったりともたれかかったままだ。


「……全然起きない……」


 それほど、意識が深く埋没しているのだ。普段ほとんど睡眠を取らないせいとも言える。

 この状態の彼を、ここから彼の部屋まで抱きかかえて帰ったことは何度もあった。最初は明け方頃にダグラスが担いで来たので、次からは同じ時間くらいになったら自分から行くようにしていたのだ。

 そういうことをしているんだろう、とは思っていたが、実際に目の当たりにしてしまうと言葉が出ない。耳を塞いでも聞こえてくるあの声や音。それらはまだ耳に残っていて、具合が悪くなる。

 身支度を終えさせたダグラスは、シーツを剥いだベッドにフェレナードを横たえた。シーツはそのまま丸めて部屋の隅に放る。そうしてインティスの横に立つと、同じようにフェレナードを見下ろし、溜息をついた。


「……本当はこれじゃまずいんだ。隙だらけだろ?」


 確かにその通りだ。インティスが頷く。


「……だから、護衛が要るんだよ」

「あ……」


 ダグラスに言われ、インティスはようやく気付いた。王子の教育係である彼を一人にすると、こういう時に命を狙われてしまうのだ。

 彼を一人にしてはいけない。腕の立つ者が、常に側にいなければならない。どんな時でも。


「どうだ、こいつとやっていけそうか?」


 ダグラスがもう一度インティスに尋ねた。

 即答できず、詰まってしまう。彼が必要としている時に、適切な対応ができるかどうか、その覚悟があるかを試されていると感じた。

 できるのだろうか。話し相手や荷物持ちならともかく、快楽を求められたら。

 先ほど見せられたあれと同じことを、自分はできるのだろうか。


「いちいちこんなことして面倒臭ぇって思うかもしれないが、これがこいつにとっては自分を保つための手段ってことさ。生きるためのな」

「…………」


 生きるため、という言葉が重くのしかかる。


「まーいい、明日から俺は留守にするから、帰って来たら返事聞かせてくれ」

「え?」


 急に入ってきた新しい情報に、インティスは思わず聞き返した。王子の身辺警護がどこに出かけようと言うのか。


「北に配置してる部隊の方にちょっとな。奴ら全然頼りねぇもんで、半月くらいで根性叩き直してくれって言われてんだよ」


 ダグラスともう一人くらいが向かって、その間は副師団長が代わりをするそうだ。


「だから、それまでこいつをよろしく頼む。無理なら無理でも構わん。こいつの護衛から下りたって、仕事はいくらでもあるからな」

「……わかった」


 インティスは頷くと、ダグラスが部屋まで送ると言ってフェレナードを肩に担ぎ上げた。

 まだ空は明け方には届かないので、城内の廊下は誰もいなかった。いや、ダグラスがあえて人のいない所を通っているのかもしれない。明かりは等間隔にあっても最小限で、辛うじて足元の石畳が見える程度だ。

 彼がいない二週間の間、護衛として自分は何ができるのか、インティスはそれだけを考えながら歩いていた。



    ◇



 朝が来ると、日差しが容赦なく部屋に降り注いだ。

 いや、それはおかしい。自室は魔法が外に漏れないよう、厚い布で覆っているはずだ。

 フェレナードはベッドの上で、重い瞼だけをゆっくりと開けた。久し振りに見た大きな窓が光を取り込んでいる以外は、壁は全て青い布。どうやらここは自分の部屋のようだ。

 いつもは部屋中を覆っているはずなのにどういうことなのか。考えようとして、昨夜の事実を否応なく思い出した。完全にダグラスにしてやられた。

 不安に押し潰されそうになる度にダグラスを頼る癖を、今の今までインティスに共有することができなかった。癖自体は子供の頃からで、インティスにも話したことがあるが、現状についてはただ機会がなかったのか、自分の面子を保ちたかっただけなのか。恐らく前者を理由にした後者が原因だ。結果的に、ダグラスが強制的に知らしめることになってしまった。

 何とかその場から逃れようとしたが、ダグラスを相手にそんなことができるわけがない。相手は国内最強と言われる剣の使い手で、体格も倍近く違う。

 快楽に呑まれる中で、真っ青になっているインティスの姿が何度か視界の隅に映った。なるべく目を合わせないようにしたが、気付かれただろうか。

 恐らく情事の類に免疫のない彼のことだ。途中で退室したか、気を失ってしまったかもしれない。もしかしたらダグラスとこんなことをしている自分の行動が許せなくなり、護衛の任を下りた可能性もある。その証拠に、首を巡らせたが彼の姿はなかった。

 ダグラスは、護衛を辞めても生活は保障すると言った。もう会うことはないかもしれない。

 新しい護衛を探さなければ。重い溜息しか出なかった。


「起きた?」


 不意に声をかけられ、フェレナードは反射的に体を起こした。

 そこには朝食を台車に乗せて運んで来たインティスがいた。


「え……」


 彼は普通に話しかけてきた。まるで昨夜のことなどなかったかのように。


「人間は太陽が上れば起きるようにできてるって厨房で聞いた」


 驚いたままのフェレナードを気にすることなく、インティスは続ける。どうやらカーテンは彼が開けたようだ。


「調子が悪いなら、まずはお日様と一緒に生活しろって。それから、ちゃんとご飯を食べること」


 そうして、テーブルの散らかりをひとまとめにし、食事を置いていく。

 時計の針は当然早朝を差していて、いつもなら考えられない時間だ。昨夜からどれくらい寝ていたのかは記憶にないが。

 体面を取り繕おうと、いつも通りを装う。


「それにしたって早すぎるだろ、もう少し後に……」

「駄目!」


 想像以上の声量でたしなめられ、思わずフェレナードの体面が引っ込んだ。


「昨夜、ダグラスは半月いない間、俺にあんたを頼むって言った」


 一瞬忘れかけていた現実を思い出す。あの惨事は、本当にあったことなのだ。


「……だから、俺は今できることをやる。まずはちゃんと生活するところからだ」


 その新緑の目には、今までにない決心の炎が燃えていた。そして、その奥に随分と落ち着いた深い覚悟の色。

 彼は護衛を下りなかった。

 フェレナードは眼前の事実に目を細めると、ゆっくりとベッドから下りた。



    ◇



 インティスが「絶対食べさせる」と意気込んだせいか、厨房係が作る朝食はいつもより気合いが入っていた。

 焼きたてでふわふわのロールパン、しっかり野菜を煮込んだスープとスパイスのきいたサラダに、卵の焼き料理まである。

 朝からこれほどの量を食べたことはなかったが、目の前で監視されているので完食を目指すしかない。


「ちゃんと起きたし、食べるのはゆっくりでいいよ。時間はいっぱいある」


 インティスはそう言って向かいの椅子に座った。彼の分の朝食がないが、既に厨房で簡単に済ませたんだそうだ。自分を起こすために相当な心構えをさせてしまったと、フェレナードは申し訳なく思った。

 パンをちぎると香ばしい穀物の香りがする。飲み物はいつも通りの果実水だが、今日はいつもより冷たく、身が引き締まる思いがした。


「……もういなくなってたかと思ったよ」


 これほど明るい部屋の中で食事を取るなんて、この城に来て初めてではないだろうか。美味しさについ気持ちが緩んで、思わずこぼしてしまった。


「え?」


 頬杖をついて窓の外を眺めていたインティスが、フェレナードの方を向いて聞き返す。

 目が合うと、彼は自嘲気味に溜息をつき、視線を外した。


「あんなみっともない姿を見られて、さすがに見捨てられたかなって」


 朝の光を受けながら、彼の長い髪がきらきらと揺れる。


「そんな風には……思わない」


 インティスの答えの間には少しの沈黙があったが、それは言葉に窮したわけではないようだ。

 青みがかった銀色の髪、青い瞳。彼の容姿は秀麗で、表通りを歩くといつも人目を引く。柔らかで理知的な物腰は、与える印象を更に高める。インティスも初対面の時は自分と六つしか違わないなんて思わなかったし、身分の高い人間なのだと思っていた。いや、彼を知る付き合いの浅い大多数はそう思っているだろう。

 けれど、実際は虚飾の方が圧倒的に多い。


「……俺は前に、あんたが城に来るまでの昔の話を聞いた」


 彼と知り合って、彼が王子の教育係になるまでの経緯を聞いた。周りに人当たり良くしているのは立場上あえてそうしているだけで、本当は粗雑で、利己的で、わがままな人間だということも。

 彼が快楽を頼るのは、当時彼を苛んでいた生死を分けるほどの不安を紛らわせるために、故郷の知り合いから教えられたということも。

 それだけで、全て理解したと思っていた。


「……だけど、全然わかってなかった」


 そう言って、窓の外に視線を移す。早朝の空気は室内から見ても清々しく、今日は晴れているから日差しも申し分ない。

 だが、光があれば影がある。物にも人にも、何もかも。

 太陽を見上げている限り、地上に落ちる影は見えない。

 ダグラスはインティスの胸ぐらを掴み、地上を見せたのだ。


「護衛は対象を守ることだって、ダグラスから教わった」


 室内に目を向けると、影はあちこちにある。見渡せば、どこがより暗いかもわかる。

 それは、護衛として側にいるからこそ見えることだ。

 それらが意味すること。

 ダグラスではなく、自分が負うべき役目であること。


「……ちょ、ちょっとすぐは無理だけど……」


 さすがにそこから先は言えなかった。


「……わかった」


 フェレナードからはそれだけが返ってきた。インティスが顔を上げると、彼は何だか気が晴れたような表情をしていた。


「とりあえず、食べるのを手伝ってくれないかな。初日からこの量はさすがに厳しいよ」

「う、うん」


 あてがわれた野菜のスープに、木製のスプーンを受け取る。

 そういえば、彼はいつも時間と文献の調査の進み具合ばかりを気にするから、食事の適正な量は正確にはわからないままだった。厨房係が随分な量を作ると思ったが彼も気合のままに作ったらしく、やはり多すぎたようだ。

 せっかくだから、これを機に全部見直そう。彼の生活を、全て。



    ◇



 それから一週間が過ぎた頃、フェレナードは夜になって突拍子もないことを言い出した。


「インティス、一緒に寝よう」

「は?」


 眉を顰めて怪訝な顔で聞き返すので、フェレナードが慌てて情報を補足する。


「もちろん、変な意味じゃないよ」

「……何でいきなり」

「こんなにきちんと朝起きて夜寝るなんて子供の頃以来だなと思ってさ。昔は誰かと一緒に寝たりしただろ?」

「してない」

「え? 賢者様とは?」

「したことないよ。子供じゃないんだし」

「……なるほど」


 フェレナードは何となく納得した。賢者は彼の育ての親だと聞いているが、その距離はそれほど近くなかったのではないだろうか。

 彼が自分に必要以上に傍に来ないのは、そうしたスキンシップの経験がないからなのかもしれない。

 対して、フェレナードは子供の頃から、体の弱い妹の面倒を見るために一緒に寝ることが多かった。父親が元気な頃は、同じベッドで本を読んでもらっていた。

 思い出はさておき。


「だったら尚更だ。貴重な体験になるかもしれないぜ」

「…………」


 インティスにとって、そうする必要性があるかどうかは全くわからないが、多分これは何度断っても無駄なパターンだ。


「……あんたがそうしたいって言うなら……」




 その日の夜は、生まれて初めての体験をした。

 幸いベッドは広いので、窮屈に感じることはなかった。

 同じ布団の中に、隣り合わせで自分以外の温もりがある。

 いつもなら、ベッドで眠るのは彼だけで、自分は側の椅子に座ったまま眠る。必ず近くに剣を立てかけて。

 今、剣はテーブルの上に無造作に置かれたままだ。


「懐かしいな〜。昔はどうしても一緒じゃないと妹が寝なくてさ」

「ちょ、ちょっと……」


 フェレナードの長い腕が、自分の首の下辺りに潜り込んでくる。


「調子が悪い時は、側にいて欲しいものなんだよ」

「…………」


 答えに詰まって何も言えなかったが、彼はその沈黙を特に気にしてはいないようだ。

 腕枕をされても、どこか恥ずかしくて彼と同じように仰向けには寝られなかった。自分がもっと小さな子供だったらできたのだろうか。

 おかげで終始背を向けたままだったが、彼は構わず話しかけてくる。


「俺のことは気にしないで寝ていいよ。俺も勝手に寝るから。ダグラスから眠りにつく方法は教わってるだろ?」

「……うん」

「実践するいい機会になったな。じゃあ、おやすみ」

「…………」


 あまりの出来事に、眠りの挨拶すら交わせない。それきり彼は言葉を慎み、やがて静かな寝息が聞こえ始めた。

 こんな状態で寝られるなんて信じられない。

 だが、自分も眠る努力をしなくては。

 教わった通りに目を瞑り、呼吸をゆっくり、深く繰り返す。

 静かな部屋の中、背中を伝って、温もりの向こうから心臓の音が聞こえた。


『調子が悪い時は、側にいて欲しいものなんだよ』


 耳に蘇るのは、答えられなかった彼の呟き。

 それは妹のこと? それとも……

 昨夜のことを思い出す。

 人によっては浅ましく見えるかもしれない行為が、彼にとっては必要不可欠であるという事実。


 どうしてこんなことするの


 最終的に抱いてしまった疑問の答えは、「生きるため」に他ならない。

 彼が生きられるよう、自分は守り抜く。命を狙う外敵からも、心臓を鷲掴みにしようとする不安からも。



    ◇



 ダグラスが帰って来ると、インティスはこれからも護衛を続けることをダグラスに話した。

 彼は相槌を打つと、どこかにやにやしたような顔で「困ったことがあれば聞きに来い」と言うので、視線は合わせずに頷くだけ頷いておいた。

 その頃にはフェレナードの体調はすっかり良くなっていて、これにはダグラスも本気で驚いたそうだ。

 以来インティスは、ダグラスから一目置かれるようになった。

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