リスタート
秋雨
朝
午前七時。
色白な部屋に聞きなれた電子音が鳴り響く。
全人類を悩ます起床を強制させる合図。例に漏れず、私も睡眠からたたき起こされる。
重い身体をあげ小さな伸びを1つ。二度寝を誘う寒気が短い腕にまとわりついて、まだ寝ていようと囁く。なんて甘美な響きなのだろうか。
そのまま従って寝てしまうのもありだなと思ったりもするが、甘い誘惑を寸前のところで振り切り、布団から抜け出す。冬を感じる重い空気が、ズシリと全身に降りかかった気がする。口から漏れる息も、いつも以上に白く感じる。
多分、気のせいだけど。
正月を過ぎて早数日。長いようで短かった冬休みも明け、今日は久しぶりの登校日となっていた。だから、いつも聞いていたはずの目覚まし時計の音も、布団から出たくなくなるようなこの寒さも、どんよりとした靄がかかったような気持ちも、すべて久しぶりだ。
まるで、現実を忘れてしまったような、そんな遠い感覚がする。日常が日常に感じられないというべきだろうか。正確にはわからないけども。
ともかく、今は変に頭を使うのではなく、学校に行く準備をしなくては。
頬を強めに叩き、未だにぼんやりしている頭を無理矢理覚醒させる。変に物思いにふけっていたのは眠気のせい。よし、そういうことにしよう。
そうでもしないと、いつも通りに準備もできそうにないから。
しばらくすると、一階から母の声が聞こえてくる。冷める前に朝食を食べに来い、とのことだ。
「わかったー」
気だるそうに返事をして、着手していた準備を中途半端な状態で一旦放置する。そうして、母に呼ばれるがまま階段を駆け下りる。
「お母さん、おはよう」
「おはよう」
居間に続くドアを開けるのと同時に、朝の会話皆勤賞の言葉を放つ。そして、まったく同じ言葉を受け取る。毎朝行ってきた当たり前の習慣だ。
その後は手を洗って、慣れたように自分の席について、それから手を合わせて、箸をもって、食べ物を口へ運んで……。
――普遍的な朝だ
長期休暇を介したとて体から消えることのない、生活の基盤ともいえる習慣。
長年続けていると無意識に動けてしまうものだなあ、と小さく感心しながら卵焼きをほおばる。この動作一つ一つも忘れてなんかいないな、なんて当たり前なことをのんきに考えたりもしたが、それが過ちだった。
忘れていた日常を思い出させるような、遥か昔に身についてしまった習慣。
それを知覚してしまった今。
ついさっきまで感じられなかった現実が、準備万端とでもいうように威勢よく現れる。私を逃がすつもりはないと告げるような、巨大な障壁として。
――私はこれから学校へ行かないといけないんだ
朝起きた瞬間から始まる日常を、鮮明に思い出した。休みボケのせいで靄がかかった脳内が瞬く間に晴れていく。
正確に理解した。と同時に、学生に求められていないある種の感情も思い出す。
――行きたくない
どこを向いても正面に立ち続ける慈悲のない現実。容易に乗り越えるべき高すぎる壁への圧迫感。他者と比較してしまうことで生じる劣等感。教師が放つ声援への猜疑心。こんなしょうもないことで挫けそうになる我が身への拒絶感。
なるほど、気のせいではなかったようだ。
現実を拒む様々な要因が、次々と脳内へ押し込まれてくる。
さて、どうしたものか。都合よくすべてを忘れていた私は、もうこの場にいない。ということは、すんなり学校へ向かう私もいないということだ。
いっそのこと、このまま学校を休む決断をしてしまおうか? 実は昨日から体調を崩してて本当は学校行けないんだよね……と少々申し訳なさそうに自身の不調を訴えてそのままベッドに直行してしまおうか。それとも純粋にばっくれてしまおうか。
けれど、どんなに考えを巡らせたところで休みを申し出る勇気もこの場にはいない。
だから、従順に日常を全うするほかない。
この後の展開は、律儀に手を合わせてから食事を終え、中途半端な準備を終え,諸々を滞りなく遂行してこの家を出る、だろう。
そうして、いつもと同じように学校に行く。
――行きたくない
その感情がさらに肥大化した気がした。
「ねえ、手、止まってるわよ」
食器を片付けていた母が私に呼びかける。気づかぬうちに箸を持つ手も、咀嚼する口も止まっていたらしい。
「ごめん。ちょっとぼおっとしてた」
何もありませんよ、とでもいうようにけろりとした調子で言う。
「そう? だったらいいんだけど……そんなことより、早く食べないと学校遅刻するよ。少し急ぎな」
「わかった」
確かに、このままのんびりしていたら遅刻してしまいそうな時間だった。引き続きぼおっとしたふりをして時間を潰すのもありだな、と思ったりもする。けれど、母が近くにいる手前わざとゆっくりするわけにもいかない。
――とりあえず食べ終えるか
仕方なくといったように箸を持ち直す。
早速、予想道理に歯車が動き出したみたいだった。
実際、予想と何ら変わりないことをしてしまった。
時々手が止まることはあれど、さして現実に支障をきたさないものばかり。生憎、さぼるために不正を働く習慣は持ち合わせていなかったらしい。
新たに上書きできないかと思考を巡らしたものの、浮かぶ案はすべて机上にすら並べられない塵同然。集めようにも、時間以前に技術がなかった。
決まりきったことしか考えられない虚ろな脳が憎らしい。
まあ、どれだけ憎んでも変わるものなんて存在しないのだけど。身についた習慣はそういうものだから当然といえば当然だ。
だとしても、率直にがっかりした。
私のことだから、どこかのタイミングで休むきっかけを作って、それを利用して欠席の旨を伝えられるとばかり思っていたのに。
想像以上に私は脆弱なのかもしれない。
何とも言えない含みを持ったため息が僅かに開いた口から漏れ出る。その息は未だに白いまま。
——これ以上の抵抗は厳しい、か
為す術なく、玄関のドアに手をかけた。
けれど、感情というものは案外自我を出すもので。
いざ家を出ようと手をかけた扉を、かれこれ数分開けられないでいる。
なんだ、抵抗できるじゃないか。と感心することとは別に
――この扉を開ける意味は本当にあるのだろうか
私を止めている一聞小さく見えて私には大きすぎる疑問。脆弱ながらも芯の通った、私を形容する問い。
どうせ、今日も明日も、昨日と変わらず窮屈な気持ちに押しつぶされる。そんな環境に自ら飛び込んでいく。想像に難くない苦痛と自己嫌悪にさいなまれる原因。そうと分かりながら、わざわざ家から出る理由。
正直、ないと思う。逃げていいと思う。
けれど、行かなくてはいけない。
けれど、行きたくはない。
けれど、行かなくてはいけない。
けれど、行きたくはない。
けれど、行かなくてはいけない。
けれど、行きたくはない。
けれど――。
二者択一がとめどなく迫ってきては覆われて、迫ってきては覆われて。
切り離されることのない負の連鎖。いたちごっこの数々。禍々しく彷徨う灯りを遮る冷害。
――私は今、極寒の中震える迷い人である
そんな大仰にも聞こえる言葉が、一番似合うと思っていた。
けれど、どんな寒波が押し寄せてこようといずれ春は来るもので。
私を取り巻く負の記憶の中に迷い込んだ、眩しすぎる一凛の花を見つける。
――そうだ。私はこう思っていたんだ
忘れていたもう一つの日常。
毎朝行われる儀式のようなもの。
今にも押し潰されてしまいそうな現実に衝突した時は、必ずこの言葉を吐くと決めている。
――今日こそは
昨日はどう足掻いても変わらない。
けど、今日くらいは、昨日と違う自分がいるかもしれない。今日くらいなら、小さな変化があるかもしれない。
そんな、淡い期待。
そんな、幼い子供に使う魔法の言葉同然の、極微弱な精神安定剤。
ただの出鱈目で、結局何もかもをいたちごっこにしてしまう原因だと分かっている。伊達にこの生活を何年も続けてきたわけではない。だから、現実は現実としてきちんと視認しているはずだ。その上で、私はこの言葉に頼っている。だって、この言葉は魔法の言葉なのだから。
そう思うと、不思議と対抗心が沸いてくるもので。
私の手は、今、外界へ続く扉にかけられた。
リスタート 秋雨 @tuyukusa17
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