潮と小牧とアマガエル

成瀬イサ

潮と小牧とアマガエル

 6月28日の陽光は、昨日まで続いた梅雨の終わりを告げてくれるような暖かい光だった。

 毎朝庭で見かけるアマガエルも、今日ばかりはその眩しさのあまり、実家でゆったりと過ごしていることだろう。


「おはよ~小牧ちゃん~」


 しゃがみ込んで庭土をぼんやりと眺めていると、それよりももっとぼんやりとした声が、背中越しに私の名を呼んだ。

 

「おはよう」


 聞き馴染んだ声。

 振り返ることなく私は挨拶を返した。

 

「なに見てたの~?」


 立ち上がって、自分より10数センチ高い潮の目に目を向ける。今日もローズマリーの匂いだ。

 

「アマガエル」


 それだけ言ってしまうと、私は彼の横を通り過ぎて、そのまま学校へ足を進めた。

 後ろからトテトテと付いて来る潮の様子は、まるで隣の家のゴールデンレトリーバーみたいだ。


「好きだもんね~」

「今日はいなかった」

「あったかいもんね~」

「うん」


 梅雨が明けて、いつもより3割増しで艶やかな私の長い黒髪は、柔い風に吹かれてたなびいている。それを軽く右手で押さえて耳にかけると、不思議そうに潮は私の顔を覗き込んでいた。私は目だけ向けてその意図を訊ねる。


「なに?」

「ん~」

 

 しばらくきょとんとした表情を浮かばせたのち、彼は破顔した。

 

「小牧ちゃんって、かわいいよね~」


 かわいいのはどっちだ。

 そんな風に言いたくなるほど彼の立ち振る舞いはご愛嬌で溢れていた。さすがモデルと言うべきか、その身の振り方はいったいどこで身につけたのやら。

 

「そういうこと、あんまり言わない方がいいと思うよ」

「髪がつるつるしてるね~」

「梅雨明けだから」

「でも俺はくるくるだよ~」

「そうだね」

 

 そんな会話を数度繰り返し、私たちは学校へとたどり着く。



 ******

 

 

 8時26分。

 クラスメイトのほとんどが教室内に集まって、談笑したり課題を進めたり、はたまた徹夜ゆえ睡眠に勤しむ者もいる。


「ねぇねぇ小牧ちゃん!」

 

 そんな中私は、3人の女子に囲まれていた。

 そのうちの1人が私に訊ねる。


「昨日のこと、潮くんに聞いてくれた?」

「ああ、うん。『別にいいよ~』って」

「ほんと!? やった~!」


 昨日の放課後、私はこの3人組に呼び止められ、『潮くんに、明後日一緒に遊ぶ約束を取り付けてほしいの』と頼まれた。

 正直、自分で頼んだ方がいい気もしたけど、そんなことを言ってしまえば陰口の的になって、面倒くさいことになるのは目に見えている。

 というか以前トイレで、それこそ私の悪口を言っていたのを偶然聞いたこともある。だから、なんで私に話しかけてくるのか未だに分からない。


「よかったじゃんミカ!」

「楽しんできなよー!」

「マジ楽しみ! あ、じゃあまたね小牧ちゃん!」


(あ、そうか)

 

 用事だけ済むと私の元から離れていく彼女たちを見てようやく気付いた。

 私、おとりに使われているのか。

 

「うん。それじゃ」


 潮はモテる。

 当然のことだろう。

 顔は良いし、優しい。ぼんやりとしているが、むしろそれもギャップと捉えれば尚良しだ。


(そりゃあ、陰口も言いたくなるか)


 毎朝潮と登校してくる私なんて存在は、邪魔でしかない。だから悪口を言う。

 しかしながら、そんな私は潮と仲が良い。だから私に媚びを売る。


 あんまり人からどう思われようと気にしない性格だと思っていたけれど、少しばかり心の奥がちくりと痛んだ。


 

 ******



「どうしたの?」


 風呂上がりに、リビングでテレビを見ていると、潮から電話がかかってきた。


「明日、どこ集合なの~?」


 なぜ私に聞く。

 

「芦田さんに聞きなよ」

「小牧ちゃんも知ってるでしょ?」

「知らない」

「え」

 

 珍しく狼狽えた様子の潮の声がして、数秒沈黙が続いた。

 テレビでは『若者の恋愛事情』なるものが流れている。


「……もしかして小牧ちゃん、行かないの?」

「うん」

「あ~……」

「?」

「俺、てっきり小牧ちゃんも行くのかと思ってたよ~」


 潮は馬鹿らしい。

 

「なんで私が……私、あの子たちに嫌われてるんだよ」

「そうかなぁ……今日話してたじゃん」


 今朝のことだろう。

 というか見ていたのか。

 

「利用されてるだけだよ」

「利用?」


 『潮のことが好きだから、私を通じて潮に近づきたいと思ってるんじゃない?』なんて言うのは憚られた。私の憶測の範疇に過ぎないからだ。

 

「……とにかく、私は行かないよ」

「そっかあ、残念だなぁ~」

「話ってそれだけ?」

「芦田さん、俺のこと好きなのかなぁ……」

「……さあ」


 ぼんやりとしている潮だが、意外とそういうことには敏感だったりする。モデルという職業柄、人とのコミュニケーション能力は大事になってくるからだろうか。


「でも、素直になれない子は多いらしいよ」

「そうなの?」

「今テレビでそう言ってる」


 ミーハーじゃない私でも知っているタレントがそう言っているのだから、きっと世間一般にはそうなのだろう。

 

「あ、それ俺も今見てるよ」

「そうなんだ」

「小牧ちゃん、こういうの見るんだ。なんか意外だなぁ」


 それは割とこっちのセリフでもあるかもしれない。潮は色恋沙汰に巻き込まれはするものの、好んでいるようには到底思えない。むしろ、若干面倒に思っている節がある。

 

「久しぶりに見たかも」

「そっかあ~。じゃあ俺明日早いから、もう寝るね」


 きっと、明日の芦田さんたちとの約束のことだろう。

 

「うん。おやすみ」

「おやすみ~」

 

 2分58秒と記されたその無機質な画面を、私はただぼんやりと見つめていた。


 

 ******

 

 

 湿度81パーセント。

 7月1日の陽光は、分厚い雲に隠れてしまって、あまり地上には届かない。

 これを機と捉えたのか、3匹ほどのアマガエルが、仲良く並んで雨乞いをしていた。

 

「小牧ちゃ~ん、おはよ~」


 寝ぼけ眼をこすりながら、潮がやって来た。今日も、ローズマリーの匂い。

 

「おはよう」

「お、今日はアマガエルいた~?」


 庭土を眺めている私を見て、潮は訊ねる。

 

「うん。3匹」

「かわいいね」


 存分にアマガエルを満喫した私は、立ち上がって潮を一瞥する。

 

「行こっか」

「うん~」


 にへらぁっと笑うその表情を見た私は、とあることに気づいて、話を切り出した。


「私、アマガエル、昔から好きなんだ」

「お~、小牧ちゃんから話してくれるの珍しいね」


 物珍しいものを見たような反応をする潮は、嬉しそうに続きを促した。

 

「他にもヒトデとか、わかめとか……あと、もずくも」

「あははっ。なんか変わってるね」

「そう。私、結構変わってるんだ」


 なんとなく、自分の過去を振り返りながらそんなことを言う。

 なかなか話が合わなくて、気づけば1人でいることに慣れていた。

 

「それが小牧ちゃんの魅力だよ~」

「でも、他の人と唯一同じこともあるんだって、最近気づいたんだ」

「お、なになに~?」


 3日ぶりのくもりの天気。

 手汗が滲んだ。

 少し熱っぽい。

 

「潮のことが好きなこと」


 言ってしまうと、潮は不意に歩みを止めてしまった。

 今まで見たことのない、驚いた顔だった。


「……行かないの?」


 振り返って、私がそう訊ねても、潮は返事のひとつも返さなかった。

 ただ、呆然と私を見ているだけ。

 まあ、仕方ないか。


「先、行くね」


 踵を返して、私は学校へと再び歩き出した。

 隣に潮がいない通学路。

 しばらく歩いて私は、自分にはもうひとつ他の人と同じことがあるのだと気づいた。

 

(そっか……こういう感じなんだ)

 

 昔の人は頭がいいな。

 『恋を失う』っていう表現は的確だ。

 なんだか胸の奥で、大事なものがずっぽり抜け落ちてしまった感覚。


(悪いことしちゃったな)

 

 決して驕っているわけではないが、きっと潮は私との『友達』という関係を楽しんでいた。

 

(もう、喋れないんだろうな)

 

 雨が降ってきた。

 傘は、差さなかった。


(なんか今日、寒いなぁ)

 

 81パーセントの湿り気と、19パーセントの罪悪感は、雨水を通じて私の心に沁み入った。



 ******



「小牧ちゃん、ちょっといい~?」


 登校すると、芦田さんたちが私に近寄ってそう言った。


「どうしたの?」

「潮くんから、何か聞いた?」

「……? ううん、何も」


 なにか、様子が少し変だった。

 何か探るような、私から何か聞き出したいと言っているような表情だった。

 

「今日は、一緒に登校してないのね」

「……まあ」


 目を逸らしたのがいけなかった。

 私の言い方や表情から何かを悟ったのか、芦田さんはまくしたてるように訊ねた。


「もしかして……小牧ちゃん、フラれちゃったの?」


 心配するような声色。

 しかしながら嘲るようなその眼。

 

「……うん」

「あははっ、そっかぁ。そうだったんだぁ……! 辛かったら相談していいからね!」

「ありがと」


 だんだんと大きくなっていく芦田さんの声は、次第にクラスメイト達の注目を集める。

 皆の視線が、私に集まる。

 

「なんて告白したの~?」

「……潮のことが好きだって」


 一瞬、芦田さんは沈黙すると、吹き出すように笑いだした。

 

「あはっ!! ダメだよぉ小牧ちゃん~! そんな素直に言うんじゃなくて、遠回しに言わないと潮くんも可哀そうでしょ?」


 お腹を抱えて一生懸命に笑いを堪える彼女を見て、私はなんだか頭がくらくらしてきた。

 

「そうだね。そう思ったよ」

「でも、そっかぁ!」


 ああ、やめてほしいなぁ。


「小牧ちゃん、やっぱり潮くんのことが好きだったんだぁ~!」


 そうやって、自分が安心するために人を踏み台にするの。


「でも大丈夫! 世の中には男の子がたくさんいるんだから、気にしないで!」


 あー、なんか、気持ち悪くなってきた。皆の視線が、なんだか突き刺さる感じ。


「あ! そうだ! せっかくなら潮くんのタイプ聞いてみようよ! そしたら小牧ちゃんももっと可愛く――」


 芦田さんの声がクラス中に響き渡るくらい大きくなった、そのとき。


「――フラれたのは、キミだよね」


 聞き馴染んだその声が、私の背後から聞こえてきた。

 

「フラれたのはキミだよね。芦田さん」


 こちらに向かって近づいてくる潮。

 私の隣までやってきた彼の表情を見て、驚いた。


「う、潮くん……なに言ってるの? 私、好きだなんて言ってないよ~!」

 

 初めて見た。こんなに不機嫌な顔。

 必死に隠そうとしているのかもしれないけど、目じりとか唇がひくついている。

 それは芦田さんにも伝わったのか、「しまった」といった顔で彼女はぎこちなく微笑んでいる。


「芦田さん」

「な、なに~?」

「どうでもいいんだよ、キミのことは」


 クラスの空気が凍り付いたのが、鈍感な私でも手に取るように分かった。


「ちょ、潮……なに言ってるの……」

 

 私が制すると、潮は睨むような目つきで芦田さんを一瞥し、私に身体を向けると、その腕を掴んだ。

 

「ちょっと、来て……くれる?」

 

 そう言いながらも否応なしに腕を引っ張る潮に、私はついて行くしかなかった。



 ******



 窓にあたる雨の音ひとつひとつが聞こえるほど、静かだった。

 三階の空き教室。確か今は物置になっているらしい。

 

「あの……どうしたの、潮」

「……小牧ちゃんさ、嫌なことは嫌だって言ってもいいんだよ」

「え、何の話?」


 真剣な表情で私を見つめる潮。

 今日の潮は、なんだか新しい。

 今までこんな彼を見たことがなかった。

 

「芦田さんのこと。馬鹿にされて嫌じゃなかったの?」

「それは……でもまあ、事実だったから」 

「事実?」

「……潮に告白して、フラれたこと」

「……」


 なぜ黙る。

 そういえば、普通に喋ってるけど、また話しかけてくれるだなんて思ってなかったな。

 なぜか怒ってるけど。

 

 何も言い出さない潮に近づくと、私はたしなめるように口を開いた。

 

「ていうか、あの、潮……なんでこんなところ来たの? もうすぐHRだから戻――」

 

 突然、言葉が出なくなった。

 言葉が途切れた。

 何が起こっているのかを理解するのに、数秒かかった。


 私の目の前に、潮の顔がある。

 鼻腔に、ローズマリーの匂いが強く、とても強く入ってきた。


(あ……、口、塞がれてるのか)

 

 16年間の人生で初めて感じた他人の唇は、なんだか湿っぽかった。


「あ……ご、ご、ごめんっ!! あ、俺……えと、あっその、ほんとにごめん!」


 我に返った潮は、取り乱しながら私と距離を取った。

 

「な……んで?」

 

 瞬きすることすら忘れてしまっていた私は、辛うじて声を絞り出す。


「事実、じゃないよ」

「え……?」

「俺、小牧ちゃんの告白、振ってなんかいないよ」

 

 何を言っているのか、全然理解できなかった。

 だってそれは、つまりそういうことだから。

 

「……小牧ちゃんって、結構鈍感だよね」

「……潮、何も言わなかったから」

「あ、あれは! ちょっと驚きすぎただけだよ……」


 そっぽを向く潮を見て、私は訊ねる。

 

「潮……私のこと、好きなの?」


 途端、潮は忙しなく目をキョロキョロと泳がせて、一度深呼吸した。

 

「…………うん。好き」

「タメ、長いね」

「だ、だって、恥ずかしくて……あはは」


 にへらぁっと笑う潮を見て私は一安心する。

 それに伴って、冷静になった私は、顔がとんでもなく熱くなるのを感じた。


「潮は……私が……好き……」

「うん」

「…………そう」

 

 俯いて、熱を帯びた顔を隠すように両手で覆った。


 朝登校したときは寒かったのに、今は身体が熱くてしょうがない。

 きっと潮のせいだ。


「あのさ……小牧ちゃん」

「……うん」


 潮は、意を決したように言った。

 

「よければ、その……お付き合い、してほしいんだけど……」

「…………」

「あの……、小牧ちゃん? こっち向いてほしいんだけど……」

 

 さっきから、私はずっと顔を俯かせたままだ。

 潮の顔が見られない。

 なんか、できない。見たら、おかしくなる。

 

「潮……私、潮が好き」

「……うん」

「可愛いって言われると、心臓が痛いくらい……痛い……」


 勝手に喋りだす口を抑えられずに、私はただただ自白してしまう。


「他の子と、遊びに行くって知ったとき、なんか……モヤモヤして……ずっと、寝れない」

「ごっ、ごめん……」


 本音をさらけ出していくうちに、だんだんと肩の荷が降りてきた。

 

「電話した後、ずっと履歴を眺めてて……それで……」


 潮に顔を向ける。

 頬が真っ赤だった。

 けれど、それはきっと私も同じことだろう。

 1歩近づいて、潮の首に腕を回す。


「……それくらい、あなたがすき」


 今度は、私が口を塞いだ。

 なんだか、さっきとは全然違う。

 ドキドキして、このまま死んでしまいそう。

 潮と目を合わせると、愛おしくてたまらなかった。

 

 ああ、私、今が一番幸せなんだ。

 無限にも近い数秒が流れ終わると、口を離した潮が深く息を吐いた。


「……はぁぁぁぁぁ」 

「私、けっこう性欲が強いのかもしれない」

「は、恥ずかしいこと言うね……」


 なんだか、リミッターが解除されてる感覚だ。

 

「この前のテレビ、あんまり参考にならなかったね」

「?」

「『素直に言えない子も多い』って」


 空き教室のドアを潮が開く。

 

「あ~、そうだね」


 その後ろを私はついて行く。

 

「潮、素直に言える?」


 手を握ってみた。

 

「俺は、どうかな。小牧ちゃんには言えるよ」


 潮は、優しく握り返す。

 

「そっか。……あ」


 足を止めて、窓の外を見る。

 張り付くように居たそいつは、嬉しそうに雨に打たれている。

 

「どうしたの?」


 振り返って、私は微笑んで言った。


「アマガエル」

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潮と小牧とアマガエル 成瀬イサ @naruseisa

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