死体発見の曖昧な犯罪

森本 晃次

第1話 城址殺人事件

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年12月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。


 F県F市、県庁所在地であり、政令指定都市でもあるこの都市は、昔から、アジアの玄関口として有名なところであった。

 歴史的には、古代から開けたところであり、そもそも、大陸や半島と言われるところから攻め込まれた場合、一番に上陸される可能性のあるところだった。

 実際に、かつて大陸の帝国から、親書が送られたものを、当時の日本政府が、それを無視し、さらに使者を殺害したことで、攻められることになったのだが、それも当たり前のことであった。

 そもそもが貿易の勧告だったのだろうが、当時の情勢として、大陸の帝国が、当時どんどん周辺諸国に征服戦争を仕掛けていたのは間違いのないことで、占領されたところも少なくはなかった。

 そんな時代背景もあったことで、日本としても、攻め込まれる覚悟が必要だったのだ。

 元々、日本が攻め込まれる可能性があったのは、この時が初めてではなかった。

 この時の時代は中世。かつての時代というのは、古代であり。その原因となったのが、

「半島の貿易国が、他国から侵略を受けているので、助けてほしい」

 という依頼を受けて、その口車に乗って、まだ対外戦争の経験のない日本兵を半島に送り、しかも、大敗してしまったことで、

「今度は我が国が攻め込まれる。これは大変だ」

 ということで、急いで、兵を九州に厚め、侵略に備えた。

 いわゆる、

「防人」

 という人たちで、かなり厳しい状況だったという。

 しかも、当時の政府は、九州に遷都をしたりして、体制を整えていたが、結果攻めてくる気配もないので、また畿内に戻した。それでも不安で、最終的に、大津にまで都を移すといういわゆる、

「ドタバタ劇」

 だったのだ。

 何といっても、60年くらいの間に、10回近くも遷都を行ったというのは、長い日本の歴史の中でもその時だけだった。

 当時は、

「大化の改新」

 と呼ばれた時代であり。

「改新」

 というのは名ばかり、実に、

「大いなる体たらく」

 だったといってもいいだろう。

 古代では、結局攻めてくることはなかったが、中世の大陸からは、艦隊を率いて、攻めてきた。

 戦い方の基本的な違いや、相手の、

「新兵器」

 に苦しめられ、日本兵はそれでも、果敢に戦った」

 しかし、あくまでも、戦では攻められっぱなしであったが、結果、台風などの天災によって、敵は港からいなくなった。

「2度の来襲とも、何とか退けることができた。日本は神の国だ」

 といって喜んでいる人もいたが、そうも言っていられない。

「次は確実にやられてしまう」

 という危惧があったのは、当然のことだろう。

 しかし、これも幸いに、3度目はなかった。

 とりあえず、日本は、

「海外からの敵による侵略」

 という危機からは逃れることができた。

 しかし、この後が大変だった。

 戦をして、勝利したのだから、本来であれば、恩賞があってしかるべきであった。

 いや、借金をしてでも、この戦に加わった武士もいるので、彼らにとっては死活問題であった。

 当時の日本は封建制度、土地の保証と、戦の際には、奉公として兵を率いて駆けつける。いわゆる、

「ご恩と奉公」

 が基本の政治体制である。

 しかし、この、

「侵略を受ける」

 という戦争では、その定義が成り立たなくなったのだ。

 しかも、借金をしてでも駆けつけたものにとってはたまったものではない。

「何で俺たちだけが」

 ということになったが、実際にそういう武士は少なくなかった。

 そこで、幕府は、

「徳政令」

 などという、

「借金棒引き」

 を行ったが、なかなかうまくいかず、そこに持ってきて、朝廷で、倒幕の動きが見えると、武士の中には、朝廷に味方をする人が出てきた。

 幕府の体制は、根本からゆらぎ、幕府軍からも、朝廷側に寝返るものも少なくはなかった。

 そうなると、幕府も、もう終わりであった。

 倒幕まではよかったが、今度朝廷は、

「幕府以前の公家中心の政治体制」

 を築こうとした。

 つまり、

「武士というのは、あくまでも、公家よりも下で、公家に体よく、こき使われる」

 という時代である。

 そもそも、それが嫌で、さらには、平家が公家化することもあって、坂東武者が立ち上がり、成立したのが、天倉幕府ではなかったか。

 自分たちの土地を保証どころか、荘園という形で奪われてしまっては、武士としては、溜まったものではない。

「これでは、何のために幕府を倒したというのだ。やはり、武家政治を統帥する幕府は必要ではないか」

 ということになり、紆余曲折があった中で、成立したのが、

「足利幕府」

 だったのだ。

 大陸から攻められたことによって、巻き起こった歴史を駆け足で描いてきたが、F県F市というところは、当時から、商人の街として栄えていたのであるから、ひょっとすると、昔のこのあたりは、密かに半島と貿易を行っていたのではないだろうか。

 太閤時代よりこちらの時代では、全国的に支配が及んでいるので、なかなかそういうことに対しての、

「取り締まり」

 が行われているわけではなかっただろうから、難しいところも十分にあったに違いない。

 足利幕府の勢力が、それほどのものではなかったというのは、歴史が証明している。

 そうなると、都から遠いところでは、結構自由にできていたのではないだろうか。

 実際に、応仁の乱からこっち、いわゆる、

「戦国時代」

 に入ってくると、

「群雄割拠」

 あるいは、

「下克上」

 などという物騒な言葉が流行り、中央の権威は地に落ちていて、それぞれの領国では、

「血で血を洗う」

 と言われる時代に入ってきた。

 当時は、それそれの国は、

「守護」

 と呼ばれる人たちが、幕府に任命されて、その土地を収めていた。

 彼らが大名となる場合もあるが、守護代と呼ばれる配下のもの。さらには、国人と呼ばれる、またその配下の連中から、謀反を起こされ、領主が変わるということが平気で起こてきたのだ。

 それが、

「下の者が上の者にとって代わる」

 という、いわゆる、

「下克上」

 ということで、彼らが、大名となることも多かった。

 それぞれの大名として、守護職がそのまま大名となる場合、守護代や国人によって、とって変わられる、

「下克上」

 によって成立した大名、彼らが、隣国を攻めたり、あるいは、同盟を結んだりして、領土の拡大をしていく、それを、

「群雄割拠」

 といい、これらの時代を、

「戦国時代」

 と呼ぶようになっていった。

 この時代における、一番の画期的なこととしては、

「種子島に、鉄砲が伝わった」

 ということであった。

 さらにいえば、ほぼ同時期に、

「キリシタンが入ってきて、キリスト教の布教を行い始めた」

 ということが大きいのではないだろうか。

 戦国時代の、一時期ではあったが、覇者となった織田信長、彼が天下を取れたのは、この、

「鉄砲伝来」

「キリスト教伝来」

 にほかならなかった。

 基本信長は、天下統一目前で、

「本能寺」

 にて、殺害されたということであるが、それがなければ、天下を握った状態で、あとは、それを全国に号令するだけだったので、ここでは、信長は、

「天下を取った」

 ということにしたいと思う。

 結局、信長は、

「天下取りには、武力によるものでなければいけない」

 ということを、

「天下布武」

 ということで示していたが、

 天下布武というのは、

「力によって、天下平定をしなければ、いつまた下克上になるか分からない」

 ということも含まれているのだろう。

「絶対的な力で天下を取らないと、またすぐに、戦国の世に戻ってしまう」

 ということを分かっていたのだろう。

 そういう意味で、かつての君主と呼ばれる人たちが、ほとんど全員、絶対的な力に固執したという理屈も、そう考えれば、分からなくもないだろう。

 信長はそういう意味も込めて、まずは、

「鉄砲という新兵器が、戦場では大いに活躍する」

 ということを最初から分かっていて、まずは、

「鉄砲をいち早く、できるだけたくさん入手する」

 という目的を掲げ、

「それには、金がいる」

 ということも分かっていた。

 そうなると、

「貿易によって、金儲けをする」

 そして、その相手は外国だ。

 そこで考えられるのが、

「キリシタン」

 だったのだ。

 キリシタンを使って、貿易で収益を得る。

 ひょっとすると、自分が天下を取った暁には、キリスト教を広め、

「自分が神である」

 ということを大々的に宣伝しようと思っていたのかも知れない。

 そもそも、自分のことを、

「神である」

 と言いだしたのも、キリスト教の考えに従ったもので、領民を従わせるには、自分が神になるという必要があったのかも知れない。

 だから、信長は、国内で宗教団体に敵が多かったと考えるのは、無理なことだろうか?

 確かに、

「比叡山」

「本願寺」

「一向宗」

 などと、実に敵が多かった。

 実際に、他の戦国大名と結んで、信長が何度も煮え湯を飲まされたことが多かっただろう。

「比叡山の焼き討ち」

 というのも、一見、極悪非道に見えるが、

「一応、他の大名に味方をすれば、焼き討ちを行う」

 ということを勧告しているので、騙し討ちでも何でもない。

 それを考えると、信長が、

「問答無用で、皆殺しにした」

 というわけでもないのだ。

 普通に考えれば、いくら神社仏閣といえと、いや、神社仏閣だからこそ、どこかの戦国大名に味方をするなどというのは、許されることなのだろうか?

 相手からすれば、相手が何であれ、自分たちの敵であれば、これを撃滅するのは当たり前ということだ。

 そうでなければ、中立が当然であろう。何も信長は最初から、宗教を敵対視していたわけでもないのに、相手が勝手に敵に回ったのであれば、やってられないと思うのも当然というものだ。

 そんな時代において、信長が、

「キリスト教を容認した」

 というのも、他の宗教には許せないことだったのかも知れない。

 ただ、信長が、どこまでキリスト教というものの正体を知っていたかということが問題ではないかと思うのだ。

 そもそも、当時のキリスト教を布教していた、本国をポルトガルにおく人種は、当時はちょうど、

「大航海時代」

 ということで、次々と新しい土地を発見し、そこで採れる産物の利益を得ようと、それらの国を次々に植民地にしていった。

 そのやり方として、

「まず、キリスト教を布教させ、そもそもの宗教と戦が起こり、それを仲裁という名目で、一気にその国を植民地にする」

 というやり方をしていた。

 東南アジア諸国が、ほとんど、植民地化していく。当時の信長がそこまで知っていたかどうかは疑問だった。

 だが、そういう意味で、キリスト教と、日本にいわゆる宗教とが直接衝突しないように、それを一手に引き受けたのが、信長だったのだとすれば、

「信長という男は、実に賢い男だ」

 ということになる。

 だが、時代背景という意味では、どこまでそれが正しいのかどうか、正直分かったものではなかったのだ。

 だが、それくらいのことを考えていても不思議がないのも事実で、

「内乱という意味でいけば、今もすでに戦国の群雄割拠という時代ではないか。この戦乱を収めることができるくらいなら、自分たちでやっているわ」

 とばかりに、当時の日本を侵略できるだけの国かとうか、分かるはずもないだろう。

 結局、日本は、

「植民地化するには、とても外国に手に負えるだけの国ではなかった」

 ということで、外国もきっと方向転換したことだろう。

 というのは、

「まずは貿易を盛んにすること」

 これは、国内が荒れていることで、容易にできることは考えられる。

 特に、武器弾薬など、鉄砲を中心として売れるのは分かっているからで、特にたくさん買ってくれる信長などは、

「大得意」

 だったに違いない。

 この時代において、貿易港である境をしっかり押さえている信長は、宣教師たちも扱いやすかったことだろう。

 他の大名の中にも、鉄砲に興味を持つ大名はいただろうが、そのほとんどを信長が独占していたので、

「天下取りは十中八九信長だ」

 ということを一番分かっていたのは、渡来人だったのかも知れない。

 そういう意味で、信長に天下取りの方法、あるいは西洋風の戦い方など教えたのも、彼らだったかも知れない。

 信長の数々の奇襲であったり、戦法は、宣教師からの入れ知恵もあったのではないだろうか?

「長篠設楽原の戦い」

 においての、いわゆる。

「鉄砲三段内」

 と言われる戦法も、

「舶来だった」

 と考えれば、辻褄の合うことではなかっただろうか。

 それを考えると、

「時代が信長を求めた」

 といってもいいだろうし、そこに君臨したのが、宣教師だったといってもいいだろう。

 しかし、信長は、志半ばで、

「本能寺」

 において、謀反に逢い、殺害されてしまった。(自害であっても、攻められての自害なので、殺害ということである)

 これも、うがった見方をすると、世間でもいろいろ言われている、

「本能寺の変の疑惑」

 というものが、出てくるのである。

 疑惑というのは、他ならない、いわゆる、

「黒幕説」

 である。

 よく言われているのは、まず、

「足利将軍節」

 15代将軍足利義昭は、信長の援護によって、上洛し、将軍に就くことができた。

 しかし、実際には、足利幕府再興を考える義昭と、

「足利幕府を利用する」

 としか考えていない信長との間に大きな開きがあっただろう。

 ただ、信長は、基本的には、足利幕府を立てて、自分は貿易で儲け、今の地位から、天下人の力を手に入れるということを考えていたのかも知れない。

 自分が将軍になるという考えを持っていなかったのは、その後の足利将軍追放の後も、その動きがなかったことで分かるというものだった。

 そういう意味での戦国大名は、果たして皆、将軍となって幕府を開くという考えでいたのだろうか?

 足利幕府を見ていれば、幕府を立てるということがどれほど大変なことか分かってくるだろうからである。

 鎌倉幕府にしてもそうだ。

 あれは、将軍よりも、執権が力を持っていたという特殊性があるが、執権がその権力を握るために、邪魔になる御家人たちを、片っ端から潰していったではないか。

 初めての武家による幕府政権。最初は源氏を担ぎ出したが、源氏の将軍が初代以外に弱いことが分かると、当初の考えであった、

「坂東武者の国を作る」

 という方に方向転換を行った。

 当時の執権であった、北条氏が中心になって、邪魔な御家人を、ことごとく潰していく。その後における、江戸幕府の、2代将軍秀忠、3代将軍家光の時代に行われた、いわゆる。

「改易騒動」

 に見られることではなかったか。

 そもそも、その悪影響が、

「浪人の大量出現」

 ということになり、街が、取り潰された家に仕えていた家臣たちであった。

 お家が取り潰されれば、失業するのは当たり前のことで、それが、その後の幕府の財政逼迫にも影響してくることになるのだから、あまりにも急激な改革であったり、方針というものは、いかに危険を孕んでいるかということであった。

 もっとも、それだけ戦国時代というものが、激しい群雄割拠の時代であったのかということを物語っている。

 それを思うと。

「元和堰武」

 といって、戦国時代の終焉を宣言した時の家康は、誇りに思っていたことだろう。

「ひょっとすると、家康の最終目標はそこにあったのかも知れない」

 と思える。

「徳川の世を盤石にする」

 というのは当たり前のことであるが、それだけであれば、これまでの天下人ができてきたことだった。

 しかし、秀吉もあれだけ平和な時代であったにも関わらず、たった1代ですぐに戦国の世に戻ってしまった。

「死後の混乱が収まらなかった」

 というのも、その一つの理由であろう。

 そんな時代を超えてきて、この城は江戸初期に建てられたもの。元々、

「天守は存在した」

「存在したが、幕府に配慮し、取り壊した」

「最初から存在しなかった」

 などと言われているが、実際には天守台も残っていることから、2番目の説が有力だ。自治体は、模擬天守としても、再建の意思はないようだが、天守台もあることからもったいない話でもある。

 ただ、それ以外の遺構はいくつか残っていて、西の守りの城門もしっかり残っていることだけでもよかったといえよう。

 そもそも考えれば、このあたりは大東亜戦争の大空襲で、ほとんどが焼け野原になっていたという。城址も完全に空襲の範囲に入っていたのに、それでもいくつかの櫓が無事だというのもすごいものだった。何しろ、

「ほとんどの建物が焼夷弾で燃え尽き、学校も、10校ほどあったものが、残ったのは、2校くらいだ」

 というから、かなりのものだったようだ。死者は1000人に満たなかったというが、ほとんどの人が焼け出される結果となり、復興も大変だったことだろう。

 それでも城が残ったことは、市民に勇気と希望を与えたのではないかと思うと、その役目は大きなものだった。

 そんな城門が残る中で、死体が発見されたのは、早朝のことだった。

 城址公園は、二つに大きく別れていて、ランニングコースになっているのは、外堀側で、そっちには、

「城だった」

 というものはほとんど残っていない。

 完全に、池になった部分は、市民の憩いの公園になっていて、池の上ではボートを楽しんだり、途中には浮御堂のものがあったり、池の中を通れるようになった道があることから、丹後宮津の、

「天橋立」

 を思わせる。

 さらに、一番奥の方には、日本庭園と、美術館があり、ひょっとすると日本庭園が、昔の城下を彷彿させるものとなっているのではないだろうか。

 そして、外堀から、中に入ったところに一本道を挟んだところが、いよいよ、城下町というところか。武家屋敷跡の曲輪であったり、三の丸、二の丸、本丸跡を、残っている石垣に、昔を思わせながら歩いていくと、いよいよ天守台がある。

 さすがに天守台に登ると、街が一望でき、その展望は、天守がなくとも、素晴らしいといえるだろう。

 それだけに、

「天守があれば、どれほどのすばらしさか」

 と思わせるほどだった。

 問題の門は、三の丸から、少し北に、数十メートル言ったところにある。

 そこが、内堀から入った最初の門であり、城の北の守りの要と言われるところであった。

 その横には、見張り番となる櫓も残っていて、

「ある意味、ここが、一番城と言える雰囲気を醸し出しているところかも知れないな」

 と感じさせるところだった。

 それでも、門を超えて少しいくと、官庁街が広がってはいるが、その官庁に社宅のようなところがあるのか、住民も結構いるようだった。その死体の第一発見者は、そんな住宅からの散歩の人だったのだ。

 元々、法曹関係の事務員をしていたのだが、定年退職し、

「ずっとこのあたりに住んでいたので、いまさらどこか他の土地にいくのも、嫌だからな」

 ということで、このあたりで余生を過ごしていた。

 そして、早朝は運動にと、城址公園を歩くのが日課だったのだ。

 さすがに、湖畔公園の外周をジョギングするほどの元気はない。

「わしも、十年くらい前だったら、ジョギングをしたものを」

 ということであったが、50歳を超えた頃から無理をしないように、散歩に変えたのだ。

 それも、大きな近くの城址公園であれば、適度な坂道もあるので、ゆっくりと歩く散歩コースにはちょうどいい。

 昔は天守台も登っていたが、今はそこまでの気力もない。三の丸を軽く回ったところで戻ってくるのが関の山だった。

 その日もいつものコースを歩くつもりで、通称「北の門」に差し掛かったところで、ふと、何か黒いものが落ちているのに気が付いた。

「あれ?」

 と感じたが、最初は、何かシートのようなものが落ちているのかと思ったが、近づくにつれて。何か見覚えのあるものに感じられた。急に背筋に寒気を感じ、それが人間であると気づいた時には、情けなくも、その場から立ち去りたい気分に陥ってしまったことを後悔していた。

「やっぱり人だ」

 と思うと、その場から立ち去れなくなったと思うと、思わず誰かに助けを求めようと思ったが、この時間歩いている人は、なかなかいない。それを思うと、勇気を出して近づくと、果たしてそこにいるのは、やはり人だった。胸を刺されているようで、ビクともしない。動けないその状態で横を向いて倒れている、

「とにかく、警察」

 と、そう思い、急いで警察に連絡したのだった。

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