第6話

 三時間後。


「ずいぶん、サッパリしたな」

「はい」


 井堤のうれしそうな言葉に、斎藤は素直に頷いた。

 ロッカールームに入りスーツの上着に袖を通すと、スーツに染みついた、つんと鼻につく饐えた悪臭に体が丸ごと包まれる。

 おざなりに洗濯したスーツ、シワだらけのシャツ、ヨレヨレのスボン、金具が劣化したベルトに、忘れていた疲れ切った自分の姿に、浮かれた気分が一気に落ち込んだ。


 オレは、この現実に帰ってきたんだ。


 だが、不快感で思考がぐらついたのは一瞬であり、精神は一本の線が通ったかのように安定している。

 井堤の方は、ロッカーに備え付けられている体拭きシートで、身体についた食べかすを拭き、消臭スプレーでスーツに付着している匂いを落としていた。


「お前も変な遠慮をしないで積極的に使え。今は大丈夫でも、スーツの匂いがだんだん気になってきて、家に着くころには、スンゲーげんなりしてくるぞ」

「は、はい」


 斎藤は言われるがままに、スーツを脱いで半裸になり消臭スプレーを吹きかける。鼻腔をくすぐるミントの香りと清涼感のおかげが、再び袖を通すといくぶん気分がマシになった。そのまま横にある洗面所で顔を洗い、化粧水と乳液ですぐに保湿をすると、鏡に映る自分の顔がサッパリとして、見ているだけで気持ちが良くなり、自然と口角が持ち上がっていく。


「改めて、スゴイですね」


 ロッカーの中にあるのは、体拭きシートや消臭スプレーだけではない。手触りの良いタオル、化粧水に乳液、電動カミソリに、洗口液から消臭ガムまである。犬になる前は疲労感でじっくり観察する余裕がなかったが、ロッカールームの豊富なアメニティグッズや、出された食事、犬になった時に着ていた半袖半パンも、かなり良い素材が使われていた。


「あぁ、この洗口液をアマゾンで買おうとしたら、一番小さいサイズでも一本1000円を余裕で超えていたんだ。まったく、どれだけ金をかけているんだか」

「……その、失礼を承知ですが、この店の料金はいくらぐらいなんですか?」

「三時間コースで一人一万円」

「へ?」


 ぼそりと零された言葉に、見えないバッドで頭を叩かれた衝撃が走った。

 腕時計を見たら、ここに来て三時間――終電ギリギリの時間だ。

 しかも、おごるということは、井堤は二万円を出費したことになる。

 上司とはいえ部下一人に、二万円をポンと出す余裕なんて無いことぐらい、斎藤でも察することはできた。


「その、ありがとうございます」

「いいって、そんな青い顔すんな。それに新規会員を紹介すれば、お前はタダで、紹介した俺は半額サービスが適用されるんだ。お前がテストに合格できることも確信していたしな」

「な、なんだ〜」


 そうなると井堤が払う金額は五千円。

 おごりだと言っても通常の料金の四分の一で済む。

 軽い口調で説明されて気分が楽になった斎藤は、井堤の心遣いと計算高さに内心で苦笑した。


「ありがとうございます」

「いいってことよ。斎藤君がこのままストレス溜めて、会社うちを辞められても困るし、俺も十分に楽しめた。次のボーナスが出たらまた行こうな」

「はい」


 だが、いつも現実は無情だ。

 一ヶ月後、井堤によって【いぬカフェ】が閉店したことを報らされた。どうやらボーナスまで待てなかったらしいのだが、上司の尋常ではない落ち込みように斎藤はかける言葉が見つからず、さらに数日が経過した休日の午前中に、刑事たちが聞き込みで斎藤の家にやって来た。


 

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