第43話 エメリーのお勉強

 エメリー強化月間が始まった。

 ユキメに嫌われた状況を改善しようと全てをぶちまけたエメリーは乙女であることが発覚。ユキメもどこか困ったように許し、協力してくれることになった。

 何でも気になっている人間の男がいて、彼の前で普通の人として話すために妖術の腕を上げたいらしい。

 そう聞けば盛り上がるのは女性らしい。最初はどこかあきれたような様子を見せていたシトラスも協力する姿勢を示し、第一回、テルセウス妖術講義が始まった。

 エメリー講義ではないのは、その受講生にミネルバもいるから。どこか居心地悪そうにエメリーの隣に座るミネルバが僕にジト目を向けてくるけれを気にしない。


「そういうわけで、人化の術を向上させるための授業を始めるよ」

「……向上だけじゃないだろ」

「そうだった。向上、あるいは、覚えるための授業だね」


 ミネルバの冷え切った声に慌てて訂正する。元々教えていたミネルバへの指導が片手間になってはいけない。ただ、ミネルバの方は正直どうすればいいのかわからない。これまで手を変え品を変えて教えてきたけれど、正直妖術の発動であまり困ったことのない僕の指導はミネルバには不十分らしいのだ。

 これが、優等生は先生に向かないということなのだと思う。


「……というわけで、まずは妖術、そのエネルギー源になる妖気からかな」


 妖気、それは妖が妖であるための条件。元が生物であれ無生物であれ、妖気を浴びた存在は妖となる――というより、妖気に染まったものが妖になる。


「自然界には妖気が存在して、それを一定量吸い込んで妖気によって在り方がゆがんだ存在が妖となるわけだね。そういうわけで、妖気には二種類あるんだ。僕たちの体の中にある妖気と、自然界にある妖気。まずはこのどちらかを感知できるようになることから……なんだけれど」


 ちらとミネルバを見れば、クルクルと首を回して答える。

 そう、ミネルバはこの始まり、妖気を感じるというところができなかった。どう指導してもダメ。まるでセンサーがないみたいに、彼は妖気に気づけない。ミネルバの体に僕の体内にある妖気を流し込んでみてもダメだった。

 そういうわけで、ここからはシトラスにバトンタッチ。僕とミネルバはいつものように妖気を感知できないか格闘を始める。


「方法は大きく分けて二つ。まず、他の妖に強い妖気を体に送り込んでもらおうこと。相手の妖気に反応して自分の体の中に熱が生じる。そこに妖気がある」


 言いながらシトラスは体の中の妖気を活性化させて術を発動、黒猫姿に戻ってニァと鳴く。

 俊敏な動きで跳んでエメリーの机の上に乗り、今度はエメリーの手の平に自分の肉球を押し付ける。

 そこから妖術を流し込む。

 目を閉じてその熱を感じるエメリーの集中を阻害しない程度に、僕は小声でミネルバに話す。


「それで、二つ目が妖気のこごった土地に足を運ぶことだね」


 呪われた土地、あるいは吹き溜まりのようになった土地。そういう妖気が集まった場所で、肌にチクチクと何かが刺さるような感覚。あるいは不快感とでもいえばいいのか。それは、濃度の大きな妖気に体が反応している証なのだとか。

 とはいえ、この選択肢はあまり好ましくない。それというのも、妖気にはその者の在り方をゆがませる力があって、そのせいで妖気に心が飲まれるようなことが起きかねないから。

 だから呪われた土地のように負の側面が強く表れた妖気がたまった土地に向かうとそれに影響されて心がおかしくなるし、特に体内に妖気を宿す妖はそうした土地からの悪影響を受けやすい。

 そうして妖気に心を侵された神は特に禍津神と呼ばれて、討伐の対象とされる。それは、人間に迷惑をかける妖――妖怪よりも真っ先に討伐、そして消滅の対象になる。


「呪われた土地の妖気、なぁ……そんなにひどいものなのか?」

「新米神様研修でそうした土地に足を運んだことがあるけれど、それはもうひどいものだよ。こう、空気が粘り気を持っているような感じで、体にまとわりついてくるんだ。意識をしっかり保っておかないと、息を吸うたびに頭痛がひどくなって、やがて幻覚を見ることになって、そこの妖気に身も心も染められて狂うよ……正直、僕も駄目になりかけたよ」

「いや、ダメだろ」


 うん、ダメなんだよ。だからそうした土地には神様は近づくべきではないし、妖気を散らすために、神様は人の手を借りることもある。

 そうして神様の協力を得て妖術を振るう人のことを陰陽師というのだけれど、最近では陰陽師も一枚岩ではなくて大変な感じ。

 力を持った陰陽師が神に背いて妖を消滅させようとしてトラブルになったり、あるいは危険な封印を解いて騒動を起こしたり、そういった話は枚挙にいとまがない。

 まあ、人間っていうのははた迷惑な存在なのだと理解していればいい。人間だった僕としては少し肩身が狭い思いなのだけれど。


 そんなことを考えながら、今日もミネルバの額に指をあて、そこから圧縮した妖気を流し込む。生命神の僕は体内に宿す妖気の量が多いらしくて、妖によってはただ妖気を体内に送り込まれるだけで「妖気酔い」をするらしい。こう、お酒を飲みすぎたときみたいにぼうっとして、前後不覚になるんだとか。

 そのはずなのに、どれだけ妖気を送り込んでも、ミネルバは妖気も悪寒も感じられないみたいで目をしばたたかせるばかり。


「……うーん。やっぱり駄目かぁ」

「なぁ、もっと他の方法はないのか?」

「僕が知っている限りはないよ。ただまあ、例えば人間の間には僕が知らない方法もあるのかもしれないけれど」

「もう一つある」


 神様から教わった内容はすべてだ。だから僕はそれ以上の方法を持っていないのだけれど――エメリーへの指導にきりをつけたらしいシトラスが再び人化し、とてとてと僕たちの方に歩いてきて言う。


「……何だ。ハクトが無知なだけかよ」

「違う。ただ、あまり知られていないだけ」


 手をつつかれそうになって回避する僕をよそに、シトラスはマイペースにあくびをする。話をせがむミネルバをじっと見つめるシトラスは、なんだか少しだけ怖く見えた。


「妖気は、感情の影響を受ける」


 ああ、それは覚えがある。例えば僕がかつて絶望して禍津神になりかけた時、体内の妖気も感情に触発されるように活性化した。

 つまり、強い感情は時に無意識に妖気を動かしうる。もっとも、それは妖気の制御が利かなくなるという危険性も含んでいるのだけれど。


「だから例えば、死への恐怖に触発されて妖になることがある……私みたいに」


 ただの猫だったエメリーが、死んだと思ったら妖になっていたように。九つの命を持っているために死を繰り返す猫は、そうして死に触れる回数が多いから妖になることが少なくないらしい。

 とはいえ、僕はシトラス以外の猫又は見たことがないから、実際にどれくらい頻度が多いのかは知らない。


「……つまり、なんだ。臨死体験でもしろってことか?」

「別に恐怖以外でもいい。例えば心から怒ったり喜んだり悲しんだり……そうしたことでも体内の妖気が活性化する、かも、しれない?」


 こてんを首をひねる。まあ、無表情で淡々と告げる言葉からはあまり説得力は感じられない。とはいえ喫茶テルセウスの最古参であり、おそらくは僕たちの中で最も長い時を生きたシトラスの知識だと思えば納得できる。


「……つまり、心臓が飛び出しそうになるくらい驚かせばいいのかな?」

「やめろよ。冗談じゃねぇ」

「でもそうすれば妖気を感知できるようになるかもしれないよ?」

「ふざけんな。妖気が活性化するだけで、感じられるってのとはまた別なんだろ?」

「まあそれは――」

「やったわ!」


 続く言葉は、すぐ隣から響く歓声にかき消される。

 びくりと肩を震わせて横を見た僕たちの目に映ったのは、真っ黒な髪をしたエメリーの姿だった。黒髪になるだけでずいぶん印象が違って見える。目や眉なんかは緑だから、エキゾチックさが全面に出ている。


「……もう成功したの?」

「シトラスがやったように、妖気を送りこんで妖術に干渉してみたの」

「ユキメってすごいのね。私の術を補強して髪を黒くできるなんて!」

「…………」


 ミネルバが死んだ目で僕をにらみ、テーブルの上に置いていた手のひらをつついてくる。


「痛い、痛いよミネルバ」

「……やっぱり指導者が無能なんだろ」

「じゃあユキメに代わってもらう?」


 しばらくして承諾したミネルバを、今度はユキメが指導する。僕はエメリーのサポート。相手の妖術に干渉するというのはなかなか難しかったけれど、コツをつかんでしまえば意外となんとかなった。何しろ僕たちは普段から妖術を発動しているわけで、相手の妖気の流れを自分の妖気で縛ってあげる感じでやってあげれば、色を変えることができた。

 そうして補助されて色彩を変えることを覚えたエメリーは独力で日本人らしい外見に変化できるようになった。


 喜ぶ僕たちをよそに、ミネルバは闇をまとっていた。

 本日の彼の成果はゼロ。いまだにミミズク姿のままのミネルバは、ふてくされたのか、その場に顔から倒れこんでテーブルの天板の上を転がった。

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