第38話 空回り
「……何をやっているのかしら、あの子たち」
視界の先、夏の暑い日差しに負けることなく、二人の人間が公園の狭いスペースを走り回っている。
まるで親子のように見える二人が実際に親子、しかも小さな女の子の方が母親だと誰がわかるだろう。
スズは私の娘。でもそれ以前に、ハクトの母だった。普通の狐として彼を生んだスズは、人間に殺されて死んで、転生を果たした、らしい。突拍子もない話だと、今でもそう思う。
正直、その告白を聞いた当時はただ目を回すばかりだったし、理解できなかった。ネットかどこかから話を拾ってきて、自分のことのように語っているのだと、そう思いたかった。
けれど、かつて亡くなった息子の姿をした男の存在が、そんな摩訶不思議な現象を肯定していた。
ハクト。
死んでしまったあの子と同じ名前の、容姿に面影を残す青年。私が初めて会った時にはまだ幼さの残る容姿をしていたけれど、たった一年ほどでぐんぐんと背が伸び、病的だった体に肉が付き、健康に成長していた。
まるで、本当にハクトが成長したようだった。
ただ、そのせい成長速度は人間のものと思うにはやや早すぎて、何より目の前で変化とやらを見せられてしまっては、もう言い逃れはできなかった。
それから、人語を話す動物や神様を名乗る存在を見てきて、私はようやくこれは現実なのだと悟った。
妖――そういう存在が、世界にはいるらしい。
そして、私の息子だったハクトは、妖狐という妖に転生して、可愛らしい妻を娶って、しかも神様として勉強をしているのだとか。
もう情報が多すぎてめまいがする。
けれどまあ、そういうものだと思うしかない。わたしはただの人間。風に揺れる柳のように、周囲に翻弄されるちっぽけな人。
だから、それでいい。それでいいのだけれど――
「本当に、何をしているのかしらね?」
目の前で繰り広げられる行為に頭痛を覚えて頭を押さえる。
二人が真剣なのはわかっている。そして、楽しいのもわかっている。
私の前ではめったに見せない幼い顔をして笑っているスズを見れば、もうどうにでもなれと思ってしまう。うれしくて、寂しくて、少し悲しくて、胸がいっぱいになる。
ただ、どうしても突っ込みを入れたい。
目の前の二人はダンスをしているらしい。狐の求愛のダンス。
なるほど、かつて母狐だったというスズは教え役として最適に思えるのかもしれない。
けれど、今一度考えてほしい。
今のスズは人なのだ。前世とかは抜きにすれば、ただの五歳の女の子なのだ。
で、そんな女の子と成人前後の青年に見えるハクトが鳴き交わして?急ターンを含んだ追いかけっこをして?最後に二本足で立って腕を組んでくるくると回る?
それって、遊んでいるのと何が違うの?鬼ごっことか追いかけっこをしているようにしか見えないのだけれど。
二人が喫茶店で話していることを聞いてネットで調べてみたけれど、狐の時の求愛のダンスだってじゃれているようにしか見えない。
ましてや、今の二人は人の親子にしか見えない。これが求愛の踊りだと誰が理解できるだろう。
ああ、可愛い。
……ダメ。
スズは可愛いけれど、ハクトに可愛いなんて思ってはダメなのよ。
だって、今のハクトはもう、私の息子ではないもの。ハクトは、死んでしまったの。もう、あの子は生きていないの。そう、理解したはずなのに。
込み上げる悲しみと歓喜が心の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。
ハクトが生きていてくれてうれしい。たとえ化け狐だろうと、幸せそうでいてくれてうれしい。そう、うれしいのだ。ハクトが目の前にいるだけで、胸がいっぱいになるのだ。
けれど、だからこそ悲しい。
もしハクトが生きていたら、自分の息子として成長していく彼が見られたら、いつかこんな風に、笑顔で笑って、娘と遊ぶような彼の姿を見ることができたのだろうか。
ユキメさんのような可愛らしい奥さんをもらって、幸せになると宣言する彼が見られたのだろうか。
その可能性はすべて潰えて、けれど今の彼は幸せそうで。
なんて声をかければいいのか、わからない。
生きていてくれるだけでいいわ?私はあの日、彼を拒絶したのに、今更?
好きに生きなさい?もう私の息子でもない彼に、一体私は何目線でいるのだろう?
そういう意味では、少しスズがうらやましい。彼女は今もハクトの母でいるつもりで、そして何より、数奇な運命のもとで事情を理解できる私の子どもとして生まれたために、こうして今生でもハクトとかかわれる。
自分の子が変わっていると知った時には少し恐ろしくなったけれど、今では子育てが楽でありがたいくらいだった。時々、他の子より強いなぜなぜ攻撃にさらされる大変さはあるけれど。
「……そろそろ休憩しなさい」
はーい、と元気な声が返ってくる。
汗だくになった二人が駆け寄ってきて、スズはいそいそとよじ登って私の隣に座る。
ベンチの中央に座っていた私の隣は、人が座るには少し狭い。正確には、距離を取って座ることができないくらいの狭さ。肩が触れ合うくらいの距離。
その距離に、ハクトは座ることをためらっているようだった。
その心が、あり方が、私と彼の隔たりだった。私が作ってしまった距離だった。
もしあの日、家を訪ねてきたハクトを迎え入れていたら、何か変わっただろうか。
ユキメさんに謝罪をしたとき、「あの出来事が私たちの関係を進める一助になったお礼を言いたいくらいなの」なんていわれたけれど、本心ではないだろう。
あの日、私はハクトを傷つけた。
そして今も、謝罪できずにいる。
ただ、それでも。今ハクトに離れていってほしくないのは確かで。
ハクトとの関係をこれからも続けていきたいと、確かに私は考えていた。
「ハクト、座らないの?」
「……座るよ」
スズに言われたハクトが隣に座る。
彼からわずかに香るのは、私の知らない匂いだった。抱きしめた幼い少年とは違うにおい。
それが、どうしようもなく、ここにいるハクトと私の息子のハクトは同じではないと突き付けて、悲しくて仕方がなかった。
「……お母さん?」
「なんでもないわ。ほら、水を飲みましょう?」
人として私のことを母と慕ってくれるスズに涙は見せたくない。
何とか取り繕って告げた声は、けれど心なしか震えていた気がした。
「それで、僕のダンスはどうだった?」
「それなりにできていたけれど、課題もあるわ。例えば、急ターンにキレがないところね」
「なるほど。ターンにキレが……他はどう?なるべく誘うような鳴き声にしたつもりだったけれど」
「ええ、ムズムズしてしまったわ。なんて色のある声を出すのかびっくりしたものよ」
私を挟んだ会話に目がくらくらする。全く違う価値観のもとに進められる話の内容には、思わず耳を疑うようなものも多い。ともすれば滑稽にしか見えなかったあのじゃれあいも、ちゃんとダンスとして成立していたらしい。だとすれば人のダンスは、二人からするとダンスではないのだろうか?もしや、スズは今後学校のダンスで苦労するのだろうか。
スズのさらなる指摘にふんふんとうなずいていたハクトは、しばらくして少しためらいがちに私へと視線を向ける。
「あの、客観的にみて、僕のダンスはどうだった?」
「…………」
これは、どう答えるのが正解なのだろう。
じゃれているようにしか見えなかった?変質者が少女を狙っているようだった?ただおふざけで鳴いているようにしか聞こえなかった?
違う。こんな声は求められていないはず。
じゃあ、どう言えばいいの?どう評価するのが正しいというのよ?
「……ごめんなさい」
「なんで、あなたが謝るのよ」
びっくりしたように勢いよく顔を上げたハクトが、まん丸に見開いた目で私を見る。そんな顔をさせているのが自分だと思うと悲しかった。これまで、私がどれだけハクトと距離を取っていたか、どれだけハクトに悩ませたか。
今だ、今、話をすればいい。まだ間に合う。でも――
声はのどに引っかかって出てこない。頭の中は真っ白で、怒涛の如く揺れる感情だけがぐるぐると渦巻いていた。
「……大丈夫よ」
小さな手が、私の手を握る。汗ばんだ手。子どもの熱を帯びたそれが、混沌にある私の思考に一石を投じる。
大丈夫――その声を心の中で繰り返して、深呼吸して気持ちを落ち着ける。
本当に、情けない。自分の子どもに落ち着かせられるなんて。
「……その、ごめんなさい」
「え?」
そうよね。たぶん、ハクトの中ではすでに終わったことだったのよね。わかっている。この謝罪が私の自己満足であることなんてわかってる。
ただ、それでも、私が前に進むためには、過去の清算が必要なのだ。器用じゃないと笑ってくれてもいいから、ただ、この謝罪を受け取ってほしい。
そうして、一人の人間として、あなたと突き合わせてほしい。
「あの日、あなたにひどいことを言ってごめんなさい。拒絶してごめんなさい」
お母さんなんて呼ばないで――耳の奥、あの日の言葉がよみがえる。
そう告げた時の、ハクトの絶望した顔が、瞼の裏によみがえる。
後悔していた。彼が去って行ってからも、扉に背中を預けてうずくまったまま、しばらくそこから動けなかった。
別に、夢だって、そう受け入れてもよかったはずだったのに。新しい家庭を守ろうと必死だった器の小さな私は、ただそれだけのためにハクトに絶対に行ってはいけない罵声を浴びせた。
「許されないことをしたと思っているわ。許してもらおうとも思っていない……ただ、謝罪を受け取ってほしいだけなの。そうして、これからもスズと仲良くしてあげて」
「えっと……うん。許すよ。そもそも、怒ってもいないんだ」
ああ、そうだ。ハクトは、こういう子だった。
おおらかで、どこか浮世離れしていて、懐の広い子。その代わり、本当に大切なことは胸の奥にしまい込んでしまう、生きづらい人。
健康に、生んであげたかった。ハクトが望むように、元気に友達と駆け回る体を上げたかった。
「ごめんなさい」
全部を込めた謝罪に、気にしないでとハクトは笑う。
僕は今、幸せだからと。これまでの全部があったから、僕はこうして笑っていられるんだと、そう、心から告げていた。
「それに、スズと再会できたのだって、お母さんが生んでくれたからなんだよ」
「そう……そう、かもしれないわね」
スズが私の娘として生まれたのも、きっと偶然ではないのだろう。私の心が、運命を手繰り寄せたのかもしれない。
ハクトと再会したいという、かつての願いを叶えてくれたのかもしれない。
込み上げる涙は、そっと腕にくっつくスズの熱を感じて、もう止めることはできなかった。
ああ、と思う。
ああ、幸せだなと、そう思う。
スズが居て、ハクトが居る。
一人はもう私の子どもではないし、もう一人は子どもと呼んでいいのか迷う精神性をしている。
けれど、そんな二人が今、私と一緒にいてくれる。
他人を思いやることのできるやさしい子たちが、私を慰めるべく、両手を握ってくれている。
あふれる涙は、心の中に凝っていた感情を洗い流していってくれる。
だからだろうか。涙が止まったその時、世界がやけに澄んで見えたのは。
「もう大丈夫?」
「ええ、スズ、ありがとう」
「いいのよ。悲しいときには泣くのがいいわ」
だからちゃんと言ってね、とそう告げてお腹に頭をぐりぐりと押し付けてくるスズは大人で、けれど子どもだった。
「そろそろ暑さも厳しくなってきたし帰る?」
「そう、ね。ごめんなさいね、時間を無駄にしてしまって」
「そんなことないよ。今日、ここに来てよかったと、心からそう思うよ」
笑いながら告げるハクトが立ち上がろうとして、けれど手が固くつながれたままで困ったように手を見る。
「サツキ?そろそろ離してもいいよね?」
「あら、またお母さんと呼んではくれないの?」
「……え、僕、そう呼んでた?」
「そうよ。さっき、しっかりこの耳で聞いたわ。ねぇ?」
「はっきり言っていたわね。……少し、嫉妬してしまいそうよ。」
自分のことはお母さんと呼んでくれないのか――手を離したスズがハクトに詰め寄る。逃げ出そうにも、彼は私と手をつないだままだから身動きが取れない。
スズにつかまって何故だと何度も尋ねられている二人は、確かに親子に見えた。
相変わらず、立場が逆だったけれど。
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