第7話 化け狐師匠
化け狐、というらしい。
それは僕や彼女のように、狐としての余命を明らかに超えた長い時を生きる狐の総称だった。
そう、彼女は僕と同じように、長い時を生きた。
その健脚は衰えることを知らず、その純白の毛皮の艶は年々増していった。彼女はより美しく、より艶やかになっていった。――となりにいるだけで、僕がどきどきしてしまうほどに。
対して僕は、ほとんど何も変わっていなかった。
彼女の横に並ぶのが恥ずかしくなるほど、狐として平凡な外見。最初は自慢でもあった自分の知識や思考力も、ある程度の時を過ごせば、彼女に追いつかれ、最近では彼女のほうが賢い気がすることも多い。
つまり、僕は彼女に全く並び立てない平凡な狐で。
それを意味するように、僕と彼女の関係は、ただの腐れ縁であり続けた。
バシィンという音と同時に、体にぴしりと軽い痛みが走る。
ハッと意識を現実に引き戻した僕は、再び瞑想に励む。
遠くから怒号が聞こえるが、それに惑わされてはいけない。
そんなことをすれば、彼曰く「愛の鞭」が再び僕を襲うことになるから。
――僕たちが今どこで何をしているかといえば、修行中である。
あれからあちこちを旅して、そして彼女もまた僕と同じように化け狐とわかって、けれどそれで何かが変わるということもなく、僕たちは各地を転々としていた。
そんなある日、僕たちの噂を聞きつけた一匹の狐が、僕たちの前に舞い降りた。
はじめは、そいつのことを敵だと思って、僕は正確に威嚇した。
何しろそいつは、人間の姿をしていたから。
ああ、また真っ白な彼女の毛皮を狙った不届きな人間が襲ってきたのかと、そう思った。
彼は、まるで仙人のような長い白髪を無造作で後ろに結んだ爺さんの姿をしていて。
これまでの欲に目がくらんだ者たちとは明らかに人種が違うと、僕はそう認識することはできなかった。
その男は、強かった。
手に握る木の棒を武器に、実に簡単そうに僕のことをあしらった。
長い旅の中で僕だって戦って強くなったのに、だ。今ならもう死んでしまった兄や姉たちにも喧嘩であっさりと勝利できるほどには強くなっていて、けれど男に勝てるとは少しも思えなかった。
男は、まるで僕の心を読んでいるように、僕が動く前から行動を開始し、最小限かつ低速な動きで僕の攻撃をすべて回避して見せた。
そして、僕の進路上に置かれた棒が、何度も僕の体にぶつかった。
息が切れて、けれどこのまま逃げるのもダメだと、僕は奥の手を出すことにした。
ふん、と体に力を入れれば、まるで全身が沸騰するように熱に包まれ、体からとてつもない力が湧いてくる。
名前もないこの奥の手をもって、僕は全力の体当たりを男に対して繰り出した。
男は、避けなかった。
わずかに驚いたように目を見張った彼は、けれどその場にどんと構えると、なんと僕のことを受け止めて見せた。
その枝のような細い手の一体どこにそれだけの力があるのか、僕には全く分からなかった。
つかまれて身動きが取れなくなった僕は男に投げ飛ばされて地面に転がり、そこで僕の意識は途切れた。
「まったく、せっかちな奴め――」
意識が闇にのまれる瞬間、そんなしわがれた声が聞こえたような気がした。
その男は、目が覚めても僕たちの前にいた。彼は真っ白な彼女をとらえることも、彼女を殺してしまうこともなかった。
大変興味深そうに彼女を見るばかりで、その体に触れようとすることもなかった。
その距離感に安心したのか、僕の旅の連れも地面に伏せてしっぽの毛づくろいにふけっていた。
そして僕が目を覚ましたことを確認するなり、男はぼふんと体から白煙を吹き出し、そして茶色い毛皮の狐へと姿を変えて見せた。
「コン!」(見よ、これが変化の術よ!)
ふふんと背中をそらして胸を張って見せる男に対して、僕と彼女はぽかんと目を開けたまま体を硬直させた。
その反応が心地よかったのか、彼は偉そうにふむふむえへんと言って、それから僕と彼女にこう提案したのだ。
わしの下で術を磨かんか――と。
男――改めその化け狐の名を、八代といった。山あいに存在する小さな神社の神様をしていると言っていた。その自称を、僕たちはどう受け止めていいかわからなかった。
けれどまあ、変化の術なんてものを使える八代は、神と呼んでも差し支えないすごい奴だった。
彼はなんにでもなれた。
人間にも、熊にも、イノシシにも、猿にも、鳥にも、虫にも、魚にも、草にも。
そのすべてになることができて、けれどそれだけでしかないのだと、彼は笑った。
彼は、化け狐としては優秀な部類で、けれど優秀止まりだという話だった。
真の強者たる化け狐たちは、その肉体の能力を大幅に引き上げたり、想像上の怪物に変化したり、狐火という特殊な炎を生み出したり、するそうだ。
変化の術を含めたそれらの術を妖術と呼び、そして化け狐の中でも妖術を巧みに使いこなせる個体を、妖狐というという話だった。
八代は続けて言った。僕たちには、妖術の適性があるのだと。
僕は肉体強化の妖術、真っ白な彼女は幻惑の妖術に適性があるという話だった。
肉体の強さを強化できる僕の力は、僕自身にしか効果がないもので。
けれど彼女の妖術は、妖狐の変化の術のように、自分以外のものを別の姿に見せることができるのだという。
僕と彼女は話し合い、そして最終的に八代のもとで特訓を積むことに決めた。
何より、八代が深く頭を下げてお願いしてきたからだ。
どうか、狐と人間の関係を引っ掻き回さないでくれ、と。
八代の話によると、各地で僕と彼女の噂が広まっているそうだ。
曰く、白と橙の狐たちは世界を駆け回り、そして欲目を向けた人間たちを惑わし、森の中で迷わせる――と。
実際、僕たちにはその噂に覚えがあった。
彼女の毛皮を狙ってくる欲深い者たちを、僕たちは森を疾走して、迷わせたこともあったから。
その噂は、狐たちのイメージを悪くさせるもので。
だから八代は、僕たちが変化の術を覚えて人間に混ざることで、悪い狐の噂をなくしたいと言っていた。
――人間の中で僕たちが悪い狐と言われていることが、どうしてか僕はひどく悲しかった。
化け狐師匠は、厳しかった。
妖術を行使するには精神の強さが必要であるという話で。
僕たちは長い時間瞑想を続け、滝に打たれ、針山の上に乗って痛みに耐え、恐怖を押し殺して火を飛び越えた。
師匠は何度も鞭を鳴らして、僕たちを怖がらせにかかった。その程度で心揺さぶられていては、変化の術はすぐに解けてしまうという話だった。
だからと言って、僕ばかりに鞭が飛ぶというのはおかしいと思うのだ。
確かに彼女の精神統一は目を瞠るものがあって、丸一日瞑想をしていた時などは本当に他ごとを考えずにいられているのかとても気になった。僕はといえば、彼女の隣にいるというただそれだけのことで、心臓がばくんばくんと鳴っていたのに。
――だからまあ、僕の精神力の修行は、鞭で叩かれる日々だったと、そう語っておこう。
変化の術は、妖術を使うためのエネルギーである妖気とやらを体内で活性化させて行使するという話だった。
すぐにコツをつかんだ彼女とは違い、やはり僕は変化の術を成功させるため、かなりの時間を必要とした。
そして、見たことのあるあらゆる存在に変化できるようになった彼女とは違い、僕はただ一つの姿へと変化することしかできなかった。
病的にやせ細った手足に、青白い肌、やせこけた頬に艶のない黒髪。それは、病院で死んだ、かつての僕の姿だった。
師匠は不思議そうに、どうしてそんな気味が悪い人間の姿にしか変化できないんだと、そうつぶやきながら首をかしげていた。
気味が悪いなんて表現は、どうかと思うんだ。
だって、これは僕という存在の姿なのだから。
魂に刻まれた僕の姿なのだ。
だから、その姿を気味が悪いといわれるのは、僕自身のことを気味が悪いといわれているようで、不快だった。
とはいえ変化の術を使いながら食事をしていけば、人間形態の僕も健康的な姿に変化していった。
それはどうやら、僕のイメージにあるらしくて。
山を歩きまわり、日に当たり、十分な食事をしていれば健康的な外見になるのは当然だという僕の思いが、変化の術の姿を健康的に変えていた。
ああ、そういえば変化の術を使った際の彼女の容姿についても話しておくべきだろうか。
彼女は、大和撫子という言葉がふさわしい、楚々とした美しい女性に好んで変化していた。濡れ羽色の長い髪に、黒真珠のような不思議な輝きを持った瞳。ピンクの唇やわずかに赤みのさした頬はとても柔らかそうで。そのシミ一つない真っ白な四肢はすらりと長く、僕の隣に立つとまるで母と子……というのは少々言いすぎな気がするけど、まあ姉と弟といったような感じになった。
美人な人間姿の彼女を見て、一層僕の心臓は弾んだ。けれど人間の感情変化に疎い彼女は、僕の赤面した頬を気にすることなく、楽しそうに二足歩行でふらふらと歩いていた。
ポン、と肩に手を置いた師匠の、うざったい笑みが忘れられない。
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