第2話 狐生
「クゥン?」
つぶらな瞳の母が、僕のことをじっと見ていた。
初めて目にした時、僕はその目がひどく怖かった。まるで全てを見透かすような、そんな目に見えた。
怖くて、けれど自分の魂が彼女こそが僕の母だと叫んでいて。
それでも目の前の存在は母などには見えなかった。
僕の母は、もっと毛深くなかったはずだ。
全身が橙色の毛皮に覆われてなんていなかった。
お日様みたいな香りがすることもなかった。
僕のことをぺろぺろと舐めて毛づくろいすることもなかった。
そこまで考えて、僕はようやく、かつて自分が人間だということを思い出した。
それが、生後数日の話。
前世、といえばいいのだろうか。
僕には人間として生きた記憶のある、少し変わった狐だった。
そのせいか僕は、兄弟姉妹の中で少し浮いてしまっていた。
彼らは僕を、まるで化け物のような目で見てくるのだ。
だから僕も牙をむき出しにして吠えた。
そうすればみんな、僕の悪口を言うのをやめて、どこかへと去っていくのだ。
けれどお母さんは違った。お母さんだけは、僕のことを怖がらなかった。変わっている子ね、とそんな風に笑いながら、甘えん坊な僕のことを気遣ってくれた。
すごくうれしかった。
別に僕は、兄弟姉妹のことが嫌いではなかった。だって、すごくかわいいのだ。小さくて、ふわふわしていて、くるりとしたかわいい目をしていて。特に団子みたいに固まって、そのぬくもりに目じりをふにゃんとさせている姿なんて、もう最高にかわいかった。
僕もまた彼らと同じかわいい姿をしているということは、気にしないことにした。
狐になっても男の子である僕には、かわいいなんて言葉は似合わないのだ。
いつかきっと、お母さんみたいなかっこいい狐になって、お母さんのことを守ってみせるのだ。
新しい人生は――いや、狐だから“人”生というのはおかしいだろうか?狐生、とでもいえばいいのだろうか。
とにかく、狐としての生活は、波乱の連続だった。
優しい優しいお母さんは、けれど決して優しいだけではなかった。
だんだんと暑くなる中、お母さんは僕たちを容赦なくしごいた。
どうすれば獲物がとれるか指導し、何度も挑戦させた。
獲物を狩れなければごはんなしの日もあった。
つらくて苦しくて、ひもじくて、けれど自然の中で生きていくためには必要だから、僕も兄弟姉妹に交じって必死に訓練した。
そうして兄と一緒になって初めて一匹の野ネズミを仕留めたときは感動に打ち震えた。
全身の毛がぶわっとなって、あまり仲良くなかった兄と一緒に踊り転げた。ちなみに、彼が「自分を兄と呼べ」といっただけで、僕と兄の間に生まれた時間の差はない。というか、あらあらまあまあ、なんて言いながらどちらが兄かの喧嘩をほほえましく見ているだけだった。まあ、そんなわけで喧嘩に勝った彼が僕の兄になったのだ。
それはともかく、初めての狩の成功を喜んだ僕たちがあまりに騒ぐので、他の子の狩の邪魔になるからやめなさいとお母さんに叱られしまった。
しゅん。
狩りは達成感があった。
けれど、狩の成功は同時に僕に苦難をもたらした。
死体そのままのネズミが最初に僕の前に出現したとき、僕は思わず発狂しそうになった。
ネズミを食うだって⁉というように。
僕の人間としての記憶が叫んでいた。
ネズミは食べるものではない。ネズミは家の汚いところをはい回るいやな奴だって。
でも、僕はおなかがすいていた。
これまで、お母さんがくれた食事の中で、僕はすでにネズミを食べていたんだ。
僕の心の中で響く叫びは、きっと生きていた時の姿をしたネズミにかじりつくことへの怯えだったのだと思う。
僕も、死んで動かなくなったネズミの、光のない目と視線が合った時は背筋にひやっとしたものを感じたのだ。
けれど狩ったネズミの味はこれ以上なくおいしかったから、僕はネズミはごちそうだと学んだ。
僕のたちの食べ物は、当然だけれどネズミだけではなかった。
お母さんは僕たちにいろいろな食べ物を教えてくれた。
例えば、ミミズ。これも僕の中の僕がこんなの食べたくないって叫んでいたけれど、実際に食べてみると意外とおいしかった。
心の中の僕も、まるでイカの踊り食いだ、なんてことを言っていた。
イカ、というのは何だろうか。
きっとミミズと同じくらいおいしいものなんだろうな。
……ああ、やっぱり僕が思った以上に、僕の記憶には欠けがあるらしい。おいしいと思えるイカについても、僕はそれがおいしかったことだけしか覚えていないのだから。
そういった記憶の欠けは意外とたくさんあって、それに、長く過ごすうちに少しずつ人間だったころの記憶を思い出さなくなっていった。
あるいは、記憶を思い出す原因となる、大きな心の動揺の回数が減っていったからかもしれない。
僕は狐としての生に順応していった。
ネズミも虫も鳥も果物も、僕はどのようにして狩をして、どの種類がおいしいのか必死に覚えた。
きっと僕は兄弟姉妹の中で一番のハクシキだと思う。
ハクシキとは何かあまり思い出せなかったけれど、きっとおいしいもののことをたくさん知っているすごいやつ、という意味だろう。
僕は鼻を天に向けて誇らしさをアピールしてみた。
えへん。
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