月が見ていた
朝比奈 礼緒菜
第1話
月が見ていた (1)
深夜も回った東京某所。
残業の後に、馴染みのショットバーで軽いカクテルを5、6杯飲んだだろうか。
このところ仕事は不調で、上司からの理不尽極まりない風当たりが強かった。
そしてプライベートでは、自称ホストのヒモ状態の男が一人、居座っている。
職場とショットバー、自宅までは徒歩で15分もかからない距離なので、いつも
通り、歩いて帰路についていた。
いつもと違ったのは、ここからだ。
通りの一角に、見慣れない露店が出ていた。どうやら『占い師』らしい。
「ちょいとお嬢さん…」
スルーしようとしたところを呼び止められてしまった。
「何か悩み事があるようだねぇ…」
という熟年女性の占い師の言葉に、
「悩み事のない人なんているんですか?」
と冷たく答える。
「それに、何か…良からぬ気配が…」
なおも食い下がる占い師に向かい、
「とりあえず、占いは必要ないです。」
と、にべもなく立ち去ろうとした。
「とにかく、お嬢さん、気をお付け…。」
歩き去る私の背中に占い師はそう声をかけ、私はひらひらと手を振って返した。
職場と自宅のちょうど中間ほどの位置に大きな公園がある。
住宅地に入ったこともあり、人影はなかった。
ところが、風もない夜だというのに、植え込みで大きくガサっという物音がした。
私は驚いてそちらを向いたが…時既に遅しだった。
後ろから羽交い絞めにされ、植え込みの中へと引きずり込まれていく。
大声を出そうとしたところ、喉元にナイフらしき物を突きつけられ、今更どうする
こともできそうにない。
草むらに引き倒され、「ここまでか…」と思った矢先、男の動作に隙ができたのを、
私は見逃さなかった。
持っていたバッグで、顔を側面から思い切り殴りつけてやった。
その拍子に、バッグのチェーンが切れ、私の頭のやや上方向へ飛んで行った。
(いよいよここまでだ)
そう思った私は潔く目を閉じたが、男は矢庭に立ち上がるとバッグだけを奪って
走り去っていった。
「かほり!」
いきなり私の名を呼ぶ声に起き上がると、豊が立っていた。
豊…例のヒモ男である。
「待ってろ、今、取り返してやるから!」
そういって男の後を疾風のごとき速さで追っていく。
「…痛っ」
今更ながら、顎のあたりに鈍い痛みを感じ、そっと手で触れてみると、手のひらに
うっすらと血が滲んでいた。
恐らく、犯人をバッグで殴りつけた時に、ナイフが掠りでもしたのだろう。
いずれにせよ、警察を呼ばねばなるまい。
…と。バッグを奪われたのだから、通報できないではないか。
スマホも財布も、全てバッグの中だ。
どうしたものだろう。
歩いて交番まで行くのか?いや、ちょっと無理だ。
芝生の生えた草むらだったとはいえ、頭を強か打っており、軽いめまいがする。
交番につく前に倒れる可能性がある。
どうするのがいいのか…
そう思案に暮れている時に、突然、
「沢園かほりさん、ですか?」
と声をかけられる。
今起きたばかりの出来事もあり、声をかけてきた見知らぬ男から距離をとる。
「あ、すみません。俺、警察の者です。」
そう言いながら、男は警察手帳を見せてきた。
「怪我、してますね。とりあえず救急車を…」
胸ポケットから携帯を取り出す刑事に、
「何故、タイミングよく、ここに来たのですか?」
と率直な疑問をぶつけてみる。
「一之宮豊さんから頼まれました。ここにいる沢園さんを助けるように、と。」
刑事は私に背中を向け、携帯で手短に話を済ませると、こちらへ向き直り、
「とにかく、病院へ。今、救急車も来ますから。」
と言った。
「あの…」
「はい。」
「豊…一之宮豊はどうしましたか?」
刑事の表情が、一瞬困惑した様子にも見えたが、また元に戻り、こう続けた。
「良いですか、落ち着いて聞いて下さいね…一之宮豊さんは亡くなりました。」
「は?今、なんて?」
「一之宮豊さんは亡くなりました。誰かに刺されたようです。」
救急車のサイレンが徐々に近づいてきた。
崩れ落ちながら見上げていた空には、歪んだ月。
私はそれを見ながら、意識を手放していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます