第39話 未だ上らぬ朝日の先に

『今だ!』


 拡声魔道具によって周囲へと広がる声が皇国の陣地から帝国側へと響いていく。

 そして、アウローラのさらに先。帝国兵の生き残りが集まる陣営に、皇国の魔法使いによって放たれた無数の魔法が降り注いだ。


「……はぁッ⁉」


 一瞬にして歓声は消え、代わりに絶叫と狂気の声が響き渡る。


 反撃だと、帝国将官が喚き散らす。一瞬にして怒りに支配された帝国兵が、皇国陣営へと走り出す。

 皇国兵もまた、帝国兵を迎え撃つべく、素早く陣形を組んだ。


 互いの軍が、動き出す。


 呆然と立ち尽くすアウローラを挟み込むように、戦争が再開された。


「何……がッ⁉」


 困惑に心染めながらも、アウローラは自身へと迫った死の矛先を反射的に剣ではじいた。

 くるくると宙を舞う黒塗りのナイフが、地面に転がる。

 アウローラは、目の前に立ちはだかった一人の男をにらみつけた。


「……ホウエンッ」


「おお怖い怖い。まるで手負いの獣だね。まったく、邪竜の思念を制御するとか、本当に馬鹿げてるよね」


 両手に持ったナイフをくるくると回しながら、少し呆れたような表情をしたホウエンがアウローラと向かい合う。パシ、と小気味よい音を響かせて、ホウエンがナイフの切っ先をアウローラへと突き付ける。


「そんなアウローラちゃんには悪いんだけど、その剣、返してもらうよ。ついでに、殺して来いって命令だから、君の命も奪わせてもらうよ!」


 その声を聴いた瞬間、邪竜の思念が周囲へと怒りのこもった魔力をばらまいた。たかが血を這う虫ごときが自分の所有者を決めるとは不遜にもほどがある――そんな怒りをもとに、邪竜はアウローラへと勝手に力を貸した。

 体が沸騰するように熱くなり、全身に熱が満ちた。浸透していく力のせいか、走るホウエンの姿がひどくゆっくりに見えた。


 ホウエンが手首のスナップだけで投げた毒ナイフを、軽く剣で弾き飛ばす。そのまま、斜めにした剣を振りぬく。

 剣の軌道を変えるべく差し込まれたナイフは、バターのように切り裂かれる。

 あの雨の日と逆転した立場に、ホウエンが小さく口の端をゆがませる。

 ナイフを捨て、しゃがむように剣の軌道から体をそらす。

 邪竜の力によって膂力が増したアウローラが、無茶な動きで剣の軌道を捻じ曲げて、しゃがんだホウエンへと刃を振るう。

 前へととびかかるように進んだホウエンが腕を伸ばし、その指の間に挟んだ金属針をアウローラの眼球から脳へと突き刺そうとして。


 ホウエンの脇腹に、剣の刃が届く。体へと滑り込む冷たい切っ先を感じたホウエンは、反射的に体を守るべくその体勢をさらに低くする。

 手首を振って、下からアウローラの目へと針を飛ばす。

 アウローラが首を後方にそらして針を躱す。

 地面に手をついて、回転しながら振るわれたホウエンの裏拳が、アウローラの顎をかすめる。

 アウローラの視界がぶれる。

 四肢で地面から飛び上がったホウエンが、その口を大きく開いてアウローラの首へと噛みつきにかかる。

 その軌道に、漆黒の剣がねじ込まれる。


 迫る剣の、その真下からこぶしを振り上げる。

 側面を撃ち抜かれた剣が跳ね上げられ、ホウエンの体からそれる。

 防御のなくなったアウローラの眼窩へと、鋭く伸ばされたホウエンの抜き手が迫って。


 ガス、と。

 刃の部分を握ることで無理やり軌道を変えることに成功したアウローラが、漆黒の剣の柄頭をホウエンの額へと叩きつけた。


 ホウエンの頭が、勢いよく後方へと弾き飛ばされる。

 その視界に、アウローラの全身が映って。


「……駄目かぁ」


 振り下ろされた漆黒の剣が、ホウエンの胴体を縦に深く切り裂いた。

 逃れるべくひねりを加えていたホウエンの体が、回転しながら血をまき散らして地面を転がり、そして、動かなくなる。

 アウローラは、けれどそんなホウエンに気を使っている余裕はなかった。


「おおおおおお!」


 今が好機とばかりに、アウローラに帝国兵士の剣が振り下ろされる。帝国軍の新兵としてのホウエンの同僚である男が、殺意に顔を染めて、仲間の敵討ちを狙い――


 一閃。

 その両腕が、アウローラの握る漆黒の剣に切り落とされて。

 遠くから飛んできた矢を腹部に受けて、その体が地面に倒れこんだ。


 すでに、アウローラの周囲は戦場になっていた。

 そして、我先にと、帝国兵が、皇国兵が、アウローラへと得物の切っ先を向ける。誰もが、敵わないと絶望したドラゴンを一人で倒して見せた、見ず知らずの怪物へと攻撃をする。


 苦痛に顔をゆがめたアウローラは、けれど反射的な動きで攻撃へと対処する。漆黒の剣を振りぬき、敵の武器を切り裂き、腕を落とし、足を断つ。

 けれどそんな覚悟のない攻撃は人間を殺す気がないという事実を周囲の兵士たちへと突き付けていて。


 今すぐにこの化け物を排除すべきだと、アウローラが敵か味方か考慮することもなく、兵士たちが一斉にアウローラへと武器を振るった。彼らにとっては、自分の理解の及ばない力を振るったアウローラが味方として敵を倒してくれることより、アウローラという強者が消えることを望んだ。

 それは、アウローラを怪物と、人間でない化け物だと思う心故であり、万が一敵だと理解した場合の絶望を考えてのことであり、そして味方であっても信頼などできないという兵士たちの思いにあった。

 帝国兵も皇国兵も先の魔物とドラゴンゴーレムの一件で、味方さえ信用できないという考えを魂に刻んでいた。







 理解が、できなかった。

 アウローラは、戦争を止めたくてこの場にやってきて。

 それなのに、まるでアウローラこそが滅ぼすべき敵であるように、兵士たちがアウローラへ剣を振るった。

 槍を、突き出した。

 その剣を、槍を、切り払いながら。

 少しずつ、アウローラの心へと暗い感情が広がっていった。

 自分は何をしているんだろう――やけにゆっくりとした視界の中で、アウローラは考える。

 アウローラの目から、一滴の涙が伝った。

 くるりと回転しながら振るった剣が、兵士の一人の首を、刎ね飛ばした。その一撃には、剣を振るう意味なんて、こもってはいなかった。


 そして、とうとうアウローラが自分たちを殺す気になったと理解した兵士たちが、もう後には引けないとばかりに死兵となってアウローラに襲い掛かった。

 だが、その切っ先は届かない。

 剣も、槍も、矢も、魔法も、アウローラの体にあたることはなかった。

 舞うように剣を振るい続けるアウローラの動きに、人外の速度と膂力、恐ろしいほどの切れ味の刃に、十把一絡げに兵士たちは刻まれるばかりで――


 ガシ、とアウローラの足をつかむものが――動きを束縛するものが、一人。


「いああッ」


 仲間のホウエンを斬られた復讐に燃え、最初にアウローラへと立ち向かって両腕を切り落とされた兵士。彼が、残る口でアウローラのズボンのすそを強く嚙み、その動きに一瞬の停滞を生み出した。


 完全に想定外な動きのブレ。そして我先にと突き出された無数の武器の矛先に、アウローラは抗いきれなかった。


 槍が、剣が、その切っ先をアウローラに届け、体を貫いた。

 複数の槍に支えられるように、アウローラの体が宙に浮く。

 ぽたり、ぽたりと、その体から血が滴り、地面を濡らした。


 ――おおおおおおおおッ!


 怪物を倒したという歓声が、周囲から響く。

 槍の柄を滴って流れていく真っ赤な血を見ながら、アウローラは考える。


 私は、何かを間違えたのだろうか。

 戦争を止めるという私の覚悟は、おかしかったのだろうか。

 想定外の挙動を見せる狂気には、敵わない。

 私には、戦争を止めることなんて――


 ――もう、終わりか?


 低い声が、聞こえた。あざけるような、邪竜の声。


 ――おわりー?もうおわり?

 ――えー?もっとあそぼうよ!

 ――おつかれさま。ゆっくり休んで。


 様々な精霊の声が響いた。


 もういいかと目を閉じて、眠ろうとして――暗闇に消えていくその視界に、鮮やかな金の光がよぎった。

 太陽が、沈もうとしていた。ゆっくりと金から赤へと変わっていく光が、世界を照らす。その光を見つめながら。

 アウローラは、震える手を伸ばす。

 その手に、黄金の輝きを放つ美しい恒星がすっぽりと収まって。

 アウローラは、手の中に握りこむように、こぶしを作った。


 絶望の中、記憶がはじける。


 『もうだめだと、あきらめた時』


 今が多分、そんな時。


『そこに、まばゆい黄金の光をイエーリは見たそうだ』


 視界の先には、淡い白に少しの赤みが差した、黄金の太陽。


『それをつかもうと手を伸ばして、こぶしを握って、イエーリは立ち上がって再び歩き始めたらしい』


 ――まだ、立ち上がれっていうの?まだ、歩かないと駄目なの?もう疲れたよ。私は、頑張ったよ。ねぇ、褒めてくれないの?もう十分だって、もう大丈夫だって――


『アルバに向かって歩き続けろ』


 ――歩かないと、いけない。

 そう、頼まれたから。

 そう、イエルに求められたから。

 だから私は、大好きなイエルがこの胸の中に生きている限り、歩き続けないといけない。

 それが、イエルを死なせてしまった私にできる、唯一の贖罪だから。


 「……ぅ、ぁ」


 闇に消えていく思考の中。弱々しく、長く、息を吸って。


「ぁぁぁあああああああああッ」



 アウローラは、吠えた。

 獣のように吠えた。

 生きたいと、吠えた。

 まだ自分が生きていると、吠えた。


 ――いいよ、がんばって。


 精霊の愛し子。

 誰かの言葉が、脳裏によぎった。精霊と声が聞こえて、精霊と言葉も交わすことができる。

 それを、考えて、そして気づいた。


 ああ、私は、化け物だった。


 そんな思いは、言葉は、ひどくすんなりとアウローラの心に浸透していった。

 命を救うためだと、無感動に味方の兵士の腕や足を切り落とす化け物だった。親友の死をあっさりと忘れ去る化け物だった。人間がみんな焼き滅ぼされる魔法を受けても、体が半分消し飛んでも死なない化け物だった。イエルの遺体を放り捨てて逃げる、化け物だった。私は、向かう先で多くの死をばらまく、化け物だ――


 ぎょっと目をむく兵士たちの、その前で。全身を淡い緑の輝きに包んだアウローラが、全身に刺さる槍を、剣を、その手に握り続けていた漆黒の剣で、邪竜の膂力をもって、切り裂いた。


 ガラン、ガランと体から引き抜いた武器を放りながら、アウローラが地面に降り立つ。

 強い光を宿したその目を細めて、周囲の兵士を見回す。


 アウローラの脳裏に、いくつもの言葉がよぎる。


『兵士が一人敵兵を殺すごとに、世界は平和に近づいていく。だから殺せ。敵を殺せ。目の前の敵を無心で殺せ。目の前から敵が消えた時が勝利の瞬間だ!』


 ああ、その通りだ――アウローラは思う。

 目の前から敵が消えれば、戦いは終わりだ。目の前にいる兵士たちをすべて消せば、戦争は終わる。平和が、世界に訪れる。


『味方の死者より一人でも多くの敵兵を殺せ!そうでなければ次に殺されるのはお前たちの家族だ!親友だ!あるいは未来の恋人だ!だから殺せ!恐れることなく殺せ!心を研ぎ澄まして、一人でも多く殺せ!』


 その通りだ――アウローラは意識して口の端を吊り上げる。


 ――私を殺さないと、殺される。それでいい。それで十分だ。だから私を狙え、私におびえて、化け物な私に剣を向けろ。その代わり、私もお前たちを、一人でも多く、殺そう。


「――さぁ、戦争を終わらせようか」


 漆黒の剣から立ち上る黒の霧を纏いながら、怪物が一歩を踏み出した。


 夜が、訪れる。

 世界に闇が満ちる。


 漆黒の剣を振るうアウローラを前に、帝国も皇国も、止まれない。アウローラという怪物を野放しにすれば、自分たちが敗北すると、そう直感したから。


 剣を振るい、血を浴びて赤く染まり。

 敵によって受けた傷をいやすために緑の光に包まれて、誘蛾灯のように敵兵をひきつけながら、アウローラは暗闇の中で戦い続ける。






 世界を愛しき太陽が照らすのは、まだ先。


 アルバはまだ、はるか遠く。

 けれどアウローラは、立ち止まることなく歩き続ける。


 いつかその胸から、記憶から。

 想いと言葉が、消えるまで。

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