第30話 アルバ
とどまることなくあふれ続けるはずの涙は、ぴたりと止まった。
ゆっくりと、血だまりに沈むイエルから顔を上げたアウローラが、ホウエンをまっすぐに見つめる。
「……」
顔に浮かんでいた微笑が、ひどく気持ち悪かった。そんな目で私を、イエルを見てくれるなと、アウローラは思った。そんな、濁った眼で、イエルの最期を、見てほしくはなかった。
強く目をこする。雨でぬれていた袖は涙でさらに重くなり、目元が赤くなった。
「……予想通りって、何?」
「イエルにたどり着いて、殺害するまでの計画だよ。途中で君がドラゴンがはびこる森になって入っていくから追跡魔法使いがしり込みしてしまったけれど、そこでこうあったらいいなと思ったそのままが、今ボクの目の前に広がっているんだよ。正直、傑作だね」
傑作、と両手を広げて高らかと謳うように告げるホウエン。アウローラは彼を、心の奥底から湧き上がるどす黒い憎しみに染まった眼で睨みつけた。
そんな道化じみた動きがアウローラのお気に召さないと理解したからか、ホウエンは急にその顔から笑みをはぎ取り、無表情でアウローラを見つめる。
暗い双眸で、重く垂れ込む狂気の光が揺れていた。
「……けれど、どうしてだろうね?せっかくボクが、心殺して兵器になれるように誘導してあげたのに、ボクの未来の相棒にふさわしい存在になるようにしてあげたのに、どうして君はそんなところで泣いているんだ?」
心底不思議そうに、首をかしげるホウエンが問いかける。
誘導、とアウローラがつぶやく。
降りしきる雨に消えていきそうな声を拾い上げて、そう、とホウエンはうなずいた。
「帝国の元捕虜が悪く扱われる拠点に君を放り込んだのは僕だよ。リンチに合うように仕向けたのもボク、あの日君が地下牢にとらわれるように図ったのもボク、たぶん、君が最近陥ったすべての状況は、ボクが手をまわしたものじゃないかな……だから君は、ボクの手を取れば救われるよ。痛みから、苦痛から、解放されるんだ。そんな苦しい顔をしなくてもよくなるんだよ。ねぇ、痛いでしょ?苦しいでしょ?心なんて、いらないでしょ?」
自分の手を取れと、ホウエンが手を伸ばす。その手を、アウローラはじっと見つめていた。わずかに顔を俯かせる。水を吸った真っ黒な前髪が、アウローラの目を隠した。
ズキンと、体のあちこちが傷んだ。蹴られた部分、殴られた部分、擦り傷を負い、打撲を負い、髪をつかんで持ち上げられ、水桶に顔を押し付けられることもあった。
それらすべての傷が、痛みが、すでに治っているはずのそれらが、ひどくうずいた。
「……さ、ない」
けれど、そんなことはどうでもよかった。道中の痛みなんて、過去のものだ。今のアウローラの胸の中に渦巻く殺意が、イエルを殺したホウエンに対する恨みが、すべての感情を、過去を飲み込んでいく。
ゆらりと起き上がったアウローラの手には、まばゆいほどの白に染まった一振りの剣が、握られていて。
顔を上げたアウローラの相貌に、狂気に染まった金色の瞳が輝いていた。
遊んであげるよ――おいでとジェスチャーするホウエンへと、アウローラは切りかかった。
一合、鋭い金属音が響きあって。
これでは足りないと、アウローラはふらつく体で剣を振り上げ、全身を使って振り下ろす。
ナイフと剣の刃がぶつかって。黒が、白を切り裂いた。
そして、切断された剣身が、地面を転がってキィンと澄んだ音を響かせた。
アウローラの膝が、地面に触れる。体から、力が抜けていく。
夜が近いのか、薄暗くなった世界の中で、ひどく不気味な笑みを浮かべるホウエンがじっとアウローラを見下ろしていた。
「……がっかりだよ。どうして君は、心なんて持ってしまったんだ?正直、ボクは君が隣に立って、一緒に活動してくれる未来を望んでいたんだよ。砦消滅のあの日、君はボクが相棒にするにふさわしい顔をしていたよ。なのにどうして、君は――」
ああそうか、とホウエンは鋭く細めた目で地面に横たわる男の顔を見た。
膝立ちになったアウローラの隣を、ホウエンがゆっくりとした足取りで通り過ぎる。
彼のせいかな――ホウエンの言葉に、アウローラはゆらりと背後を向いた。
背中を向けるホウエンの足元には、倒れるイエルの姿があって。
顔の見えないホウエンは、けれどひどく醜悪な顔をしているだろうとアウローラは思った。
体から、熱が消えていく。
傷が、回復していなかった。
毒のせいで熱くて、けれど寒くて。
かじかむ手から、半ばで切り落とされた剣の柄が零れ落ちた。
「イエルのせいだよね?彼が、君を壊したんだ。君に心なんてものを取り戻させてしまったんだ。そうしなければ、きっと君はさっき、ボクの手を取ってくれただろう?」
どう、だろうか――薄れていく意識の中で、アウローラは考え続ける。けれど、すぐにどうでもよくなった。こんな世界に、生きる意味なんて――
――すごいだろ。こんなにもこの世界は、美しいんだ。
声が、聞こえた。
――アウローラより手が小さかったら泣くぞ。
その声で、もう一度名前を呼んでほしかった。
「……もう、聞こえていないんだね。やっぱり、精霊は無意識下の願いまでしっかりと聞いているのかな。」
返事のないアウローラが死んだと考え、無限に思えた半自動的に見える回復魔法が、アウローラの深層心理を精霊がくみ取ってのものだったのだと、ホウエンはそんなことを考えた。
アウローラの視界が、闇に染まっていく。暗い、とこしえの夜のような闇。
――子どもが余計な心配してるんじゃない。
私は子どもじゃないと、言いたかった。私は、イエルの隣に立てるんだって、立っているんだって、そう言いたかった。
胸にあった思いはもう、伝わらない。
でも、それでも。
イエルと過ごした日々は消えなくて。
アウローラの心に、あり続けて――
ホウエンが体をかがめる。足元に転がる漆黒の一振りへと、手を伸ばす。
パッと、光る街頭のランプが、雨に濡れた街を照らし出した。
ホウエンの手の先で、黒い剣が淡い金色の光を反射していた。
――夜明け、か。
声が弾ける。熱が、体の中を駆け巡る。
耳元でつぶやかれたイエルの言葉が、最後の言葉が、残響のようにアウローラの耳の奥で響いた。
『――お前は、アルバに向かって歩き続けろ』
たとえこの命失われても、それを足かせに思うことなく未来へ歩き続けろと。願いのもとへと、進み続けろと。
イエルの言葉が、アウローラの魂を揺さぶる。
――私は、進まないといけない。
アウローラは思う。
――私は、こんなところで立ち止まるわけにはいかない。
祈る。力を、回復を、あゆみ止めぬための癒しの力を。
――いいよ。
声が、聞こえて。
あたたかな緑の光に包まれたアウローラが、大地を蹴って走り出す。
「あああああああああああああッ」
走る。雨に滑る石畳を蹴って、前へ、前へと。
その先、ホウエンが手を伸ばすそれへと、たどり着くために。
回復を続ける肉体から、突き刺さっていたナイフが、針が、零れ落ちる。
カランと、地面を金属が跳ねる。
「ッ⁉」
死んだと思っていたアウローラの咆哮を聞いて、とっさにホウエンはその手に持つナイフを投げる。
それをよけることもせず、アウローラは心臓だけ守って、ホウエンへと肩から体当たりをした。
体が、滑った。
痛みを無視して、アウローラは、地面に転がる一振りの剣を、漆黒の長剣をつかみ取る。
「ッの!」
アウローラの体が、地面に伏していたイエルの体に抱き留められるようにして止まる。
ホウエンが、アウローラをしとめるべくコートの下からナイフを取り出し、投擲する。
迫る黒の刃を躱して、アウローラは一目散に走りだす。
イエルを背に、走る。
希望に向かって、夜明けに向かって。
アルバに、向かって。
どうして最後に、私の名前を呼んでくれなかったの――まるで照れ隠しのようなその言葉に、少しだけ頬を膨らませながら。
アウローラは全力で走り続けた。
迫るホウエンの攻撃を躱し、ナイフで切られながら、アウローラは走って、走って、走り続けた。
精霊が聞き届けた願いが、アウローラの身体の疲労すらも取り去って、本来は決して出しえない速度で、アウローラは走り続けて。ホウエンもまた、その背中を負い続けた。
「ッ、はぁ、はぁ……追いついたぞ」
もはや完全に息を荒らげたホウエンが、木の幹に手を当てながらアウローラをにらんだ。
アウローラは、黒い長剣を抱えて、じりじりと背後へと下がっていく。
ホウエンはわずかに息を落ち着けて、そして。
ドドドドドド、と響く音を聞いて、眉間に深いしわを刻んだ。
「……なんだ?」
一晩中走り続けたアウローラをがむしゃらに追っていたホウエンは、ここがどこかわからなかった。わかるはずもなかった。せいぜい、アウローラとイエルが潜伏していたと思しき、ドラゴンが住む人類圏外地だということだけ。
そして、うっすらと白んだ空に、まばゆい金の光が差した。
太陽が、はるかな山を越えて世界に光を通した。
その、金色の光を背に、アウローラはホウエンに対して気丈に――あるいはニヤリと形容されるような笑みを浮かべて。
背後へと一歩、飛びのいて。
「ッ⁉」
そして、ホウエンの視界からアウローラの姿が消えた。
慌てて走り出したホウエンは、その先の大地が消失した世界を見て「クソ」と口汚く言葉を吐いた。
広がる大瀑布の、霧がかった世界の先にアウローラの姿が消えていった。
着水の音も、その姿も、すべてが大自然の息吹に飲まれて、アウローラはホウエンの前から逃げおおせた。
逃げられたと、ホウエンはそう思った。死んだのではなく、逃げた。
ホウエンは、アウローラの回復魔法を信頼していた。彼女は必ず生き延びて、その腕の中には邪竜の爪でできた剣があるのだと、そう確信していた。
鉛のような目でじっと滝の先を、そして皇国へと続く川面を見つめていたホウエンは、すぐに踵を返して山の出口へと歩き始めた。
後には、人間の営みなど知らない大自然の営みだけが残された。
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