第29話 アウトレイジ

 アウトレイジ。

 それは、皇国が抱える非合法組織にして、皇国のためならばあらゆる行為に手を染める必要悪。そんな存在を動員して行われていた特殊任務こそが、皇国の尊き血を引く庶子にして、皇王に見初められた逃亡皇子の捕獲、および彼が持ち出した一振りの剣の回収だった。


 帝国と皇国が分裂した、その折に皇国が手にした帝国建国秘話の証明たる一振りの剣。初代皇帝が倒した凶悪な邪竜の爪を加工したその剣が帝国に渡るのだけは、皇国は許さなかった。


 あらゆる人員を用いて進められたイエルの捜索。そのためならば街一つ焼き滅ぼし、今後の帝国との戦争と領土拡張を困難にする悪逆非道な街の破壊と市民の虐殺も許容された。

 それほどに、邪竜の剣というものは価値があって。


 だから、ホウエンが――かつて冒険者として行動を共にした皇国出身の男が目の前に現れて。

 イエルは自分に魔の手が追いついたことを理解した。


 一振り。

 振りぬかれた剣の軌道にいた弱者はすべて両断されて、おびただしい血を流しながら地面に倒れた。ただ一人、飛翔する斬撃――剣閃をナイフの一振りで弾き飛ばしたホウエンを除いて。


「懐かしいよね。昔はこうして何回も君と戦ったというのに」


「……昔の話だ」


 黒のナイフと剣が、激しくぶつかり合う。剣技の師匠であるホウエンと弟子のイエルの技量は、今や同等のレベルに至っていた。

 相変わらず顔に笑みを張り付けた道化のようなホウエンに、イエルがいらだち混じりに剣をふるう。

 大ぶりな軌道をかいくぐって、ホウエンがイエルの懐に切っ先を伸ばす。


 半身をひねって回避、バランスを崩したイエルに追撃を試みたホウエンは、とっさにその場からとびのいた。


「危ないねぇ、隠し刃?」


 振り上げられた靴の下から除く鋭い刃は、わずかに血に濡れていて。

 切り裂かれた頬の傷を撫でたホウエンは、その微笑を崩すことなくナイフをくるくると手の中で回す。


「……余裕だな?」


「そりゃあもちろん。これだけすべてが順調だったら余裕にもなるよ、ねッ」


 飛び込んだホウエンのナイフとイエルの剣がぶつかり合う。

 甲高い金属音が雨に沈む街に消えていく。


 イエルの思考から、あらゆる音が、存在が、消えていく。

 全力を尽くしてなお勝てるかわからないホウエンを前に、片腕を失ったイエルはぎりぎりで渡り合っていた。

 逆に言えば、少しでも何かがあれば、戦況は致命的に崩壊を迎える、はずで。


「アウローラちゃんのことはいいの?」


 顔の目の前で得物をぶつけられ競り合う中。

 ぞっとするような笑みを浮かべたホウエンが、雨に消えるほどの声量でイエルにささやいた。





 視界の全てから、色が消えていた。降り続ける雨の音も、迫る男たちの足音も、聞こえなかった。雨に煙る街を背に、迫る男たちを前にして。

 アウローラの心は、どこまでも冷え切っていた。

 ぴし、と心にひびが入る音を幻聴した。


 はは、と小さく笑ったアウローラが、剣を抜き放つ。雨の中、クリスタルのごとき澄んだ刃が翻った。


「……一つ」


 目の前に迫る男を、そのナイフごと両断するようにアウローラが剣をふるう。アウローラの腕の細さと、年齢と、絶望によどんだ顔と、そして男自身の技量への自負が、彼に対応を誤らせた。

 男は、矮躯に過ぎないアウローラの剣など適当にはじけばいいと、頭上にナイフを持ち上げて、足を止めることなく前へと歩を進めて。

 ズズ、と。

 ナイフにぶつかった剣は、その黒塗りの剣身へと刃を押し進めた。

 男があわてて回避行動に移る、その前に。

 アウローラが振り下ろした剣は、ナイフを両断し、男を縦に切り裂いた。


 ヒュゥ、とホウエンが口笛を鳴らす。その音は、アウローラに届かない。

 警戒をあらわにした男たちが、ナイフを投げてアウローラの動きを制限しようとする。

 飛来するナイフを前に、アウローラは回避行動をとらなかった。その刃は、アウローラの脇と、太ももに突き刺さって。

 けれど痛みなど感じてないように、アウローラは次の敵めがけてその剣を振りぬいた。


 回避行動を前提に行動を練っていた黒衣の人物は、あっさりとアウローラに両断された。


 アウローラが恐ろしいまでの剣技を身に着けていると理解した彼らの目には、もう一切の余裕の色は消えていた。

 腰に差していた金属針を、ナイフを、投擲する。うっすらと白い塗装は、毒だと一目でアウローラに看破されて。

 今度はアウローラはそれらの攻撃を回避し、あるいは剣ではじいた。

 その動きは、敵の予想の範囲内で。

 男たちは一斉に三方向からアウローラに襲い掛かり、そのナイフを腕に突き立てた。


 片手から力が抜ける。

 ナイフに塗られていた毒が体を侵食していき、全身がゆっくりと熱を帯びていく。

 視界が、かすんでいく。

 迫る影へと、アウローラが剣をふるう。その剣はけれど黒いマントの裾を切り裂くだけにとどまった。


 剣が、針が、アウローラの体に突き刺さる。

 毒が、蓄積していく。

 がくりと、膝から力が抜けたアウローラが地面へと倒れこむ。


「アウローラ!」


 ぼんやりとした世界を切り裂く、必死な声が聞こえた。

 迫る三人の男が、アウローラの視界に映る。

 そして、男たちの姿を、後ろから飛び出した一人の男が阻んだ。


 イエルが、男たちが投げた金属針を叩き落し、返す手で彼らの体を両断する。

 男たちの体が、地面に沈んで。


 むせかえるような血の匂いが広がるそこで、振り返ったイエルが、アウローラを見て小さく微笑んだ。


 その口から、一筋の血が、流れ落ちて。

 胸元にナイフを生やしたイエルが、がっくりと地面に膝をつく。


「…………イエル?」


 世界に、雨の音が戻る。充満する血の匂いと、血の赤い色が、アウローラの視界を埋め尽くす。

 あわてて立ち上がったアウローラへと、イエルの体が倒れこむ。


 その体は、熱くて、けれどひどく冷たかった。

 ナイフが突き刺さって痛む手で、イエルを抱いて。背中に触れた手に、熱を帯びたどろりとした液体がまとわりついた。


 震える片手を、ゆっくりと持ち上げる。その手は、真っ赤に染まっていた。


「イエル、イエル!」


 ガシャン、と。音を立ててアウローラの、そしてイエルの剣が、手の中から滑り降りる。


「もう無理だよ。いくら最高峰の回復魔法使いでも、心臓を一突きされた人間を回復させることはできないよ」


 雨音に混じって背後から響く声は、アウローラの耳には届かなかった。

 とっさに、とっさに、アウローラは片手の手首に歯を立てる。口の中に、血の味が広がって。

 ドクドクと嫌に打つ脈を感じながら、アウローラは青白い顔をしたイエルへと口づけをする。こんな時なのに、焦燥ににじむアウローラの心に、小さな幸福の熱が灯った。

 口の中に含んだ血を、イエルの口内へと押し込む。つたない動きで舌を絡めて、飲み込ませる。


 願う。イエルの回復を、願う。

 思い出したようにイエルの胸元からナイフを抜き放ち、放り投げながら、アウローラは願い続ける。


 ドクドクと、栓を失ったイエルの体から、血があふれ出し、アウローラの胸元を濡らした。


 一つになった唇の間から、真っ赤な血が一筋零れ落ち、雨に混じって地面を濡らした。


 口を、離す。

 淡い緑の光は、大自然の抱擁のような温かな熱は、回復魔法の光は、生まれなかった。

 イエルの体は、癒えない。その体から熱が消えていく。息が、浅くなっていく。


「……あう、ろ……ら」


 小さく、蚊の鳴くようにか細い声が、アウローラの耳朶を揺らした。血に濡れたイエルの口が、小さく言葉を紡ぐ。


「……何、何、イエル!大丈夫、私がちゃんと、助けるから。私が、回復魔法使いの私が、イエルを死なせないから。だから、だから――ッ」


「お前、は―――」


 アウローラの肩にのしかかるように頭を置いたイエルが、その耳元で小さくつぶやいて、力を抜く。


 ずるり、と滑ったイエルの体が、水音を立てて地面に倒れた。


「……イエル?」


 体が、心が、冷えていく。

 イエルの体が、冷えていく。

 呼吸が、止まって。

 間欠泉のように噴き出していた血が、周囲一帯を濡らして、止まる。血に濡れた二振りの剣が、その場に残されて。

 青白い顔をしたイエルは、もう、動くことはなかった。

 イエルの顔が涙でにじむ。アウローラは、心にぽっかりと穴が開いたような感覚を覚えた。

 雨に紛れて、涙があふれる。


「……うん、やっぱり全てが予想通りだね」


 状況を読まないホウエンの声が、強くなった雨足の中に響いて消えていった。

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