第21話 隻腕の救世主

 こぽこぽと湯が沸騰する音が響く。心地よい、体になじんだ薬草の匂いを嗅ぎながら、アウローラはまどろみの中にいた。

 パチン、と火の粉が爆ぜる音。歩みに合わせてきぃきぃと揺れる床板がどこか懐かしかった。


 そんなまどろみも、次第に薄れて行って。


 アウローラは重い瞼をゆっくりと開いた。

 薄暗い部屋の中。ゆっくりと体を起き上がらせようとすると全身が痛んで、アウローラは小さくうめいた。


「……起きたか」


 聞き覚えの無い声が耳に入って、アウローラは体に掛けられていた毛布を蹴り飛ばして立ち上がった。

 くらり、と視界が揺れる。頭に手を当てたアウローラは、油断なく周囲へと視線を彷徨わせる。

 舞っていた毛布が、ひらりと床に降り立った。


 視界の先、暖炉の火にあたっていたのは三十代ほどの男だった。無造作に伸ばした黒髪と黒の瞳が特徴的な、どこか厭世的な雰囲気を纏った男。節くれだった手には無数の傷跡が見えた。

 両手を焚火にかざした男は、視線だけアウローラの方へと向けているばかり。

 アウローラは必死に警戒している自分が酷く馬鹿らしく思えて、ふらりと床に座り込んだ。


「……もう丸二日も寝ていたんだが、起きて早々ずいぶんと元気だな?」


 からかいの音のない、純粋に不思議で仕方ないと言った男の低い声がアウローラの耳朶を揺らす。


「私は二日も寝てたの?」


「だからそう言っている。……腹は減っているか?」


 そう尋ねられると同時に、くぅ、と小さくアウローラのお腹が鳴った。腹部を抑えてわずかに赤面するアウローラを見て、「女だな」と小さくつぶやいた男は、火にかけていた鍋の蓋を取り、その中を確認した。


「……この辺りは夜は冷える。若い女の体には毒にしかならん」


 だからこっちへ来いと、男が対面の席を顎で示す。そんな粗野がどこか懐かしくて、そしてアウローラは父のことを思い出した。

 もうずいぶん昔に亡くなってしまったように思う、父。アウローラの父も、男のように口数が少なく、粗野なふるまいが多かった。けれどそんな男らしいところに母は惹かれたらしいと、祖母が語っていたところまでひと固まりでアウローラの脳裏をよぎった。


 つぅ、と透明な雫がアウローラの頬を滑った。

 その涙に反応することなく、男はお玉で掬った鍋の中身を木椀によそい、アウローラへと手渡した。

 手の中のお椀から、温かな熱がアウローラへと伝わる。自分の体がどれだけ冷えていたか、アウローラは理解した。


「悪いな、ここにはあんな布団しかなくてな」


 ガリガリと髪を掻いた男が、自分の分のスープをよそって、さっそくとばかりに口をつけて、動きを止める。その眉間には、深いしわが寄っていた。

 そんな男の様子を眺めながら、アウローラはスープに口をつけ、熱いのにも構わず勢いよくスプーンで掻き込み、飲み干した。

 体が栄養を求めていた。ずっと寝ていたという二日分、そしてそれ以前の栄養不足を訴える体は、もっと、もっとと食事を要求する。


 物欲しそうな眼で鍋を見て、けれどここでお代わりを要求するのは不躾にもほどがあるだろうと思って、アウローラは動きを止める。


「……好きなだけ食ってくれていい」


 まだ一口目を食べたばかりの男が、椀を空にしたアウローラを見てそう告げた。


「……いいんですか」


「ああ、流石にもう飽きた」


 飽きた?と不思議そうに繰り返すアウローラの顔を見て、男は苦い表情をした。

 そんな男に首を傾げながらアウローラは次の椀をよそって、今度は味わうように口に運んだ。優しい薬草の風味。アウローラの知識が、疲労回復や滋養にいい薬草ばかりだと告げていた。麦を煮詰めた優しい味付けを、目の前の無骨な男が作ったと思うと少しだけおかしくて、アウローラはわずかに口元を緩めた。


「もう二日……七食はずっとコレだからな」


 二口目をようやく食べ終えた男を見ながら、アウローラはその言葉の意味を咀嚼する。七食、二日――二日寝ていた自分。導き出される答えは、アウローラがいつ起きてもいいように、男が毎日アウローラに合わせた食事を作っていたという可能性で。


 温かな感情が、胸の中に広がって。

 そうして、緩みっぱなしの涙腺から、またもや涙があふれた。


「ありが、とう、ございます……」


「気にするな。ただの勝手な同族意識だ」


「……でも、すごく、うれしい、です」


「そうか、だったら俺の分まで食ってくれ。正直、もうこれ以上食えそうにない」


 盛大に顔を歪めてお椀の中を睨む男を見て、アウローラは声を上げて笑った。


「…………さて」


 食事を終え、男に洗い物を買って出たアウローラがやるべきことを終わらせた後。

 手持無沙汰で先ほどと同じ場所に座った二人の静寂を打ち破ったのは、男のそんな真剣な声だった。


「お前は、脱走兵だな」


 ビクリ、とアウローラが肩を跳ねさせる。胸の中に広がっていた温かな思いが、一気に冷えていった。

 逃げないと、でももう遅いかもしれない、何か毒を盛られた可能性は――十分な栄養を摂ったおかげで回り始めた頭は、そんな空転を始めて。


 待て、というように持ちあげられた男の隻腕が、アウローラの一切の思考を吹き飛ばした。そんな不思議な気迫が、目の前の男にはあった。

 髪は伸び放題なのにひげはきちんと剃っているらしい男は、その顎を軽く撫で、それから手を膝に持って行った。


「俺も、脱走兵だ。だから、先ほど同族意識と言ったんだ」


 食事の席での言葉を、アウローラは思い出す。

 男の気遣いで胸がいっぱいだった時、確かに彼はそんなことを言っていたかもしれない――ずいぶんと注意力が散漫になっていると、アウローラは気を引き締めた。


 そんなアウローラを見て、男は少しだけ苦笑を浮かべ、それから目を閉じた。


 昔を懐かしむように、閉じられた瞼の奥で瞳が過去を映しているのを、アウローラは感じ取った。


 男が過去を見つめる間、アウローラはじっと男を観察していた。


 体のあちこちに見える古傷。刃物によるものもあれば、火傷のようなもの、あるいは何かに噛みつかれたような歯型も見えた。隻腕になったのは最近なのか、傷口には少々色あせた包帯が無造作に巻き付けられていた。

 服装は山師という言葉が似あう毛皮製で、けれど丁寧になめされたからか近くにいても匂うことはなく、狐のそれと思われる皮はふさふさした毛皮が立っていた。少々こそばゆそうだった。


 顔は、少々顎の細めな、優男風。ただ、頬にある古傷と鋭く細められた黒曜石のような瞳が、男の容姿に野性味を与えていた。

 長い黒髪はすでに肩甲骨に当たるほどに伸び、きちんと手入れがされている様子はなく、伸ばしっぱなし。


 全体的に見て不潔に見えない程度には身だしなみに気を使っている様子だった。


 わずかに上を向いた男の目尻に光るものが見えたのは、気のせいだと思っておくことにした。


 対して――とアウローラは自分の体へと視線を向ける。

 傷の無い白い肌は骨と皮だけのように細く、髪は男のことなど悪く言えない適当具合。まるで物語に出てくるお化けのような真っ白な服は、この森の中においてひどくおかしく見えただろうと思った。

 よく自分を助けてくれたな――そこまで思って、アウローラははて、と首を傾げた。


 自分が一体どのような経緯で男に助けられたのか、必死に頭を働かせて思い出そうとして。

 ドラゴンに吹き飛ばされ、近づいてきた巨体の首が落ちた、そこまでをアウローラは思い出した。そして、その時ドラゴンの首を斬った黒い影が、目の前の男性なのではないかと、アウローラは確信にも似た思いを抱いた。


 そのことに気づいたと同時に、男がゆっくりと目を開けて。


「ドラゴンから助けていただき、ありがとうございました」


 アウローラは床に額をこすりつけて、心からの感謝の言葉を述べた。


 お、おう、と動揺した男の声がアウローラの後頭部に響いた。それから、少々上ずった声でもういいと言われて、アウローラはパッと顔を上げた。

 そして、耳を真っ赤に染めてあらぬ方を向き、指で頬を掻く男を見て、アウローラはくすっと笑った。


 う、と男が頬を引きつらせた。

 そして、互いに顔を見合わせて。

 不思議と可笑しさが腹の底からこみ上げて来て、二人は互いに小さく笑った。

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