第15話 人殺し
戦争においては重要なのは、心だ。
アウローラの根底に根差したその事実は、変わらない。けれど、その事実から派生する枝葉は、少しずつアウローラの中で変化を続けていた。
心は、大切だ。
それは心が死ねば死から逃れる気力が起きなくなって、自死を選んだり、あるいは目前に迫った死を座して受け入れたりするようになってしまうからで。狂気に飲まれて心を狂わせれば、一直線に死へとひた走ることになる。
一方、心を殺して一つの兵器のような兵士として生きる場合は、心に揺さぶられることなく、恐怖に心狂わせることなく、目の前の敵を淡々と殺していくことができる。だが、それは心が死ぬことと変わりはない。いざという時、死ぬまいと足掻く底力は得られないし、何より、心殺して戦争を乗り越えた先に、真っ当な未来があるとは思えなかった。日常に返った先で、心を取り戻すことができずに人形のように生きるか、殺しを当たり前とした価値観のままで生きるハメになるか、あるいは心を取り戻して、過去の自身の行為に耐えられずに辛い道を歩むか死を選ぶか。
どちらにせよ真っ当な未来が待っているとは思えなくて。
アウローラはもう、理解はしていた。
強い心こそが、覚悟こそが必要なのだと。強い心とは、言い換えれば強い思いであり、祈りであり、願いである。
手を伸ばす未来が、「先」があるからこそ、兵士たちは戦争という過酷な今に立ち向かえる。そのことを、アウローラは知っている。強い願いによって傷を癒したアウローラは、その事実をもはや否定できない。
心の奥底から湧き上がる心を、もはや押しとどめてはおけなくて。
けれど今、アウローラは無を求めていた。何ものにも動じない、鉄の心を、求めていた。
「助けて、助けてくれよぉ……」
やせ細り、節くれだった指で地面を這う男が、アウローラの前で生を懇願していた。男が身に纏うものは、かつてアウローラが戦場にて共にしていた者たちが身に着けていた服――すなわち帝国兵の制服だった。
一応捕虜であるところのアウローラとホウエン。二人が捕虜という立場から解放されて正式に皇国軍に所属するためには、この儀式が必要だった。
すなわち、かつての仲間を、帝国兵を切り捨てること。
手の中にあるナイフの柄が、ひどく冷たく感じた。
目の前の男を切ることが本当に正しいことなのか――アウローラは心の中で自問自答を続ける。かつて、黒い眼帯の皇国軍の将はまるでアウローラたちを嵌めるように誤解の生む発言をした。今回もその類の試練ではないのかと、アウローラは必死に頭を働かせる。
今ここでこの男を殺したら、元味方を無慈悲に殺す排除すべき存在だと受け取られないか。けれどここで男を殺さなければ、その魂は帝国に根差しているとして、今すぐに首を刎ねられるのではないか。
答えは、出なかった。にじんだ汗が、頬を伝って流れ落ちる。
震える切っ先は、ランプの明かりを反射して怪しい輝きを帯びていた。
斬らなければならない。
斬ってもいいのか?
話をすり替えるな。私は、この男を斬りたくないだけなんだ。人殺しをしたくないだけなんだ。私は、人殺しをしない理由に、斬るのが本当に正しいのだろうかと、そんな理由をつけ足しているだけだ――
長い、あるいは一瞬の時間が過ぎた。
おずおずと、地面に額をこすりつけていた男が顔を上げる。そして、ヒィ、と小さくのどを鳴らした。
アウローラは、理解した。自分が、殺戮者の顔をしていると。
気づいて、いた。
自分の手は、もう血で真っ赤に汚れていると。腕を、足を切り落とし、助からないと判断をした負傷者を切り捨てたこの手は、もはや人殺しの手に違いないと。この身に巣食う死の気配は、もう一生消えることはないのだと。
心が、冷えていく。
体が、冷えていく。
まるで手に握るナイフの刃のように、余計な一切がそぎ落とされ、研ぎ澄まされていく。
恐怖にふるえる男の顔を、感情の無い目で見下ろして。
そしてアウローラは、その感情の無い銀の切っ先を、振り下ろした――
ガシャン、と勢いよく扉が閉まった。
『一日だけ猶予をやる』
鬼教官を自称する金髪碧眼の男の捨て台詞が、アウローラの耳の奥にこびりついていた。
アウローラは、帝国兵の捕虜を殺すことができなかった。男に振り下ろしたナイフは、相手の腕に当たると同時に恐怖で緩んでいた手の中からすっぽ抜けた。
そして、アウローラはそこで動けなくなった。
体は恐怖で固まり、息は荒くなり、顔は蒼白に染まった。
怖かった。
自分が自分でなくなるような恐怖が、そこにあった。
一つの刃となるあの瞬間には、覚えがあった。全てを切り捨て、ただ負傷兵のためだけに動いたかつての自分が、重なった。
幼馴染の死にも心揺らされず、死が迫っても諦観しながら任務に励むだけだった、自分。その自分が、今やアウローラは恐ろしくすらあった。
かつて至ったその無我の境地には、もはや戻れそうになかった。
アウローラはそうして、冷たい石の上で体を抱きかかえて震え続けた。
体が、心が、寒かった。
自分が自分でなくなる恐怖が、そこにあった。
男の恐怖にゆがんだ顔が、瞼の裏に張り付いてはがれなかった。
自分は何をしているのだろうか――そんなことを思いながら、アウローラは眠りについた。
『この無能がッ』
女の罵倒が、脳裏をよぎった。戦友が助からないと聞いて、その女はアウローラを突き飛ばして、恋人でもあるという男性兵士を別の回復兵のところへと連れて行った。
若い回復兵は、女の頼みに感極まって涙を流し、必死になって治療を開始した。ありったけの魔力を使って回復魔法を行使した。他の、無数の負傷者のことなど、二人の頭から消え去っていて。後から後からやって来る負傷兵の手当てをしながら、アウローラは治療の行く末を時折確認した。
回復魔法によって少しずつ希望が癒えていって、その顔に希望が宿って。それから、半刻もしないうちに、男は血を吐いて息を引き取った。
後に残されたのは、絶望に打ちひしがれる女兵士と、無力感に苛まれる青年回復兵だった。その顔を見て、アウローラは思い出した。
彼は、激戦区の中央に移った後自殺した、青年回復兵ホルトだった。
それから、女は怒り狂ってホルトの頬を殴り飛ばした。
どうして助けてくれなかった。助けてくれるって、そう言っただろう――
その声は、ひどく空しく心に響いた。
だから助からないと言ったのに。そう思って、目をそらした。
そうしてアウローラは、移動した先の負傷者に、もう助からないという診察結果を告げた。
『お前のせいで死んだんだッ』
戦友を抱きながら泣いていた兵士が、恨みの視線を向けた。その兵士も、数日後アウローラが看取った。
『あんたが回復魔法をちゃんと使えれば』
そう言って床を殴った女兵士の遺体は、帰ってこなかった。
『お前に治療を頼むんじゃなかった』
そう叫んだ幼馴染のレインは、ひどくあっさりとアウローラの前から消えた。
誰もが死んで行く。誰もが、たやすくその命を失う。
気づけば周囲は血の海に染まっていて。そして血の水面のようになった床下から、腐肉と化した腕が伸びて、アウローラの脚をつかんだ。
『許さない』
『お前が僕を殺したんだ』
『どうしてまだ生きている?』
『あんたがいなければあたしは死ななかったはずなのに』
『ろくに回復魔法も使えない無能が、生き恥を晒してんじゃねぇ』
虚無を湛えた無数の双眸が、アウローラを見ていた。その穴から、血の涙を流しながら、亡霊たちは死の世界へとアウローラを引きずり込もうとする。
アウローラは――足掻いた。引っ張り込まれそうになりながら、床をつかんで、もがいて、死に抗った。それが、アウローラの心の本心だった。
死にたくは、なかった。
生きていたかった。
苦しいのは嫌だった。
どうして自分はまだ生きているのか――そう思って。
『行って、アウローラ』
視界に影が落ちて。
懐かしい、大切な声が聞こえた。
苦楽を共にした戦友が、ユリーカがアウローラの腕をつかんで。
引きずる亡霊の沼から、アウローラの体を引っ張り出して――
「ッ⁉」
そこで、アウローラの目は覚めた。
硬い床の上。べとつく汗で張り付いた服が、ひどく気持ち悪かった。
生きるんだ。そう、アウローラは己に言い聞かせた。
こんなふざけた戦争を、ユリーカを死なせた無意味な戦いを、許さない――焼野原で誓った決意を、思い出す。
――いいの?
何かが、アウローラに問いかけた。
何が言いたいかはよくわからなくて。
「……いいよ。私は、これでいい。私の願いは、戦争を止めるための力を手にすること。だから、力を貸して。私が心折れるまで、私の歩みを止まらせないで」
わかった――泡のように言葉が弾けて、陽だまりのような気配は消えた。
暗く寒い牢獄の中に、アウローラは一人きり。
けれどその心には、昨日までとは違って燃えるような熱が、覚悟の焔が宿っていた。
一息。
覚悟も、諦めも、その他多くの感情も、いらなかった。
ただナイフを振り下ろす。それだけで、男はあっけなく倒れ、そして息を引き取った。
床に広がる血が、ランプの光を反射して怪しく揺れていた。どこかで見た光景だと、そんなことを思った。
その既視感が何に由来するのかなんて、けれどどうでもいいことで。
生まれ変わった――あるいは堕ちるところに堕ちたアウローラは、覚悟をその心に抱いて歩き出した。
もう、止まる気はなかった。
背後に積み上がった無数の死を背負って、アウローラは歩き出す。歩みを止めさせようとする亡霊たちの声は、アウローラには届かない。
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