願いの魔法

雨足怜

第1話 奇跡は、起こらない

 もしも、一つだけ魔法が使えたら。

 もしも、奇跡なんてものがあるのなら——





『わたしね、いろんなばしょを見て回りたい。世界を、世界にくらす人たちを見て、だれも知らない場所に行って、誰も見たことがないぜっけい?を見るの!』


 大きな、大きな木の下。丘の上にそびえる巨木、その木漏れ日の下で、少年少女の会話が響く。両手を広げ、天を見上げる少女は、満面の笑みでくるりと体を回す。

 片手に握られたスケッチブックには、これまでの冒険で見た景色が描かれていた。


『一緒だぞ?連れてってくれないとイヤだからな?』


『うん、やくそく、だよ!』


 小指を絡めて、少女が笑う。照れたように視線を足元へと向ける少年の手が上下に大きく揺れ、すぐに手の中から熱が遠ざかる。

 にぱっと笑う少女が、駆け出す。その後を追って、少年も走り出す。


 二人の顔は未来への希望に満ちていた――




 ――はずだった。


「余命半年といったところでしょう。手は尽くしますが、現在この病気の明確な治療方法は存在しておりません。唯一、魔法により病を克服した症例はありますが、その術者も一度きりの奇跡の行使に留まりました。残念ですが——」


 扉に耳を押し当てて、一人の少年が大人たちの話を聞いていた。ツンと鼻につく苦手な刺激臭すら意識から抜け落ちて、少年は震える膝に手をついて、体が床に崩れ落ちそうになるのを必死でこらえた。


 清潔感漂う純白の廊下。病院の診察室外、扉に張り付いて少年は聞き続ける。幼馴染の少女、その病状を。


(フィリーが、死ぬ?だって、あんなに元気で、それに一緒に世界を旅してまわろうって、約束したのに)


 大好きな少女が死ぬかもしれない恐怖と、フィリーが死ぬはずがないという医者の判断ミスを願う気持ちと、そしてそれ以上に少年の中には、フィリーが世界を一緒に旅しようという約束を守ってくれないことに対する怒りがあった。


(イヤだ、嫌だ!フィリーが死ぬなんて、そんなこと……ッ。約束しただろ⁉一緒に海を見に行くって、森の中に湧く秘密の泉を見るって、空を舞うドラゴンを見るって、世界一高いところに登るって)


 穏やかな陽気の下、風に揺れる草原に寝そべって二人で立てた計画。その全てが、崩れ落ちようとしていた。

 やり場のない怒りを、少年はぎゅっと心の奥に押し込める。フィリーが約束を破るかもしれない怒りよりも、フィリーを失うかもしれないという悲しみが、少年の心の中で上回っていた。

 激情に体を任せてこぶしをふるう。古びた木の壁にぶつかったこぶしがじんじんと痛んだ。けれど、それだけ。


 何も解決はしなくて、そして痛みはかえって、これは現実なのだと少年に突きつける。


 つぅ、と頬を涙が伝う。頬を袖で乱雑に握り、少年はその場から駆け出した。もうこれ以上、フィリーの両親と、医者の話を聞きたくなかったのだ。うそつきの医者と、うそつきに言い返さない二人の話を、少年は聞こうと思わなかった。


(そうだ、魔法!魔法ならフィリーだって助かるかも……)


 あふれ出す涙を、のどからこみ上げる叫びを、少年は押し殺して廊下を賭ける。走らないで下さいという大人の注意など、少年の耳には届いていなかった。

 少年の心によぎるのはうそつきの医者が告げた、魔法ならフィリーが治るかもしれないという言葉。


 息を切らしながらたどり着いた病室の扉を乱雑に開き、少年は中へと一歩を踏み出した。


 むせかえるような消毒液の匂いと、それをごまかすように香る、ベッドの脇の花瓶に生けられた花々の甘い匂い。開いた扉から風が吹き込み、カーテンが大きく揺れる。

 差し込んだ光が、ベッドに眠る一人の少女の顔を照らし出す。少年の知る、フィリーの顔だった。


 いつもコロコロと表情を変えるフィリーだが、ベッドに眠る彼女は安らかに寝息を立てるばかりだった。その顔が喜色に満ちることも、驚きに染まることも、興奮に朱が差すことも、もう二度とない——。

 静寂が病室を満たす。世界から部屋が切り取られたような寂しさが、少年を襲う。今にも足場が崩れてしまいそうな、そんな気がしていた。


「フィリー?」


 少年の脳裏によぎるのは、数日前、口から血を吐いたフィリーの姿だった。真っ赤に濡れる手のひらを見て、困ったように少年に顔を向けたフィリーは、次の瞬間には操り人形の糸が切れたようにその場に倒れ込んだ。

 駆け寄る少年が肩を揺らしてもフィリーは起きなくて、叫ぶ声で喉が痛いばかりで。鬼気迫るその声を聞いた近くの人がフィリーの異常に気付き、フィリーはそのまま病院へと運ばれた。


 それから、三日。フィリーは目を覚まさず、うそつきはフィリーが死ぬという。


 ベッドに横たわる少女へと、少年は近づいていく。振れるその手には確かな温もりがあって、少年が振れると共にフィリーは軽く身じろぎする。


「フィリー?」


 生きてると、安堵が心を満たす。それから、目を覚ましてと、懇願の色を帯びた声が、少年の口から零れ落ちる。また前みたいに一緒に遊ぼうと、旅の計画を立てようと、一緒に、世界を旅しようと。

 少年の願いに答えるように、少女が薄目を開ける。


「……ルーク?」


 ゆっくりと周囲へと視線を巡らせた少女は少年の姿を瞳の中にとらえて、へらりと笑った。

 少年の眼には、フィリーの笑みがひどく薄っぺらく見えた。その笑顔は安心しているようなそれで、けれどどこか、何かを諦めたような笑みだった。


「わたしね、小さいころから体が弱かったの」


 話し始めるフィリーを止めようと、聞きたくなどないと、少年は——ルークは、フィリーの腕を握る手に力を籠める。痛そうに眉間にしわを寄せるフィリーに気が付き、ルークは手から力を抜く。けれど、フィリーの手を離そうとはしなかった。

 今ここで手を離せば、フィリーが消えてしまうような、そんな気がしていた。


「パパもママも、病気にかからないように気をつけなさいって、病気が悪くならないように体を丈夫にしなさいって、いつも言ってたの。だからわたし、ルークと一緒に運動したんだ。原っぱを走って、木に登って、森を探検して、体をきたえたの。……ああ、すごく、すごく楽しかったなぁ」


 湧き上がる沢山の思い出を、一つ一つ、フィリーは数え上げていく。震えた指が、思い出を刻む。日常の何気ない会話から、二人にとっての冒険話まで、たくさんのことを。

 気が付けば涙を流していたルークの頬に、フィリーの手が振れる。困ったように笑うフィリーは、けれど体に走る痛みに小さく悲鳴を上げて、手は力なくベッドの上へと落ちていった。


「ごめんね、ルーク。約束、守れそうにないや」


 フィリーは、自分の体の状態を完全には把握していない。けれど川の中にいるような重さと、絶えることのない痛みが、現実を突き付けていた。きっと自分は約束を守れないと、ルークと一緒に世界を旅してまわることはできないのだと、そういう直感があった。


「な、んでだよ。守れよ、約束……」


 ごめんね、ごめんねと、フィリーは涙を流しながら繰り返す。ルークの声も嗚咽交じりのもので、言葉の中に怒りなどなかった。約束を破るフィリーを、ルークはもう叱ろうなどと思えなかった。


 さみしい、一緒にいたい、一緒に世界を旅したい、いろんなものを見て回りたい——

 西日差す病室で、ルークは神に祈った。フィリーの手を取って、その沈みゆく太陽に、ひたすらに願った。どうか、フィリーの病を癒してくださいと。


 泣きつかれたのか、病によるだるさが限界に来たのか、フィリーは苦しそうにうめきながらも眠りに落ちていった。


 日が、沈んで行く。黄昏の世界は次第に闇に染まり、夜の冷気が開けっ放しの窓から入り込む。


「面会の時間は終了ですよ」


 奇跡は、起こらなかった。

 神はルークの願いには答えず、魔法という奇跡がフィリーを癒すことはなかった。


 それが、現実だった。

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