第二節
第5話 依頼
その日、わたしは事務所内で掃除機をかけていた。
わたしが初めてこの不知火探偵事務所を訪れてから、もう二週間ほどが経とうとしている。
この二週間、舞い込んできた依頼は数件、それも全部ペット探しだった。
これで事務所の経営が何とか回っているというのが、探偵の助手という身分のわたしにとっては一刻も早く解き明かさなければならない謎のようにすら思える。
裏を返せば、解き明かすべき謎がそれぐらいしか転がっていないということでもあるのだが。
思えば初めてここに来たときにも、不知火が掃除機をかけていたっけ。いや、あのときは電源が入っていなかったわけだけど。
あとこれは別に、成長したと言えるかどうかわからないけど、不知火とも大分構えずに接することができるようになってきた。
今でも彼のことはよくわからないことの方が多い、というよりわかることなんて何一つないといった方が正しいけれど、それでも変な緊張をしなくて済むようになったのは、成長といって差し支えないだろう。
「お邪魔します」
と、わたしが自分自身の小さな成長を実感したところで、事務所に珍しく来客があった。
見たところ客は女性のようで、そのシックで整えられた服装はどこか高圧的というか、近寄りがたい印象を受けた。
たぶん、不知火とは真逆のタイプだ。
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ。今不知火を呼んでまいりますので」
いつものようにソファへ座るよう案内してから、奥に引っ込んで行ってしまった不知火を呼びに行く。
ここ最近は事務所内にはいつもわたしがいるせいで、不知火が奥に引っ込んでいることが多くなった。
ちなみに、奥は普通の生活スペースになっていて、不知火はそこで暮らしていた。
というわけで、わたしとしては奥の部屋は男の人の部屋という認識で、妙に緊張してしまう。
これもそのうち慣れるものなのだろうか。
居間で退屈そうにワイドショーを眺めている不知火の姿を見つけて、その背中に声をかける。
「不知火さーん。お客さんですよ」
「ん? お客さん? なんだいそりゃ、知らない子だね」
「そりゃ知らなくても無理はないですけど、何で扱いがそんな適当なんですか。お客さんですよお客さん。仕事です」
「ああお仕事かい。最近依頼がほとんどないものだから忘れてたよ」
「んなわけないでしょう、変な冗談はやめてください」
「冗談なんか言うもんか。僕は正直者で通ってるからね」
「全然、そんなふうには見えませんけど」
「人は見かけによらないって言うからね」
「……確かに、言いますけど」
わたしが言い淀んだところで、不知火はニカッと愉快そうな笑顔を浮かべて席を立った。
もしやこの人はわたしを言い負かすためだけにあんな冗談を並べ立てたのだろうか。
***
「夫の不倫の証拠を押さえていただきたいんです」
わたしたちが事務所に戻って、不知火が要件を尋ねる前に、その女性は開口一番そう強く言い切った。
わたしがちょっと面食らっている間に、不知火は落ち着いて対応を続ける。
「……不倫調査、いや、もっと馴染みのある言葉に直せば浮気調査か。一応それなら、大体相場はこのぐらいになるけれど」
「はい、構いません」
不知火が近くから書類を持ってきたのを見て、女性は小さく頷いた。
「証拠ってのはさ、わざわざ言い切るぐらいなんだから、とどのつまり裁判なんかでも使えるやつが欲しいんだよね。離婚調停とかの」
「ええ」
「わかった。それじゃあ、ご主人の顔と名前、それから勤め先なんかがわかるといいんだけど」
不知火の問いに、女性は実に淡々と、感情の見えない声音で答えた。
それを不知火がサラサラとメモをとる。本当はこういうのは助手のわたしの役回りな気がするけど、でも彼は情報収集は絶対に自分でやる主義らしい。それがたとえ、ペット探しでも、だ。
ふと、どんなことを書いているのか気になって、彼のメモ帳を除いてみた。
……うわっ、字が妙に綺麗だ。
不知火とメモ帳を交互に見比べるようにして、そんな感想を抱いた。やはり人は見かけによらないんだな。
「うん、ありがと。あらかたわかったよ。そういえば、自己紹介がまだだったね。僕はこの事務所の探偵、不知火響だ」
「
その後も、しばらく2人は依頼に関することを話し合った。
わたしはと言えば、その間にお茶を出して、あとは不知火の隣でただ2人の話に耳を傾けるばかりであった。
これでは助手というより雑用である。実際、助手が必要なほど忙しい職場でもないのだけれど。
「そういえば、少し気になるんだけど」
「何でしょう」
不知火は「これは答えなくてもいいんだけど」と付け足してから質問した。
「なんでうちの事務所を選んだんだい? こういうのも何だけど、うちは小さいし私立の探偵事務所だ。あんまり信用のおける場所じゃない」
「別に深い理由はありません。ただ自宅から近かっただけです」
「近いと、ご主人に勘付かれるかもしれない」
「あの人は大して頭が回りません。わかりゃしませんよ」
「へぇ、そうかい」
それから、不知火は席を立ち上がり
「わかった。この依頼、不知火響が引き受けよう」
と、不敵に笑って見せた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます