八つ脚娘 微糖

@Talkstand_bungeibu

第1話

八つ足娘


日本住血吸虫が流行した山梨県では、「中の割にお嫁に行くなら、持たせてやるぞえ棺桶に経帷子」といった民謡が流行したと言われている。

住んでいる場所や環境が健康に影響を及ぼす事を、現在の終戦後は医療によって裁かれ「地方病」や「風土病」としてワクチンやビタミンの付与によって治療されるが、ほんの数年前までは迷信や言い伝えによって裁かれ

「狐憑き」などと呼ばれ、ご祈祷によって癒される。

まったく、数年前のラジオ放送によって物事の尺度は全く変わってしまったのだ。


私も目まぐるしく変わる時勢の中で変容した一人だった。

生まれつき右腕に障害があった為徴兵から外され、世間とのギャップを感じながら生きぬき、終戦後はこのように地方の奇妙な風習について連載を持つ文筆業を生業にしている。

しかし暑い。

盆地であるからだろうが、こうも暑いと自分が肉饅頭にでもなったような気分だ。

目的の青井戸村まではまだ数十分かはかかるだろうか。

バスの車窓を眺めると、麦畑がずっと広がっているのが見え、その真ん中あたりに少女が立っているのが見えた。


青井戸村はかつては青糸村と呼ばれていた。

先述の通り盆地である為、夏暑く冬寒い。

降水量は少ない為、養蚕業に適していることからその名がついた。

4年ほど前の豪雨がきっかけで蚕の多くが死んでしまった時には価格はかなり上がったとされるが、当時から洋服が徐々に流通しだしたことをきっかけに養蚕自体が元気がなくなってしまった。

それと入れ替わるように井戸が村の数カ所に設営され、GHQが農地改革を行ったことも幸いし、農業が本格的に村で始まった。

水が供給できるようになり、かつ盆地の寒暖差を利用した野菜が収穫できた為、村の主な産業は農業となった。

と同時に、人数の増えた青糸村は青井戸村へと名を変えたのだ。


青鼻を垂らした小僧との交渉に私は手こずっていた。

私の情報屋は野っ原で遊んでいる子供たちである。根も歯もない火のない所に立つ煙の出火元は10歳に満たない子供たちだ。

「蜘蛛娘の話だろう?」

私の鞄を眺め言った。

「まだ洋菓子はあるんだろ…。もう一枚くれなきゃ教えらんないね」

「なぜわかる」

「おじさんの爪にチョコレイトの欠片がついてらあ。一切れでいいからよ」

「大人を苔にしやがって。わかったくれてやる。そのかわり話が先だ」

「ええぜ。教えてやる」

小僧が言うところによると、ある少女に蜘蛛が憑いているのだという。

養蚕家の娘がそうであり、なんでも借金を断られた村の住人が自殺する時に現れた蜘蛛を使って呪いをかけたのだと言う。

実にわかりやすい、妬み根性が生み出したほら話だ。

「これじゃあチョコの価値はねえな」

「なんだい、約束が違うじゃねぇか」

「それなら何枚か風景写真を撮って適当に創作した方がマシだ」

私は座っていた鉄棒から腰をあげた。

「その娘の居場所がわかってもかい?」


小僧は少女の居場所を知っているらしかった。

そうなると話が違う。少女の写真を撮りスクープ蜘蛛女と見出しをつければ、読者の助平根性も刺激するだろう。

「ありがとよ、ほらチョコだ」

「…なんだこれ、ぐにゃぐにゃじゃねぇか」

「この暑いのに溶けないわけがないだろう。本物って証拠さ」


しづと名乗るその少女は指をあやとりのように絡ませたり揉んだりさすったりすることで、指先から糸を出して見せた。

「種も仕掛もございません」

冗談を言う風でもなく言いながらそれを指先で丸めて球にした。

「触ってみても?」

その糸の球にふれると、いわゆる糸ではなくべたべたと手につき、子供の頃の悪戯で蜘蛛の巣をかき混ぜた時を思い出させた。

祖母だろうか母親だろうか、老女が持ってきた麦茶に口をつけた。温い。

「考えられるのは二つ。一つは、いわゆる手品のようなもので僕や村人を騙している」

しづは寂しげな顔をして見せた。

「もう一つは、いわゆる風土病。こっちの方じゃないかと僕は睨んでいる。資料を読んでもなかなかそういった例は出てこないのと、なぜ他の住人には感染や発症しないのかと言う疑問はあるけれど」

「呪いですよ」

しづは言った。

「こればっかりはしょうがありません」

「なぜ、そう思う?」

「…皆がそう言うんです」

「皆って?」

「皆です」

「君が会って話したのはこの村の人くらいだろう。世界はもっと広いし、古い因習しか信じない世の中じゃなくやったんだ。これからは科学を中心に動いていく。君も大きくなればそんな世界に進めるよ」

しづは意に介したような納得できないような顔をしていた。


しづから出る糸は持ち帰って調べる必要があるが、おそらく蜘蛛のものと全く同じであるとするならば、蛋白質の塊が外へ溢れているものだと思われる。

もちろんこれは推測にできないが、呪いやまじないのようなものは、この昭和には存在しないのだ…。


普段の夢よりももっと深い夢を見ていることに気づき、そして海に突き落とされたような苦しみから解放される為に必死で喉を引っ掻いた。

かろうじて息ができるようになったが、今度は腕や足が思ったように動かない。

身を捩ると私は浮いていることに気づく。

手や足へ纏わりついているのは…糸だ。

嫌な予感が去来する。

足を伸ばして少しずつ動かし、机の上のペーパーナイフをとりあげ、そこへ手を伸ばしてなんとか腕の自由を手に入れる。


霧のように見えていたものは、全て糸だった。

足元の糸に苦戦しながら先へ進む。

しづの家へと私は急いだ。

車を見つけ、乗り込んでは見たものの車輪が絡んでしまいうまく進めない。

諦め、水の中を歩く様に進んでいくと、繭が道の真ん中に転がっている。

あちらにも繭。こちらにも繭。

人を体育座りさせたほどの大きさの繭の中に、小ぶりのものを一つ見つけた。

手を入れ、引き裂くと中はまだ柔らかかった。

あの時の小僧が中にいた。

目も鼻も口も塞がれた彼を助けてやると、肩で息をしながら言った。

「…あんたのいうことに耳を貸すなって、言ってきたんだ。あの後で」

「しづはどうした」

「最後には泣きながら頷いてたよ。私は呪われた子だって」

「…」

「でも、俺たちのいう通りだったろ?」


掘立て小屋があったので中へ入り、鉈を拝借した。少しベタベタとする糸を切り裂いて先へ進む。

細かった道が広くなる。

街の真ん中だ。

しづはおそらくここから糸を出したのだろう。

村を囲むドームの様に、糸は張り巡らされていた。

夜の中で白い糸が月の光を反射して白く光っている。

その光を頼りに進む。

やはり、しづは蜘蛛に呪われたのだろうか?そんな筈はない。頭の中の理屈が、本能の恐怖をねじ伏せようとするが、上手くいかない。

そこに、しづはいた。

糸に照らされながら、後ろを向いているが、昼間見た和服の姿だ。

「しづ」

夜の闇の中に足を踏み入れた瞬間、金縛りの様に身動きができない。引き剥がそうと後ろに体重をかけると、余計に食い込む。

見えないほど細くしなやかな糸が私の体を覆っていた。

目の前のしづをよく見ると糸によって絡まり、空中に浮いていた。風によって落ち葉の様にゆらゆらと揺れ、くるりと振り向くとそれはしづの和服を着た老婆であった。

強く首が絞まった事で目と舌が飛び出んばかりに圧迫された姿から顔を逸らそうとするが、私の顔もやはりがっちりと固まっていた。

首すじにひやりとしたものを感じる。

「しづ」

細長い指が私の首を押しつぶすために力を入れた。

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