虎狐の鎮魂歌(コギツネのレクイエム)
白宵玉胡
第1話 忘却の世界
時は……分からない。西暦なんてもう数百年も前に狂ってしまった。唯一ここが日本という国であることだけはわかる。数百年前のとある世界規模のテロにより、人類は食う側と食われる側に淘汰された。そして人類の時間は、あの日から一刻も動いていない。
私は被食者。名前はない。私の両親は私に名前を付ける前に捕食者に食われて死んだらしい。私の歳は…確か十数歳くらいだったはず。集落のみんなは私のことを『まくら』と呼んでいる。角材でもごみの入ったごみ袋でもなんでも枕にして寝ているからという安直な理由だ。
「これ、まくら。水は汲んできたのかい。」
このおいぼれはほうれいおばさん。私と同じく名前がない。凄く濃いほうれい線が顔にある、この辺では一番長く生き残っている被食者で、私の育て親だ。
「今行くとこだよ。」
「…全くあんたって子は。本当に鈍いねぇ。こんなだから夕食のお魚を隣の小屋のクソガキにとられるのさ。」
「それは昔の話でしょ!もう。行ってくる!」
私はおんぼろの小屋の扉を投げ飛ばすように閉め、一番近くの井戸まで走って向かった。一番近くといっても、歩いて一時間ほどはかかる。その間にも当然食う側、『捕食者』に気を配らなくてはいけない。外出するだけでも命に危険が及ぶのだ。私の両親もこの時に殺されたのだから。
出かけてからかなり時間がたってしまった。私はなんとか水汲みの仕事を終えた。幸い何にも襲われることはなかったが、当然、ぼろぼろのポリタンクに水を汲んで帰る最中、行きの疲労も相まって、私の足は棒のようになっていた。ここまでの一連の会話や行動がいつもの流れだ。
「…なんで女の私が…こんなっ…」
文句を言いながらもなんとか小屋に帰り着くと、いつも騒がしい私たちの集落がいつもに増して騒がしくなっていた。
「くそっもうここもばれたのか。」
「クルさんどうしたの?」
いつもは冷静なみんなの兄貴的な存在のクルさんが、珍しく冷や汗をかいていた。ただ事ではないとうかがえる。
「まくら!とりあえずその水おいて逃げるぞ。トラにばれた!」
「え…でも、水は…」
「いいから!」
トラというのは捕食者のことを表す隠語だ。私はクルさんに手を引かれて少し離れたところにある廃墟の陰に隠れた。そこにはすでにたくさんの人が集まっており、おばさんの姿もあった。皆息をひそめてじっと様子をうかがっている。
「…え、待って…あれって…」
しばらくすると、集落の小屋の近くに人影が現れた。捕食者だ。それも一人や二人ではない。捕食者のしるしであるトラの刺青を腕に入れた武装集団が何人もいる。
「急いでここを離れよう。」
集落の誰かが言ったその言葉を合図に、人々は一斉に逃げ出した。しかしここで事件が起きる。
バキッ
なんとこんな時に向かいの小屋の子供がたまたま落ちていた大きめの枝を踏み割ってしまったのだ。
「ん?なんだ?」
案の定近くにいた男に気付かれてしまった。まさに絶体絶命。人々は必死に息を凝らす。すると…
「…まぁいいか。」
「…あれ…?」
なぜかすんなりと引き下がってくれた。だが人々が安心したのもつかの間。辺りは妙な静けさに包まれていた。まるで空気は何かを隠すようだった。人々はすぐに気付いた。これは罠であることに。しかし運の悪いことに、ただ一人このことに気が付いていない者がいたのだ。
「よし。もういなくなった。さっさと作業の続きをすることにしよう。」
そう言って一人の男が集落へ走り出していった。
「ばか!戻れ!罠だ!」
クルさんは必死に呼び止めていたが、気づいたころにはもう手遅れだった。
よく見るとそれは、昔しょっちゅう私から夕食を盗んでいっていた『クソガキ』であった。
「馬鹿め…こんな単純な罠にかかりやがって。どうせそこにもっといるんだろ食い物がよぉ!」
次の瞬間、彼らは隠れていた物陰から飛び出してきて、一目散にこちらへ襲ってきた。その数は見えていた分よりもずっと多く、その姿はトラというよりかはハイエナの群れのように見えた。
「させるかよぉ!」
「クソガキ!?」
人々が逃げ惑う中、クソガキは一人捕食者の大群へと突っ込んでいった。意外と喧嘩は得意だったのか、彼は大群相手に意外と善戦していた。悔しいが、今日初めてあいつを少しだけかっこいいと思えた気がする。
「そんな風に呼ばないでくれるかなぁ。…俺には君と違ってちゃんと名前があるんだよ。ラオっていうれっきとした名前がねぇ。俺だって罠だってことくらい気が付いてたさ。でも抗ってみてぇじゃねぇか。殺されっぱなしは勘弁なんだよ!」
理解できなかった。こんな化け物相手に闘うだなんて。
「んじゃラオ!もういいから!逃げて!捕食者はどういうわけか私たちよりも卓越した身体能力を持ってるってことは知ってるでしょ?」
「やっぱお前馬鹿だろ。こんな状況で逃げれるわけねぇよ。どちらかといえば俺は今、お前らを助けるためというよりもここから逃げるために闘ってんだ。でもよぉ、やっぱ俺としては、しっかりこの集落守って、生き残って、みんなからちやほやされたいわけな。だから全部任せてさっさと逃げろ!でかめの神輿を作って待ってな!」
「…わかった。こんなところで死なないでよね。」
私はそう言って闘う彼を背に走り出した。数秒走ってまた振り返ってみると、彼はまだ捕食者たちと格闘していた。最初は良好に思えた戦況も、時とともに次第に不利になっていっていた。そしてとうとう彼は捕食者の斧を頭からくらい、倒れこんでしまった。その後私が再び走り出すと捕食者たちは私の方めがけて襲い掛かってきた。走っている最中にも、捕食者たちの声と自分の荒くなった息に混じって、後ろから咀嚼音が聞こえてくる。少しくらい悲しんであげればいいものを、それでも私は振り向かなかった。最初は確かに僅かながら彼を信じて走っていたのが、途中から諦めに変わってしまっていた。
結局私には、助けるという考えもなかったわけである。私に力があれば、もっと違う考えに至っていたのだろうか。なんだかんだ言って、逃げたいのだ。死にたくないのだ。人間としての、生物としての本能は、いつも私を薄情にする。…この世界に死後の世界というものがあるのならば、閻魔様は私を地獄に落とすのだろうか。
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