公衆電話の使い方

ざるうどんs

第1話

「もうお母さんなんて知らない」


 私は何も持たずに家を飛び出した。見慣れたはずの街並みが、どこか遠くの知らない景色のように感じた。


 ただ私は走り続けた。行く宛てがある訳ではない。ただ、走り続けた。止まってしまったら、言葉にできない感情に押し潰されてしまうから。


 ドンと下から突き上げるような衝撃が全身に走った。次の瞬間、私はバランスを崩してその場に倒れ込んだ。それと同時に地面が大きく揺れ始める。物に掴まっていても、立っていることが困難なほど大きな地震であった。周辺の建物がギシギシと音をたてる。


 何かが私に覆い被さる映像を最後に、私は意識を失った。


──どれくらい時間が経ったのだろうか。私は虚ろな意識の中で立ち上がる。身体に外傷は見当たらなかった。だが謎の空間に閉じ込められてしまっていた。


 地震で建物が崩れて、ここだけ空間ができたのだろうか。時間を見ようとスマホを探すが、家に置いてきてしまっていた。


 周りに目をやると、ベンチに腰かけるおばあさんと公衆電話があった。私はおばあさんの元に駆け寄る。


「大丈夫ですか?」


「大丈夫だよ。ありがとう」


 飴玉でもくれそうな優しい風貌のおばあさんであった。そのおばあさんの柔和な微笑みに、どこか安堵している自分がいた。


「ここから何とかして出ましょう」


「私はここで待ってるよ」


「分かりました。私が出口探してきます」


 そう言い残し、私は出口を探した。しかし、壁が行く手を阻み続けた。半径15m程の閉鎖空間に閉じ込められてしまっていた。


 出口を探すことを諦め、外部に助けを求めることにした。キィーと甲高い不気味な音をあげながら、公衆電話ボックスの扉を開ける。


 消防と警察にかけるが繋がらない。母にかけようと番号を打ち込む。だが、さっきの喧嘩が脳裏をよぎり、受話器を元に戻す。


「電話をかけないのかい?」


 公衆電話の外で、杖をついておばあさんが立っていた。


「ええ、いいんです」


 私はおばあさんを跳ね除けるようにズカズカとベンチに向かった。


 貧乏ゆすりが止まらない。私は爪を噛み、溢れ出る不安を押し消す。


「心配してるんじゃないのかい?」


「心配なんてしてないですよ。私がいない方が良かったんですよ。顔を見たのだって何日ぶりだったことか……」


 私は俯く。母の顔が浮かび、モヤモヤした気持ちがまとわりつく。


「わしが言ってるのはその人がじゃなくて、君がその人のことを心配しているんじゃないのかいってことだよ」


「そんなことない……」


 気がつくと私は泣いていた。拭っても拭っても涙が止まらない。不安に感じているのは、自分の置かれている状況ではなく、母の安否なのだと溢れ出る涙が物語っていた。


 ぼやける視界の中、私は公衆電話に駆け込んだ。呼び出し音だけが、この場の静寂を支配していた。


──「あの子ったらもう」


 私は娘と喧嘩した。女手一つで娘を育ててきた。娘に不自由ない人生を送って欲しかった。だから朝から晩まで働いた。それがいけなかったのだろう。娘はグレてしまった。


 深夜に仕事の資料を取りに帰宅すると、娘の姿がなかった。今朝作り置いた冷めた晩御飯だけが、私を出迎えた。


 事故にあった娘が脳裏をよぎる。家のドアが開く音で現実に戻る。娘が帰宅した。


 私は娘がグレてしまったショックをかき消すように、娘を叱りつけた。娘の話も聞かずに……


 娘は何か言いたげだったが捨て台詞だけを吐き、家を飛び出してしまった。その直後、地震に見舞われた。


 すぐさま娘に電話をかける。無情にも着信音は部屋の中から聞こえてきた。娘の鞄から誰も出ることのない着信音が鳴り響いていた。


 鞄からスマホを取り出し愕然としていた。スマホを取り出した際に、娘の名札の付いたエプロンが一緒に出てきていた。近くのスーパーのエプロンであった。


「ごめんね……」


 全てを悟った私はエプロンを抱きしめた。


 エプロンが涙に染った頃、自宅の電話が鳴った。私は全てを放り投げ一直線に電話に向かう。


「はい」


 私は恐る恐る電話に出る。


『お姉ちゃん……』


 電話の主は病院勤務の私の妹であった。いつもの明るい口調とは打って代わり、暗いトーンであった。


『今、うちの病院に死体が運ばれてきたんだけどお姉ちゃんの子に似てて……確認に来てくれないかな……』


 私はその場に崩れ落ちた。


──「お母さん。早く出て」


 私は祈った。公衆電話の受話器を握る手はびしょびしょに濡れていた。お母さんに会いたいという思いだけが今の原動力であった。


『はい』


「お母さん?」


 聞いたことのある声だが、お母さんではない。


「どちら様ですか?」


 私は震える唇で精一杯言葉を発する。


『分からないかい? わしじゃよ』


 それはすぐそこにいるはずのおばあさんの声であった。恐る恐るおばあさんの居る方に振り向く。


 だが、そこにいたのは柔和な笑みを浮かべるおばあさんではなく、甲高く嘲笑う人間の形をした異形な何かであった。


 皮膚は溶けたアイスクリームのようにただれ、目、鼻などの人間にあるべきパーツはなく、くぼみになっていた。


「ひゃっ」


 私は後ろに仰け反り、公衆電話ボックスの壁にぶつかる。


『希望が砕け散り、絶望に変わるその表情最高だ。人間のその表情、我々悪魔の大好物だ』


 この場から一刻も早く逃げ出したいが、恐怖で身体に力が入らない。そんな私をよそ目に悪魔は話し続ける。


『そう怯えるな、お前は既に死んでいるんだ。この空間は人間で遊ぶためにわしが作り出した空間だ』


 この異様な空間が悪魔の言っていることが真実であることを示していた。


『もう少しお前で遊んだら、すぐわしの腹に収めてやる。ああ、やめろ、そんな怯えるな、食べたくなってしまう……』


 悪魔は、黒板を爪でひっかいたような甲高い声で笑う。


「お母さん助けて」


 母との思い出がフラッシュバックする。


『最後の言葉は母親か。母親がお前をわしに売ったとも知らずに。人間はさぞ愚かな生き物だ』


 甲高い不快な声が私の短かった人生の終わりを告げていた。


──私は妹からの電話を受け、その場に崩れ落ちた。


 そして、微笑んだ。


 その次の瞬間、お金が山のように降ってきた。しとしと雪が降るが如く、ヒラヒラとお金が舞い散る。


「このお金は私だけのものよ!」


 母は悪魔のような顔で歓喜した。

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