YOU鬱

ざるうどんs

第1話

「はぁー」


 僕は大きなため息をついた。会社からの帰り道、自転車を走らせていた。


 毎日同じことの繰り返し。今日も残業で、時計の針は深夜十二時を指していた。働くために生きている気がして、憂鬱に苛まれていた。


 いつもは立ち漕ぎで駆け上がる坂道を、自転車から降りて登る。


 こんな日は熱いシャワーでも浴びて、憂鬱を吹き飛ばそう。僕はそんな考えを巡らせながら自転車に跨った。


 アパートに到着し、駐輪場に向かう。憂鬱は連鎖するのだろうか。


 隣の自転車にぶつかり、ドミノ倒しの要領で次々と自転車が倒されてゆく。僕はただ見ていることしか出来なかった。


 自転車を立て直している時、不審者注意の貼り紙を見つけた。その貼り紙を見て、普通の人は何を思うだろうか。大抵は恐怖心や警戒心、無関心のいずれかであると思う。


 僕は羨ましいと思った。


 自分の意思で何か行動していることに羨ましさを感じたのだ。毎日マリオネットのように自我を殺して生きている僕には、眩しく映ったのだ。


 こんな考えを持っている自分に嫌悪感を抱き、僕の憂鬱は加速した。


 小さな植木鉢の下に隠してある鍵を取り、部屋に入る。返事の帰ってくることのない空間に、帰宅を伝える。


 スーツから開放され、すぐさま風呂場に直行した。いつもより高めの温度のシャワーを全身に浴びる。


「はぁー」


 一日の疲れが溶かされてゆく。


 そんな至福の時間をヤツは邪魔をする。視界の隅に黒い何かが映り込んだのだ。恐る恐る視線を壁に向ける。


 長い二本の触覚に、六本の足、黒光りする見た目を携えたヤツは、静かにこちらの様子を伺っていた。そのまま膠着状態が続いた。


──冷戦の火蓋を切ったのは僕だった。


 ヤツに向けて手桶を被せる。しかし、逃げ足最強のヤツはカサッカサッと素早く逃げ出し、見失ってしまった。


 物が沢山あるわけではないが、ヤツが見つからない。何十分も探したが、それでもヤツは見つからない。


 一度見つけてしまったら、見つけるまで落ち着かない。もしかしたら、抜け道があって既にいないのかもしれない。


 今この風呂場はシュレディンガーの猫であり、ヤツがいる事象といない事象の二つが存在している。つまり、確認するまでは安心できない。


 だが、ヤツにずっと構っているのは生産性がない。そこで一旦いつものルーティーンに戻ることにした。


 この場で目をつぶることは死を意味する。そのため、いつも最初に頭を洗っていたが、先に体を洗うことにした。


 モフモフのボディータオルで全身を洗い流す。その時、ある違和感を覚えた。無地であるはずのボディータオルに黒い柄が付いているのである。


 瞬時にそれが何か察した僕は地面にボディータオルを投げつけ、シャワーで水責めにした。


 こうして大きな代償の末、ヤツとの戦いは終戦を迎えた。


 至福の時間をヤツに奪われてしまったが、今日は他にもプランがあった。


──歯磨きをし、パジャマに着替えていると部屋の鍵が開く音がした。彼女が帰ってきたのだ。


「ただいま」


 彼女の声が、寂しかった部屋に彩りを持たせる。


 僕は彼女を出迎えに行く。


「おかえり」


 僕がそう言うと彼女は青ざめ、震える声でこう言った。


「あ、あなた、だれですか……?」


「はぁー」


 僕は満面の笑みでパンツを濡らす。あなたの鬱になれて良かった……

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