1 孤独に愛された巫女
「……右側のドアが開きます。お忘れ物のないように……」
そっとまぶたを上げる。
視界に飛び込んできたのは先ほどまで見ていた水底の景色ではなく何の変哲も無い、電車の座席だった。
どうやらうたた寝をしていたらしい。
最近はおかしな夢ばかり見る。
見知らぬ男性が出てくる夢ばかり。
外からは雨粒が電車の窓を叩く音が聞こえる。そろそろ梅雨も終わる時期だというのに雨は止むことを知らないらしい。
雨を含めた水は遥か昔より神秘の象徴であった。時には恵をもたらし、時には災害として現れる。
現に天気が悪いときに起きる頭痛、いわゆる天気痛として雨は私に仇をなしていた。
頭痛と眠気のあまり額へ手をつくと、老婆が隣に立っていることに気づく。紅梅色の着物を纏ったその老婆は何やら大きな荷物を抱えていた。
「すみません。よろしければこちらにお座り下さい」
「おや、悪いねぇ」
老婆は満足そうに微笑むと、私が開けた席に座り込んだ。
「荷物お持ちしますよ」
「ありがとう」
そして老婆が持つ風呂敷を受け取る。
受け取った風呂敷の感触からして、中身は大量の饅頭だろう。このお婆さんは甘党なのだろうか。いや、いくら甘党でも限度というものがあるだろう。
そんなことを考えながら車外を眺めていると、雷鳴が車内に響き渡った。
そういえば祖母が死んだ日もこんな天気だったような気がする。
祖母は真面目で謙虚な人だった。
そしていつも私に向かってこう言っていた。
『
祖母が言うには私はどこまでも利他的で救いようが無いそうだ。彼女の孫である
少なくとも彼女には私がそう見えていたらしい。
だからいつか他人に利用されて、使い潰されて、壊されてしまうと。そう嘆いていた。
それ以前に橘樹家自体、世間一般から見れば異常だろう。
はるか昔。まだヤマトという国が作られた頃。生き神と呼ばれる巫女がいた。
神託を通して過去、未来を見通す存在。それが生き神少なくとも世間の人は私をそう見なしている。
それから巫女の一族には代々生き神が産まれるようになった。始まりの巫女と同じ容姿。同じ声。似た性格。歴代の生き神は皆始祖の生き写しである。
生き神が産まれる呪われた一族。
その名を橘樹という。
現代に至るまで生き神を主軸に橘樹家は神の社を守る家柄として栄えた。
しかし一族の者は魔術的な物に目がないらしく、遣唐使が来れば道教の書を手に入れ、江戸時代になればオランダから西洋の魔術書を輸入していた。その結果、家の倉には様々な怪しげな道具が並んでいる。
祖母の言葉を思い返していると、今度は氏子達から投げかけられていた言葉も脳裏をよぎる。
「ねぇ。生き神様。生き神様。明日の天気は何?」
「ねぇ。生き神様。生き神様。なくし物をしちゃったんだけど」
「ねぇ。ねぇ。生き神様。あいつ死なないかな?」
「「「ねぇ?ねぇ?ねぇ?」」」
――はい。はい。答えてあげますよ。
かつての私は自身にそう言い聞かせていつも沈黙を保っていた。何も言い返さなかった。だって生き神であるうちは利他的な私でいても構わなかったから。ありのままの私でいても構わなかったから。
心の中を空っぽな花瓶みたいにして。
『皆にとって理想の生き神様』を花のように詰めて、捨てて、また詰めて。
そうして気づけば人の顔ばかり伺って。
そうやって頑張ってきたのに。祖母は私を救いようのないお人好しだと咎める。
――ねぇ、おばあちゃん。人の為に生き神になれと私に言うくせに、利他的に生きるなというの?
――何が私の願い?
今からでも祖母にこう問いただしたいが、残念ながら死人に返答する口は無い。
自問自答の末、生き神としての責務に嫌気がさした私は、祖母が残してくれた財産を使って京都の大学に進学した。
少なくとも神社から離れていれば神託を聞く必要が無い。
そして両親に送る手紙の枚数も少しずつ減っていった。
「お嬢ちゃん。私次の駅で降りるわね。ありがとう」
回想にふけていると老婆に優しく肩を叩かれた。老婆に荷物を返す。
「えぇ。お婆さんもお気をつけて」
「貴方は何処の駅で降りるの?」
「次で降ります」
「あら、同じ駅?」
「いいえ。一つ前の駅です」
老婆が目を見開く。
「わざわざ私の為にここまで持ってくれたの?」
「えぇ。ですがご心配なさらず。時間はありますから、目的の駅まで折り返しますよ」
「あらまぁ」
数秒後見開かれた目は再び優しい三日月型に変わっていた。そして、風呂敷から取り出された饅頭がポケットに突っ込まれる。
「はい、これあげる。ご親切にありがとうね。橘樹の巫女さん」
「待ってください。どうして私が橘樹出身であることを……」
私の制止など一切聞かず、老婆は電車から降りる人混みの中へ姿を消した。
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