第2話 



第1章 たくらみの夕暮れ


(2)


 ケンタロウはこれまでの人生で、一度たりとも生まれてきて良かったなどとは思ったことがなかった。父親は建設作業員だった。ケンタロウが3才の頃、父は末期の肺癌となり病室で息を引き取った。のちに調べたところ、アスベストによる被害者だったらしい。だがそんなことはケンタロウにとってはどうでもいいことだった。その後、母親は酒におぼれ男を作って失踪した。典型的な不幸の元に置かれたケンタロウは小学校に上がる頃から施設で孤独な日々を過ごした。施設の仲間たちに心を開くことは決してなかった。いつもここから逃れることだけを夢見ていた。ただ従順な振りをしながら……。

 そして17歳で施設を出てからは自分の力だけで生きてきた。しかし、世の中の仕組みはそう甘くはない。年端もいかない施設で育ったケンタロウにとっては厳しい世の中の仕組みが待ち構えていた。思うようには決して行かない、どうしようもない挫折感を味わいつくし、やがて世の中への憎しみを抱いた頃、彼は次第にギャンブル、博打、競馬へとのめり込んでいった。ギャンブルだけが唯一彼の心の隙間を埋める特効薬のようだった。

 それでも彼は必死に、真面目に生きようという良心も持ち合わせていた。だからこれまで大型トラック免許を取得し、運転手としていくつかの運送会社にも勤めた。

 しかしそれも瀕死の状態となる。今現在所属する運送会社から、昨今の不景気により今月限りの解雇を言い渡されていたのだ。来月からの暮らしはもう、途方に暮れるしかない状況にあるのだった。

 それでも彼にはもしかしたらこれで食っていけるかもしれない、という淡い望みがあった。

 それが競馬だ。それは彼だけが持つ特殊能力、競馬だけに発揮される不可思議な能力によるものであった。

 ただそれは前述したように、普通であれば全く役には立たない。1分半後のレース結果が確実にわかる予知能力など、馬券的にはどうにもならないのだ。

 しかしながら時々、その能力がもっとも報われるあるタイミングがあった。

 それはケンタロウが馬券で100万円の損失を迎えた時に唯一起こる現象だった。

 通算で100万円分の負けが確定すると、その次のレースではなぜか勝ち馬が5分前に分かる時があるのだ。ただそれも確実とは言えない。これまでの長年の経験から導き出されるのは2分の1、つまり2回に1回は確実に優勝馬が見える、という特別な能力のタイミングなのだ。

 ケンタロウは月見そばをつゆまで全て飲み干して丼を蕎麦屋の返却口へと戻すと、競馬新聞をおもむろに広げた。

 これまで今日は152800円のマイナス。これは今年春ごろに迎えたトータル100万円負けから数えて、次のトータル100万円負けという数字なのだ。

 ということは次の狙いの有馬記念の優勝馬が2分の一の確率で5分前に見えるということだ。

はやる手を押さえつつ馬柱を見ると……締め切り3分前。まだぼんやりとした煙に隠れるように馬柱がゆっくりととある馬に集まりつつあるようだった。締め切り3分前……やがてぼんやりと浮かんできた。

勝ち馬は……これだ!!


ケンタロウは夢中でその馬の番号をマークシートに塗りつぶした。そしてありったけの金額46700円分を買った。そう、本日の負け額152,800円+500円(月見蕎麦代)を引いたありったけの財産だ。いや、カードキャッシングによるラスト借金だ。

買ったのは武豊が乗るドゥデュース5番

一番少ない並びの券売機を選び、後ろに並んだ。マークシートをオッズまで確かめる時間は残されていなかった。まあまあつくだろうという認識しかなかった。締め切り1分前……額に汗が浮かぶ。

「おい、早くしろよ!」怒号が飛び交う中、素早く金とマークシートを機械に差し込んだケンタロウはなんとか間に合うことが出来た。さあ、その結果は?


2023年の有馬記念が今、全馬いっせいにスタートした。

夢中でモニター画面を見つめるケンタロウをすぐ傍で、あやしい目を向けながら見つめる女がいた。歳の頃は30前後か……大きめの黒いマスクをつけて色付きの眼鏡でケンタロウを凝視する。

その女は5番ドゥデュースの単勝馬券20万円分を持っていた。


 

続く

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