28 夜酒
「師匠、こんな夜更けにどうしたんですか?」
「……師匠じゃないって言ってるでしょ」
アンヌがそう言いながら部屋に入ると、中にはワイングラスを片手に座るリュシアが見えた。
その日はとても静かな夜だった。城の談話室、蝋燭の光がゆっくりと揺らめいて影を落とす。
「私にとって、師匠であることには変わりありません」
「そう、好きにすれば」
軽くあしらわれたアンヌ。苦く笑った彼女は、リュシアに向かい合うように椅子に腰掛けた。
アンヌから目を逸らし、グラス半分ほど残っていた真っ赤なぶどう酒を飲み干すリュシア。テーブルの上にはボトルが二本転がっており、片方は空で、もう片方は半分ほど残っている。
「ノエル様の様子はどうですか?」
「……まだまだ荒削りだけど、順調ね。ノエルには才能がある。その辺の魔族相手なら瞬殺できるくらいには強いはずだわ」
「そうですか」
静かに相槌をうったアンヌは、徐ろにテーブルの方に手を伸ばし、ボトルを手に取った。
「私も飲んで構いませんか?」
「………………」
「そうですか、では」
返事は無かったが、アンヌはそれを否定ではないと捉えることにした。
ワイングラスにたぷたぷと赤い液体が注がれる。芳醇なブドウの甘酸っぱい香りと、アルコール特有のツンとした感覚が鼻を刺激する。
アンヌはそれを一口だけ呷ると、リュシアをじっと見つめて口を開く。
「明後日にはここを出ようかと思っています。短い間でしたが助かりました」
「そう」
リュシアの返事はとても素っ気ないもので、会話はそこでぷつりと途切れてしまった。二人の間には一瞬の静寂が訪れる。
だがその沈黙を打ち破ったのは、むしろリュシアの方からであった。
「あんた、ノエルを監視してどうするつもりなの?」
「…………すみません、今そのことについては言うことはできません」
「”レオノーラ様の下僕”ってわけね」
リュシアは、厭味ったらしく言葉を強調するように、ゆっくりと言った。
アンヌは目を細めながら、グラスに口をつけぶどう酒を飲み込もうとしていた。しかしどうにも喉の奥でつっかえるようで、なかなかその一口を飲み込めないでいた。
「レオノーラ様の下僕」という言葉は、アンヌ自身も何度も口にしたことがあるものだ。しかし、レオノーラを強く憎むリュシアが言ったそれは、アンヌにとって非常に重たい意味を持っていた。
そんなアンヌの動揺したような表情を見たリュシアは、ぱんと机に手の平を叩きつけ、あっけらかんと言い放った。
「今の姿を妹さんが見たら、どう思うのかしらね?」
その言葉はアンヌの逆鱗に触れた。彼女はグラスを乱暴に机に置くと、まなじりを吊り上げて怒鳴る。
「妹の話はやめてください!!!!」
今まで聞いたこともないような強い口調にリュシアは若干驚きながらも、むしろ逆にアンヌを責め立てる。
「あんたの妹は、奴に殺されたのよ!? なぜそんな奴のために……!」
「それは、師匠には関係のないことです!!」
「いいえ、関係大アリよ! 私は、奴の為にあんたを鍛えたわけじゃない!」
リュシアがガタンと椅子から立ち上がったところで、アンヌはハッとしたような表情を浮かべ、返そうとしていた言葉を飲み込んだ。アンヌはリュシアから目を背け、自身の下唇を噛みながら、ゆっくりと口を開いた。
「今に分かりますよ、師匠。……レオノーラ様は素晴らしい御方です」
「そう。なら、二度と私の前に顔を見せないことね」
「……わかりました」
アンヌはまだそれなりに残っていたぶどう酒をするすると飲み干すと、テーブルにそっとグラスを置いた。
いつの間にか頬を伝っていた涙を手で拭うと、今度は晴れ晴れとした笑顔で、リュシアに軽くお辞儀をした。
「すいません、お酒が回ってきちゃいました。私は少し涼んできます。……お酒、美味しかったです。ご馳走様でした」
そう言い残すとアンヌは、すたすたと部屋から出ていってしまった。
リュシアはその後ろ姿を視線で見送ると、閉じられたドアをぼーっと見つめていた。
彼女の持つグラスは空っぽだった。リュシアはボトルに手を取ると、今度は縁ギリギリまでたっぷりとぶどう酒を注いだ。
甘酸っぱい香りになんだか気分が悪くなりそうだった。リュシアはそのゆらゆらと揺れるぶどう酒の液面を眺めながら、この長い長い夜を更かすのだった。
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