未解決事件シリーズ  天才政治家<闇の将軍>田中角栄~ロッキード事件50年目の真実~

長尾景虎

第1話未解決事件シリーズ  天才政治家<闇の将軍>–天才政治家とロッキード事件 ロッキード事件から40年目に明らかになる最後の最新スクープ

未解決事件シリーズ

 天才政治家<闇の将軍>田中角栄

野心家の革命 – 田中角栄、天才政治家の独立とロッキード事件

ロッキード事件から40年目に明らかになる最後の最新スクープ


                  ~やみのしょうぐん たなかかくえい~

               ~田中角栄「闇の将軍」

                 「日中国交樹立」はいかにしてなったか。~

                ノンフィクション 田中角栄の生涯

                 total-produced&PRESENTED&written by

                   NAGAO Kagetora

                   長尾 景虎

         this novel is a dramatic interoretation

         of events and characters based on public

         sources and an in complete historical record.

         some scenes and events are presented as

         composites or have been hypothesized or condensed.


        〝過去に無知なものは未来からも見放される運命にある〝

                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


第一部 ロッキード事件田中角栄逮捕「田中角栄とロッキード事件の真実」いまだからわかる疑獄事件のすべての真実






 なお、ここから「ロッキード事件」に迫りますが、参考文献資料の第一部はNHK未解決事件File.5ロッキード事件(NHK第一部第二部 実録ドラマ2016年7月23日(土)放送分19時30分~20時23分・21時00分~21時58分)(NHK第三部ロッキード事件ドキュメント放送分2016年7月24日(日)21時00分~21時58分)です。

著作権はNHKにあるものと思いますがどうか引用をお許しください。参考文献・参考資料です。また第二部として田中角栄の人生を小説という形でお読みいただきます。こちらの参考文献は津本陽氏著作『異形の将軍 田中角栄』石原慎太郎氏著作『天才』からです。

引用であり無断盗用でも盗作でもありません。裁判とか勘弁してください。

 またこのドキュメントに登場する人物表(キャスト)を引用しておきます。

「東京地検特捜部」本部長・高瀬禮二(東京地検検察長)、副部長・豊島英二郎(次席検事)、捜査統括・川島興(特捜部長)、主任検事・吉永祐介(特捜副部長)、石黒久暤(本部長)、堀田力(つとむ、検事)、村田恒(検事)、松尾邦弘(検事)、小木篁國隆(検事)、松田晃(検事)、山邉力(検事)、安保賢次(検事)、田山太一郎(事務官、アメリカに極秘資料受け取りに)、水野光昭(事務官、アメリカに極秘資料受け取りに)。

「検察庁」最高検察庁・布施健(検事長)、最高高等検察庁・神谷尚男(検事長)、法務省・安原美穂(刑事局長)。

「政治家」三木武夫(総理・内閣総理大臣)、田中角栄(前首相)。

「商社・丸紅」檜山廣(会長・社長)、大久保利春(専務)、伊藤博(専務)。

「戦後最大のフィクサー・黒幕」児玉誉士夫(こだま・よしお)、妻・児玉蓉子、主治医・喜多村賢一、公設秘書・太刀川恒夫、児玉の通訳・福田太郎。

「ロッキード社」アーチボルド・コーチャン(副会長・社長)。

「NHK社会部報道部」伊達孝雄(記者)、大原浩藏(社会部ディスク)。他

検察


(かっこ内は主な後職)

法務省 法務大臣 稲葉修


最高検察庁 検事総長 布施健、次長検事 高橋正八

刑事部長 佐藤忠雄

担当検事 伊藤栄樹(検事総長)、 江幡修三(検事総長)


東京高等検察庁 検事長 神谷尚男(検事総長)、次席検事 滝川幹雄(大阪高検検事長)


東京地方検察庁 検事正 高瀬礼二(東京高検検事長)、次席検事 豊島英次郎(名古屋高検検事長)


東京地検特捜部 部長 川島興 (大阪高検検事長)

副部長・主任検事 吉永祐介(検事総長)、副部長 永野義一(最高検検事)、副部長 藤本一孝(新潟地検検事正)(発覚時副部長)、副部長 石黒久晫(名古屋地検検事正) (藤本氏と交代)

特捜部検事    河上和雄(最高検公判部長)、村田恒(名古屋高検検事長)、松田昇(最高検刑事部長、預金保険機構理事長)、東条伸一郎(大阪高検検事長)、堀田力(4月から参加)(法務省官房長)、小林幹男(仙台地検検事正)、小木曽国隆(さいたま地検検事正)、佐藤勲平(福岡地検検事正、公正取引委員)、浜邦久(東京高検検事長)、友野弘(宇都宮地検検事正)、神宮寿雄(昭和58年東京地検検事辞職)、宮崎礼壹(内閣法制局長官)、太田幸夫 (東京高裁部総括判事)、廣畠速登(長崎地検検事正)、村田紀元、山部力、近藤太郎、寺田輝泰、水流正彦、清水正男、荒木久雄


特捜部資料課長 田山市太郎



「事件の年表」

    1976年(昭和51年)

     2月4日  米国上院外交委員会多国籍企業小委員会の公聴会でロッキード社

           が航空機売り込みのための対日工作を証言

           「ピーナッツ100個受領」の領収書公表

      2月6日  ロッキード社コーチャン副会長が「丸紅・伊藤博専務に支払った

           金が政府高官に渡った」と証言

      2月16日 衆議院予算委員会で証人喚問が始まる。(「記憶にない」)

      2月24日 検察庁、東京国税局、警視庁の三庁合同で丸紅本社や児玉邸など、

           27か所を一斉捜索。三木武夫首相、フォード米大統領に資料の

           提供を求める書簡送る

      3月1日 衆議院予算委員会で第二次証人喚問(「まったく記憶にない」)

      3月4日 児玉誉士夫の臨床取り調べ開始

      3月13日 児玉を約8億5374円分の所得税脱税で起訴

      3月23日 児玉邸に小型機が自爆攻撃、操縦していた自称右翼の男が死亡

      3月24日 米国から資料提供に関する日米司法取り決め調印

      4月2日 田中角栄前首相、田中派の「七日会」事情聴取で「脱会」表明

      4月10日 米国より資料が検察庁に到着

      5月10日 児玉誉士夫、外為法違反で追起訴

      5月13日 自民党の椎名悦三郎副総裁、田中角栄前首相、大平正芳蔵相、

          福田赳夫副総裁が〝三木(首相)おろし〝を画策判明

      6月10日 児玉の通訳、福田太郎が死亡

      6月22日~7月 特捜部、丸紅、大久保利春、伊藤博、

              全日空、澤雄文会長や専務を外為法違反で逮捕

      8月2日 田中前首相の私設秘書兼運転手・笹原政則自殺

      8月16日 田中や丸紅・檜山、大久保、伊藤を贈収賄で起訴(田中逮捕)

      8月17日 田中前首相、釈放(保釈金2億円)

    1977年(昭和52年)

      1月21日 小佐野賢治を偽証で起訴

      1月27日 丸紅ルート、第一回公判(「記憶にございません」)

    1981年(昭和56年)

      1月26日 児玉ルートで小佐野賢治懲役一年(控訴)

      6月8日 全日空ルートで橋本登三郎服役2年6か月執行猶予3年追徴金

600万円(控訴)

           佐藤孝行服役2年執行猶予3年追徴金200万円(控訴)

    1983年(昭和58年)

      10月12日 丸紅ルート、田中角栄懲役4年・追徴金5億円(控訴)

            檜山、大久保、伊藤ら懲役2年6か月執行猶予4年(控訴)

    1984年(昭和59年)

      1月12日  児玉誉士夫死去につき公訴棄却(脳梗塞)

    1986年(昭和61年)

      11月12日  小佐野賢治死去につき公訴棄却(病死)

    1990年(平成2年)

      2月13日  橋本登三郎死去

    1991年(平成3年)

      12月17日  大久保利春死去

    1993年(平成5年)

      12月24日  田中角栄死去

    1995年(平成7年)

            最高裁結審(上告棄却)有罪確定(ロッキード事件全裁判終了)




 それは一通のテレックス(FAX)から始まった。

〝アメリカ公聴会でロッキード社から日本の政府高官に多額の賄賂金受領をコーチャ副会長兼社長が認めた〝

この情報で、日本国中が蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。まさに寝耳に水。

戦後の日本史に大きなインパクトを与え、燦然と輝かしいばかりのカリスマの光を放った男がいる。その男の名は田中角栄。日本政治史上高等教育も受けない身分ながら若くして要職大臣を歴任し、遂には日本の内閣総理大臣にまで登りつめた男である。

そして首相として初めて逮捕までされた男でもある。田中がもらったとされる金は5億円(丸紅ルート)。戦後最大の疑獄ロッキード事件である。小学校しかでていない男、なのにその巨大な集金力と金の力とカリスマが現在、見直されている。

「あんな凄い政治家はいない」「まさに天才」「お金儲けの天才」「天才政治家」今や昭和を代表する人物の人気ナンバーワン(①田中角栄②吉田茂③昭和天皇④マッカーサー元帥)。

そのカリスマ性と出世や社会的成功から、一塊の農民から天下人になった豊臣秀吉にたとえて〝今太閤(いま・たいこう)〝〝コンピューター付きブルドーザー〝〝キングメーカー〝〝闇将軍〝とまで呼ばれた角栄。今や空前の角栄ブームである。吉田茂を超えた角栄…

最後まで身の潔白を主張したまま亡くなった田中角栄。田中角栄とロッキード事件。

ロッキード(トライスター)から丸紅を通して田中に5億円渡ったという〝丸紅ルート〝。

ロッキード(トライスター)から全日空を通して2億円が渡り、政府高官へと流れたという〝全日空ルート〝。しかしそれだけではなく、ロッキード社からの21億円入手ルート(児玉ルート)は未解決のまま。21億円ものお金の渡った場所や政府高官名さえ、わからなかった。東京地検の600点を超す極秘資料の存在が明らかになった。

特捜の鬼・吉永祐介(故人・2013年死去)が密かに記していたものである。

当初、検察は田中角栄とは別の人物を徹底的にマークしていた。

昭和の怪物・闇のフィクサー児玉誉士夫(こだま・よしお)である。児玉に21億円が渡り(児玉ルート)その金が政府高官に渡ったとされる未解決事件…

また児玉は軍用機の交渉にもあたっていたともいう。事件から40年。あの熱狂の中、田中角栄逮捕という謎に迫る資料を基にしたドキュメントである。


〝あの事件は日本にはびこる闇のほんの端っこに過ぎない。ただ、あれ以上は触れられない〝(元・特捜検事)


 1974年2月5日未明。NHK報道部社会部に一通のテレックス(Fax)が届く。ガガガッ…当然英文。その内容に社会部のデスクの男は驚愕して用紙を取り出すと、部屋で寝ていた伊達記者を叩き起こした。

「大変だ! 伊達、とんでもないことだ! 早く起きろ、寝ている場合じゃないぞ!」

「……なん…すか。何か…事件…ですか?」

「米国の公聴会でロッキード社のコーチャン副会長兼社長が…日本の政治家や政府高官などに大金の賄賂金を流したと認めた!」

「……え? まさか!」

もはや蜂の巣をつついたような状態にまでなる。まさに寝耳に水。

「賄賂金? 5億円? 2億円? 児玉ルート? 21億円?」

まさに大騒動である。

早朝の新聞朝刊の一面はもちろん〝ロッキード事件〝である。

検察の鬼・吉永祐介は自宅で朝食を取っていた。「おい、新聞!」

朝刊新聞の第一次情報で〝丸紅・児玉へ資金か?〝との見出し。

「おいおい。あの児玉誉士夫かよ。」

吉永祐介は眼鏡を落としそうになった。

当然、ご飯にみそ汁の質素な朝食である。

児玉誉士夫(こだま・よしお)…政財界の黒幕・戦後最大のフィクサー・国士…戦後の黒幕として何度も名が挙がりながら一度として逮捕されたことがないフィクサー。大黒幕。首領(ドン)。アンタッチャブルな存在…

児玉誉士夫の外見はまるでブルドッグのような坊主頭の老人である。NHKのドキュメントドラマでは俳優の刈谷俊介さんが演じていたが、どちらかと言えば元・ボクサーでタレントのガッツ石松さんみたいだ。もう高齢で病床にあった。

日本の政界・財界ややくざ・暴力団組織、軍事産業などに影響力を持ち、まさに影の惣領(ドン)……戦中は日本軍に武器を売り込む児玉機関で、戦後は闇の人脈で、日本の権力中枢機関をフィクサーとして動かし続けた伝説の国士……

吉永祐介は傘を差し、東京地検検察庁に入庁した。

すぐにマスコミがスクラムを組み、「吉永さん! ロッキード事件では検察はどう動くんですか?」と聴くが吉永祐介は答えず、無言で、扉を閉めた。

「…糞っ!」マスコミは扉を叩く。

…これはおおきな事件になる……もう後戻りはできないぞ。

吉永祐介は覚悟を決めていた。

水面下で捜査をすすめていた検察。そのターゲットは田中角栄ではなくロッキード社の秘密交渉人を務めていた児玉誉士夫であった。

アメリカから明らかにされた賄賂のルートは3つ。まずは総合商社・丸紅の「丸紅ルート、5億円」(田中角栄に流れたとされた)、直接ロッキード社から旅客機トライスターを購入した全日空の「全日空ルート、2億円」(日本の政府高官にも渡ったとされる)、今でも未解決なのが黒幕・戦後最大のフィクサー児玉誉士夫からの「児玉ルート、21億円」である。

今でこそそれだけ?という額だが、40年前ということを考えると×10倍くらいの価格か?

吉永祐介は部下の水野に「児玉に関する極秘資料などをすべて集めてくれ」と命令した。

児玉誉士夫の東京の大豪邸にもマスコミがメディアスクラムで集まっていた。

何度もインターフォンを押して待ち構える。

執事なのか使用人なのかのよぼよぼ老人が玄関内扉を開けて、出てきて、

「児玉さんはおりますか?」

「いやあ。私どもも困っておりまして…児玉は今旅行中でして。連絡が取れないんですよ」

「旅行? どちらに?」

「いやあ。確か、伊豆……とか…。」

マスコミは蜘蛛の巣を散らすように去った。「伊豆だってよ! 伊豆だ!」

また丸紅でも同じくメディアスクラムだった。

一連の報道で丸紅にも苦情の電話が殺到し、マスコミが蟻のように集まっていた。

「丸紅さんの意見をお願いします!」

「何かないんですか? あの資料の領収書のサインのヒロシ・イトウ…ってあんたんところの専務だろう!」

「すいません。弊社では現時点では判断しかねまして…明確なお答えができません」

「何だそりゃ? 逃げんのか!」

「いやあ。そのようなことでは…」

商社マンの課長級の男はしどろもどろになる。

わかるわけもない。サインしたのは専務で、トップクラスの意向というか何だか知らないが上層部の意向であり、下っ端などにわかる訳もない。

だが、世論は児玉憎し、政府高官は誰だ? ともう集団ヒステリー状態である。

ロッキード社の書類に「I received ore horded peanuts.」(ピーナッツを100個受領した)という書類に「ヒロシ・イトウ」の署名が。また、ピーナッツではなくピーシーズという謎の文章もあった。「I have received 125(one handed twanty-five)pieces.」

丸紅本社会長室では、社長の檜山社長や大久保利春専務らが、伊藤博専務を責めていた。

「君はあんな領収書にサインしたのかね? まったく…」檜山は怪訝な顔で言った。

大久保は何か言おうとしたが、言わず、伊藤専務は頭を下げるのみである。

ちなみに大久保利春は、明治の元勲・大久保利通の孫である。晩年は「死んだじいさんに顔向けが出来ない」を口癖としたという。

吉永祐介検事長ら検察はやはりターゲットを児玉誉士夫に絞っていた。

「今や日本では一年間に千件もの贈収賄がある。日本が腐ろうとしているのに検察が動かない訳にはいかない! これはまさに八年前のリベンジ(復讐)だ!」

八年前とはちょうど検察庁の人事が一掃され、自殺者まで出た、検察庁や東京地検特捜部の政治家や官僚による「骨抜き事件(いわゆる『日通事件』)」である。

政治家や官僚が60年安保で懲りて検察の力を骨抜きにしようとして自殺者までだしたのだ。

その中で吉永祐介検事や他の検事数人だけは踏ん張った。

マスコミは「検察は八年間も沈黙したままだ」と揶揄するし、検察庁も焦っていたことはいなめない。また、田中角栄逮捕はよくわからない。田原総一朗さんや石原慎太郎さんが言うように〝検察の小説(吉永祐介サイドの?)〝なのか? それとも軍用機P3C対潜哨戒機を巡る軍産複合体による私刑(死刑?)? なのか?

ベトナム戦争が終結してロッキード社が経営的にいきづまっていたのは確かだ。

よくわからないところは確かにある。だから、何度も「闇だ」「日本の闇だ」と書いている。

生半端な遊び感覚の推理では、到底、田中角栄元・首相の贖罪など無理な話である。

とにかく、三木武夫・首相(当時)が事件を利用したことはわかっている。

児玉誉士夫や小佐野賢治や笹川良一らはCIAのエージェントでもあったから、軍産複合体の利権でスケープゴート(いけにえの羊)にされたり、利権がらみの謀略の闇がある。

そこは誰にも触れられない。まさに闇、である。

結局、児玉誉士夫は黒幕として逮捕されるが、すでに主治医の喜多村がいうようにすでに死にかけ、であり、吉永祐介検事長の命令を受けた松田検事らがガサ入れと寝たきりの児玉誉士夫の臨床尋問をした。

児玉は屋根裏の隠れ部屋で寝たきりで、出入りは隠し階段。

病状が悪化していたので屋根裏部屋の暗い部屋で児玉誉士夫はふとんで寝たきりだった。

かつて黒幕・戦後最大のフィクサーと恐れられた男は病床でおびえていた。

児玉誉士夫は〝第一次FX(F104戦闘機を日本に輸入する秘密代理人として)〝名前が挙がっていた。〝国士〝とも呼ばれた児玉が何故暗躍したのか?〝日本の再軍備が悲願〝の児玉側と〝トライスターや軍用機を日本政府に売りつけたい〝ロッキード社の意向が合致した。

児玉はお金に転んだ訳ではない?

「……児玉誉士夫さんですね?」

「………はい。」

「東京地検の松田という検事です。あなたに所得隠し脱税や外為法違反の疑いがかけられています」

「そ……そうですか。」

「ロッキード社のコーチャン副会長はご存知ですね?」

「……はい。」

「お金をもらいましたか? あなたに不利な証言ですから黙秘でもいいのですよ?」

「……もらいました」

「それは…税務処理しましたか?」

「…いいえ。もらった金は…税務申告していません。……不覚です」

もう畳敷きの布団に寝たきりで、弱弱しい声で話す児玉…

そこにはかつての黒幕・戦後最大のフィクサーのカリスマはなかった。

「署名できますか? あなたに不利な脱税容疑の署名ですが。」

「はい。します。……検事さん。児玉誉士夫の〝よしお〝の漢字が…思い出せません…。」

「いいですよ。ひらがなでもカタカナでも」

「…はい」

児玉はすべてを吐いた訳ではなかった。

署名もして脱税と外為法違反では在宅起訴できたが、肝心の21億円やP3C対潜哨戒機の導入を巡る証拠はとっくに隠滅していた。

秘書が燃やしたと認めた。

書類もハンコもすべて燃やしたという。

脱税や外為で起訴するのが検察にはやっとだった。

そんな中、丸紅ルートの中で大物政治家・前首相(当時)の田中角栄の名前があがったのだ。当時の三木武夫首相は大規模な資金力と数を誇る田中派とは一線をかくす、弱小派閥の出身で、クリーンさ、だけが売りであり、国民も半場呆れて見ていた。

三木は「必ずロッキード事件を解決する。政府高官の全員の名前も公表する」と息巻いた。

マスコミは三木武夫首相(当時)の国会答弁をテレビで観ながら、

「三木はクリーンさ、だけが売りだからな」

「この三木武夫は、一国の首相として、何としてでもこのロッキード事件での賄賂を受け取った政府高官の名前をすべて明らかにして、犯罪者には天罰を加えます」

「おいおい。こんなことまでいって大丈夫なのか?」呆れまくっていた。

「おい!」

オフィスの黒電話できいていた男が、叫ぶようにいう。

「おい! 今日の国会議会で法務大臣から田中角栄元・首相の名前が出たってよ!」

なぁに? おおっ! しかし、法務大臣は「失言だった」と夕方には否定する。

東京地検が簡易みたいな記者会見を開くが、

「吉永さん! ロッキードのA・C・コーチャン社長のいう〝賄賂〝が渡った〝日本の政府高官〝とは? すでに捜査は進んでいるのでしょう? 逮捕もありますか!」

「三木首相は政府高官の名前を必ず公表する、と国民に約束されていますが…検察も東京地検も警視庁も、やってくれますよね?」

「お答えできません。捜査に支障がでますのでお答えできかねます」と、〝出来ない〝〝出来ない〝を繰り返すばかりだった。

「なんですか?」

「こんな〝出来ない〝〝出来ない〝だけの記者会見なんざ〝子供だまし〝だ!」

「そうだそうだ!」

「検察や特捜は8年前から〝沈黙〝したままじゃないか!」

「マスコミを舐めるな! とにかくなんでもいいから情報を!」

「ですから。………捜査に支障がでますのでお答えできかねます」

吉永や上層部は、それで記者会見を押し通した。


マスコミは『ロッキード事件』の解明にやっきとなり、会議に次ぐ会議、取材に次ぐ取材だった。それは伊達記者のいるNHKの報道局などでも同じだった。

「まず、ロッキード社の米国のチャーチ委員会での賄賂のルートを確認しよう」

ボードに写真やペン入れをしていく。

オフィスで、口ひげの上司は背広のまま、書き上げる。

「まずはロッキード社が日本に売り込みたかったのは『旅客機トライスター』。そして未確認だが、P3Cだ」

「P3C?」

「馬鹿。ロッキード社生産の対潜哨戒機だよ」伊達は、無知な新人の指宿に突っ込む。

「対潜哨戒機(たいせんしょうかいき)?」

「馬鹿なのか? 海底深くにいる敵の潜水艦を上空から探知する特殊軍用飛行機さ」

「今、米ソ冷戦中だろ? 近頃のソ連(ソビエト連邦・現在のロシア)の潜水艦は深海深くに潜り、約二ヶ月間もレーダー探知不可能なところで潜水して敵基地まで近づけるらしい。P3Cがあれば見つけられる。だが、高額だし、メンテも更新もある。これが利権だな」

「まあ、伊達。指宿も。まあ、俺の話もきいてくれ。」

「ボス、贈賄のルートは3ルートらしいですね?」

「ああ。ロッキード社から、まずは『丸紅ルート』そして『全日空ルート』そして『児玉ルート』だ」

「児玉って、あの闇の武器商人・日本のフィクサー児玉誉士夫ですか?」

「そうだ! 〝戦後生まれ〝の指宿、知っていたか?」

「はい。それはさすがに…」

「そりゃあ、奇蹟だ」ボスの冗談に一同は笑った。

「やめてくださいよ、ボス! 僕はこれでも東大卒なんですから」

「東大……って、東北大学?」

「東京大学ですよ! やだなあ」指宿はおどけてみせた。

「ロッキード社からの賄賂は、まずは『丸紅ルート』で5億円。そして『全日空ルート』で2億円。そして『児玉(誉士夫)ルート』で21億円だ」

「21億円かあ。ここのルートだけ、額が大きいですね。そこから更に丸紅・全日空ルートから日本の政府高官に、かあ。俺等サラリーマンからしたら何億とかは大金ですがね。大企業や金満政治家にしたら〝おこづかい〝程度のお金かあ」

「だが、ロッキードにしたらどんなフィー(費用)を払っても得たい受注だということだ。値段が高いし、毎年のメンテナンスやバージョンアップや更新もある」

「世界的大企業にしたらたいした大金でもないのだろうな」

「うらやましいー!」

「指宿! 犯罪者をうらやんでどうする? 俺等は正義のマスメディアだぞ」

「すいません。でも、本心ですよ。僕は東大ですから」

「まずは賄賂(わいろ)の請託だな。請託次第だな」

「〝請託(せいたく)〝?」

「馬鹿! 賄賂のカネの証拠だよ。裏金をもらったという明確な証拠・明細書がなければ逮捕できないんだよ」

「でも、アメリカの司法の裁判所や関係者は認めているんですよね?」

「それはアメリカでのことで、アメリカの裁判記録は日本の司法ではつかえないんだ。これは検察や東京地検特捜部が動くしかない」

「ですが、何故国士ともよばれ畏れられた児玉誉士夫が賄賂を?」

「結局、お金が欲しかったのかも。信じたくないが」

その夜、吉永祐介のアパートを、伊達記者が背広にコート姿で訪れた。数名の記者やカメラマンもいる。吉永がタクシーでやってきた。

「お疲れさんです」「お疲れ」数人のメディアが挨拶する。

「吉永さん。特捜部、検察は何処まで考えていますか?」

「伊達くんか。記者がおれのところにもいるのか。全員、児玉誉士夫の豪邸の前にいったと思っていたがな」

「吉永さん。話しをそらさないでください。気の早い話ですが、田中角栄までいきますか?」

「田中角栄? なんで角栄なんだ?」

「噂ですよ。あくまで。でも、法務大臣は田中角栄の名前をだした。すぐに引っ込めましたが。それとも検察は八年前と同じく、沈黙したままですか?」

「なにっ!」

「〝今太閤〝〝闇将軍〝〝コンピューター付きブルドーザー〝〝キングメーカー〝田中角栄は大物だから敵にまわせませんか?」

「大物だろうが、どんな地位にあろうが大金持ちだろうが関係ない。検察は悪い人間や犯罪者を捕まえるのが仕事だ。例え〝元・首相〝だろうが関係ない!」

「じゃあ、期待しますよ。いいんですね?」

「……約束はできん」

だが、吉永祐介は「脱税」「外為法違反」でいける、と思っていた。

早朝の、検察の会議では、はっきりそういった。

「児玉誉士夫に関しては「脱税」「外為法違反」でいけると思う。あとはアメリカの証言の裏付けと請託だ。」

堀田力が意見を挟んだ。「アメリカの証言の裏付けと請託についてはわたしにやらせてください! 米国に少しですが人脈があります。そのルートであたってみます!」

「だが……」吉永は続ける。「そんなに上手くいくのか? 自分の所で秘密にしているのに日本の司法に口を割るのか?」

「やってみる価値はあると思います」

「自分の国で犯罪に問われるのがわかっているのに証言する訳がない。甘い!」

「そんなことやってみなければわからないじゃないですか!」

「……わかった。堀田くん、アメリカ方面はまかせた。児玉の容疑のうち、脱税の時効はあと三ヶ月しかない。児玉誉士夫は「脱税」「外為法違反」で釣り上げる」

「でも、児玉は病気で寝たきり……まさか「臨床尋問」ですか?」

「そうだ! 「臨床尋問」だ!気合いいれていけ! これからが勝負だぞ!」

…はい!!

こうして前述した、児玉誉士夫への「臨床尋問」がおこなわれた。

児玉邸の前には大勢のメディアが溢れていて、児玉の主治医のおじさん医師が裏門から出てくると、メディアスクラムをかけてきた。

「児玉さんの様態は?」

「え~つ。児玉さんの病状は大変に深刻……〝視野狭窄〝〝高血圧〝〝脳機能低下〝〝心不全〝〝不整脈〝……」

「Hello.Nice to see you again.」

堀田力はロッキード裁判のカリフォルニアに飛行機で飛んで、司法関係者にあった。

英語が得意で、流暢な英語を話す堀田を、白人検事たちは歓迎した。

いろいろ動いた挙げ句、堀田は検事長の吉永祐介に国際電話をかける。

それはロッキード社のコーチャンらが『司法取引』が適用されるなら、証言してもいい、というものだった。

「馬鹿野郎!」

 吉永は受話器越しに怒った。「日本では司法取引は認められていない!」

「そんなことわかっていますよ! でも、証言して罪に問われるなら誰も証言しませんよ」

「だからあれほど俺がいったんだ!」

「話しを蒸し返しても仕方ないでしょう?」

「とにかく交渉を続けてくれ」

吉永は電話を切った。

しばらくしてから、検事長室の電話がまた鳴った。「はい、吉永」

「アメリカの堀田です。司法取引の件は進展なしなのですが、米国の司法現場ではいままでの裁判の写し、つまり、コピーなら日本の総理大臣の秘密特使になら渡してもいい、と」

「なにっ? 本当か? ……首相は無理だろうが法務大臣のなら許可が取れるかも知れん」

「そうですか」堀田は安堵のため息を漏らした。「今日の深夜までにお願いします」

「なにっ」

 なにはともあれ、日本の法務大臣の許可がおりた。検察のふたりの男が秘密裏に渡米し、裁判資料の写し(コピー)を受け取りにいくことになった。

当然、変装して、偽装パスポートと僅かな軍資金での渡米となる。

「絶対にマスコミにバレてはならない。すべて極秘だ。女房にも子供にも渡米のことはいうなよ」

「はい」

「わかりました」

「マフィアに狙われるかも知れない。〝付けひげ〝も忘れるなよ」

吉永はふたりの部下を脅した。部下のふたりは不安になる。……〝付けひげ〝?

ふたりはサングラスにアロハシャツに〝付けひげ〝で変装し、成田空港から飛行機に乗った。

別の日には、丸紅の大久保利春専務が、事件の余波を受けて勤務先のアメリカから帰国したのをマスメディアが空港で取材したという。

アメリカから裁判の資料(『L資料』)の写し(コピー)の紙の分厚い束を受け取り、帰国したふたりは、吉永らの待つ検察に空港から電話した。

「もしもし。今、日本に着きました。裁判資料(『L資料』)」の写し(コピー)はカバンの中です。誰にも身元はバレてはいません」

吉永は窓のブラウィンドウから外を眺め、

「マスコミさんたちは、もう検察の前で待ち構えているよ。あ、〝チンピラの格好〝のまま検察に帰庁するなよ」吉永は電話を切る。

「……なんだって?」

「もう、ばれていたって」

「え?!」

 こうしていわゆる『L資料(米国ロッキード裁判資料の写し)』は運ばれた。

背広姿のふたりはマスコミのカメラのフラッシュの中、帰庁した。

『L資料』には、確かに、政府高官の名前も書かれていたが、重要なP3C(対潜哨戒機)に関することは見事に抜け落ちていた。

「……TANAKA? 田中角栄か? KODAMA…児玉誉士夫? 小佐野賢治?」

吉永は躊躇した。「試されているのか?」

 脱税捜査。捜査会議。吉永の上司が、

「警視庁と検察も仲間に入れてくれ、といってきた」、と。

「反対です! 捜査機関の規模が大きくなればかならず情報が漏れます! あとになってからその情報は知りませんでした、みたいな言い逃れでは検察や特捜の常識が疑われます」

「まあ、まあ、警察も必死なんだよ」

「この山(事件)は警視庁の〝出世の道具〝ですか?」

「そうまではいってないだろう? でもさ、同じ、官庁組織なわけだし。同じ公務員でさ」

「必ず情報が漏れますよ! 反対です!」

そして、やはり、情報はもれた。

新聞に田中角栄の名前……「だから言ったんだ!」

吉永祐介は怒りのまま、新聞紙を机に叩きつけた。

資料がアメリカから渡る。だが、P3Cがまったくない。

検察でも堀田力(つとむ)検事らがアメリカに飛び交渉したが日本では当時〝司法取引〝は認められていなかった。アメリカで出た資料は日本ではつかえない。

かといって、アメリカで罪に問われることを日本でロッキード社のコーチャンなどが証言する筈がない。嘱託尋問、しかない。にしても資料が少ない。

日本の検事二人が秘匿でアメリカまで行って資料をもらったがすぐにマスコミにばれた。

この〝L資料〝にもどこにもP3Cのことがない。見事に抜け落ちていた。

「試されているのか?」

「…国家ぐるみのクイズか? 謀略の臭いがする。〝TANAKA〝? 田中角栄か?」

児玉の通訳の福田太郎は病死する。

また重要参考人も次々と謎の自殺や病死する。

このように事件が公になり捜査が進んだ前後に、複数の事件関係者が立て続けに急死(ロッキード事件を追っていた日本経済新聞の高松康雄記者が1976年(昭和51年)2月14日、上記児玉誉士夫の元通訳の福田太郎が同年6月9日、さらに田中元首相の運転手である笠原正則が同年8月2日)するなどマスコミや国民の間で「証拠隠滅と累が及ぶのを防ぐため、当事者の手先によって抹殺されたのではないか」との疑念を呼んだ。

しかし捜査が進む中、1976年5月24日に行われた参議院内閣委員会において社会党参議院議員の秦豊より警察庁刑事局の柳館栄に対して福田や片山、鬼などの関係人物に対する身辺保護の必要性について質問が行われたが、「それらの人物からの身辺保護の依頼がなかったことから特に(警察は)何もしていない」という返答しかなかった。

その上、この答弁が行われた翌月には上記のように福田が死亡するなど、再び関係人物の身辺保護の必要性が問われるような状況になったにも関わらず、警察はその後も政治家以外の民間人(「自ら(関係の深い暴力団)の手」で身辺保護が可能な小佐野や児玉は除く)に対して表立った身辺保護を行わなかったことから大きな批判を呼んだ。

またしても検察の極秘情報は漏れて、「田中角栄」の名前が新聞に踊る。

「くそ、だからいったんだ!」吉永祐介は新聞を見て怒った。「やはり漏れた」

吉永祐介と伊達記者は、吉永のアパートで、ビールを呑んだ。

「吉永さん。今度は、検察の姿勢は八年前の『日通事件』とは違いますよね?」

「ああ。俺たちだって八年前のことは忘れとらん」

「上の人間は吉永さんことを高く買っておりまして。八年前の事件で検事のほとんどは粛清されたが、吉永さんは生き残りだからやってくれるって」

「やってくれる?」

「とぼけないでください。田中角栄や賄賂を貰った政府高官達の逮捕ですよ」

「政府高官? 角栄? 松本清張の刑事小説じゃあるまいし」

「検察は角栄をずっと狙っていたでしょう? 「今太閤の角さんは高等学校も出ていないのに出世した」「汚いお金を大量にばらまいて出世した」って。官僚は嫉妬してみんないっていますよ。彼らは、一流大学は出ているが、田中角栄の莫大な資金力に羨望している」

「新潟県の雪深い田舎から東京に出て、高等学校も出ていないのに、土建屋を起こし、あれよ、あれよ、と、大出世。庶民は百姓(農家)から天下人になった豊臣秀吉になぞらえて、〝今太閤〝、と。庶民はそういう話しは好きだが、一流官僚は大嫌いな話しだからな」

「だからこそ、角栄はスケープゴート(生け贄)になるんです」

「伊達くん、もう帰れ。何も話すことはない」

「重要なのは〝角栄逮捕の後〝ですよ。検察の威信がかかっています」

「……威信か」

 吉永はたばこをくゆらせた。伊達は去った。

検事の男は、病院に入院中の児玉誉士夫の元・通訳者の福田太郎に面会にいった。

面会謝絶の重病だったが、意識はあった。

「これは……この資料のコピーのこのサインと印鑑は児玉誉士夫さんのもので間違いがないでしょうか?」

福田太郎はもう病床で、立ち上がることも出来なかったが、書類を見せるとゆっくり頷いた。

福田と児玉誉士夫の出会いは、巣鴨プリズン(巣鴨戦犯収容刑務所)で、である。

戦時中は日本軍部にとりいり、〝児玉機関〝という組織を動かして、日本軍に武器を大量に売りつけ、日本敗戦後は、GHQやアメリカや日本の政財界、暴力団組織に太いパイプをもった国士、愛国者右翼、戦後すぐはいわゆる「A級戦犯」として収容されていたが裏金をばらまいて出獄した。そのときに通訳をしたのが福田太郎であった。

「これはいけませんな」児玉の主治医はいう。児玉邸にはなおも大人数のマスコミがいた。

児玉誉士夫の様態が悪化し、救急車で病院へ向かうことになる。しかし、マスコミで騒然として、もはやパニックである。

メディアスクラムをかけてきた。救急車の窓から、あるいは、救急車のバックドアに記者が張り付いて、写真を撮る。児玉は寝たきりだが、奥さんや主治医が、毛布で、児玉を隠す。もう、自宅豪邸へ引き返すしかない。そう判断した救急隊員たちは、救急車で引き返す。

 その夜、伊達記者たちは赤提灯で一杯やっていた。

「指揮権発動(しきけんはつどう)? なんすか、それ?」

またも指宿は無知である。

伊達は「法務大臣が持っている権限だよ。指揮権を発動して、政治家の刑事捜査を無効にして無罪にしちまうんだ」

「そんな卑怯な真似許されるんですか?」

「確かに、卑怯かも知れない。だが、指揮権発動も政治家の特権だよ。前に〝造船疑獄〝の時の佐藤栄作元・首相もこれで助かったんだし。政治家が狙っているのはそれだよ」

「じゃあ、あの角栄も?」

「まあ、角栄も、元・首相だからな。佐藤栄作のときみたいに自民党はやるかもな」

検事室でテレビを観ていた吉永は、児玉の病院の映像で、苛立った。

「政治家のやりそうなことだ。田中に病院に逃げ込まれたらおわりだ」

そんな中、あの大物政治家が、ながい沈黙をやぶった。

田中角栄は堂々とマスコミや国民に「このロッキード事件はかならず解決されなければならない事件だと私は思うのであります! 必ずこの田中角栄が真相をあばいて、必ずやこの田中角栄が無罪であると国民にお約束をする覚悟であります!」と約束する。

だが、国民もマスコミもすでに大騒ぎだった。

「政府高官を死刑にしろ! 名前を全部出せ!」「ロッキード事件の真相を全部晒せ!」「田中角栄は豚箱いきにしろ!」

まさに蜂の巣をつついたような騒ぎであり、集団ヒステリー、ともいえた。

まさに日米安保闘争の学生デモの再来であり、権力闘争のような……最近の集団ヒステリー「脱原発デモ」「戦争法案廃止デモ(戦争法案ではなく安保法案なのだが(笑))」に似ていた。賄賂の請託(せいたく、賄賂の証拠・賄賂をもらったもの渡したものの証言証拠)が必要であったがなかった。

その間に国民は怒り狂い、右翼の男がセスナ機で児玉邸に特攻攻撃をして死亡するなど不安定な捜査態勢ではあった。児玉の態度に怒ったポルノ俳優の前野光保が同年3月に児玉邸へのセスナ機による自爆テロを行ったが、児玉は別の部屋に寝ていて助かった。

海外メディアは「KAMIKAZE PAILOT(カミカゼ・パイロット)」と囃した。

当時、児玉が経営する企業の役員を務めていてセスナ機が突っ込んだ時も駆け付けた日吉修二(2016年7月死去。最後のインタビューとなった)によると事件発覚直後、児玉の秘書から急遽呼ばれ段ボール5箱分の書類をすぐに焼却するよう指示されたという。

「ちょうど神風特攻隊の真似をして児玉さんの自宅にセスナで突っ込んだ「なんとかさん」というひとが、操縦席で死んでいてね。まだ、セスナは突っ込んだばかりだから煙が出ていた。それでも児玉さんは無事。これが天下の児玉だと思っていますよ。

それはやっぱり日本の為の国士ですから、何か事を起こすのにはやっぱ資金がないとね。(資金の)必要があったんじゃないかなと思う。これやっぱりロッキード事件に絡んだ書類くらい思っていますよ。

伝票みたいなものもあったし、色んな綴じてある書類もあったし、そんないちいちね見ながらこれは焼いていいか、それはやらない。私、意外と忠実だから言われたらピッと焼いちゃう。ただ燃やしていてチラチラ見える中には、英語の物もあったと思います。」

日吉は児玉の指示通り、重要な資料や証拠を(ハンコも)焼却して「証拠隠滅」した。

児玉の通訳の福田太郎も死ぬ直前、「アメリカの公聴会で領収書の一部が公表されることになりました。ロッキード社から児玉さんに謝っておいてくれと電話がありました」児玉は「それは話が違う。私に迷惑をかけないようにすると言っていたではないか」と。秘書は、「それを否定しなければなりません。先生は知らないと言えばいい。判子と書類は燃やしてしまいます」と供述している。

たまり(脱税などで不正に集めた金融資産)もなかったが、病床の児玉が秘書に数億円分の証券の束を見させて認めた。

それで勘弁してくれ、ということだろう。

マスコミは現政権の司法長官が『指揮権発動(罪をうやむやにして無罪とする命令)』をすると見ていた。造船疑獄の時も指揮権発動で当時の佐藤栄作首相が無罪となっている。

田中角栄にも指揮権発動されて、無罪になる、そういうことであった。

そういうことではないのが逆に意外だったことだろう。

三木首相と検察等は話しをした。

「ロッキード事件での賄賂をもらった政府高官の名前は全部出せそうかね?」

「それは三木首相。相手の国のこともあるお話ですので」

「出せないのかね? 国民は怒っておる。わからんのかね?」

「はあ」

「この三木武夫は、政治家生命をかけてこのロッキード事件を解決する覚悟だ」

「は……はあ」

「クリーンの三木武夫は国民と約束したのだ。わかるよね?」

 弱小派閥出身で、ただの幸運で、首相に指名されただけの三木武夫……それにくらべて自民党最大派閥で、首相を辞任したとはいえ田中角栄の影響力はまだまだおおきかった。

〝今太閤〝〝闇将軍〝〝キングメーカー〝〝コンピューター付きブルドーザー〝

田中角栄の政治生命が盤石な限りにおいて、三木武夫の安泰もない。

角栄が例え逮捕されても「(法務大臣による)指揮権発動」で、無罪なら、やはり、三木武夫は枕を高くして眠れない。

しかも、ロッキード事件での国会の参考人質疑はその田中角栄の影響力を知らしめるようなことになった。有名な、国会での「記憶に御座いません」質疑。

投機家・小佐野賢治や丸紅の伊藤博専務、大久保利春専務、檜山社長も、

「記憶に御座いません」「まったく記憶にありません」「記憶にありません」を繰り返す。

国会質疑は嘘をつくと「偽証罪」に問われる為に、嘘ではなく、「記憶にない」という質疑で誤魔化した訳だった。……記憶に…ないですな。知りません。記憶にない。……

東京地検特捜部は大ナタを振るった。総合商社・丸紅専務の大久保利春逮捕つづいて伊藤博を逮捕。取り調べと自供について、検察の時効までの期限が迫る中、丸紅檜山社長の逮捕。自供がとれた。檜山は、田中角栄との密談を自供した。田中角栄との攻防。

こうして田中角栄は逮捕された。メディアスクラム。「田中角栄元・首相逮捕です!」

「政治家・実業家・元・首相の田中角栄元・首相逮捕です!」「角栄逮捕!」

そのなかでの『田中角栄前首相逮捕』はまさに国民による私刑(死刑)だった。

田中角栄逮捕は丸紅ルートからである。大久保利春の偽証罪での逮捕で大久保が口を割り、続いて逮捕された伊藤博専務が逮捕され尋問された結果、大久保は逮捕された檜山廣・丸紅社長のお供として1972年8月23日に目白の田中角栄邸を訪れ、檜山と角栄との密談のために退席した大久保が田中角栄に〝トライスターの請託金(裁判ではトライスターの請託金とされるが実は〝P3Cの請託金〝ではなかったか?)〝……何にせよまさに闇である。

1976年7月27日の田中角栄逮捕はまさに請託金を(角栄側は政治献金と主張している)受け取った、という疑惑である。

角栄の弁護士をつとめた外山興三弁護士はいう。

外山「初めから角栄憎し、ロッキード社憎し、のシナリオで進んでいた。検察側の言い分は矛盾であり〝検察側の小説〝で被告人(角栄本人)は逮捕され、冤罪で被害をこうむった」角栄の娘の田中真紀子は「被告人の冤罪は明らかでまさに名誉棄損であり、被告人(角栄)はまさに冤罪です」という。

ロッキード事件での裁判は18年間にも及び、逮捕された関係者は18人以上にも及んだ。

「私は無罪である! コーチャンなど名前も知らない。陰謀である」。当時、角栄は身の潔白を主張したが、そのあとは沈黙を貫いた。

〝田中角栄前首相逮捕!〝まさに衝撃だった。

「田中角栄前首相逮捕です! 逮捕です! 前首相、逮捕です!」

裁判は異例の視聴率をたたき出した。異例の前首相の逮捕…児玉誉士夫や小佐野賢治やら日本の黒幕の名前が加味して疑獄をいっそうと深い闇とした。

「我々のやっていることはドブさらいだ。ドブをさらった後に、綺麗な水を流すか汚い水を流すかはそれこそ国民やマスコミや政治家や官僚がやることだ。検察がやったら〝検察ファッショ〝になる」

吉永祐介検事は言った。その吉永祐介元・検事も2013年に死亡している。

「田中さん、事件の真相は?」

「うんん。………まあ、このお。知らんよ。……」

田中角栄やコーチャン、小佐野賢治、児玉誉士夫、檜山廣丸紅元・会長ら主要容疑者が死亡し、福田太郎ら容疑者も次々に謎の死や自殺や病死を遂げている。

チャーチ委員会での証言内容を受け、検察などの本格的捜査の開始に先立つ1976年2月16日から数回に渡って行われた衆議院予算委員会には、事件関係者として小佐野賢治、全日空の若狭社長や渡辺副社長、大庭哲夫前社長、丸紅の檜山廣会長や大久保利春専務、伊藤宏専務、ロッキード日本支社支配人の鬼俊良などが証人喚問され、この模様は全国にテレビ中継された。

5月、ロッキード事件調査特別委員会が発足した。その後、ロッキードから金を貰ったとして「二階堂進元官房長官、佐々木秀世元運輸相、福永一臣自民党航空対策特別委員長、加藤六月元運輸政務次官」が限りなく黒に近い灰色高官であるとされたが、職務権限の問題や請託の無い単純収賄罪での3年の公訴時効成立の問題があったため起訴はされなかった。

その後、三木武夫首相がチャーチ委員会での証言内容や世論の沸騰を受けて直々に捜査の開始を指示、同時にアメリカのジェラルド・フォード大統領に対して捜査への協力を正式に要請するなど、事件の捜査に対して異例とも言える積極的な関与を行った。

また、捜査開始の指示を受けて2月18日には最高検察庁、東京高等検察庁、東京地方検察庁による初の検察首脳会議が開かれ、同月24日には検察庁と警視庁、国税庁による合同捜査態勢が敷かれた。吉永祐介は警察から情報が漏れていると考えていた。

三木首相は外交評論家の平沢和重を密使として送り、3月5日にヘンリー・キッシンジャー国務長官と会談させてアメリカ側の資料提供を求めた。アメリカ政府は同月23日、日本の検察に資料を渡すことを合意した。

衆議院予算委員会における数度に渡る証人喚問や、5月14日に衆議院で、同19日に参議院に設置された「ロッキード問題に関する特別委員会」などにおいて、これらの証人による証言の裏付け作業が進んだ上、検察などによる捜査が急激なペースで進んだ結果、事件の発覚から半年にも満たない7月から8月にかけて田中元首相や檜山、若狭などの多くの関係者が相次いで逮捕され、東京地方裁判所に起訴された。

田中元首相は1976年(昭和51年)7月27日に逮捕されたのち、8月16日に東京地検特捜部に受託収賄と外為法違反容疑で起訴され、その翌日に保釈保証金を納付し保釈された。田中元首相に対する公判は1977年(昭和52年)1月27日に東京地方裁判所で開始され、日本国内はおろか世界各国から大きな注目を集めることになった。

その後1983年(昭和58年)10月12日には懲役4年、追徴金5億円の有罪判決が下った(5日後に保釈保証金2億円を納付し再度保釈)。この第一審判決を受けて国会が紛糾し、衆議院解散のきっかけとなった(田中判決解散)。

田中元首相はこれに対して「判決は極めて遺憾。生ある限り国会議員として職務を遂行する」と発言し控訴したが、1987年(昭和62年)7月29日に控訴棄却、上告審の最中の1993年(平成5年)12月16日の田中元首相の死により公訴棄却(審理の打ち切り)となった。

まさに〝深い闇〝で、ある。

小佐野は1976年(昭和51年)2月から行われた衆議院予算委員会において第1回証人として証言したものの、上記のような「証言」が偽証罪(議院証言法違反)に問われ、翌1977年(昭和52年)に起訴され、1981年(昭和56年)に懲役1年の実刑判決を受けた。判決が言い渡された翌日に控訴したものの、その後1986年(昭和61年)10月に小佐野が死去したために被告死亡により公訴棄却となった。

そしてここからはロッキード事件40年目の真実、スクープに迫ろうではないか。

1976年7月27日田中角栄前首相逮捕。首相の犯罪が初めて裁かれたロッキード事件。5億円をうけとったとされた。空前の角栄ブーム。しかし、田中の最大の汚点となったロッキード事件の闇はとざされたままだ。追及したジャーナリスト立花隆も遂に謎に迫れなかった。

ロッキード賄賂金、丸紅ルート(5億円)、児玉誉士夫ルート(21億円)、全日空ルート(2億円)。

本当はP3C(軍用機)の現代までの1兆円(現在まで日本の輸入は100機以上)の利権ではなかったのか?

当時、児玉誉士夫の臨床尋問をした松田昇元・検事「犯罪となるものはなにもない。脱税のみ。P3Cの資料はなかった」

松尾邦弘元・検事「立証できなければ21億円どころか全日空、丸紅、田中角栄までたどりつけない」

 アメリカ合衆国ジョージア州、ここにロッキード・マーティン社がある。

取材で訪れた。日本の自衛隊機や民間航空機もつくる巨大企業だ。

40年前、P3C(対潜哨戒機)の疑惑が挙がった。P3Cや民間旅客機の日本への交渉を一手にひきうけていたのが社長のアーチボルド・C・コーチャン(A・C・KOTCHIAN)である。

ロサンゼルス地方検察所でも日本や世界のマスコミに「ノーコメント」を貫き、すでにこの世を去っていた。白髪の眼鏡のいかにもインテリそうな大丈夫な老人であった。

吉永祐介元・検事が保管していた600点にも及ぶ極秘資料が存在して読んだ。

その資料にコーチャンがP3Cに関して語っていたことが明らかになった。

P3Cは事件にならなかったので証言が世にでないままだった。

コーチャン「児玉誉士夫の役割はP3C導入を日本政府高官に働きかけることだった。(700万ドル・21億円)。日本の大臣はすぐにかわるので特定の人物と仲良くなっても駄目である。児玉は次の通産大臣(現・経済産業大臣)に誰がなるのか教えてくれた。児玉は私の国務省(日本でいう外務省)だった」

ロッキード社はベトナム戦争終結で経営が悪化し、P3Cや旅客機の売り込みに社運をかけていた。P3Cとは対潜哨戒機のことであり当時の米ソ冷戦下ではソ連の潜水艦を空上で探査発見できる軍用機である。当時のソ連の潜水艦は潜水を一か月も続けられる最先端なレーダーに映りにくいものだった。P3C対潜哨戒機には最新のコンピュータが搭載され米国の軍事の要だった。売り込みの最大の相手は日本だった。

日本では対潜哨戒機の国産化をしようと研究し莫大な研究資金をつかっていたが頓挫した。

大蔵省(現・財務省)の役人に言わせれば「(国産化での研究開発費用は)金がかかりすぎる」ということだった。

児玉誉士夫の闇ルートを介してある男に話をきいた。日吉修二(81歳、日吉は2016年7月11日死去。最後の証言となった)である。日吉は児玉の闇ルートの会社の役員をしていた。これまでロッキード事件を話す事はなかった日吉。

日吉「児玉邸への神風特攻のときの児玉を見たね。緊張したよ、これが天下の児玉誉士夫か、ってね。何か事を起こすには資金(力)がないと駄目だね、って僕にいうのよ。段ボール5箱分の資料を焼却するように指示された。今に思えばあれがロッキード事件の極秘資料だったのかなあ? と思うね。英文のものもあったしね。」

福田太郎(児玉誉士夫の通訳・事件中に病死)「ロッキード事件で児玉の名前がでると。ロッキードの社長のコーチャンに「児玉に謝っておいてくれ」と、いわれました。児玉が「それは話が違うじゃないか! 私に迷惑をかけないといっていたではないか!」と怒りまして私が先生は「しらなかった」といえばいいといいました」21億円の金の流れは今も闇の中。

堀田力(つとむ、82歳・2016年時)「まだP3Cでいろいろあるはずだが、うまくお金をかすめとる手段はわかっているが深い闇には遂に辿り着けなかった。深い闇に一本の細い光を射しただけなのがロッキード事件。深い闇があって、それ以上はたどりつけなかった。国民としては闇を照らしてくれという期待を裏切り、その点はやはり悔しいというか申し訳ない、というか」

40年間沈黙を守ってきた人物が取材に応じた。

丸紅元・航空機課長・坂篁一(さか・こういち 87歳・2016年時)。

大久保利春の直属の部下で、ロッキード事件のコーチャン社長と直接交渉をするキーマンだった。坂は事件当時の事件関係者でも知らなかったある内容を口にした。

坂は逮捕された大久保利春の直属の部下で、丸紅の交渉人であった。

坂「丸紅ルートの5億円を提案したのは自分だった。政治献金を出させましょう、と。(1972年8月→トライスター購入?→10月全日空トライスター民間旅客機購入)」

しかし、坂は意外なことを口にした。

坂「全日空がトライスターを購入するのはもう決まっていた。最大のマター(問題)は、P3Cに関すること。それに力を注ぎましょう、と。当時、日本で対潜哨戒機の国産化計画が進んでいて、国産では丸紅は一円も儲からない。P3C導入輸入なら丸紅の利権(口銭・こうせん・口利き料)も大きい」

コーチャン証言「丸紅の大久保は「もし大きな取引をしたいなら5億円は基準レート(価格)だ」といった。日本は最大のマーケットで丸紅からの今後の輸入がだめになるといわれると大変だった。P3Cの売り込みの関係もあり、支払わざるを得ないと考えた」

田中角栄の元・側近で大臣も歴任した石井一(87歳2022年6月6日死去)。

石井は独自の情報ルートでロッキード事件と田中角栄の金脈を探ったという。

石井「田中さんが金をもらったとは考えにくい。なにか巨大な圧力がかかり、田中角栄がスケープゴート(いけにえの羊)になったのではないか? P3Cが本筋だったんじゃないかなあ」

相澤英之元・大蔵省主計局長(97歳・2016年時・2029年死去・99歳)は語る。

相澤「田中さんは事業をしていましたでしょう? だから、何かやるときに財源やお金が大事なのだってちゃんとわかっていましたね。僕たち官僚の中でも田中角栄にお金をもらったひとなんていっぱいいますよ。政治家もいっぱい大金をもらっていた。そういうお金の魔力を知っていたひとですよ。まさに天才です」(2019年4月4日肺炎で死去・享年99歳)

 P3Cの国産化(日本の国産機日本製対潜哨戒機はPXLという)が始まったのは1971年(対潜哨戒機の国産化計画開発)。

「日本独自で国産でまかなうべき。戦後の米軍基地も見直し」とは当時の中曽根康弘防衛庁長官(現・防衛省)。国は国産化に10億1千万の予算をつけていた。しかし、突如、白紙撤回。米国のロッキード社のP3C対潜哨戒機の輸入へと政策がかわった。

国産化計画にたずさわった海自元・航空機装備開発担当の中島又雄(91歳・2016年時)。

中島「国産化をすすめて何億も使って、国産化ならいつでも部品やメンテナンスができると国産化を重視していてそのほうが安心安全だった。だが、アメリカ政府から圧力があったようだね。」

当時、ニクソン政権下の国防長官だったメルビン・レアードは電話での取材に応じた。

防衛庁長官だった当時の中曽根康弘(2019年死去・101歳)に圧力をかけた、と認めた。

レアード「日本はカネを出してアメリカの経済が潤い、かつ当時のソ連を威嚇してほしかったのです。日本にP3Cを導入することが、アメリカが懐を傷めずに対ソ連戦略をするために必要だったのです。もちろん儲かるのはアメリカですが(笑)」

ソ連の最新の潜水艦はレーダーに映りづらく一か月も海の底に潜水できた。アメリカは日本の対潜哨戒機の国産化をやめさせ、P3C導入を迫ったのだ。

田中角栄を動かし、彼のプロフィールなどの情報を得てプロファイル(人物分析)した。

当時の政府高官「田中角栄はものすごいバイタリティ(生命力)があって、日本語で言うと〝したたか者〝。権力やお金のつかいかたが凄い」

相澤「P3Cは国産化ではアメリカからの輸入のほうが安い。アメリカからP3Cを導入した方がはるかに安く済むというのが大蔵省の総意だった」

元・ニクソン政権の元・NSC国家安全保障会議の担当補佐官リチャード・アレンはいう。

アレン「日本は最大のお客さまだった。ニクソン大統領とキッシンジャー大統領補佐官が〝P3C〝を日本に売るべきだと命じたのだ」

ニクソンはロッキード社のあるカリフォルニア州出身。巨額の政治献金をもらっていた。1974年ハワイの日米首脳会談(田中角栄首相、ニクソン米国大統領)で売り込みに圧力がかかった。

P3CとE2C(早期警戒機・E2C自体は1979年のダグラス・グラマン事件において当時の日商岩井の専務・島田三敬・みつひろ・が取り調べで交渉して日本側に売りつけたことを自供したがそのすべてを話す前にビルから飛び降り自殺した)を日本に売りつけた、と。圧力があった。当時の駐日米国大使のホッジソンはいう。

ホッジソン「ロッキード事件はうまくいけば日本側の数人の逮捕者でおわるだろう。三木首相の言うような日本の政府高官名を出すのはできるだけ遅らせるのが得策である。もし、三木首相のいうように日本の政府高官名をだしてしまえば日米関係は泥沼化する。できるだけ高官名は出さずに引き延ばし、できれば高官名がでない方向性が米国や日本国のためである」米国のロッキード社副会長コーチャン氏もロッキード社日本支社社長のクラッターも日本では尋問さえも受けてはいない。これで公平な裁判といえるのか?

ニクソンとキッシンジャーが、表向きは日本の原子力発電やアメリカ産の商品を買え、ということだったが裏では軍産複合体の利権のためにP3CとE2C導入を迫った。

ハワイ会談後、すぐにP3C国産化白紙撤回が何よりの証拠だ。

中島「角栄がハワイからもどってきたら途端に白紙撤回。これは宰相にしか出来ない。防衛庁(当時)長官くらいじゃ出来ない。アメリカ側から圧力があったんでしょう」

事件の捜査や裁判が進むにつれ、事件関係者が発した言葉や事件に関連した符丁が全国的な流行語となった。

「(まったく)記憶にございません」

 衆議院予算委員会にて最重要参考人と目される小佐野賢治が喚問を受けた際、偽証や証言拒否を避けつつ質問に対する本質的解答をしない意味をもつこの発言を連発。これ以降は他の証人も同等の言葉を多用するようになった。

「ピーナツ(ピーシズ)」

 賄賂を受領する際の領収書に金銭を意味する隠語として書かれていたもの。100万円を「1ピーナツ」と数えていた。「ピーシズ」はpieces、つまりピースの複数形。

「ハチの一刺し」

 田中元首相の元秘書で、事件で有罪となった榎本敏夫の前妻の三恵子夫人が榎本に不利な法廷証言を行った心境について述べた言葉。

「よっしゃよっしゃ」

 田中元首相が全日空への工作を頼まれたときに発したとされる言葉。

1979年にはダグラス・グラマン事件が起こった。

東京地検特捜部は吉永祐介の指示で島田三敬(みつひろ・1979年ダグラス・グラマン事件で逮捕され尋問で日本政府へのE2C・早期警戒機の輸入の秘密交渉人・すべてを自白する前ビルから飛び降り自殺した)を捜査尋問に当たったのは宗像紀夫検事(当時・むなかたのりお)だった。

島田は宗像に「戦闘機や旅客機の利権で政治家に賄賂を渡した」と認めた。

宗像「戦闘機を購入すれば何百機と収入があるし、メンテナンスも毎年あるし、整備も次期の更新購入もある。ものすごい大金になる。要するにどんなフィー(費用)を払っても入れたい(輸入)、と。いろんなひとをつかってね」

1972年にも島田は働きかけて、ワイロを政治家にわたしたという。

裏金は個人金融資産で。田中角栄の名前もあったが島田は「明日、すべてを話します」といったその深夜、島田はビルから飛び降りて自殺した。

遺書〝行くのを御許し下さい 一月三十一日 島田三敬〝

裏金が当たり前のような政治家や財界人や官僚へのうらみ節が書いてあったという。

宗像「悪かった。亡くなられた島田さんもお気の毒だったし、吉永祐介さんにも申し訳ないと。期待に応えられず事件の真相も島田さんの死で闇の中…」

元・首相の海部俊樹(かいふ・としき、三木内閣で副官房長官・2022年1月9日、91歳いで死去)

海部「三木さんの指示で事件を追及していましたが、政治家のひとたちから反発されたよね。そこまでやらなくてもいいんじゃないか?という声が多かった。心配しておれのところに飛んできて、俊ちゃん、おやじさん(三木首相)にもうやめたらいいんじゃないか、と。外国の資料をもらって国内の悪(ワル)を見せる必要はないよ。(捜査を止める)指揮権を発動すればいいんだよ、ということでおわりじゃないか、それをやれ、と。こうくるわけだ」

三木首相も当時は独自に調査していたが闇に迫れず…

すぐに〝三木おろし〝が来るが、ロッキード事件の影響で権力基盤の弱い三木武夫首相は国民にげいごうした。

捜査の開始を受けてマスコミによる報道も過熱の一途をたどり、それに合わせて国内外からの事件の進展に対する関心も増大したものの、明らかにライバルの田中をターゲットにした捜査の急激な進展は、親田中の議員を中心に「国策捜査」として批判されることになった。

また、椎名悦三郎を中心とした自民党内の反三木派が事件捜査の進展を急ぐ三木首相の態度を「はしゃぎすぎ」と批判し、さらに5月7日には田中前首相と椎名が会談し、三木の退陣を合意するなど、いわゆる「三木おろし」を進め、田中派に加えて大平派、福田派、椎名派、水田派、船田派が賛同し、政権主流派に与するのは三木派の他は中曽根派だけとなる。国民やマスコミはこのような動きに対して「ロッキード(事件)隠し」と批判したが、このような声を尻目に田中、椎名、大平や福田などの多数派は結束を強めていった。

一方、吉永祐介検事を捜査主任検事とする東京地検特捜部はその後異例のスピードで田中を7月27日に逮捕し、起訴に持ち込んだが、三木とともに田中に対する捜査を推し進めた中曽根派出身の法務大臣稲葉修は、三木の政敵である田中の逮捕を「逆指揮権発動によるもの」とみなした田中派から、三木と共に激しい攻撃の対象となった。

この逮捕により、「もはやロッキード隠しとは言われない」として「三木おろし」が再燃、田中元首相の逮捕から1カ月足らずの8月24日には反主流6派による「挙党体制確立協議会」が結成される。三木首相は9月に内閣改造を行ったが、ここで田中派からの入閣は科学技術庁長官1名だけであり、三木首相も田中元首相との対決姿勢を改めて鮮明にする。

三木首相は党内の分裂状態が修復できないまま解散権を行使できず、戦後唯一の任期満了による衆議院議員総選挙を迎えた。

1976年12月5日に行われた第34回衆議院選挙では、ロッキード事件の余波を受けて自民党が8議席を失うなど事実上敗北し、三木首相は敗北の責任を取って首相を辞任。

大平派と福田派の「大福密約」により、後継には「三木おろし」を進めた1人の福田派のリーダーの福田赳夫が就くことになった。

在日アメリカ大使館から本国へ、これ以上ワシントンからの情報の提供がなければ、政府高官数人の辞職だけで済む。

P3Cについての情報は一切だすな。という主旨の報告が秘密解除されて見つかっている。田中元首相の秘書官の榎本敏夫も田中元首相と同日に外為法違反容疑で逮捕され、その後起訴された。

1995年(平成7年)2月22日に、最高裁判所で有罪判決が確定。司法は首相秘書の最終審判決という形で田中元首相の5億円収受を認定した。

また、死亡後の田中元首相の遺産相続でも収受した5億円を個人財産として相続税が計算された。

海部「事件が解明できないのは残念。しかし、軍用機、軍事関係の軍産複合体の武器の問題ともなると我々の手のおよばないところだから。ね?」

三木の下でアメリカから資料を貰い調べていた当時 内閣官房副長官の海部俊樹はインタビューで「先輩たちから他国から資料を貰ってまで恥をさらすことはない、指揮権を発動すればいいとか言われた。到底我々の手の届く問題ではなかった。深い闇がある」と語っている。

P3Cの現在までのロッキード社の売り上げは1977年から日本だけで1兆円を超える。田中角栄はスケープゴート(いけにえの羊)にされたのだ。無罪ではないだろうが軍産複合体に利用され、捨てられた。それが田中角栄逮捕、であった。

今も、日本国はアメリカに次ぐ世界第二位のP3C保有国である。現在までの経費1兆円。

リチャード・アレン「田中角栄は日本でいう〝したたか者〝でタフガイだった。日本の金で米国の懐を満たし利用するのが目的だった」

各被告の供述証書(検事調書)が検事の作文に対する署名強要という経緯で作られた事が判明しており、この様な検事の暴走行為は下記にもあるように他にもみられることではあるが、まさに「権力犯罪」、「国策裁判」と考えても差し支えない、という主張もある。

しかし、検事調書の作成にあたって一問一答を忠実に記録するのではなく、検事が供述をまとめた調書に被告(被疑者)の署名捺印をさせる、という手法は日本の刑事裁判に一般的なもので、その是非はともかくとしてロッキード事件に特有のものではない。

また、一般にロッキード裁判批判論では、丸紅の大久保利春が公判でも大筋で検事調書通りの証言を行った事実が無視されている。

2016年7月に放送されたNHKスペシャル・未解決事件でインタビューに応じた丸紅の大久保利春専務の部下の航空機課長坂篁一の証言によると、「5億円の現金は自分が角栄に渡すことを提案した。

当時、トライスターの採用がほぼ決定していたこともあって、念押しをするために、また、P3C導入の為にロッキードに最低でも5億円を出させた。国産化されると丸紅には仲介手数料が入らない。軍用機ビジネスは魑魅魍魎だ」と語っている。

国産化計画の責任者だった海上自衛隊の元幹部は、角栄がハワイでの首脳会談から帰って来てから変わったと語っている。

また、すでに同年6月の時点よりロッキード社から児玉へ資金が流れており、この際、過去にCIAと関係のあったといわれる日系アメリカ人のシグ片山が経営するペーパー会社や、児玉の元通訳で、GHQで諜報活動のトップを務めていたチャールズ・ウィロビーの秘書的存在でもあった福田太郎が経営するPR会社などの複雑な経路をたどっていたことがチャーチ委員会の調査によって明らかになっている。

児玉は事件の核心を握る中心人物であったにも関わらず、1976年(昭和51年)2月から衆議院予算委員会において証人喚問が行われることが決定した直後に、「病気」と称して自宅に引きこもり、さらにその後は入院した東京女子医科大学病院にて臨床取調べを受けるなど、その態度が大きな批判を受けただけでなく、そのような甘い対応を許した政府や特捜に対する批判も集中した。

その後の1976年3月13日に児玉は所得税法違反と外為法違反容疑で在宅起訴され裁判に臨むことになったが、1977年6月に1回だけ公判に出廷した後は再び「病気」と称して自宅を離れなかったために裁判は進まなかった。

その後1980年9月に再度入院し、裁判の判決が出る直前の1984年(昭和59年)1月に児玉は亡くなった。

なお、児玉の死亡後の遺産相続では闇で収受した25億円が個人財産として認定された上で相続税が計算されている。

2016年の未解決事件のインタビューで堀田力は「核心はP3Cではないか。P3Cで色々あるはずなんだけど。(児玉誉士夫がロッキード社から)金を上手に取る巧妙な手口は証言で取れている。(そこから先の)金の使い方とか、こっちで解明しなきゃいけないけど、そこができていない。それはもう深い物凄い深い闇がまだまだあって、日本の大きな政治経済の背後で動く闇の部分に一本光が入ったことは間違いないんだけど、国民の目から見れば検察もっともっと彼らがどうゆう所でどんな金を貰ってどうしているのか、暗闇の部分を全部照らしてくれって。悔しいというか申し訳ない」と語っている。

「丸紅ルート」の中心人物で、事件当時社長を務めた檜山廣会長は1976年(昭和51年)7月に贈賄と外為法違反容疑で逮捕、起訴され、1995年(平成7年)に田中元首相の秘書の榎本とともに最高裁判所で実刑が確定した。

しかしながら高齢のために刑の執行は停止され、檜山は収監されないまま2000年(平成12年)に死去した。檜山はこの間、1985年(昭和60年)から1999年(平成11年)まで丸紅名誉顧問を務めていた。

大久保利春の直属の部下でアーチボルド・コーチャンと折衝していた元航空機課長で坂篁一は、「檜山さんの首相訪問のOKが取れ許可取れたもんなら、この際政治献金しましょうと。これはロッキードに出させましょうという話をしたわけだ。5億円のお金の話というのは丸紅側から出ているの、コーチャンから言われたことじゃない。そこで大久保さんに話して、これをコーチャンに言ってOKを取ってくださいと。」 「簡単な言葉で言えば(トライスターは)ダメ押しの最後の詰め。P3Cで色々力を注ぎましょうという考えの方が多かった。しかしこれはね当時、国産で話は進んでいたわけだ。国産で進んだやつを何とかP3Cにならんだろうか、国産ではひとつも丸紅に口銭(仲介手数料)は入らないわけだ。P3cになればね非常に巨額の口銭は入るわけです。巨額なもんだからP3cってのは。」

巨額の金が飛び交う軍用機ビジネスの不条理な世界を魑魅魍魎と書いた。「P3Cへの対策、お化けにはお化けのお菓子。森の中のお化け対策をしながら、活動するというのは、くたびれること。(導入が)決まりそうだ万歳、万歳と言っていちゃダメ。決まりかけが一番恐ろしい。暴れだすのは決まりかけ」と語っている。

コーチャンの尋問記録にも、丸紅の大久保は「もし大きな取引をしたいのであれば、5億円は基準レートだと言った。日本は最大のマーケットで丸紅から今後の販売がダメになると言われると大変だった。

P3Cの売り込みの問題もあり支払わざるを得ないと考えた」とある。

全日空に有利な政治的取り計らいを受けるために、若狭社長の意を受けて全日空の幹部がロッキードから受け取ったリベートの一部を裏金として運輸族の政治家や運輸官僚へ贈賄していたとして立件された。この件は全日空ルートと呼ばれる。

もっとも、ロッキードL-1011型機の選定においては機種選定の正当性は明らかであったこともあり、検察は贈賄罪としては立件できなかったため、若狭社長以下6名の社員は外為法違反および議院証言法違反などの容疑で逮捕され、起訴された。

1982年1月、東京地方裁判所でいずれも執行猶予付きの有罪判決が下された。これに対しては若狭社長のみが控訴し、上訴審を経て、最高裁が1992年9月に上告棄却したことにより、懲役3年(執行猶予5年)の有罪判決が確定した。

ロッキード事件はアメリカの当局が仕掛けた陰謀だ、という説がある。

ホワイトハウス在住記者ジュリー・ムーン(文明子)がヘンリー・キッシンジャー国務長官に「ロッキード事件はあなたが起こしたんじゃないんですか?」と問いただしたところ、キッシンジャーは「オフ・コース(もちろんだ)」と答えている。

オランダでは、空軍における戦闘機(F-104を売り込んでいていた)の採用をめぐって、女王ユリアナの王配ベルンハルトにロッキード社から多額の資金が流れ込んでいたことが明らかになった。

これは日本での汚職事件と相まって対外不正行為防止法を制定させるきっかけとなった。

イタリアではC-130の採用を巡り、ジョヴァンニ・レオーネ大統領が首相在職中にロッキード社から賄賂を受けていた疑惑が明るみに出て、レオーネ大統領は任期を半年残して辞任に追い込まれた。

中曽根康弘は自著で、事件当時のジェラルド・フォード政権の国務長官であったヘンリー・キッシンジャーが東京に来た際、『ロッキード事件をあのように取り上げたのは間違いだった』と中曽根に語り、「キッシンジャーはこういうことはやるべきでなかったと反対したらしい」と記述している。

さらに同著では「ロッキード事件の原点は角栄の石油政策にある」とも述べている。

メルビン・レアード国防長官はP3Cの輸入を中曽根に持ち掛けた時、「彼はがっかりしていた。国産化するくらいならP3Cの開発費を負担したらどうかと提案したが、同意しなかった。」と語っている。

その他にも、この事件が発覚する過程において贈賄側証人として嘱託尋問で証言したロッキードのコーチャン副社長と元東京駐在事務所・クラッター代表が無罪どころか起訴すらされていない点、ロッキード社の内部資料が誤って上院多国籍企業小委員会に誤配されたとされる点など、事件に関連していくつもの不可解な点があったため、ソビエトやアラブ諸国からのエネルギー資源の直接調達を進める田中元首相の追い落としを狙った石油メジャーとアメリカ政府の陰謀だったとする説、または中国と急接近していた田中元首相を快く思っていなかったアメリカ政府が田中元首相を排除する意味があったとする説が田原総一朗の書いた記事などで当時から有力だ。

が、田中元首相による中国との国交成立に反発していた右翼や自民党福田派、その他、田中元首相の政治手法を良しとしない者達が警察と絡んで仕組んだ陰謀説もある。

三木首相が人気取りと内閣の延命を狙って検察を使い、田中元首相を逮捕したという説もある。また、検察が対潜哨戒機P3Cの導入がらみの事件を全日空のトライスター受注をめぐる事件としてロッキード事件を捏造したとする説もある。

アメリカの国家安全保障担当補佐官リチャード・V・アレン(英語版)によると、ニクソン大統領自らP3Cなどの軍用機導入を迫ったアメリカの狙いを「日本が我々の軍用機を購入すれば、我々の懐を痛めることなく、日本の金で我々の軍事力を増大することができます。加えて、私たちが望んでいた日本の軍事的役割の強化にもつながるのです。」と語っている。

田中の側近だった石井一は今でも田中が金を貰ったと信じたくないが、あるとすればトライスターではなくP3Cではないか。P3Cに疑惑が及ばないように何か巨大な圧力が働き田中1人に罪を負わせたのではないか。と考えている。

「軍用機でこういう問題が起こるとね、これは両国政府がもろに被る事になる。国家体制を基本的に揺るがす問題になりかねない。総理大臣1人の罪という様な事にはいかなくなってくる。」とインタビューに答えている。

田中の逮捕後アメリカから資料の提供も受け、情報が漏れないように印刷には出さずに秘書に手書きさせ、見立てをまとめていた。

久保卓也は防衛次官時代の1976年2月9日、ロッキード事件の一因である次期対潜哨戒機(PXL)の国産化が白紙還元された事件のいきさつについて「田中角栄首相の部屋に後藤田正晴官房副長官、相沢英之大蔵省主計局長が入って協議した結果で、防衛庁は知らされていなかった」と記者会見で語った。

これは田中らがロッキード社の要請を受けて国産化を白紙還元したというニュアンスを持つため、大きな波紋を呼ぶこととなった(いわゆる「久保発言」)。 後日当時の状況を確認され久保の発言に誤りがあったことが明らかとなり、久保は坂田長官から戒告処分を受け、その後の深夜の記者会見において記憶違いを声を震わせながら謝罪することとなる。

特に内務省の先輩で、1974年の参院選落選以後、浪人として国政復帰を目指していた後藤田はこの発言に激怒して、久保に事実関係を厳しく確認し、明確な謝罪を要求するに至った。

久保が1976年半ばと比較的早い時期に次官を退任したのはこの「久保発言」が原因とも言われている。その後この事件は報道されなくなった。

ただし、誤配説に対しては『ロッキード社の監査法人であるアーサー・ヤング会計事務所がチャーチ委員会から証拠書類の提出を求められ、すぐに証拠書類を提出したものの、顧客秘守義務の観点から、すぐに手渡してしまったということが判明するとロッキード社との関係上都合が悪いため、事実を隠すために誤配説を流布した』という説もある。

また、当初アメリカ政府が日本の国内事情を考慮して捜査資料の提供を渋っていた事実もある。

また、コーチャン、クラッター、エリオットのアメリカ人3名が起訴されずに嘱託証人尋問調書が作成された点については、日本の司法制度にない司法取引であり反対尋問もできなかったという批判がある。

が、両名に対する嘱託尋問がアメリカで行われるのに際して3名は当初証言を拒否し、アメリカでは外国の公務員に対する賄賂を規制する法律がなくアメリカ国内法では合法だったことや、アメリカ政府が実業界要人を日本へ引き渡すことが非現実的だったため、日本の検察が外国裁判所ノ嘱託ニ因ル共助法に基づいてアメリカ司法機関に嘱託するにあたって、刑事訴訟法第248条に基づく起訴便宜主義によって事実上の免責を与えたのが直接的な理由である(日米犯罪人引渡し条約の発効は1980年、国際贈賄防止条約の発効は更に遅れて1997年)。

その点を考慮すれば3名が起訴されなかったことに不審なところはない、という反論もある。

なお、嘱託証人尋問調書について下級審では刑事免責については日本の法律とは異なった手続によって行われた証拠調べが日本の法秩序の基本的理念や手続構造に反する重大な不許容事由を有するものでない限りは可能な範囲において受けいれる余地を認め、安易な免責による証言は一般的に違法の疑いがある。

が、ロッキード事件ではアメリカの実業界要人を起訴できる可能性がないことやアメリカで公正な手続で尋問が行われたことなどの事情から合理的理由があり適法として証拠として採用された。

しかし、丸紅ルートの最高裁では共犯者に刑事免責を与えた上で得た供述を事実認定に用いる司法取引という制度を日本の法律は想定していないとしてコーチャンとクラッターの嘱託証人尋問調書の証拠能力を否定した。

もっとも、他の証拠を元に原審の有罪判決が維持されている。

反対尋問が封じられたという点については、反対尋問ができなくても刑事訴訟法第321条1項3号に基いて伝聞証拠禁止の原則の例外を適用して、下級審では証拠採用された。

また丸紅ルートの裁判において1977年10月に証拠請求をして1979年2月から始まった検察側による嘱託証人尋問調書の立証が1981年3月に終わってから1年近くたった1982年になって弁護側が正式に嘱託による反対尋問を請求した際に説得的な立証趣旨を示すことができずに裁判所に却下されたという経緯がある。

(全日空ルートの裁判では検察側がエリオットの嘱託証人尋問調書を立証している間に、弁護側が申請によってエリオットから宣誓供述書を取って実質的な反対尋問を行われた)。 

コーチャンとクラッターの嘱託証人尋問調書の証拠能力を否定した最高裁も反対尋問ができなかったという理由で証拠能力を否定したわけではない。

前ロッキード副社長で駐日大使のジェームズ・ホッジソンのアメリカ政府あての極秘報告書には、ロッキード事件発覚5日後の2月9日、「疑惑の政府高官名や、証拠を探る情報戦の舞台は今、ワシントンに移っている。ワシントンでこれ以上情報が漏洩しなければ、この問題をすぐに沈静化させることは可能だ。このままうまくいけば、ダメージは日本側の閣僚ら数人の辞任だけで済むだろう。」という記述がある。

この電報の9日後の2月18日、日本で第一回検察首脳会議が行われ、アメリカ側に資料の提供を求めていく方針が決まった。その2日後の2月20日、「ロッキード事件によって、これまで進めてきたP3Cの導入が全て台無しになってしまう。深刻な事態だ。今の時点で取り得る最善の方針は、P3Cに関して極力目立たないようにしていくことだ。」という報告がなされた。

同日、三木首相とは別ルート(中曽根康弘がもみ消しを依頼していた疑惑がある)で 「アメリカ政府には、この事件に関して慎重に考えることを望みたい。我々の考えでは、名前が公表されれば日本の政界は大騒動になり、我々はその状況を制御できなくなるだろう。最善の方法はアメリカ政府が疑惑の政府高官名が入った資料の引き渡しを、可能な限り遅らせることだ。」と要請があった。

その2か月後、三木に渡された資料にはトライスター関連のものしかなく、P3Cに関するものはなかった。その後の報告では「ロッキード社が日本政府高官に賄賂を渡したという幹部の告白は、日米双方に試練となった。もし三木首相の求めに応じて資料を全て提供していれば、政治的な同盟さえも失っていたかもしれない。」となっている。

調書によればトライスター機を日本が購入するにあたって、田中元首相側はロッキード社から丸紅を通じて4回に渡って計5億円の金銭授受が行われ、その金銭授受を実行したのは、伊藤宏丸紅専務と田中元首相の秘書である榎本敏夫とされている。

しかし、その4回の受け渡し場所は1回目が1973年8月10日14時20分頃にイギリス大使館裏の道路に止めた車の中にて、2回目が同年10月12日14時30分頃に伊藤の自宅付近の公衆電話ボックス前にて、3回目が1974年1月21日16時30分頃にホテルオークラの駐車場にて、4回目が同年3月1日8時ごろに伊藤の自宅にてとなっている。

1回目の受け渡し場所については、当初押収した手帳に、8月10日の午後にイギリス大使館裏にあるレストラン「村上開新堂」に行く旨書いてあったため、その事を追及したところ「村上開新堂に菓子の引き取りに行った」と証言した。しかしその後、法廷で同店の経営者の村上寿美子が、8月10日に同店が夏休みで閉店していたことを証言したため、証言の信頼性が崩れた。

3回目の受け渡し場所の駐車場があるホテルオークラでは、調書の授受時刻にその駐車場前の宴会場で、前尾繁三郎を激励する会が開かれており、数多くの政財界人やマスコミの人間がいた。

したがって、調書通りならば、顔見知りにあいかねない場所で伊藤と榎本が金のやり取りをしたことになる。

また、この日は記録的大雪であり、調書が真実なら、伊藤と榎本は雪の降りしきる野外駐車場で30分以上も立ち話をしていたことになるが、誰の口からも雪という言葉は出ていない。

田原総一朗が、伊藤の運転手である松岡克浩氏にインタビューしたところ、松岡氏自身は金銭授受の記憶がなかったが、取調べで伊藤の調書を見せられそんなこともあったかもしれないと曖昧に検察の指示に従ったと述べ、さらに検察によって3回も受け渡し場所が変更させられたと証言している。

松岡氏は当初検事の命令に従い、ホテルオークラの正面玄関前に止まっている2台の車を書いた。

が、その後、検察事務官に「ホテルオークラの玄関前は右側と左側に駐車場がある。あなたが言っていた場所は左側だ」と訂正を求め、しばらくして、また検察事務官がやってきて、今度は5階の正面玄関から1階の入り口の駐車場に変えさせられたとしている。

また、当初伊藤も松岡氏とほぼ同じ絵を描いており、松岡氏の調書が変更された後、伊藤の調書も同様に変更させられた。田原は「打ち合わせがまったくなく、両者が授受の場所を間違え、後で、そろって同じ場所に訂正するなんてことが、あり得るわけがない。検事が強引に変えたと判断するしかありません。百歩譲ってそのようなことが偶然起こり得たとしても、この日の受け渡し場所の状況を考えると、検事のでっち上げとしか考えられない」としている。

田原が榎本にインタビューしたところ、榎本は4回の授受は検察が作り上げたストーリーだと明言した上で、5億円を受け取ったこと自体は否定せず、丸紅からの「田中角栄が総理に就任した祝い金」という政治献金として、伊藤の自宅で受け取ったと証言している。また、田原は伊藤にもインタビューしているが、伊藤はせいぜい罪に問われても政治資金規正法違反だと踏んでいた。

検察から攻め立てられ、受け取ったのは事実だから、場所はどこでも五十歩百歩と考えるようになり、検察のでたらめに応じたと答えている。

そして、田原が事件の捜査を担当した東京地検特捜部検事の一人に取材した結果、匿名を条件に「丸紅の伊藤宏が、榎本敏夫にダンボール箱に入った金を渡した4回の場所については、どうも辻褄が合わない。

被疑者の一人が嘘を喋り、担当検事がそれに乗ってしまった。いままで誰にも言っていないけれど、そうとしか考えられない」と述べた。さらに、事件が発覚したときに渡米し、資料の入手やロッキード社のコーチャン、クラッターの嘱託尋問に奔走した堀田力検事は「受け渡し場所はもともと不自然で子供っぽいというか、素人っぽいというか。おそらく大金の授受などしたことがない人が考えたとしか思えない」と語り、その不自然さを認めている。

ロッキード社の工作資金が児玉と丸紅に30億円流れ、そのうちの過半(21億円)が児玉に渡っている以上、5億円の詮議も解明されなければならない事柄であるから当然解明するのは道理にかなっていることではある。

が、さることながら金額が多いほうの流通は一向に解明されていない。この方面の追跡が曖昧にされたまま5億円詮議の方にのみ向うというのは「政治主義裁判」である可能性がある。

他方で、問題にすべきは児玉が工作資金の使途を明かさなかったことを最大の理由として事件の全容が解明されなかったことであって、そのことをもってロッキード裁判を批判するのはあたらない、という見方もある。

また、仮に私人である児玉に渡った資金と総理大臣であった田中元首相に渡った資金が存在して金額に大きな違いがあるとしても、賄賂罪を構成する職務権限の観点から同列に並べて考えられるべきではないだろうという意見も多い。

三木首相と稲葉修法務大臣による「逆指揮権発動」による田中裁判は、公訴権の乱用である可能性がある。

「指揮権発動」も「逆指揮権発動」も共に問題があるという観点を持つべきであろう、という主張がある。すなわち、一般に、政争は民主主義政治の常道に属する。その政争に対し、検察権力の介入を強権発動すること自体、公訴権の乱用である。同時に三権分立制を危うくさせ、司法の行政権力への追従という汚点を刻んだことになる、というのである。

日本国行政の最高責任者である三木首相はアメリカ政府に資料を請求する親書において、もし何も出なかった時の日本国の体面を考え「If any(もしなんらかのものがあれば)」とする文言を入れることを宮沢喜一外務大臣が進言したのに対して「あるに決まっているからそんな文言は必要ない」と言って宮沢の提案を退けて最初から見込み捜査に加担し、渡米中だった東京地検特捜部担当検事に国際電話で捜査状況について直接問い合わせたり司法共助協定締結に関して首相官邸を訪問した検事に対してロッキード事件の起訴時期について尋ねていたことが判明している。

また、検事総長への指揮権を持つ稲葉法相は田中元首相逮捕前に新聞のインタビューで「これまで逮捕した連中は相撲に例えれば十両か前頭。これからどんどん好取組が見られる」「捜査は奥の奥まで 神棚の中までやる」と今後の大物の逮捕を示唆した上での徹底捜査をコメントをした。

他方で、いわゆる「逆指揮権発動」とは単に三木内閣がロッキード事件の解明に熱心であったことを指すに過ぎず、なんら問題にすべきところはないという反論もある。

例えば田中元首相逮捕の方針は検察首脳会議で決定され、三木首相も稲葉法務大臣もその報告を受けただけである。

稲葉にいたっては地元で釣りをしている時に刑事局長から電話でその報告を受けた程だった。

後に稲葉は、「あれだけの証拠があっては指揮権で田中前首相逮捕を差し止めることなど無理で、それを恨まれても困る」と発言している。

「外為法違反」という別件逮捕で拘束するという違法性、しかもかつて首相職にあったものにそれを為すという政治主義性という問題があるとする主張もある。

しかしながら、田中元首相の場合「5億円の受け取り」という一つの行為が外為法違反と収賄罪の双方に関わっていることなどを考えれば、別件逮捕という批判は当たらないとの反論もある。

なお、1976年8月4日の参議院ロッキード事件に関する特別委員会で、外為法違反による逮捕について外貨予算制度や外貨集中制度の廃止及び大幅な為替自由化によって外為法違反は形式犯に過ぎなくなったと印象付けたい質問が出た。

が、政府は「1975年に総額約20億円の密貿易に絡む不正決裁事件で20法人44人を検挙し、その内10人を身柄拘束していた例が存在する」「貿易に頼るという立場に依存度が強い日本において為替管理等を含む外為法の規制が有効に機能しなければ国際的な立場をとることができず、現行の外為法は十分有効に機能している」「外為法違反で検察庁が求公判している事例は多い年で63名、少ない年で5名ある」と答弁している。

坂篁一は最後にある文字を送ってきた。

〝魑魅魍魎(ちみもうりょう)=おばけ〝

坂「おばけにはおばけのお菓子や食べ物がある。おばけは見えない。みんなは契約を決まった万歳! っていうけど本当は決まりかけが一番大事なの。決まったらもう後戻りできないのだからね」

ロッキード事件から40年、あの田中角栄逮捕の熱狂にかき消された本当の真実とは何だったのか。最新スクープがこれである。

今、空前の角栄ブームの中、我々はこの真実を重く受け止めなければならない。



 池上彰「日本の戦後を知るための12人」(文藝春秋社)参照引用

『第一回 田中角栄 今、見直される理由』

 かつては、「首相の犯罪」によって糾弾され、政界を追われたはずの田中角栄が今、「不世出の政治家」「天才」と見直されています。恵まれない境遇からのし上がり、ずば抜けた人心掌握術を身につけた彼が成した「功」と「罪」を今こそ振り返ってみましょう。

 (田中角栄・たなかかくえい・政治家。一九一八年~一九九三年没。新潟県生まれ。貧しい農家の七人きょうだい中ただ一人の男児(兄は夭折)として育つ。最終学歴は二田高等小学校。田中土建工業を経営していたが、同社顧問の政治家に乞われ、四七年に衆議院議員に当選。以後、閣僚や自民党幹部を歴任し七二年には首相となる。日中国交回復などの成果も挙げたが「田中金脈問題」を契機に七四年退陣)


 きょうは田中角栄というひとを取り上げます。今、なぜ田中角栄なのか?

 二○一八は生誕百年ということもあって、折に触れて角栄待望論が唱えられました。総理大臣になった時には「今太閤」ともてはやされ、金脈問題が出ると大変なバッシングを受け、総理大臣を引退した後も、田中軍団の陰の黒幕として政治を牛耳った田中角栄。亡くなった後も、彼が『日本列島改造論』で提起した各種のプロジェクトが現在まで続いています。

 考えてみれば、戦後のかたちを作ってきたのは、実は田中角栄ではないか、ということで、今ますます人物が高く評価されるようになってきているわけです。

 田中角栄という人は、その時々によって評価が異なるんですね。その毀誉褒貶をこれからお伝えしようと思います。


  金にまみれた総裁選


 まず、田中さんの人心掌握術がいかに優れていたかを示すエピソードをひとつ。一九六二年、第二次池田隼人内閣の大蔵大臣に就任して居並ぶ大蔵官僚を前にあいさつをした。そのあいさつ文が記録に残っています。

「私が田中角栄であります。皆さんもご存じの通り、高等小学校卒業であります。

 皆さんは全国から集まった天才の秀才で、金融、財政の専門家ばかりだ。かく申す小生は素人ではありますが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきており、いささか仕事のコツは知っているつもりであります。これから一緒に国家のために仕事をしていくことになりますが、お互いが信頼し合うことが大切だと思います。従って、今日ただ今から、大臣室の扉はいつでも開けておく。我と思わん者は、今年入省した若手諸君も遠慮なく大臣室に来てください。そして、何でも言ってほしい。上司の許可を取る必要はありません。できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う。以上!」

 これを聞いた大蔵官僚たちは、一発で参ってしまいました。君たちは自由にやれ、責任は私が取る、といわれて心酔しない部下はいないでしょう。さあ、今の政治家に、こう言い切れる人はいるだろうかと、つい考えてしまいます。

 一九六五年、証券不況の中で山一證券が経営不振に陥りました。その救済のため、日銀特融、日銀による特別融資が行われました。それを断行したのが大蔵大臣の田中さんでした。官僚であれば、過去に例のないことはやりたがらないものです。それを田中さんは「いいからやれ。責任は俺が取る」と言って救済させました。先のあいさつはハッタリでも何でもなかったことになります。

 田中角栄は「コンピューター付きブルドーザー」の異名を取り、数字の暗記や強引までの実行力が称えられました。総理大臣に就任したのは一九七二年の二月。当時五十四歳で、のちに安倍総理が誕生するまでは戦後最年少の総理大臣でした。


  隠れ田中派は野党にも


 このときの自民党の総裁選はすごかった。一回目の投票で田中角栄一五六票、福田赳夫一五○票、大平正芳一○一票、三木武夫六九票。田中さんと二位の福田さんとの票差はたったの六票。この開票結果を知った田中さんは椅子からポンと跳びあがって驚いたとか。「(あれほど大勢に金を配ったのに)こんなに少ないはずはない」というわけです。

 田中さんと福田さんは共に佐藤内閣を支えてきた両輪です。佐藤栄作はいずれ福田を後継に、と考えていたふしがあるのですが、政権の末期にもなると田中がメキメキと力をつけていましたから、後継者を指名することもできません。田中は佐藤派の三分の二を率いて分離独立します。そして総裁選に突入。それは、ともに負けられない二人が争う、まさに「角福戦争」の様相を呈していました。

 結局、一位と二位の決選投票では田中が勝ち、総裁に選ばれます。最終版になって中曾根康弘が出馬を取りやめて田中支持を表明。このとき中曽根は田中に七億円で派閥の票を売ったとの噂が流れて、中曽根さんが週刊誌の追及に弁明する一幕もありました。

当時の自民党の総裁選は、今では考えられないほど札束が乱れ飛びました。

(中訳)田中さんのすごいところは一回目の投票で、盟友の大平さんに票を回していたということ。総裁選に出るくらいだから、ライバルでもあるのに、盟友が恥をかかないよう、本来なら自分に回るはずの票を回していたというのです。常人ならぶっちぎりで自分がトップ当選するのを望むはず。でも、義理を通す。当然、二回目では大平さんの百数票が田中さんに入ったことは容易に想像できます。

田中さんはそれ以外にも綿密な計算を働かせます。「今回は福田さんに票を入れるしかない」と、義理を通して田中さんに報告に来た議員を、裏切り者呼ばわりすることもなく、「あんたは福田さんにいれればいいよ」と、許容する。こうなればイチコロですよね。

こうして、総裁選の後は田中さんに尽くそう、と考える議員が派閥の外にもいた。いや、野党の社会党にもいたのです。

田中さんほど「生きた金の使い方」をした人はいません。

これは総理になってからですが、福田派の議員が病気になって入院した。そこに田中さんが直々に見舞いに来る。なにか封筒を置いていく。田中さんくらいだからお見舞いの五十万くらいかな、と思ってみると五百万だった。畏れ多い。それを、四回、計二千万円続ける。こういうやり方は人間心理を熟知していないとできることではない。

普通の政治家とはスケールが違うのでしょう。

田中角栄のすごいところは、大陸の中華人民共和国と国交を正常化したところ。まあ、アメリカのニクソン大統領の訪中を真似したわけですが。国交正常化をすれば、命が危ないといわれた時代に、まさに命がけで訪中して日中国交正常化に成し遂げる。

『日本列島改造論』も今の日本につながる大事業計画であり、高速道路や高速新幹線や、整備新幹線など、我々は田中角栄の見ていた未来予想図の世界を堪能している、ということになります。ただ、地方から大都市へのスポイル状態とか、原発誘致とか、失敗もあるわけです。それで、田中角栄待望論なんですが。我々は、金にも女にもだらしがないけれど有能な政治家か、清廉潔白で無能な政治家の、どちらを選ぶのか? ということだと思う。

田中角栄は金脈問題やロッキード事件でトドメを刺された。だが、角栄さんは一審、二審ともに有罪となりました。彼は当初から身の潔白を主張しつづけていて、最高裁判所にも上告。しかし、最高裁の判決は待てど暮らせど出ません。裁判の途中で田中さんは脳梗塞で倒れて寝たきりになってしまい、一九九三年十二月に七十五歳で亡くなってしまいます。病の原因は、田中さんに可愛がられた竹下登さんが創政会をつくって田中派を離れたこと。怒り狂ってウィスキーのオールド・パーを大量に飲んだせいだといわれました。

それにしても最高裁の引き延ばしは異常でした。逮捕から十七年。元・総理の犯罪に有罪判決を出すのは忍びなかったのか。田中さんの命が尽きるまでまっていたとしか思えない。

政治家や官僚は、その時代の同世代には、小粒にどうしても見えてしまう。でも、考えてもみれば時間がたってから「ああ、あのときの政治家(や官僚)の判断や政策があるからこそこの世界があるんだな」と感じるものだ。

その意味で、政治家も官僚も、後世に評価される事業をやっていくしかない。

では、今の時代に田中角栄は必要か? というと、多分、必要ではないのであろう、ということ。この財政難に、日本列島を改造して大公共事業……など誰も賛成する訳がない。

その時代に合った政治家を育てていく。それが我々国民の仕事なんだろうと思うのです。



田原総一朗×石原慎太郎「田中角栄論」© PRESIDENT Online 田原総一朗×石原慎太郎「田中角栄論」 (石原慎太郎氏は2022年2月1日死去・享年89歳)


自身の回顧録『国家なる幻影』(2011)で田中角栄を痛烈に批判した石原慎太郎。しかし2016年、彼は角栄を『天才』と評価した……。田原総一朗と石原慎太郎。2人の論客が振り返る、田中角栄とロッキード事件、そして日本の戦後政治史とは? 対談連載『田原総一朗の次代への遺言』、今回は特別編を掲載します。

改めて、田中角栄を評価する

【田原総一朗】石原さんは、立花隆が「田中角栄研究――その金脈と人脈」を書く前に、「文藝春秋」に厳しい田中批判の論文をお書きになった。僕も読みましたが、非常に厳しい内容でした。田中批判の先鞭をつけた石原さんが、ここへきて田中角栄を評価する文章をお書きになった。これはどういうことですか。

【石原慎太郎】日本の文壇は狭量でね。僕が政治家として売れてくると、逆に作品には偏見を持たれました。たとえば『わが人生の時の時』は野間文芸賞の最有力候補になりましたが、選考委員の吉行淳之介が「こんなもの文学じゃない」って言い出した。それから、いくつかの短編を集めた『遭難者』は金丸信が起訴されて自民党が指弾されたときだったから、一行も書評が出なかった。自分で選んだ道だからしょうがないけど、自分の文学に申し訳なかったね。

ただ、政治家を辞めたら、こんどは早稲田大学の社会学の森元孝さんが『(石原慎太郎の社会現象学)――亀裂の弁証法』という、いい評伝を書いてくれました。これで俺の文学が少し救われた気がしたね。

そのお礼に森さんと会食したのです。その席で彼にこう言われてね。「石原さんの『国家なる幻影』には田中角栄さんが非常に詳しく書かれている。あなた、実は角さんが好きなんじゃないですか」。「たしかにあれほど中世期的でバルザック的(金持ちの好色漢だが異端児・バルザックとは作家の名前)な人間はいない。すごく興味があります」と答えたら、「私はあなたが一人称で書いた作品を愛読している。いっそ角さんを一人称で書いたらどうだろう」と言ってくれた。それで『天才』を書き出したわけです。

石原慎太郎が田中角栄を批判した理由

【田原】でも、もともと石原さんは田中角栄の金権政治を痛烈に批判していましたね。

【石原】角さんが総理になって最初に国政選挙があったときですよ。福田系の候補者がグループ(後の青嵐会・せいらんかい)幹部の集まりにきて「みなさんに共感しているので当選したらグループに入ります」と挨拶をしていきました。その男が「いまから公認料をもらいにいく」というので、誰かが「総裁室は4階だぞ」と教えてやると、「いや、砂防会館の田中事務所でもらいます」という。これにみんな怒ったんです。党の公認料を私的な事務所で渡すとは何事かと。

彼は砂防会館から、3000万円入った袋を持って興奮して帰ってきた。それに加えて2000万円もらったそうな。「いやあ、田中さんは偉大です」なんて言っちゃってね。結局、そいつは本籍福田派だけど現住所田中派になった。それをきっかけに僕は田中金銭批判を始めたのです。

【田原】そもそも青嵐会ができたのは、田中角栄が日中国交正常化をやったときでした。

【石原】日中国交正常化に反対したわけじゃない。反対だったのは航空実務協定。あれはめちゃくちゃでした。

【田原】どういうことですか。

【石原】交渉の中で、北京から外務省に密電が入ったんです。当時の大平(正芳)外務大臣の記者会見で、北京が手なづけた新聞記者に「台湾から飛んでくる飛行機の尾翼には青天白日旗(中華民国・台湾の旗)がついているが、あれを国旗として認めるのか」と質問させるから、必ず否定しろという内容です。当時の外務省の役人は、いまと違って腰抜けじゃなかった。「こんな実務交渉がありますか」と切歯扼腕(せっし・やくわん、歯ぎしりするほど悔しがることの意味。歯ぎしりして腕を握りしめて悔しがる・怒ることの意味)して、僕らに密電を見せてくれた。それで実務協定はいかんと思った。

大平さんは僕の先輩だけど、それから盾突くようになっちゃった。あとで大平さんの秘書から「なぜ盾突いたのか。大平先生は渡辺美智雄よりあなたに期待をしていて、俺の金脈はすべて石原君にくれてやると言っていたのに」と教えられてね。それを聞いて、惜しいことしたなと思ったけど(笑)。

田中角栄のどこがスゴいのか

【田原】石原さんは反田中だったのに、一方で田中さんに魅力を感じていた。どんなところに惚れたんですか。

【石原】包容力というかな。無邪気といえば無邪気なんだな。あるときスリーハンドレッドクラブ(茅ヶ崎市)にあるローンのコートで仲間とテニスをしたんです。みんなは昼飯を食いに玄関に入っていったけど、僕は勝手を知っているから近道してテラスから入った。すると、青嵐会の参議院の代表をしていた玉置和郎(元総務庁長官)が座っていて、こっちを見てバツの悪そうな顔をしている。玉置の表情を見て怪訝に思ったんだろうな。向かいに座っていた人がこちらに振り向いたら、闇将軍の角さんだった。

まずいと思ったよ。青嵐会は角さんに弓を引きましたからね。ところが角さんは、「おい、石原君、久しぶりだ。ちょっと来い」と手招きする。恐る恐る近づいて、「いろいろご迷惑をおかけました。申し訳ありませんでした」と頭を下げたら、角さんが遠くにあった椅子を自分で運んできて、「お互い政治家だろう。気にするな。いいから座れ」と言って、ウエイターにビールまで注文してくれた。僕もバツが悪いから、「先生、照る日も曇る日もありますから、またがんばって再起なさってください」と言ったんだけど、角さんは気にした様子もなくてね。「君、今日テニスか。俺は軽井沢に3つ別荘をもっている。テニスコートが2つあるんだが、子供や孫に占領されてできねえんだ」と言って笑うんです。しまいには玉置に向かって「テニスはいいんだぞ。短い時間で汗かくから」とテニスの講釈まで始めた。それを見て、この人はなんて人だろうと思ったな。

【田原】なんて人だろうっていうのは、どういう意味ですか。

【石原】何というのかな、端倪すべからざる(たんげい・はじめからおわりまで計り知れない)というか、寛容というか。僕は、この人は不思議な人だと思ってしびれたね。

【田原】田中角栄は石原さんのことをどう思っていたんだろう。

【石原】買ってくれていたんじゃないかな。プロスキーヤーの三浦雄一郎っているでしょう。僕はあいつがヒマラヤのサウスコル大滑降のときに総隊長を務めたんだけど、その縁で参院選の自民の全国候補にしたんです。ただ、あいつは肉体派。候補者として不規則な生活をしているうちにノイローゼになってきた。いつだったか長野で講演会をやるというので様子を見にいったら、建物前の石畳にツェルト(小型テント)を張って三浦がビバーク(野営)していて、ニンジンをかじりながら出てきた。「何しているんだ」と聞いたら、「僕、こうでもしていないともたないんです」と。

そのうちに僕は当時幹事長だった角さんから呼び出されてね。「おい、石原君、これは何だ」と差し出されたのが、三浦から角さんへの手紙でした。そこには僕への悪口が綿々と書いてある。「石原はスポーツマンと称しているけどインチキだ」とかね。長い手紙で、ぜんぶに割り印が打ってありました。角さんはそれを見せて、「こりゃ疲れているぞ。君がついているかぎり勝つに決まっているんだから、休ませろ」という。おまえがついていれば勝てるだなんて、この人は俺を評価してくれているんだとそのとき思いました。

田中角栄の功績は「日本列島を一つの都市圏」にしたこと

【田原】僕は、田中角栄は人間的なキャラクターだけでなく構想力も一流だったと思う。田中角栄は都市政策大綱というものをつくった。要するに日本列島を一つの大きな都市圏にしようという構想です。

【石原】角さんのおかげで日本は今そうなったじゃないですか。

【田原】そう。北海道から九州まで、どこからどこへ行くのにも1日で往復できるようになった。

【石原】日本中に新幹線と高速道路をめぐらせて、各エリアに地方空港をつくった。それはやはりすごいことですよ。われわれは角さんのつくった現実の中にいる。ヘーゲルは「歴史は他の何にも増しての現実だ」と言ったけど、私たちは現代という歴史の中で生きているのだから、角さんをとても否定できませんよ。

【田原】いまの日本をつくったのは、田中角栄の構想力ですか。

【石原】文明史「勘」だと思う。あの人の、先を見通す力はものすごかった。

【田原】田中角栄は法律を議員立法で33もつくった。これもすごいね。

【石原】すごいですよ。僕は大田区の選出だから、中小零細企業を抑圧する下請け契約を監視する経済Gメンをつくったらどうかという法律を議員提案したことがある。自民党の中では「お前は社会党より左だ」と言われたし、労働組合に持っていったら総評(日本労働組合総評議会)も同盟(日本労働組合総同盟)も両方とも反対した。結局みんな企業側だから、けんもほろろに言われた。議員提案はとても難しいんだ。

【田原】なるほど、石原さんは総評や同盟より左だったんだ(笑)。

【石原】そう言われたね。それから角さんとの絡みでいえば、選挙権を18歳に下げようというキャンペーンもダメだったな。前にキャンペーンをやったことがあって、角さんが幹事長で僕が参議院にいたころ、もう一回、やろうとしたんです。それで「自民党の講堂を貸してください」と頼んだら、「ダメだ」と一笑に付されました。

【田原】なんでダメだったんですか。

【石原】角さんには、「選挙権なんて20歳でも早過ぎるんだよ。あんなの未成熟じゃないか」と言われましたね。いま振り返ると、18歳は反権力、反権威で、自民党のためにならないと思ったのかもしれないけど。

ロッキード事件の最高裁判決はおかしい

【田原】石原さんはロッキード事件をどう見ますか。

【石原】僕は参議員のころから国会議員でただ一人、外人記者クラブのメンバーでした。あのころ古いアメリカ人の記者たちといろんな話をしたけど、連中は異口同音に「あの裁判はおかしい。なぜコーチャン、クラッターに対する反対尋問を許さないのか。免責証言なんてアメリカでも問題になっている」と言っていました。あれはやっぱり日本の裁判にとって恥辱。最高裁は謝罪すべきです。

【田原】僕はずいぶん詳しく調べたけど、少なくとも検察の言っている5億円の場所、日時、全部、間違いだね。

【石原】あれは検事の書いた小説。角さんの秘書の榎本(敏夫 2017年7月2日老衰で死去・享年91歳)がサインしちゃったけど、わけのわからない話だった。それよりロッキード社に関しては、他にもP3C対潜哨戒機(対潜水艦用の航空機)の導入をめぐる疑惑があったでしょう。ところがP3Cの問題は、児玉誉士夫がつぶしてしまった。

【田原】僕はテレビ朝日の『モーニングショー』に秘書の榎本を呼んで証言させて、2日間、ロッキード事件をやったの。2日目の終わりに「明日はP3Cをやる」と宣言したら、僕とプロデューサーは三浦甲子二(元テレビ朝日専務)に呼ばれて、「絶対P3Cは許さない」と言われた。「それでもやる」って言ったら、「それなら番組をつぶす」とまで言われたよ(笑)。

話を戻すと、ロッキードの裁判はおかしかった。石原さんは訴えますか。

【石原】最高裁が間違いを認めることで角さんは浮かばれますよ。俺の本が売れたぐらいじゃどうにもならないけど、あの人の贖罪はしなくちゃいけない。だからあなたも協力してください。

【田原】そうね。ぜひ。

【石原】当時、あの裁判のことで世間に盾突いたのはあなたと渡部昇一だけだった。あなたが角さんと対談するときの話もおもしろかったね。

【田原】目白の田中邸に行って1時間待たされて文句を言ったら、秘書の早坂茂三から「実は昨日、親父から『田原についての資料を一貫目、集めてくれ』っていわれて、いま読んでる」と言われた話ですか。

【石原】普通はあなたがインタビューするんだから、あなたが読む。それなのに逆に「一貫目、買ってこい」って、このあたりが角さんのおもしろいところだね。

福田赳夫との角福戦争

【田原】もう1つ、田中角栄といえば福田赳夫と角福戦争をやった。石原さんは福田赳夫のほうの清和会だった。石原さんから見て、この2人はどうですか。

【石原】福田赳夫なんて問題にならないね。つまらないよ。

【田原】だって福田赳夫の子分じゃないですか。

【石原】いや、子分じゃないですよ。あの人は僕が角さんとやり合ったものだから変に評価してくれて、閣僚にしてくれたけど。

【田原】亀井静香がおもしろいことを言っていました。「田中派というのは軍団で、金もくれる。当選回数があったら、ちゃんと役員や大臣にしてくれる。福田派は、単なるサロンだ」と。

【石原】そうだろうね。僕は福田さんから金をもらったことは一度もない。

【田原】もらっていないの?

【石原】絶対にもらっていない。何人かで福田邸にいったとき、福田さんにみんなに小遣いだといって100万円ずつくれたんですよ。僕は、もらう筋がないから断った。そうしたらおべっか使いの藤尾正行(元文部大臣)が怒って、「なんでもらわないんだ。お前の分を取ってくる」という。「それはやめてくれ」と言って先に帰ったよ。

それからダッカのハイジャックがあったときも福田さんは逃げちゃった。あのとき夜中の2時に閣僚緊急会議があって、僕は「ミュンヘンオリンピックの事件の後、日本もSWATみたいなものをつくったと聞いたけど、本当ならダッカに送り込んだらどうですか」と提案したんだ。すると、官房長官の園田直さんが「ここだけの話だが、実は特別の公務員が20人いくことになっている」と答えで、福田さんも「ほう、ほう」と相槌を打っている。ところが、これはぜんぶウソで、ダッカに行ったのは犯人の面わりに言った公安の刑事3人だけだった。それで「人間の命は地球より重い」といって犯人の要求を飲んだ。みんな騙されたんだよ。

【田原】当時、田中派は汚れたハト、福田派はきれいなタカという言い方があったけど、どうでした?

【石原】そうなの? いや、福田さんはタカじゃなかったな。ただのハトだよ。悪いけど、僕は福田さんに敬意を感じたことはないな。

安倍晋三のいいところはどこ?

【田原】最後に聞きます。石原さんがいまの田中角栄ブームに火をつけたわけだけど、いまどうしてこんなに田中角栄がウケるんだろう?

【石原】ノスタルジーじゃないですか。日本の政治が狭くなってきたからね。安倍君は安倍君でよくやっているけど、民進党の岡田克也っていうのは何ですか。財閥の息子にしちゃシャビー(みすぼらしい・古めかしいの意味)で暗い。あれじゃダメだよ。

【田原】安倍晋三はどうですか。清和会だから石原さんの後輩になる。彼は自分のことを頭がいいと思っていなくて、人の意見をわりによく聞く。これが彼の一番いいところだと思う。

【石原】私の主治医で日本一の救急病院をつくった先生がいるんですが、あるときその人が自衛隊の看護体制はなってないというんですよ。話を聞いてもっともだと思ったから、まず菅義偉君に紹介したの。そうしたら内閣官房の参与になってね。このまえも安倍君がその先生から15分、話を聞いたそうです。これは本気でいろいろ考えている証拠でね。そういう意味では篤実な男だと思いますよ。

なぜいま、田中角栄のような政治家は出てこないのか~田原総一朗

田中角栄のすごいところは2つあります。1つは構想力。1967年に社会党と共産党に支持された美濃部亮吉が東京都知事になりました。それと前後して、神奈川、大阪、京都、名古屋が革新になった。それに危機感を持った田中角栄は、「中央公論」に「自民党の反省」という論文を書きました。

解決策として提示したのが、「日本列島改造論」の下敷きになった都市政策大綱です。日本は太平洋側だけ発展して、日本海側や中日本は取り残されていました。そこで田中角栄は日本を1つの都市にしようと構想しました。具体的には全国に高速道路と新幹線を張り巡らし、各都道府県に空港をつくり、日本の4つの島を橋とトンネルで結び、日帰りでどこでもいけるようにする。そうすれば企業も分散するというわけです。

もう1つは、人間としてのキャラクターです。石原さんも言っていましたが、田中角栄は誰でも受け入れるスケールの大きさがありました。たとえそれが敵対する相手でもです。

昔の自民党は、そうした懐の深さがありました。当時、自民党は田中派と大平派がハト派、福田派と中曽根派がタカ派で、どちらかが主流派になれば反対の派閥が非主流派になってバランスがとれていました。党内で活発な議論をしていたから、当時、野党に関心を持っている人はいなかったですよ。

ここにきて角栄ブームが起きているのは、いまの政治に構想力が足りないせいでしょう。アベノミクスは、第1の矢の金融政策と、第2の矢の財政政策が奏功して株価が上がりました。しかし、第3の矢である成長戦略のための構造改革は進んでいない。構造改革は改革したあとの世界をどうするのかという構想が必要なのに、そこを描き切れていません。もしいま田中角栄がいたら、何かしら新しい構想を打ち出して国民に見せていたでしょう。

どうしていま田中角栄のような政治家が出てこないのか。それは政治家が守りに入ったからでしょう。田中角栄は何もない焼け野原から出発しましたが、いまの政治家は守るものがあって、チャレンジしないのです。

その中でも安倍晋三はチャレンジャーだと思います。誰もできなかった改憲をやろうとしているのだから。ただ、彼は昔の日本に戻そうとしているだけで、やはり新しい構想はない。

そういう意味では、小泉純一郎もチャレンジャーでした。あるとき中川秀直と飯を食べていたら、「いま小泉純一郎が総裁選に出ようかと迷っている。どう思うか」と聞かれました。

僕は「田中派と喧嘩するつもりがあるなら支持する」と答えました。

当時総理だった森喜朗は竹下登が全面的に支持していたし、その前の小渕恵三、橋本龍太郎は完全に田中派でしたからね。そうしたら中川秀直が階下から小泉純一郎を連れてきた。「本気で喧嘩すると暗殺される可能性があるよ」と言ったら、小泉は「殺されてもやる」と言う。それで僕は支持したのです。

彼は言葉の天才で、選挙では田中派を潰すと言わず、「自民党をぶっ壊す」と言った。それで支持を得て、本当に田中派を潰してしまいました。

いま僕はそれを半分失敗だと思っています。というのも、田中派が弱くなり自民党内のハト派が存在感をなくしてしまったから。安倍晋三が改憲を言い出しても党内で反対意見が出てこないのは、いいことではない。この状況への危機感と、昨今の角栄ブームは無関係ではないでしょう。

自民党は、新しい構想を持ったポスト安倍をそろそろつくるべきです。ただ、いまは見当たらないから困る。小泉進次郎はセンスがあるけど、世代交代にはまだ時間がかかります。そのあたりが自民党の、そして日本の政治の課題でしょう。




日本維新の党・おおさか維新の党はおわった。

すべてを失った石原慎太郎氏と橋下徹氏は、おわった。

そのすべてを失った石原慎太郎氏は最期の作家活動として、若い政治家の頃、散々ぼろ糞に批判していた田中角栄氏の一人称の伝記小説『天才』を発表した。

驚異的なベストセラーを放った。弟の石原裕次郎の伝記『弟』以来のヒットだった。

それは冥途への土産品である。もう死んだ。(石原慎太郎氏は2022年2月1日死去・享年89歳)

そしてすべてを失った橋下徹氏はテレビタレントとして、ふたたびのテレビ番組をもった。

だが、カリスマやオーラを失った元・政治家の不運や悲哀が身体からあふれる。

私長尾景虎の師匠の大前研一氏は「10年後の橋下徹に期待する」というが、無理である。

テレビに出て愛される、ということはオーラや威厳をなくすことだ。

馬鹿だったり無知だったり、顔だけが良かったり…そうして視聴者に愛されるには視聴者より一段下の移置にいくことだ。俳優なら違うのだろうが、橋下氏はバラエティタレントである。もう二度と政治家の道はあるまい。あっても大阪府知事・大阪市長程度だ。

橋下徹氏も石原慎太郎のように、おわった、のだ。

橋下氏、石原氏のいない維新の党・おおさか維新の党など「残りかす」みたいなものである。存在意味がない。独裁者・闇将軍・安倍晋三には永遠に勝てなかったろう。まさか暗殺されるとは思わなかったが。石原慎太郎も死んでしまったし……。

やはり、おわった、のだ。もう政治家としては。おわりなのである。

余計な期待は彼には酷な話であろう。本当に、おわった、のだ。















第二部 小説『闇の将軍 天才政治家 田中角栄』(小説部)伝説の天才政治家田中角栄のすべての人生の真実がここに!


この物語のベースはNHK報道番組『未解決事件Fail.5ロッキード事件と田中角栄』と津本陽氏著作『異形の将軍 田中角栄』です。参考文献で引用をどうかお許しください。





1 ロッキード事件と雪国の少年


 前列者しかその男をみられない。黒山の人だかりである。

 大声のダミ声と、訛りで、虎のように発する男はいった。

「ロッキードの判決は、みなさんご存じの通りである。私はあったこともないロッキード社副社長コーチャンの証言により有罪とされた。コーチャンには弁護士の反対尋問をゆるさない、いわゆる免責の措置がとられている。

 法治国家として、ありうべかざる、推論で人に罪をかぶせるようなことは、絶対許せん。 政治倫理とは、他人に求めることではなく、自らが神に恥じない行動をとることだ。私は虎ばさみにかけられたのだ。

 足をとられたほうが悪いのか、虎ばさみを仕掛けたほうが悪いのか、後世の学者が判断するのだ。私は断じて何もしておりません。私が十年間じっとしているうちに、日本はマイナスばかり目立つようになった。当選したら、いろんな法案を立案して、日本の改革に着手する」

 大柄な虎のような男は、田中角栄である。

 かれは十月二日午前、ロッキード丸紅ルートの裁判で、収賄罪により懲役四年、追徴金五億円の判決をうけたという。

 角栄は早坂秘書(早坂茂三氏、二〇〇四年六月二十日死去、享年七十三歳)に東京でコメントを発表させた。その内容は「ロッキード事件に自分が関与していないこと、無罪であること」であったという。

 田中角栄は緊張すると、顔を紅潮させる癖がある。だが、この選挙ばかりはむくんだ顔で蒼ざめ、強烈な衝撃を受けているようだった。

 今度の選挙は事件後のこと。だが、負ける訳にはいかない。

 今回は日本の未来がかかっている。角栄の全身の血管の中を情熱……熱い情熱の波が走りぬけた。……日本を改造させる! 日本の改革をするには俺の知恵が必要だ。俺の。知恵が。とにかくロッキードだの丸紅だのと糞くらえだ!

 この日本を改革し、維新回天させられるのは俺しかいないではないか?!

判決のあと、東京の目白の豪邸に戻ったのは午後二時過ぎだった。

 角栄の乗ったクライスラーは、目白の豪邸に猛スピードで到着した。

 角栄派の連中が待っていた。

 かれはいう。

「今日の私は楽しい気分ではありませんでした。皆さんにも心配かけてすまなかった」

 一同は沈黙する。

 角栄は続けた。

「一国の首相を経験したものが、でっちあげの裁判で有罪になるなど論外です」

 田中角栄には明るいイメージがつきまとう。金権政治で金をバラまいたが、社会の裏側でうごめく印象がない。それはたぶんに角栄が惜しめもなく大金を明るくバラまいたためだろう。しかし、角栄は世論を気にする政治家でもあった。

 こんどは世論につぶされるかも知れない……

角栄は恐れていた。

 判決が出る前の昭和五十八年五月十五日の朝、角栄は見附私立見附小体育館で講演をおこなったという。今町両越山会の主催の講演をした。

 一時間半の講演は、「日本列島改造論」であった。


  判決に先立つ七年前。昭和五十一年十一月三日、丸紅を通じロッキード四社から金をうけとったとされる、五人の政治家のトップの有罪が確定された。筆頭は田中角栄だった。

「しかし、私にはやらなければならない事業がたくさんある。郷土発展のため、皆さんはこれからも事業の要求はこの田中に要求すること。

 その意思があれば私はかならずやる。私はロウソクの灯が消えないうちにやらなければならないことはたくさんあるのです!」

 六十五歳の角栄にのしかかってきた。ロッキードの重圧であった。

 昭和五十八年十二月二日、お国入りはしないとしていた角栄は、ロッキード事件をうけて新潟三区に戻った。演説は気迫あふれるものとなった。

角栄の顔は青ざめ、普段の艶がなかったという。

かれを支えたのは後援会『越山会』であった。


  この頃、アメリカ議会はいろいろな委員会を通じて公聴会を開き、アメリカ多国籍企業の海外での不正活動にメスをいれていた。とくにフランク・チャーチ上院議員ひきいる多国籍企業小委員会は熱心だったという。

 大統領の椅子を狙っていた彼としては脚光を浴びる絶好の好機である。

 大企業のトップが次々と招集され、ロッキードの名が出た。

 そして一九七六年二月四日、日本人にとって衝撃の事件、ロッキード・スキャンダルの幕が切って落とされる。

 チャーチ委員会はロッキード社がトライスター機売り込みのために三十億円以上の金を日本でばらまいていたという事件が明るみにだされたのである。

 当時ロッキード社の副社長カール・コーチャンが、公聴会で、彼と日本政府高官との橋渡しとして丸紅の檜山と大久保の名前を出す。

 アメリカではこれで一件落着となったが、日本ではここからが始まりだった。日本のマスコミは犯人探しにやっきになり、連日報道した。

 当時の米国大統領フォードは、田中角栄の名を出すのを躊躇していたという。しかし、当時の三木首相がフォードに「田中角栄は日本のためにならない」と説得して遂にフォードは折れた………

 事の真意はさておき、ありえない話ではない。三木と角栄の確執はあったし、三木は推名裁定という棚ぼたで首相になっただけ。が、角栄は政界のドンとして君臨し、三木にとっては、角栄は〝目の上のたんこぶ〝である。

 しかし、このロッキード事件はJFK暗殺、RFK暗殺以降、自称JFKの弟子と呼ばれるチャーチ(反体制)と軍産複合体(体制)による対決でもあった。

 日本は飛び火を受けただけだ。

 その証拠に米国ではひとりの自殺者も逮捕者もでてない。

 チャーチはそのあともグラマン・ダグラス事件、IBM事件など打ち出すが、成果はゼロだった。そんな中、田中角栄は逮捕された。

 しかし、角栄は負けない。

 選挙マシーンと化した『越山会』をフル稼働させて、選挙を戦い抜く。

 角栄の愛人・佐藤昭子は、ロッキード事件を〝無理やりつくられた事件〝と称して、角栄に、

「弁護士を変えたほうがいいんじゃないかしら? いい弁護士を紹介しますわ」

 というと角栄は「今いるひとたちに悪いからいいよ」という。

 お人好しの田中は進言を受け入れない。

 三十五年も田中角栄をささえてきた、南魚沼群湯沢越山会、高橋敬一郎はいったという。

「あの人(角栄)の欠点は、イヤな話を聞くのが苦手だということだ。忍耐が足りない。もうひとつ、忍がないのは(信長のような)残忍性がないことだ。それで人気があるんだが」

 角栄の側近もこういっていたという。

「彼は豊臣秀吉ではなく、織田信長だ。信長と違うのは、田中には比叡山の焼き討ちができないことだ」

 新潟は雪がこんこんと降り頻る。角栄は選挙カーで、ひさしぶりに新潟入りし、演説していく。雪では角栄は強い。

 そして、田中角栄は二十二万票という得票を得て、トップ当選する。

 マスコミは「まだ目が覚めないのか」と報道したが、地元は〝地元に道路や橋や新幹線をもってきてくれるひと〝として角栄に票をいれた。まさにアグリーだった。



  大正七年(一九一八)五月四日、新潟県刈羽群二田村(現西山町)大字坂田の古い農家に、田中角栄は生まれた。一面に稲が広がる田園地帯である。

 信越本線柏崎駅から越後線に乗り換えて、新潟にむかい五つめの西山駅で降り、三十分ほど歩くと坂田の家につくという。

 酪農地帯でもあり、村には牛が列をなして草をはみ、糞や小便を垂れ流す。

 村の真ん中に坂田川という川が流れ、鯉や鮒などが泳いでいる。

 角栄の家は由緒ある農家であったという。

 田中家では男子が育たないといわれていた。祖父が捨吉と名付けられたのも、そのためであるという。角栄の父・角次は次男であったが、兄が幼少の頃に亡くなったので、あとをついだ。

 戸籍上では角栄は長男であるが、角一という兄が生後まもなく亡くなっている。

 父・角次は次男が生まれたとき、義高か角太郎のどちらかを命名するつもりでいた。家号が角右衛門で、その息子は角太郎がふさわしいと思っていた。

 しかし、妻のフメが、

「んだども、角太郎といえば実家の隣の犬の名だすけぇ」といったので却下となった。

 犬がいたかどうかは知らないが、フメは子供には角栄と名付けるときめていたという。角栄が生まれたときは、二百戸たらずの二田村(昭和三十四年に西山町となる)はほとんど農家で、山が近くにあり、水田と山林をもつ家が多かった。

 少ないが油田からのオイル・マネーで潤っていて米が沢山とれた。

 どの家からも日本石油西山鉱業所へ油井を堀りにでかけるので、毎月現金収入がある。そのため、日本中が不景気にさわいでいるときも二田村は活気があった。

 しかし、ここも豪雪地帯である。

 そんな中、事件はおきる。

 角栄少年が外に出ようとして、玄関から雪の壁につけた段を登ろうとしているとき、頭上から雪崩が落ち、ちいさな体は雪の中に埋もれてしまった。

 分家や近所のひとが駆け付け、シャベルなどで必死に雪を掘り起こすが、角栄少年の体は容易に発見できない。

 雪崩が多く、雪を掘っても、掘っても、角栄は出てこない。

 グズグズしていると窒息して角栄は死んでしまうので、皆はシャベルで角栄を傷つけることもかまわず必死に雪を掘る。

 祖母のコメは男まさりの体格で、若い頃は美人だったという。

 彼女は、角栄を溺愛していた。が、必死に般若心経を唱えながら、夢中でシャベルを振るう。雪を掘り返していた。

 母親のフメが、

 ………もう息子は死んだですけぇ。

 そう観念したとき、コメが叫んだ。

「ここだ、ここにいるすけぇ!」

 コメの足元の雪が真っ赤になっている。フメをはじめ近所のひとが夢中で雪を堀だした。シャベルの先が頭にあたり、血が噴出したので、角栄の居所がわかったのである。

 角栄は皆に助けだされたとき、泣きもせず平気な顔だちであったという。

「おめぇ、おっがなく(恐ろしく)ながったすけぇ?」

 フメにきかれると、角栄は額から血を流しながらうなずいた。

  角栄には姉二人、妹四人がいた。

 長女カズエ、二女フジエ、長男角栄、三女ユキエ、四女トシエ、五女チエ子、六女幸子の順である。

 三女ユキエと六女幸子は早逝した。

 角栄は祖母コメに溺愛された。過保護に育った。コメは昭和十九年、八十二歳で世を去るまで、家事のすべてをひきうけていた。

 母フメは働いていたが、あるとき得意な五目飯をつくったが、角栄は嫌がって食べなかった。

「おばあちゃんのつくったものでなければ、食べたくないよ」

「なして? おらのつくったもの、嫌(やんだ)けぇ?」

「かかの手はおしめを洗濯するから、汚なげだもの」

 そのとき、フメは悲しげな顔をした。

 あるときは駕籠にのった坊さんを見た。

 角栄は、駕籠にのるような偉いひとにはなりたいとは思わなかったが、駕籠をかつぐものにはなりたくないと思ったという。

 後年、かれはこういう。

「駕籠(かご)に乗る人、かつぐ人、そのまた草鞋(ぞうり)をつくる人」

 越後の片田舎に育った少年は、立志を抱くのだった。

 角栄は四歳のときジフテリアにかかっている。その後遺症で、吃(ども)りになった。よくしやべれなくなり、吃りがひどい。姉は弟を叩いたりして、

「ちゃんと話なさい!」と叱ったという。

 角栄は内気になり、家に籠ることがおおくなる。……ちゃんと育つだろうか? 親戚一同は心配する。角栄が六歳のとき、小学校の地面が波のように揺れた。関東大震災がおこったのである。

「角や、おめえ何が悪いことしなかったけ?」

「悪いごどって何けぇ?」

「財布から金とったろ?」

 角栄は顔をしかめ「財布からはとってねぇけんど、箪笥の上に銀銭あったがらもらった」「やっぱりおめが」

 フメは怒ったが、角次がとめた。

「いいでねぇが!」

  村は一面雪だらけとなった。

 豪雪地帯で、吹雪ともなると回りが真っ白になり何もみえなくもなる。角栄は吃りも直りかけ、スキーや雪合戦などで楽しんだ。しかし、吃りのためにイジメられた。

 角栄はイジめっ子たちに仕返しをした。竹槍を持ち出して襲撃しようとした。

 ……あいづは怒らすと何すっがわがらね。

 イジめっ子たちは、遠くから角栄に罵声を浴びせ掛けるだけになった。

 学芸会では角栄は先生に頼んだ。

「おらを弁慶安に!宅の関の、弁慶役にして下さい」

 笠原先生は首をふり、

「お前はセリフがいえねがら、舞台監督をしろ」という。

「かならずやりとげるすけぇ、お願いします」角栄は必死に頼んだ。

 こうして、角栄は努力して弁慶役をやり遂げた。

  やがて、そんな角栄少年も小学校を卒業する。

 当時、中学校は義務教育ではなかった。「おらのところは金ねぇから中学はなしだ」

 父・角次はいった。

 角栄は強烈な衝撃を眉間に受けた気がした。

 痛いところに突いてくる強烈な一撃だった。

 村の近くでは公共工事が行われていた。

 母はぼうっとして過ごしている角栄に、

「土木工事でもかまわねすけぇ。やりてぇごどやってみな」といった。

 角栄は、

「ならおらは東京にいぐ! 東京で一旗あげるんだで!」といった。

 あては東京に進出している井上工業東京支店である。コネがあった。

 しかし、角栄は、母を残して上京するのに、心が痛んだ。              

         2 越後の血



「これは旅の支度金だ。取っとけぇ」

 残雪うずたかい二田村に戻ると、フメは角栄の上京をよろこんだ。

「そげなもんいらね、金はあるでそ」

 角栄は小柄な胸を張りいった。

 苦しい世帯を支えているフメから金をもらう気はなかった。

「金はあって困るもんじゃないべ」

「かあちゃんから金もらったら悪いべさ」

「ええさ、お前が月給の中から仕送りしてくれた金は、手ばつけんで積み立ててたんだ」フメはためていたという金の中から、十円札を差し出し、角栄に渡した。

「これを腹巻に入れとけや。なくすでねぇぞ。死んでも無一文じゃ笑われる」

 当時の十円札は、いまの十万円より価値があったという。

 十六歳の角栄にフメは処世術を教えた。

「大酒は飲むな。馬はもつな。できもしねぇ大きなことはいうな」

 これは散々なやまされた角次の癖だった。

 そしてフメは続けた。

「人は休まねば体いためる。だども休んでから働くか、働いてから休むかとなれば、働いてから休むようにしろ。悪いことをしなけりゃ暮らしていけなくなったら、すぐに家に帰ってくるんだ。金を貸したひとの名は忘れてもいいが、金を借りたひとの名は忘れちゃならねえど」

 昭和九年三月二十七日午前九時、角栄は柏崎駅から、信越線回り上野行きの列車で、東京へ出発した。

 晴れ渡った青空で、天気がいい気持ちのいい日だった。山の頂きにはまだ雪が見えていた。角栄は手を振って見送りの皆と別れたが、寂しさが全身を襲った。しかし、

 ……いよいよ上京か…

 と思うと、また興奮もするのであった。


  上野の駅につくと、タクシーにのった。

 さしあたっての落ち着き場所は、日本橋の井上工業という土建会社の東京支社である。   柏崎の土木派遣所に同居していた、産米検査所の尾崎さんの義弟、吉田猛四郎という人物が支店長である。尾崎さんが斡旋してくれた。

 フメが、「電車やバスにのらずタクシーに乗れ。行く先を紙に書いて渡せば連れてってくれる」といったからタクシーに乗ったのだ。しかし、十分も十五分もタクシーは走り続ける。不安になったが角栄は運転手を信じていた。

 どこかでタクシーは止まった。

「ここでおりろ」

「いくらです?」

「五円だ」

 冗談ではない、と「そんな金はない」と角栄は口走った。

「そうか。じゃあ交番へいこう。下りろ」

 ビルの前に本当に交番があった。仕方なく五円払い、井上工業に電話するとすぐ近くだという。東京で「おのぼりさん」扱いされて、ひどい目に遭った訳だ。

 傷心の角栄は、井上工業の吉田支店長とあい、親切にしてもらいなんとか元気を取り戻した。支店長の働きで、住む場所も決まった。

 田舎で大きな建物といえば群役所と小学校くらいである。

 東京は巨大な高層ビルが建ちならび、別世界である。

 …ふわぁ。

 角栄は感嘆の溜め息をもらした。

 東京にくるまで角栄は、大河内という人物にあえばすべてうまくいくと信じていた。

 親切な書生さんや女中がとりもってくれ、屋敷に住まわせてくれ、しかるべき上級学校に通わせてくれる………

 しかし、理化学研究所の所長で「殿」とよばれている大河内はあってくれない。

 ……タクシーの運転手にも騙される俺だ。殿様などとよばれている所長にあえる訳ねぇがそ。これはどうにもならねぇ。俺のような小僧っ子が会えるわけもないのですけぇ。

 帰りのバスの中で、角栄は考えた。

 ……このままでは田舎にトンボかえりだ。目算が狂った。こうなりゃ井上工業の東京支店で働かせてもらうしかねぇ。俺は田舎で土木工事もやった。事務もやった。

 ……このまま東京に残るには働くしかねぇべ。

 さっそく井上工業の東京支店長・吉田は、

「いいだろう。ここで働きなさい」と承諾してくれた。

 井上工業の東京支店は日本橋にある木造三階建で、社長は井上保三郎という、群馬県高崎市を代表する名士であったという。

 角栄は働きながら学ぶため、当時夜間専門の私立中央工業校の土木科に入学することにした。昼は土木作業で汗を流し、夜は学ぶのである。

 通学をはじめると、講義録をあらかじめ勉強しているのが役にたち、工業英語の暗記にいささか骨を折ったくらいであった。数学は得意で、代講をつとめるほどだった。楽しく学べた。

 しかし、仕事のほうはきつかった。

 井上工業にはもうひとり小僧がいた。田中角栄の刎頸の友と呼ばれた入内島金一という男である。

 入内島は角栄より二才年長で、新宿の工学院(のちの工学院大学)の土木科へ通っていた。角栄らは午前五時に起き、六時までに掃除をおわし、朝食後すぐに土木現場へと向かった。夕方五時まで働き、授業は夕方六時から九時までの三時間であったという。

 入学して間もない頃、角栄は自転車に乗ってスピードを出していたところ路面列車に轢かれた。運転手は大声でどなったが、角栄にはいいかえす余裕もない。

 血がでてすりきれた脚を引き摺り、車輪が曲がった自転車を押しながら、角栄は歩いた。その惨めな記憶を角栄は晩年まで忘れなかった。

 角栄は工事現場で汗を流した。

「そこのパイプもってこい!」

「あいよ!」

 角栄は「世の中暇だなぁ」と呟いた。

 金一も「まったく」と頷いた。

 このとき、金一はそういった小僧が、いつの日か一国の首相になるとは思ってもみなかったことだろう。しかも、「闇の将軍」として政界に君臨するなど、この男がそうなる訳はない………誰だってそう思うだろう。

 土木工事現場で働き、夜学にかよう越後からの少年が、よもや首相になろうとは……

  ある時、角栄は深夜、自転車で新橋を猛スピードで走っていた。

「おい! まて!」

 そんな角栄を巡査がとめた。

「……なんだず?」

「無灯火だ。署までこい」

 自転車のランプをつけ忘れていた。が、角栄はひるむことなく、

「私は夜学に通っていて、いずれはお国のために役立つ人材になります。無灯火くらい勘弁して下さい」

「いや勘弁ならん! こい」

 巡査は息巻いた。

 角栄は、今度は下手に出た。「どうもすいません。無灯火とは気付かなかったんです。どうが許してください」

 すると、あれだけ激怒していた巡査が、

「まぁいい。次から気をつけるように」と丁寧にいった。

 角栄は相手の〝物差し〝を見て取ったのである。自分は職人を集めようと急いでいた。しかし、巡査は暇をもてあましていた。

 こうして、角栄は人間の扱いを覚えるようになる。

  しかし、〝お国のために役立つ人材〝どころか角栄は只の土木作業員である。

 ある時、会社の男が「小僧、お茶もってこい」という。

 すると角栄は激昴し、

「俺は親会社から派遣されているんだ。本当ならお前たちが俺にお茶を出すのが普通だ」 その言葉に、上司の頑強な男たちはいきりたった。

「なんだと、この野郎!」

 しかし、角栄がシャベルを手にして構えたため乱闘にはならなかった。


  一ケ月住込みで早朝から深夜まで働いて、給料はわずか五円である。

 工学校の月謝三円五十銭を納め、本を買い、なおかつ測量の機械を買う余裕はない。

 毎日、長時間重労働して夜学に通うと、どうしても眠くなる。

 角栄は掌に刃物や鉛筆の芯を置き、眠ったら刺さって起きるようにした。あるとき、やっぱり眠ってしまい、鉛筆の芯が右手の親指にかなり深く刺さった。

 医者にいく金がないためそのままにしたが、黒ずんだ跡が晩年まで残ってしまった。

 土木工事が嫌になった角栄は、学校と会社を辞めることにした。

 角栄は新しい仕事を探すべく、新聞の広告覧を読みあさった。

 世の中は不景気というのに、井上工業より多い報酬をくれる勤め先をみつけるのには苦労はしなかった。

 角栄は求人広告の応募し、小石川水道端の小山哲四郎という人の書生となって住み込むことになった。

 小山は富山県人で「保険評論」という雑誌を発行している学者であったという。小山老人は若い二人の記者を使い、業界では高く評価される雑誌をつくっていた。

 角栄は記者見習いとして働くようになった。かれは保険の知識や財務、株式などの知識を勉強していった。

 数学の得意な角栄は、保険数理学者になろうと考えたこともあった。

  半年ほど小山老人の元で働いていたとき、故郷の姉から手紙が届いた。母フメが病床についているという。

 無口で重労働に堪えていたフメが病床にあるということはかなり重病なのだろう。

 角栄は、小山の妻に

「すぐ見舞いに帰りたいと思います。五、六日休暇を下さい」と頼む。

 賃金の安さに加え、新潟にかえりたいばかりに、ニセ手紙を書いたのだろうと思われ、休暇を許してもらえない。

 角栄は直接小山に頼もうと思った。が、とっさに気が高ぶり、いってしまった。

「それでは今日かぎり退職させていただきます」

 角栄はその日の宿もない。で、新潟から帰るまで荷物を小山のところへおいてもらうことにした。

 かれは夜、新潟行きの蒸気機関車にのる前、新聞に広告をだした。

「夜学生、雇われたし。住込みもよし」

 返事は小山事務所あてにもらうことにしたという。

 勤務先を次々とかえる十六歳の少年には下積みをする気などさらさらなかった。天に登る龍のように、上昇思考があった。

 ………なんとしても成功をおさめたい!

 角栄はその気持ちでいっぱいだった。エネルギーといってもいい。

 角栄が帰宅すると、フメはひさびさに息子の顔をみて元気をとりもどした。フメは働きすぎで疲労のため寝込んでいただけだった。その夜は、角栄のために料理をつくるといって、きかなかったほどだ。

 東京に戻って不安になりながら小山事務所を訪ねると、五、六枚の葉書がきていた。

 早くきめないと今夜の寝所もない。いそいで芝琴平一番地の高砂商会をたずねることにした。

 高砂商会は、琴平神宮の裏手で、虎の門公園と道ひとつへだてた古い店だった。

 しかし、角栄はこんどの就職には成功した。

 高砂商会は、貿易会社で、アメリカのスチールウール研磨材の輸入元で、全国に卸している。高級カットガラスも輸入し、高島屋、松坂屋などに卸している。

 社長は五味原太郎で、あとは妻と暁星中学に通う長男とその妹だけであった。

 角栄は夜学に通わせてもらうのを条件に、住込みで働いた。

 報酬は月十三円。井上工業の倍近い………

 角栄はラッキーに思ったことだろう。

  角栄には忘れられない記憶がある。

 ある日の夕方、ガラスカップの注文をうけた。角栄は、夜学に遅刻するのを覚悟でいっぱいのガラス瓶を自転車の荷台に乗せて走らせた。すると、転んだ。

 ……しまった!

 と思ったときにはもうおそかった。

 荷台のガラス瓶は粉々に砕けていた。角栄はひとりで店にもどり(主人は留守だった)もう一度ガラス瓶を荷台につけて運んだ。運びおえると、遅刻したが夜学には間にあった。 角栄はその翌日、すべてを話した。

 われたガラス瓶の値段は、給料の二、三ケ月ぶんはする。

 角栄は謝りに謝った。

 しかし、主人は優しかった。

「怪我がなくてよかったじゃないか。気にすることはない」

 角栄はありがたく思った。

 そして、角栄は「不注意による他人のミスは咎めないようにしよう」と心に決めた。

昭和5年、満州事変(侵略)がおこり、さらに上海事変(侵略)、同年には日本軍の傀儡政権、満州国が建国された。

 青年将校たちが犬養毅首相を暗殺した五・一五事件がおこったのはこの頃である。

 角栄は海軍将校になりたくなった。

 仕事も好転してきた。で、角栄は村にもどりフメに相談した。

 フメは海兵進学を即座に承諾した。

「おめぇはしっがりした子だがら、なにしても間違いはねぇ。海軍にいくことは賛成だがら、好きなようにやれ。家のことは心配するな」

 角栄は海軍兵学校に入隊する準備は出来ていた。

 しかし、途中で断念している。

 母フメがまた病気になったからである。

 角栄は高砂商会を辞めていたので、建設や数学の知識をいかそうと専門学校か大学にいく気でいた。しかし、それは諦め、さしあたって駒込千駄木町の中村勇吉建築事務所に勤めるようになった。

 角栄は少し遅れて、名古屋高等工業学校を卒業した。


  大河内「殿」が新潟の柏崎に広大な土地を買い、ピストリング製造工場を設立したのは、昭和七年であった。大河内は新潟に何度もくるうちに「新潟は第二の故郷だ」とまで思うようになっていったという。

 そんな先生に近付きたい……角栄はそう思っていた。

 最初、書生にしてもらいたいと思ったのはそのためだ。

 理研のエレベーターで、角栄は大河内と一緒になった。いや、角栄は一緒になるタイミングを狙っていたのだ。

 何も話せなかったが、大河内の風采にみとれた角栄は、胸が熱くなるような衝撃を覚えた。全身の血管の中を、なにか熱いものが駆けぬけるような……

 やがて、角栄は大河内を攻略した。

「君はいまでも理研に入りたいか?」

 越後訛りの少年に、老人はきいた。

「はい!」

 角栄は大きな会社に就職できた。

 いまの学歴社会の日本では考えられない幸運である。現実として今の日本だと高卒では「事務職」には絶対につけない。〝腰掛け〝の女子高校生なら事務でもいいだろうが、男の場合は大学を出てないと必ず不採用になる。

 事務職で面接にいっても「事務職もうやってない」などと嘘をつかれたり、「じゃあガソリン・スタンドで…」などといわれる。

 だから著者も苦労した。角栄だって苦労したろう。

 しかし、角栄はラッキーだった。


  その頃、角栄は駒込三丁目のアパートに住んでおり、愛人までいた。

 角栄は昭和十三年末、盛岡騎兵第三旅団二十四連隊第一中隊に、現役兵として入隊するという通知を受けた。

 アパートの荷物を田舎におくるため、すぐ上の姉フジエが上京した。フジエは角栄の部屋に女性がいるので驚いたが、なにもいわない。

 フジエはその夜から角栄と愛人の間にはさまれて川の字になって眠った。

 フジエとその女性は荷物をまとめた。角栄は愛人にたんまり金を与えた。

 角栄が東京にもどると、荷物を新潟に送ったのか部屋はがらんとしていたという。

  盛岡騎兵第三旅団二十四連隊第一中隊に入ると、隊は広島へ向かい、そののち九州を経て、北朝鮮の羅津港へむかった。

 角栄は家を出るとき、二百円ほど金をもっていたが、大阪、広島で遊び、ほとんど使ってしまったといわれる。

 軍曹は角栄に尋ねた。

「もっとほかにあるのか?」

 もしあれば拳骨を食らうと察した。軍曹はからの財布から写真をみつけた。

 それはアメリカの女優ティアナ・ダービンの写真だった。軍曹は角栄を睨みつけ、

「これは誰だ?!」ときく。

「自分の好きなタイプの女性であります」

「なぜこんな写真をもってきたのだ?」

 角栄は言葉につまったが、頭に浮かんだことを口にした。

「こんな女を、将来自分のワイフにしたいと考えております」

「馬鹿ものーっ!」

 軍曹はその言葉をきくなり激昴し、角栄を拳骨で殴り倒した。

 角栄は運がいい。

 軍隊に従事していて前線におくられるものの病気になり、本国に送りかえされ、仙台で療養した。そのあいだに太平洋戦争は終結したのである。

 日本帝国は敗れた。

 しかし、角栄は戦死することもなく、命拾いをしたのである。

 田中角栄という男は、どこまでも運がいい。

        3 挫折をこえて



          天子誕生と戦争







  立憲君主と大元帥……

  慈悲深い立憲君主と大元帥……                  

 これが昭和天皇・裕仁(1901~1989)の名称である。

 しかし、実のところは白馬にまたがり軍部の前であやつられるパペット(操り人形)に過ぎなかった。日本人には驚きだろうが、かの昭和天皇は、ヒトラー、ムッソリーニと並ぶ第二次大戦の大悪人のひとりなのだ。                             

 しかし、崩御(死亡)のさい、日本のマスコミはこのことにまったく触れなかった。

 ……死んでしまえば「いいひと」とでもいいたげにお涙頂戴の報道に徹した。

 NHKを初めすべての報道局が昭和天皇の死を報道したが、戦争犯罪に触れたものはひとつとしてなかった。世界はこれに呆れたことだろう。

 先の戦争でも昭和天皇は「もう一度戦果をあげるのがよろしそうろう」などと沖縄戦の一ケ月前に「お言葉」を述べている。

 太平洋戦争末期に出来た近衛内閣の近衛文磨首相は「最悪なる事態は遺憾ながら早々必要なりと存候。一日も早く戦争終結を申し候」と述べた。

 しかし、神の子・天子である天皇は人間らしいことは何もいえない。只、「無駄な血が流れなければよいが…」と他人事のような「お言葉」を述べるだけだ。

 熱しやすい軍部は暴走して、「一億総玉砕!」などと泥沼にひきずりこもうとする。


 

  角栄は「俺は運がいい」と思った。

 戦争では、日本軍は中国に七十万もの兵士を送っていた。また、ガダルカナルやビルマで戦線を拡大していた。

 もし、角栄が病気にならなかったら、かれはその最前線に送られたはずである。

 そうなれば戦死は避けられない。

 しかし、そこを『神のみえざる手』が角栄を救った。

 のちに首相として中国と国交回復させる政治家は、惨めな犬死はしなかったのである。天に意思があったとしか、この男には思えない。

 天がかれを必要なときに救い、そして使い、必要なくなった晩年は惜気もなく病気で権力をなくさせた。

 天の意思が、角栄の頭のうえにあった、ということだ。

 角栄が半年後退院したのは十五日である。

 ながらく横になっていた宮城野原分院を退院し、衛生兵につきそわれ、仙台駅から列車で福島県郡山に出ると、磐越西線で新津をおりた。わが家に向かった。

 実家の二田村の家は、父の事業が成功しみちがえるほど立派になっていた。

 ふたりの姉はあいついで世を去ったが、三番目の妹チエ子と、末の妹幸子が成長して、亡くなった姉のようになっていた。

 角栄は、十月五日から七日まで実家にいたが、八日の朝、早々に汽車にのり東京へ戻った。除隊命令をうけて、親友の中西正光から東京の居場所を探してもらってからの上京である。工場は軍需景気にわいていた。

 中西は戸塚二丁目にアパートを借りていてくれた。

 太平洋戦争はおわったが、五年後には朝鮮戦争があり、日本中が軍需高景気に沸いていた。中西はいう。

「この景気の波に乗り遅れたら、一日で損をするぞ」

 角栄は除隊して社会に復帰したことを理研などに挨拶してまわった。

 中西は、角栄が建築設計、工事請負の事務所をひらく借家を探してくれた。

 しかし、そこもすぐに古くなり、角栄は、

「よし、新しい事務所でも建てるか」と、日本医大のむかいの、電車通りにある木材店を買取り、事務所を新築した。

 寝る暇もないほど忙くなった角栄は理髪店にいく暇もない。元旦には神楽坂のうなぎ屋で、会社の新年宴会がある。二十四歳を迎えたばかりの青年社長が、散髪をしないのは頂けない。

 さっそく理髪店に飛び込んだ。

 美人の店員で、お美代ちゃんという女性が散髪をしてくれた。

「はい、おまちどうさま!」

 という声で目が覚め、角栄は金を払った。店のものたちは角栄を見て笑った。

 神楽坂のうなぎ屋にいくと、また店のものや客が笑う。

 洗面所にいって鏡でみると、気付かぬうちに鼻の下に髭が黒々とあった。


  お世話にった坂本家にはおばあさんとはなという若い女性がいた。おばあさんは亡くなった坂本大平の後妻で、はなは昭和八年に養子を迎え、子供がひとり生まれたが、事情があって二年後に離婚したという。

 おばあさんはいう。

「このままひとりで過ごさせるのもかわいそうだから、早く嫁をもらうか、婿をとりたいよ」

 はなは明治十三年八月生まれで、角栄より八歳年上だった。

 この頃、角栄にはいいなづけがいた。父が競馬で損をしたときに助けてくれた木材屋の娘だ。角栄も娘も将来は結婚すると思っていた。

 しかし、ふたりには愛はなかった。結核にかかって除隊するような男だから……

 いいなづけの娘にはそんな考えがあったのだろう。

 角栄は昭和十八年十二月、個人企業であった事務所を、株式会社にした。

「田中土建工業株式会社」という、資本金十九万五千円の会社であった。

 角栄は、はなと結婚した。

 そして、昭和十七年に長男・正法、昭和十九年に長女・真紀子が生まれた。

 その後、前述した通り、昭和二十年(一九四五)に終戦を迎えるのである。

 角栄はふたりの幼子を抱えながら、焼け野原を夫婦で歩いた。焦土の臭いがたちこめている。

「おらはこの国を再建設してみせる」

 角栄は呟いた。

          

 昭和十八年、角栄は田中土建を創立したとき大麻唯男ら三人を顧問にした。

 大麻はさっそく困りごとをいってくる。

「占領軍は大日本政治会を解散したんだ」

 大日本政治会は、翼賛政治の後身であり、全議員四百二十六名のうち、ほぼ九〇%の三百七十八名が属していた。

「選挙に間に合わせるため新党を結成したんだが、進歩党の党首問題でもめている」

 進歩党には大日本政治会の約八割が、代議士として所属していた。

「総裁選は宇垣一成と町田忠治だが、どちらか三百万円を集めたほうが総裁だ。自分は町田を支持しているんだが、君も金を出してくれんか?」

 角栄は快諾した。そのとき角栄が出資した金額は、三百万円とも、百万円とも、五十万円ともいわれている。

 それから半年後、大麻が訪ねてきた。

「こんどの選挙に、立候補しないか」

 角栄は断った。が、何度も勧められたので、断りきれなくなった。

「十五万円だして、黙って一ケ月おみこしに乗っていなさい。きっと当選するから」

 角栄はその言葉に乗ってしまった。

 角栄、二十七歳の末のことだった。

 かれは選挙区、新潟三区に足を運んだ。

 だが、三日後、GHQにより進歩党が解散させられてしまう。

 大麻のいうように、十二月末に解散があり、一月末が投票になるという予想は外れ、GHQ(占領軍)により選挙は三月にずれこんだ。大雪の中、角栄は演説をはじめた。

 その頃、角栄の愛人となる佐藤昭子は新潟にいた。

 店番をしている。と、ふたりの男がきた。

 ひとりは若い男だった。が、もうひとりは五十歳ぐらいにみえたちょび髭の男である。

「今度衆議院議員選挙に立候補される田中さんです」

 チョビ髭の青年は、ダミ声で、

「いやぁ、田中です。よろしくたのんます」と頭をさげた。

『青年代議士、若き血の叫び』というキャッチフレーズで演説したが、お世辞にもうまいとはいえなかった。

 街頭演説でも、緊張のためか声がうわずったり、ダミ声でわからない言葉を発することもある。聞き手から野次が飛んだ。

「なにいうてっかわがらね!」

 角栄は他の候補と違い、内気だった。

選挙カーにのることも、選挙区を駆け回ることもせず、白襷をかけ、造花を胸につけることさえしない。

 運動員が、雪道をメガホンでどなりつつ進む。

「田中角栄です。田中とかくだけで結構です。角栄だけでもかまいません」

 角栄はその後を静かについてくる。

 選挙日前の三月十日、立会演説会が開かれて、角栄はモーニング姿で登場したが、圧倒されてしまった。他の候補者は泥まみれのゴム靴のまま、

「われわれ農民と労働者や庶民は…」

「憲法九条は…」

 などと角栄にはさっぱりわからないことばかり口にして、優雅に話している。

 ……こりゃまいった!

 角栄は自信を失っていく。

 ……政治家なんぞにならねぇで、田中土建社長のままのほうがいいのではねぇが?

 角栄は雪混りの中をとにかく遊説してまわった。

 角栄は二ケ月の間に、地元の有力者やブローカーに大金を吸い取られていった。ひとり甘い汁を吸えばまたひとり、またひとりと増えていく……

 角栄は金をバラまき続けた。

また角栄は柏崎と新潟をむすぶ越後線沿線の電柱に、『田中角栄』と名前を刷ったポスターを張った。それから東京からトラックで選挙ハガキを四万枚もってきて、選挙民にもれなくくばった。

 当時入手が困難だった上質紙を大量につかい、宣伝につとめた角栄は、新人ながら他の候補の脅威となった。

 しかし、落選した。

 角栄は近所の神社で茫然とつっ立ってしまったという。

 かれは、最初の総選挙で苦い思いを十分に味わったので、次の選挙は直営でやることにした。選挙ブローカーはまったくよせつけない。

 柏崎と長岡に田中土建出張所を開設し、従業員を百人以上雇った。

 地元ではたちまち角栄のことが噂になった。

「西山の農家の倅で、大学も出てねぇでも、商才はたいしたもんだでそ。頭も切れて、なみの業者とは違うべ。田中土建の仕事ばさせてもらうペンキ屋がはじめてたずねていっだら、これだけ資材をつかえっで五万円渡されたらしいしいがね」

 角栄は次の選挙に向けて、選挙民にたいして宣伝工作を次々と打ち出していく。

 角栄がまっていた戦後二番目の総選挙が、昭和二十二年春、ゼネストを期に、マッカーサーは、三月二十一日告示、四月二十五日投票で施行されることになった。

 新潟三区の定数は五議席、立候補者は十一人。たいへんな激戦となる。

「いま代議士になれば、上に乗っかっていた議員が、公職追放でスッポリ抜けているんだ。青天井がひらけているんだ。どんな法案でもおらが通してみるべ」

 角栄は、南魚沼郡の地理などをすべて暗記していた。

 昭和二十一年、農地法が改正され地主階級が消滅し、小作人が解放された。

 社会党は小作人解放という社会主義の目的をはたしたのち、元小作人たちから見捨てられることになる。

 野党の社会党を支持しても、土地改良事業を導入してくれる確率は低いからである。

 角栄は方々まで足を運び、聴衆が数人しかいないところでもしゃべりまわった。

 社会党らの候補は、土地改良についての地域の懸念をもちこんでも、道路やトンネルや水利などのインフラ整備の知識に欠けていた。

 角栄は前年とは違うほどの雄弁さで次々と選挙区を演説してまわる。

 一日九会場をまわり、九十あまりの立会演説会をおこなう。トラックの荷台にたち、声をはりあげる。

 すると子供たちが、

「お~い! 若き血の叫びがきたよっ!」

 とさけびながら選挙カーのあとをついてくる。

 去年のキャッチ・フレーズを覚えてくれてたか……角栄は思わずうれしくなった。

「みなさん家族を大事にしましょ。家族を大事にしないとね、この国はようならねぇでがん。家族の誰がが田中でねぇ別の候補に入れたりして喧嘩しねぇでくんなせ。みなは黙って投票場にいって、そっと田中と書いてくんなせい。お願いします」

 角栄はダミ声で口説いた。

 田中角栄は人情にうったえた。政策とか戦略とか、そんなものを話ても聴衆はあくびをするだけだ。若い頃苦労したとか、イジメられたがやりかえしたとか……そういう話をしなければ聴衆は納得しないのだ。

 四月二十五日の投票日、全力をつかい果たした角栄は自宅で熟睡していた。

 疲労が蓄積して、どうにも眠かった。

 途中で障子があき、すぐ上の姉がどなるようにいった。

「おい、おめぇ当選したべさ! 代議士っていうのになったんだ!」

 角栄はまた眠りにおち、目覚めたのは数時間後だった。

 角栄は二十八歳で初当選した。当票数は三万九千四十三票。三区候補者のうち三位の好成績だった。柏崎票は一万五千、最大票田とされる長岡では、わずかに二千二百余、南魚沼郡では予想以上の票がとれた。

 翌日、当選した角栄はいった。

「ものがない、何がない、ないないづくしの世の中は、あまりにヒステリックだが、胸の中へ伝統的な温かさ、精神的な豊かさだけは、取り戻したいものだ」

 新潟三区はもともと保守地盤である。

 選ばれるのは地元の上流階級のインテリたちであった。そんななか角栄は革新政治家である。角栄は高等小学校しかでてない。

 現在の学歴社会の日本では、小卒、中卒、高卒だと絶対に当選できないが、それはこの日本という国がどっぷりと学歴社会の潮流につかり、腐りきってしまったからだ。

 だから、米国の大学を卒業した……などと嘘をついてまで当選しようとする人間まで出てくる。すべて学歴で判断するからそういう結果になる。

 角栄は時代の申し子だった。

 時代が、この男を必要としたのである。


  角栄は代議士となってから、睡眠時間を削って勉強した。かれは衆議院でそれまでの経歴により建設委員になり、昭和二十三年「不当財産取引調査特別委員会」のメンバーになった。角栄は頭角を現しだす。

 角栄は石炭(石油のないころは黒いダイヤと呼ばれて重宝されてきた)利権にも手をのばしていく。

 民主自由党(のちの自民党)は、吉田茂が党首となって第一党となった。そこで、角栄は吉田に近付き、選挙部長に抜擢された。

 角栄は代議士候補のデータを集め、戦略を数学的につくって吉田らにみせたという。

 吉田は首相となる器であったが、数学が得意ではなかったので、このような角栄の才能に喜んだという。

 しかし、まもなく角栄は炭管疑獄事件に問われ、二ケ月たらずで次官を辞任し、逮捕されるにいたった。

 田中土建本社が、昭和二十三年十一月十一日、家宅捜査された。容疑は、業者から反対運動資金百万円をもらったことである。石炭から石油へのシフトの最中でのことであった。 そののち、吉田茂は「バカヤロー!」と国会で怒鳴り、国会は解散する。

 世にいう「バカヤロー解散」である。

 角栄は獄中から立候補することになった。

 角栄は獄中から電報をうった。

「ギカイ カイサンス タノム タナカ カクエイ」

 東京・小菅が発信地であった。

 新潟選挙事務所はフル回転で動く。

 初当選で法務政務次官となった角栄は、他の候補者たちの脅威でもあった。

 角栄は仮出所したが、選挙にまわす金がなかった。田中土建に三十万円の金があるがそれをつかえば会社は潰れる。角栄は駅前の旅館『越後屋』で後援者たちと作戦会議を開いた。すざまじいインフレで、田中土建の経営は傾いてきていた。

「あと十日だ! おらは死んでもやるぞ!」

 角栄は大雪の中、ソリをひきながら独りで演説してまわった。

「石炭食ったのけ!」と野次が飛ぶが、角栄は続けた。

 田舎では村々まで足を運ぶ田中角栄をみて、このひとは落選させちゃならねぇど、と運動を支援してくれるようになり、角栄は当選した。

 しかし、復帰はしたものの、まだ裁判が残っており、派手に動くこともできない。

 だが、裁判もおわると、角栄は官僚たちをなだめて地元に利益誘導しだす。

 しだいに地元や政界でも顔を知られるようになっていく。

 角栄は第三次吉田内閣で、池田勇人を大蔵大臣にすることを主張した。

 池田勇人は明治三十二年十二月三日、広島県賀茂郡竹原町の酒造業を営む家に生まれた。角栄より十九歳年上で、五高、京大法学部を卒業し、大正十四年大蔵省にはいった。

 在任中、池田は象皮病という難病にかかり、そののちGHQの政策により大蔵次官にまでなった。そののち族議員として代議士になったのである。

 角栄は池田に恩を売る。

  チョビ髭を生やし、とても三十二歳とはみえない角栄は、また戦略家でもあった。池田が上昇して権力を握るだろう……と見抜いていたのである。

 角栄は地元の電車を石炭から、電気で動く「電気化」に着手し、成功している。

 また、道路ももってきた。トンネルやダムももってきた。

「文化の第一歩は道でねが。それには、山にトンネルをぶち抜くほかねぇべ」

 トンネルが完成すれば出稼ぎが減少し、平野部との経済格差がちぢまる。

 角栄の愛人は佐藤昭子であった。

 もともとは佐藤昭といったが、昭子に改名したのである。彼女はのちに『越山会』の女王と知られる。

「おらの秘書ばやらねが?」

 このひとことで昭子は角栄の秘書、そして愛人となりベッドをともにすることになる。 角栄はすでに、道路、住宅、国土にかんする法案を三十三本も成立させ、その実力をいかんなく発揮していた。

 角栄は記憶力がよく、代議士の個人データをすべて暗記していたという。

 しかし、角栄は女性の化粧と口紅が大嫌いでもあった。

 昭子が口紅をつけてやってくると、

「何だっ! まるでひと食い人種みたいでねが! さっさと口紅をとれ! おらは口紅なんかつけた女は大嫌いだ!」

 と怒りだし、おしぼりを投げ付けたという。

 ちなみに昭子は身長一五七センチ、バスト九七センチ、ウエスト五八センチ、ヒップ九五センチのグラマーな体格であったという。

 しかし、そんな美人にも角栄は化粧や口紅を許さなかった、のである。




  角栄は福島県と新潟県境にダムをもってきた。

 奥只見、田子倉、五味佐波の三ケ所に総計十億トンのダムをつくり、電力を発電する一方で、農業用水にも利用するという。

 このダムという利権はとても甘い汁である。

 ダムをつくるとなれば、建設費、ランニング・コスト……と今なら億単位の金を必要とする。しかも必要ないのにもかかわらずダム利権目当てに「おらが地元にもダムを」というメンタリティー(精神性)で利益誘導する。

 まさにアグリー(醜悪)である。

 両県のつきあげに困った調査委員会は、アメリカのOCI(海外技術調査団)に、調査を依頼した。

 億単位の金がかかることがわかった。

 奥只見は、角栄の選挙区新潟三区である。

 角栄は味方の陣にたち、大活躍した。

 転んでもただではおきない。

 新潟県議も頻繁に上京して、役所や政治家に陳情する。

 奥只見にダムをもってこさせれば地元経済(土建屋)は潤う。

 角栄は吉田首相に必死で、陳情した。のちに吉田十三人衆のひとりとなる田中は、吉田攻略の努力を続けていた。

 中央から視察団がくれば、田舎議員や村会議員らは、大湯温泉などで、連日の宴会ぜめである。ダムをもってくれば十年は食える……

 土建屋は「段取り八分」といわれたという。仕事をするとき段取り八分までやっておけば、まだ着手していない仕事は、終わったも同然だというのである。

 酒や女を与えて役人・官僚を攻略し、工事をもってくればいいのである。

 今でもそれはあまりかわらない。

 現在の例でいえば、東京アクアラインや関西空港、四国大橋、東京メトロポリタン美術館や首都圏の都知事官邸、〝「低速」道路〝などがあげられる。

 結局、政治家もブローカーも土建屋も金まみれなのだ。

 角栄はそんな日本の状態を熟知していた。土建屋としてそれがよくわかっていた。

 だから、角栄は大金を集め、惜しげもなくバラまいた。

 やがて、ダム公共工事は着工される。

 角栄の友・岡田議員の秘書は、

「一億も二億も使ったといわれたが、県のカネはせいぜい二千万円程度。あとは電力会社や財界の寄付でまかなった」という。

 いずれにせよ膨大な金が消えたことだけは確かだった。


  ダム受注以来、角栄の懐は豊になっていた。

 角栄は岡田のために奮闘した。

 金持ちになった角栄は、東京目白台に私邸百九十坪を購入する。昭和二十八年八月であった。かれが金持ちになったのは、只見ダムでの一件がたけなわになった頃である。

 角栄はその年の秋、金の力で自由党総務になった。

 それまで田中土建の経営がうまくいってなくて大変だった頃、ダムが救ってくれた。

 角栄は只見川政争で活躍しつつ、次々と選挙民の心をつかむ仕事を成功させていく。

  魚沼線(うおぬません、来迎寺ー西小千谷、十二・六キロ)を昭和二十九年に復活させている。

 当時、沿線の町村にとって鉄道は死活問題だった。

 また道路も整備して、後年には新潟に新幹線までもってきた。

 農民は昔から「おねだり根性」があるという。

 信長も秀吉も家康も、農民のおねだりや一揆に泣かされてきた。

 時代はかわれど、農民は「おねだり」する。

「おらの村に道路を! 新幹線を! 米は一粒たりとも輸入するな! 牛肉を守れ! オレンジはだめだ! ………」

 アグリーだ。

 しかも、おねだりがきかないとわかると、農民や漁民は今度は団結してアジを張ったり、テロをしかけたりする。著者の地元の山形県でも、〝チェリー〝を輸入しようとしたとき、農家が農水省までおしかけてデモをしたという。

 だが、そんな考えこそ馬鹿げているのだ。

 外国のチェリーが輸入されても山形のさくらんぼは売れ続けているではないか。

 牛肉が輸入されても米沢牛や松坂牛などの和牛は売れ続けているではないか。

 発想をかえよう! コスト面では中国にはとてもかなわないのだから、高品質で売っていけばいいのだ。

 それと、おねだりをやめ、地元よりも国そのものを考えるメンタリティーをもつことだ! しかし、一年一日として変わらぬ日本人の閉鎖性や学歴主義、創造無能はかわらない。 角栄は時代をよく読んでいたということか。

 角栄は地元選挙区などに道路やダムや橋をもっていければ金になるとわかっていた。

なんとも狡猾な男である。


  三十五歳の角栄は四回当選を果たし、自由党総務でもある。前途は、選挙地盤さえゆるぎなければ磐石である。どこまでも可能性が広がっていく。首相だって……

 角栄は農村の間では、雇用や道路をつくってくれる恩人として重宝がられた。

 新潟の代議士は金持ちが多く、ほとんど農村などにはいかない。そのかわりに大票田の長岡や三条、栃尾などにいって演説するだけだ。

 しかし、角栄は違った。

 農村をまわり、たんぼに足をいれてでも「やぁどうもどうも、田中角栄です! よろしく!」と握手してまわる。例のダミ声で。

 策士といわねばなるまい。

(後年、角栄の娘・田中真紀子女史が出馬したときも、同じように農村をまわり、「おらが自民党をぶっこわします!」などと父の選挙を踏習している。しかし、真紀子さんは役人の使い方が下手で、外相を小泉にクビにされている。しかし、それは自業自得なのだ。角栄には才があったが、〝目白の女王様〝田中真紀子さんには政の才がなかった。

 只、ひとの悪口をいって喝采をあびていただけだ。)


          


  角栄は新潟の地図をすべて暗記していたという。

 県境の凸凹の線まで実にきれいに書けるほど、地形を頭にたたきこんでいた。

 南魚沼郡野川西部の広大な野原に、川から水路をつけ、水利の地帯を美田に変える工事を誘導したのも、また角栄であった。

 南魚沼郡六日町の革新系町長となった岩野良平は、足しげく目白に通った。

 越山会の会員のうちでは、

「なんで革新町長のいうごどなんかきぐんだ」

 と激怒するひともいた。が、角栄は、

「岩野のためにしているんでねえ。六日町の町民のためにやっでんだ」と不満をおさえたという。角栄は秘書をつれて、地元をまわりまくった。

 一年のうちほとんどは雪にうまれ、新潟でももっとも開発の遅れた新潟三区を発展させ、選挙民の心をつかむ……それが角栄の戦略だった。

 昔は山を越えて町にでるのに一日かかったが、角栄がトンネルを掘ったので十五分でいけるようになった、などという話まであるという。

 地元の住人は角栄への恩を忘れない。

 中央官僚は、数十億の金をかけて橋をつくるのであれば、利用者は最低何万人が必要だなどという。しかし、角栄はそんな官僚を喝破していく。

「トンネルの利用者が百五十人しかいなくても、そのひとたちに欠かせないものであれば、数十億の金をかけてもつくるのが政治だ」

 角栄は地元に利益を誘導することで、地盤を磐石にしていった。

 しかし、今考えればおかしな話だ。

 国会議員の仕事は国のためになる事業をすることである。地元のために働くのであれば、県知事や県会議員、市長、市議会、町長……などがいるではないか。

 しかし、日本ではあいもかわらず国会議員が、地元に新幹線や高速道路をもってくる。そうすることで次の選挙に当選する。

 結局、おねだりに屈し、公共事業をもって経済をよくしようという〝馬鹿の一つ覚え〝が日本人の政治家の頭の中にあることなのだ。

 田中角栄はその代表的政治家である。

 汚い金にまみれ、大金を集め、バラまいた。

 角栄を、「日中国交回復の英雄」「新潟の誇り」「今太閤」などともちあげるのはたやすい。

 しかし、実態は竹下や金丸、中曽根、橋龍、小泉、安倍らとなんらかわらない。


  東京の議員会館では、佐藤昭子が角栄の活動を支えていた。

 ふたりのつながりは強い。しかし、なぜ昭子は自民党副幹事長となった角栄を親がわりとして、昭和二十九年八月に、取り柄もない会社員と結婚したのだろう?

 角栄と昭子は親しくなり、やがて肉体関係をもつようになり、そして関係は深かったはずである。原因は、昭子の結婚は、角栄が身請けした神楽坂「金梅」の芸子、辻和子にあったという。和子は角栄との間に長女を設けたが、夭折し、翌年、男の子を得た。

 角栄は謀略家である。

 生き馬の目を抜く政界では、刑務所の壁を綱渡りするような、危ないこともしなければ実力者たりえない。

  吉田内閣は、昭和二十九年十二月七日総辞職、十日に鳩山内閣が発足した。

 昭和三十年の総選挙で、角栄は二位当選し、五万五千二百四十二票を獲得した。

 当選五回の角栄は、衆議院商工委員長となったが、九月に長岡鉄道での不正取引が発覚し、警察が捜査にはいった。市議会議員に逮捕者が続出、社長の角栄も特別背任容疑で、十二月に書類送検された。

 しかし、書類送検だけで済んだ。

 吉田茂のあとをついだ鳩山一郎が病気のため政界を引退したのち、自民党総裁選挙が行われて、七票差で岸信介に勝った石橋湛山が、石橋内閣を昭和三十一年末に発足させた。 このとき角栄は郵政大臣に就任する。

 三十九歳だった。

 越山会にひとりは回想する。

「目白は支持者であふれかえっておったの。田中の母堂(フメ)が、おらのあにが、みなさんのおかげで大臣にしてもらって、とうれしそうにあいさつしとっだべ」

 自民党佐藤派から入閣した角栄は、昭和三十二年に初登庁した。

 玄関にはいると、「郵政省」の看板の左に大きく「全逓信労働組合」という看板がかかっているのをみて、

「大家より大きく看板を出すやつがいるが!」と激昴し、

「この看板ば外せ!」と逓信組合の看板を外されたという。

 角栄は官僚たちにいいように操られるような人物ではない。

 すぐに次官らをあつめて、屋上にいった。

 東京霞ケ関の町並みを一望する。

 そして、

「下にいってみようや」と角栄はいいだした。

 机の上に足を乗せ、だらしない格好で部下と話ている局長や、マージャンを始めていた官僚たちは総立ちになり、蒼白な顔になる。

 角栄は、

「まあいい、そのままそのまま」と笑う。

「昼休みだからしょうがねぇがな。しかし官僚っていうのは始末が悪いべ」

 角栄は二大勢力をもっていたふたりの次官をクビにする。

 官僚は、しょせん大臣などすぐにいれかわるもの、ぐらいにしか思ってない。

 しかし、三十九歳の角栄はそんな甘い男ではない。

就任当初の全職員に対する挨拶のとき、角栄は自らを謙遜した。

「私はまだ年も若い未熟者である。有能かつ老練な前大臣のようにはいかんが、なんでもやりがいのある男だから、今後の業績をみていてくれ」

 小野事務次官は、角栄がすぐれた手腕の持ち主である、とすぐ理解した。

 以前の大臣は次官を大臣室に呼び、長々と省内の説明をさせたが、角栄はそんなことはなかった。すでに郵政事業を頭にたたきこんでいたのである。


  田中角栄の愛人だった佐藤昭子の旦那はサラリーマンで稼ぎも少ない。

 昭子は「自分は扶養家族だ」などと平気で口にする旦那に飽き飽きし、ついに、

「家を出てって頂戴」

 と旦那と離婚した。

 戸籍はどうあれ、昭子に角栄との間に娘がいる。娘も角栄のことを「お父ちゃま」とか「オヤジ」と呼ぶ。昭子はその頃がなつかしくなった。

 昭子は娘を出産して四ケ月後に、

「秘書に復帰してほしい」と角栄から電話を受けた。

 酒豪で知られる秘書の曳田照治が、急死したのである。

 昭子は昭和三十三年の年があけて、議員会館にむかった。

 大臣となった角栄………

 よくぞここまで立派になったものね。あのチョビ髭の田舎青年が…

 昭子は嬉しくて仕方がない。

 角栄はNHKに(当時民放はなかった)出演し、浪速節を熱唱した。また、紅白歌合戦にも審査員として出場した。

「大臣どうですか?」

 アナウンサーはきく。

 すると角栄は、

「男性陣のほうが二十マルですな」とダミ声でいう。

 角栄の顔はたちまち全国に知渡った。

 角栄は昭子にいった。

「自分の考えや政策を広く国民に広めるためには、マスコミは多いに利用したほうがよい。毎日、毎日、日本中を辻説法して歩いても、テレビにははるかにおよばない」

 角栄には秘書ひとりしかいなかった。

 車の運転も昭子である。

「全部おまえに任せる」


  角栄はインテリではない。土建屋あがりである。しかし、東大卒のインテリたちに角栄は支持された。三十九歳とは思えない風貌とカリスマがあったのである。

 後藤田正晴も、角栄に初めてあって圧倒されたとのちにいっていた。

 後藤田も東大卒の秀才だった。

 西村次官は角栄のファンのひとりだった。

 予算内容を説明すると、角栄は数分間で、

「おう、わかった、わかった」という。

 本当にわかったのか…? と不安に思っていると、本当に理解していた。

 記憶力がいいうえに、日頃から予算案を検討していたのである。

 西村は角栄を、

〝田中エンサイクロペディア(百科事典)〝と呼ぶようになった。


  テレビの免許問題は、角栄がもっとも判断に苦しんだものだったという。

 NHKの他に民放(日本テレビ)が免許申請し、報道をはじめ、プロレス中継などで人気をはくしていた。全国からテレビの免許申請が殺到する。

 省内ではしぶる意見もあったが、角栄は英断する。

 一挙に民放三十七局、NHK七局に、予備免許を与えた。

 その結果として、各局は技術力をつけ、一挙に日本はテレビ時代を迎えた。


  この頃、角栄の妻はながインタビューを受けている。

「私は年上でしょう? でも主人が年なんて関係ないといいまして、それで結婚いたしましたの」

 と慎ましい。

「私が田中に嫁にまいりましたのよ。それは知っていておかないと主人に叱られますわ」 しかし、実際には田中角栄には佐藤昭子と辻和子という愛人もいて、また外子もいる。 新聞はそんな角栄の妻はなに好意をよせた。

 角栄と同じ年の、大学卒のインテリと称する男たちと比べて、角栄のほうがより大きな仕事をしている。テレビの免許申請にしても、公共工事発注にしても、やることがでかい。 またテレビの威力も知り尽くした角栄は、週に何回もテレビ出演して、全国に顔を知らしめた。ラジオにもでた。


  岸内閣は総辞職し、解散総選挙となった。

 角栄は一年たらずで大臣をやめた。が、テレビで顔を売り、庶民派政治家のイメージをもった角栄は、選挙で圧勝する。

 新潟三区では、昭和三十三年五月二十二日で、八万票獲得した。

 新潟三区で七万票獲得した政治家はいままでいなかった。角栄は独走態勢にはいった。 

         5 幹事長へ




日本軍の虐殺




  ジュノーの努力もむなしく、日本軍によるアジアでの侵略、野蛮行為はやまなかった。日本人はいつも第二次世界戦争というとナチスやヒトラーの虐殺のことばかり考える。

 まるで映画『シンドラーのリスト』のような光景だ。

 しかし、過去の日本人だって、ナチスの虐殺と同じようなことをしていたのだ。

 中国人被害者はいう。

「殺された何百人の人のうち若い女性はひとりだけでした。妊婦でしたが、強姦され、腹を切られて胎児が飛び出したまま死んでいました。すざまじい状態でした。

 その占領の当時、強姦され殺された女性もいましたが、強姦されても言わない人もいます。わたしが知るかぎり、親切な日本人はひとりもいませんでした。

 過酷な労働を強いて、賃金ひとつ払わない。母は精神に異常をきたして廃人のようになって死にましたが、それは日本軍によって父を殺されたからでした。

 私たちは只の田舎の農民でした。しかし、日本軍人がわれわれの家庭をめちゃくちゃにしたのです。

 日本人を恨んでないといったら嘘になります。もちろん十一歳のときに感じた恨みと今の恨みは違います。日本人全部が悪かったとは今思っていません。悪かったのはひとにぎりの軍国主義者です」

「日本軍たちは村の家を焼き払った。

 父や母もころされた。母は輪姦され、殺されたのです。

 私が思うに、ここにきて日本人が事実を無視するとか、認める認めないの問題じゃないんです。日本軍国主義者たちが勝手に他国を侵略して、多くの罪なき民を殺し、家々を焼き、女性をもてあそんだのは厳然たる事実だ。

 だから日本人の一部が何を言おうがそんなことは問題じゃない。これは賠償金しかない。謝罪もほしい。毛先生は戦争で国と国とが争って被害を受けるのは国民だ、といっています。 日本政府は賠償金をわれわれに払うべきなんです」

「八・一三(上海陥落)から八一五にわたって南京は爆撃されたんです」

「南京で殺されたのは圧倒的に市民が多かったです。銃ももたない農民や一般市民が虫ケラのように殺された。われわれのおじいさんもおばあさんも子供も殺された。

 被害者がやられたと訴えているのに、やった張本人の日本人がやらなかったと否定するのはどういうことですか! まるで子供じゃないですか!」

参考文献『目覚めぬ羊たち』落合信彦著作(小学館出版)より引用*



  南京大虐殺を日本人は認めていない。

 まさに子供だ。確かに三十万人という犠牲者の数は多すぎるかも知れない。原爆でも落とさない限りそんなに殺せないだろう。

 その盲点をついて、一部の日本人は「南京大虐殺なんてなかった」などと主張する。こうした連中は「侵略」じたいも認めない。

 侵略を少しでも認めたら、虐殺も認めざるを得ないからだ。

 確かに三十万人という犠牲者の数は多すぎるだろう。しかし、考えてほしい。たとえ千人でも百人でも、殺されれば虐殺なのだ。

 日本軍人全員が虐殺をしていたかは知らない。

 しかし、日本軍人は過ちを犯した………

 これだけは忘れないでいてほしい。

 確かに、われわれのおじいさんたちが虐殺や強姦や暴力行為、野蛮行為を犯したというのを認めるのは酷なことだ。しかし、だからといって歴史から目をそらしていたのでは日本はいつまでたっても大人の国にならない。

 まず謝罪し、誠意をみせることだ。

 

  角栄は政界に次々と布石を打つ。

 圧倒的な地元への利益誘導と金のバラまきで、主要なポストを獲得。自民党政調会長にまでなった。すべては佐藤昭子との二人三脚である。

 角栄は、

「女が出しゃばると叩がれっから気いづげろ。党の議員の面倒ばよくみでやれ」とアドバイスする。角栄はそれから口癖のように、

「おいおい、お前とふたりっきりで二人三脚でここまで来たんだべな」といったという。 政界には憎悪と嫉妬がうずまく。

 少しでも弱味をみせれば叩き潰されてしまう。

 コンピューター付きブルドーザーと呼ばれた角栄でさえも、ライバルを蹴落とす勇気と実力がなければたちまちやられてしまう。

 政治家として頭角を現すには、派閥を維持する大金が必要になる。

 権力の座を勝ち得て維持するためにも大金が必要である。

 吉田茂も派閥維持のために大金を集めたが、かれは上手にマネー・ロンダリング(資金洗浄)してからバラまいた。

 しかし、田中角栄はそういうこともしない。

 吉田茂は角栄を有能な人物とみていたが、その資金集めの方法が大胆すぎると顔をしかめる。

「あの男は刑務所の塀の上を歩いているようなものだ。ひとつまちがえば内側に落ちてしまう」

 佐藤昭子は角栄のアドバイスを受けて、目立たない黒のワンピースを着ていた。

 角栄もそれがよいと思った。



 『越山会』という集票組織兼利益誘導集団のおかげで、角栄の政治家としての未来は薔薇色になった。新潟三区では誰も角栄を負かすことができない。

 どんな候補者が出ても、角栄にはかなわない。

 それだけ、地元にとってかかせない政治家に、角栄はなっていたのだ。

 しかし、角栄が大物になれば、新潟三区を足しげく巡回することもできない。

 そこで、角栄にかわって、『越山会』の幹部たちが、三区を巡回し、角栄票の一覧表をつくるなどして角栄を支えた。

 道路をもってくれば、雇用が生まれる。

 角栄は新潟と東京を結ぶ、国道十七号線を完成させた。

「角栄にいれねばひとにあらず」

 いつしか、新潟三区は角栄の〝城〝となっていった。

 角栄は組閣に際して、官房長官大平正芳とともに、総理池田に圧力をかけたという噂がたった。が、実情はわからないという。

 角栄の自伝『大臣日記』では、

「池田総理から、君たち三人(大平、角栄、前尾繁三郎)で相談し、幹事長、大蔵大臣、外務大臣を三人でやれよ、という話が開口一番あったのには、三人とも相当びっくりした」 と、ある。

 角栄は大蔵大臣になった。

 大蔵省(現・財務省)の官僚といえば東京大学卒業のエリートぞろいである。

 角栄は小学校しかでてない。

 しかし、かれは学歴のある人間に頭をさげて、劣等感を抱くような男ではない。

 大臣就任式では、エリートたちは角栄を値踏みするような目でみていた。

「私が田中角栄だ。ご承知の通り小学校高等科卒だ。諸君は天下の秀才ぞろいで、財政のエキスパートだ。しかし、私は素人ながらトゲの多い門松をくぐってきたので、実地の仕事の要領は心得ている。

 大臣室のドアはいづもあけておくから、上司の許可を得ないでもいい。話しにきてくれ。仕事は思いきってやってもらいたい。責任はこの田中がもつ」

 大きな拍手が発した。

 角栄は、大蔵官僚が自分を大臣にふさわしくない小卒と陰口をたたいているのを知っていた。だからこそ、寛大さをみせたのである。

 大蔵(現在・財務省)大臣というポストは、副首相のようなものだ。財務、財政をつかさどり、したがって他の役所よりも発言力は強い。

 角栄は四十四歳である。

 インテリ官僚には、堂々とした自信をもって立ち向かわねばならない。

 官僚は大臣に国会答弁させるため、事前に勉強会をひらき大臣に答え方を教える。しかし、角栄にはそんな手間はいらなかった。

 資料をみただけで要領を理解した。記憶力と計算力が並外れていいのである。

 また、角栄は官僚の子が大学に入学したり、妻が病気になったりすると祝儀や見舞い金を与えた。そうされて喜ばない官僚はいない。

 角栄は官僚たちから愛されるようになる。

  佐藤昭子は角栄から、「昔の俺の女がやってくるかも知れんから、処理してやってくれ」

 といわれていたという。昔の愛人が大臣の地位と金目当てにやってくる……

 角栄は先をみていた。

 案の定、白いブラウスにグレーのスカート、サンダル履きの女が議員会館にやってきた。それは角栄が軍隊に入隊するまで一緒に暮らしていた芸子だった。


  角栄は、池田首相から、

「大蔵大臣は一日も職場を離れてはいけない」といわれたが、無視して三十七年十月に大臣就任後はじめて故郷に帰った。

 新潟三区を挨拶にまわると、地元では大歓迎を受けた。花火や紙吹雪で角栄をむかえた。 角栄は感動して、熱い涙を流し、

「おらを大蔵大臣にしてくれたのは池田総理ではない。あなた方選挙民だ」という。

 すると大歓声があがった。


 角栄は信償必罰を徹底させた。よい事業案を作成したものには臨時ボーナスを与え、失態をおかした官僚には大臣室でドアをあけっぱなしにしながら、大声で罵倒するのである。 役人の中にはノイローゼになったものもいたという。

 池田首相は、角栄に、

「答弁書は読んだかい?」ときかれ焦った。まだ読んでない。しかし、総理と大蔵大臣の意見の食い違いは内閣不統一となり問題となる。

「首相はよみましたか?」

「ぼくはよんだよ」

 角栄は困り、「じゃあ私もよみました」と苦しまぎれに答えた。

「〝じゃあ読んだ〝ではすまない。君ははじめて産投会計法にぶつかるんだから、君が読まなきゃだめじゃないか」

「よみましたよ。速記で百十万語ありましたね」

 角栄は答えた。すると首相はほんとうに読んでいたのだと思った。

 角栄は、これは読まなければならない、と思った。

 夏休み、軽井沢の別荘に角栄はいた。米国留学から一時帰国していた娘の真紀子もいた。 角栄は「答弁書」をよんだ。

 しかし、角栄には無意味に思えた。

 元外相と元大蔵大臣の答弁書などいまさら意味があるだろうか?

 真紀子が帰京するとき、おとうさんは二日間すこしも勉強しなかった、と小言をいった。角栄は身が縮む思いだった。

 三十七年九月十七日、角栄はワシントンでおこなわれたIMF(国際通貨基金)第十七年次総会に出席した。中学時代に外交デヴューしていた娘の真紀子も、ファーストレディとして同行している。

 角栄は、昭和三十八年の予算折衝でも抜群なひらめきをみせた。

 河野一郎建設大臣(現・国土交通相)は大蔵大臣室にはいると、ただちに話はじめた。「道路百十億円、治山治水四十五億円、下水道十億円、計百五十六億円。これを復活してもらえば、他に要求はしない」

 角栄はあらかじめ予算の内容を調査していたので、即座に、

「思いきりよく、出しましょう」といった。

 折衝は五分間だけ……

 マスコミはこれを「一秒五億円の折衝」といいはやしたという。


  三十八年の選挙では、角栄は十万票の獲得でトップ当選した。

  角栄は大蔵大臣就任中に、豪雪を公共事業の対象となる「激甚災害」に指定しようと考えてきた。

 豪雪地帯で暮らした角栄には、豪雪がどんなものであるかを知っている。

 新潟地方は昭和三十六年に豪雪災害を受けていた。

 やがて、冬がきた。

「雪が降るまえに、道路を整備して、撒き砂利を多くしなきゃならねぇ」

 豪雪になった。

 一月十三日から一週間、上越、北陸、信越、羽越の各本線が全面ストップ、長岡ではついに三メートルの積雪となった。

 雪国のひとは雪の降る十二月から三月までは地元で働けない。出稼ぎ労働で都会にでるしかない。雪はやがてとけてダムにたまり、都会の電力を潤す。

 しかし、雪国のひとたちには何の恩恵も与えない。

 角栄は「積雪寒冷地冬季交通確保に関する法律」をつくり、国費補助で除雪をおこなえるようにした。また、「北海道耐寒住宅法」を議員立法させた。

 時代は高度経済成長期にはいっていた。

 昭和三十九年三月には、トヨタが自動車販売一万台を越え、3C(クーラー、カー、カラーテレビ)が成長を支えた。

 十月には東京オリンピックが開かれる。

 しかし、昭和四十年になると大不況が日本を襲った。

 証券バヴルがはじけたのである。


                      

『山一証券(現・倒産)』の危機はすぐに角栄に伝えられた。

 同社の負債総額は約六百億円といわれ、銀行から借りているだけでも二百六十億円もあるという。

 このニュースが大衆にふれると、証券会社にひとびとが解約におとずれパニックになることは目にみえている。

 そうなれば山一だけでなく、他の証券会社にも解約しにくる。取付け騒動が起こる。

 高橋銀行局長、加治木財務調査官、安川証券局業務課長らから角栄に知らせたのであったという。

 加治木は大蔵省つめの記者クラブで、読売、朝日、毎日、日経、東京、共同通信の七社とNHKや民放などに、

 ………山一再建の見通しがつくまで報道しないでほしい。

 と頼み込む。

 事情が知渡れば、昭和初期の大恐慌のとき以上にパニックがおこる。

 角栄は、

「実態はよくわかった。で? どうするべきかね?」ときく。

「日銀特融しかありません」

 加治木たちがいうと、角栄はしばらく黙り込み、

「君、これは大変なことだぞ」とつぶやくように言ったという。

 日銀特融とは、結局、税金をつかって山一を救済するということである。

「山一のことが国民に知られれば、解約者が殺到し、山一だけでなく全部の証券会社がつぶれてしまうべ」

 山一証券は老舗だった。

 大神や山瀬などといった名物幹部がいて、四大証券会社の一翼を担っていた。

 その山一が潰れることは、他の証券会社にも影響するのは必死である。

(九十年代、山一証券は潰れたが、三大証券は生き残っている)

  五月、社会党の有馬輝武議員が質問した。

「大臣、山一証券の再建案についておうかがいしますけど、その前に発表された爾後の問題についてお伺いしたいと思います」

「私が山一の問題を知りましたのは約十日前であります。その後、社会党の皆さんとか、各新聞社や報道機関のみなさまには自粛してもらい、慎重に報道による影響を考えてきました。

 山一証券の再建対策といいますか、会社、銀行を中心にして十分な再建対策ができあがったという時期に発表しました。

 こういうことが今までの経緯であります」

 角栄はダミ声で答えた。

 こうして、山一に税金が投入され、山一は経営危機を脱した。


  角栄は記者やマスコミを大事にしてきた。

 自分の自己宣伝のためにはマスコミはかかせない。角栄はよく、記者と浪速節を歌ったり、将棋をしたりした。記者たちは、そのへんのオッさんとかわらない、とクスクス笑ったという。

 角栄はサインをせがまれれば嫌な顔ひとつしないでサインをした。

 ………末ついに海となるべき山木もしばし木の葉の下くぐるなり

 と書くことが多かったという。

 日頃温厚な角栄も喧嘩することもあった。

 相手は山形二区選出の池田正之輔である。

 渾名は「イケショウ」。毒舌家として知られていた。当選回数は角栄と同じであったが、年齢は六十八歳。角栄より二十歳年上である。

 ある日、イケショウが、

「今の執行部はなっでねぇ」という。

 すると角栄がいきりたち、「なに?!」という。

「なんだ小僧!」

「なんだじじい!」

 とっくみあいの喧嘩になるところを二階堂進副幹事長がきて、

「まあまあ池田しぇんしぇい(先生・鹿児島弁)ここはひとつ収めてください。お願いします」と止める。

 池田は「ふざげんでねぇど」といいながら部屋をあとにする。

 角栄は我慢がならないが、二階堂の説得で心を落ちつかせる。


  角栄は幹事長となっていた。

 〝黒幕〝小佐野賢治に金をもらい、財界から金を集め、選挙でバラまいた。

 角栄は四十代で幹事長となり、選挙や国会運営のすべてを取り仕切った。名物幹事長ともてはやされた。

「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれたのは、この頃である。

        6 敗戦と巣鴨プリズン



      

 生還






  スイス人医師、マルセル・ジュノー博士は海路中国に入った。

 国際赤十字委員会(ICRC)の要請によるものだった。

 当時の中国は日本の侵略地であり、七〇万人もの日本軍人が大陸にいたという。中国国民党と共産党が合体して対日本軍戦争を繰り広げていた。

 当時の日本の状況を見れば、原爆など落とさなくても日本は敗れていたことがわかる。日本の都市部はBー29爆撃機による空襲で焼け野原となり、国民も戦争に嫌気がさしていた。しかも、エネルギー不足、鉄不足で、食料難でもあり、みんな空腹だった。

 米国軍の圧倒的物量におされて、軍艦も飛行機も撃沈され、やぶれかぶれで「神風特攻隊」などと称して、日本軍部は若者たちに米国艦隊へ自爆突撃させる有様であった。

 大陸の七〇万人もの日本軍人も補給さえ受けられず、そのため食料などを現地で強奪し、虐殺、強姦、暴力、侵略……16歳くらいの少年まで神風特攻隊などと称して自爆テロさす。 ひどい状態だった。

 武器、弾薬も底をついてきた。

 もちろん一部の狂信的軍人は〝竹やり〝ででも戦ったろうが、それは象に戦いを挑む蟻に等しい。日本はもう負けていたのだ。

 なのになぜ、米国が原爆を日本に二発も落としたのか?

 ……米国軍人の命を戦争から守るために。

 ……戦争を早くおわらせるために。

 といった米国人の本心ではない。つまるところ原爆の「人体実験」がしたかったのだ。ならなぜドイツには原爆をおとさなかったのか? それはドイツ人が白人だからである。 なんだかんだといっても有色人種など、どうなろうともかまわない。アメリカさえよければそれでいいのだ。それがワシントンのポリシー・メーカーが本音の部分で考えていることなのだ。

 だが、日本も日本だ。

 敗戦濃厚なのに「白旗」も上げず、本土決戦、一億日本民族総玉砕、などと泥沼にひきずりこもうとする。当時の天皇も天皇だ。

 もう負けは見えていたのだから、                      

 ……朕は日本国の敗戦を認め、白旗をあげ、連合国に降伏する。

 とでもいえば、せめて原爆の洗礼は避けられた。

 しかし、現人神に奉りあげられていた当時の天皇(昭和天皇)は人間的なことをいうことは禁じられていた。結局のところ天皇など「帽子飾り」に過ぎないのだが、また天皇はあらゆる時代に利用されるだけ利用された。

 信長は天皇を安土城に連れてきて、天下を意のままに操ろうとした。戊辰戦争、つまり明治維新のときは薩摩長州藩が天皇を担ぎ、錦の御旗をかかげて官軍として幕府をやぶった。そして、太平洋戦争でも軍部は天皇をトップとして担ぎ(何の決定権もなかったが)、大東亜戦争などと称して中国や朝鮮、東南アジアを侵略し、暴挙を繰り広げた。

 日本人にとっては驚きのことであろうが、かの昭和天皇(裕仁)は外国ではムッソリーニ(イタリア独裁者)、ヒトラー(ナチス・ドイツ独裁者)と並ぶ悪人なのだ。

 只、天皇も不幸で、軍部によるパペット(操り人形)にしか過ぎなかった。

 それなのに「極悪人」とされるのは、本人にとっては遺憾であろう。

 その頃、日本人は馬鹿げた「大本営放送」をきいて、提灯行列をくりひろげていただけだ。まぁ、妻や女性子供たちは「はやく戦争が終わればいい」と思ったらしいが口に出せば暴行されるので黙っていたらしい。また、日本人の子供は学童疎開で、田舎に暮らしていたが、そこにも軍部のマインド・コントロールが続けられていた。食料難で食べるものもほとんどなかったため、当時の子供たちはみなガリガリに痩せていたという。

 そこに軍部のマインド・コントロールである。

 小学校(当時、国民学校といった)でも、退役軍人らが教弁をとり、長々と朝礼で訓辞したが、内容は、                   

 ……わが大和民族は世界一の尚武の民であり、わが軍人は忠勇無双である。

 ……よって、帝国陸海軍は無敵不敗であり、わが一個師団はよく米英の三個師団に対抗し得る。

 といった調子のものであったという。

 日本軍の一個師団はよく米英の三個師団に対抗できるという話は何を根拠にしているのかわからないが、当時の日本人は勝利を信じていた。

 第一次大戦も、日清戦争も日露戦争も勝った。     

 日本は負け知らずの国、日本人は尚武(しょうぶ)の民である。

 そういう幼稚な精神で戦争をしていた。

 しかし、現実は違った。

 日本人は尚武の民ではなかった。アメリカの物量に完敗し、米英より戦力が優っていた戦局でも、日本軍は何度もやぶれた。

 そして、ヒステリーが重なって、虐殺、強姦行為である。


 米軍絶対的優位で、ある。

  長崎にも原爆投下され、日本大本栄は動揺した。すぐに閣僚会議が開かれた。軍部はポツダム宣言など受け入れれば国体が壊れる…と反発した。大和魂が死ぬ…とまでいう。 鈴木貫太郎首相は穏健派で知られた。御前会議にもっていく。そこで裕仁の聖断を受ける。昭和天皇は「本土決戦では日本国そのものが滅亡する。忍び堅きを忍び…世界のひとたちを不幸にするのは避け、この地の日本人たちがひとりでも多く生き残って繁栄の道を進んでほしい。武装解除で、朕は別によいが指導者たちが戦犯として裁かれるのは辛いが日本国が滅ぶよりいい」という。8月10日、日本は条件付き降伏をする。しかし陸軍がいきりたっていた。しきりにクーデターで軍による政権をつくり世界と戦うなどと馬鹿げたことをくりかえす。そんなだから空襲はますます激しくなる。日本中火の海だ。

 8月12日、外務省は降伏状を訳していた。…〝サブジェクト トウ〝…『従属する』…陸軍や海軍ら軍部は「これでは天皇制が維持されず奴隷と同じである! 陛下のためにならない!」という。そこで鈴木首相は最後の懸けにでる。もう一度の天皇の聖断である。 御前会議が開かれる。天皇の前ではクーデターも文句もない。昭和天皇はいう。

「戦争は、これ以上は無理だと思う。ポツダム宣言を朕は受諾する。もう終戦である」という。こうしてすべて決まった。愚鈍だった天皇が、最後は役にたった訳である。


 そして、一九四五年八月十五日敗戦……

〝耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び…〝

 昭和天皇(裕仁)の声がラジオから流れてくる。日本軍敗戦、ポツダム宣言を受諾したのだ。やっと、泥沼のような戦争は終わった。

 日本国中、焼け野原だった。

 しかも、戦後は食料難がおそい餓死者まででた。

 日本を占領するためにきたのがマッカーサー元帥だった。パイプをくわえながらプロペラ機のタラップをおりてくる。「アイル・ビー・バック」……の宣言通り彼は日本に戻ってきた。連合国総指令部(GHQ)は、さっそく日本を統治しはじめた。

 憲法(いわゆる平和憲法)をわずか二週間でつくりあげる。



昭和三十年代の新潟は、豪雪と夏は豪雨の被害を頻繁に受けていた。

 三十九年の豪雨は前例のないほど激しく、角栄が蔵相となった頃のことであった。

「越山会査定」が始まったのもこの頃だという。

 越山会員は、道路整備、災害対策、豪雪対策、除雪などで連日東京に陳情にいっていた。四十年代に入ると、角栄は公共事業の誘致を増やしていった。

 新潟の公共事業は、「越山会」が独占したという。

 角栄にはもっとも近い大手建設業社(ゼネコン)がいて、その下にいもづる式に、中小零細建設業社がいる。

 角栄はその建設業者に公共事業を次々と発注し、キックバックを得ていた。

 新潟の建設業者は、「越山会」に入らなければ事業の獲得もできない。

 それだけ、角栄は地元に強い権力をもっていた。

 中小の企業が、〝談合告発〝でもすれば、「越山会」は噛み付いた。

「越山会に逆らって長岡で事業ができるならばやってみろ!」

 新潟三区の公共工事は「越山会」がしきっており、業者たちは工事が終わると謝礼金を払うことが決められていた。

 下請けは謝礼金を出さないかわりに、工事単価を削られたという。

 角栄は中央政治の調整、地元への公共事業誘導、用地買収の操作、謝礼金など集金システムをつくっていた。

 それら金脈は完璧なもので、証拠をいっさい残さなかった。

しかし、角栄には「闇の将軍」としてのイメージはない。

 それは多分に、大金を集めても私腹を肥やさず、どんどんバラまいた結果だろう。

 それが例え汚い金であったとしても、困っているときに金で支援を受ければ喜ばしいことだ。恩を感じるだろう。

 著者の愚兄などは、角栄とはまるでちがう。

 著者の愚兄は一円もださないくせに、ありがたくもない、くだらん説教をたれる。他人に説教をたれるだけの人徳もないのにも関わらず……

 愚兄など何の役にも立たない。

 くだらん説教などだけで支援金が無ければ、馬鹿らしいだけだ。

 角栄は貧しい農民の子として生まれ、貧乏を経験しているから、そこら辺のことは熟知していたのであろう。

 実に興味をそそられる、不思議な人物だといわねばならない。

 角栄は陳情団体をさばく調整のうまさによって、金を集めたという。

 昭和四十一年十二月二日、角栄は自民党幹事長を辞任した。任期はわずか一年間であった。

 角栄に暗い疑惑があったため辞めさせられたのである。

 しかし、角栄はそんなことぐらいなんということはない。平然としていた。

「おらは首相にいつかなる。幹事長などどうでもいいべ」

 角栄はそう思っていた。

 高度経済成長期にはいると、新潟の子供は大学に入る者が多くなる。

 しかし、県内に就職先は少ない。

 電電公社(現NTT)、国鉄(現JR)など、角栄にはコネがある。新潟三区の若者をどんどんそこへ就職斡旋した。

 もちろん、子供の就職先を紹介してくれた親は角栄に一票入れる。

 越山会によって就職できた者は、のちに一万人をこえたといわれる。

 就職と結婚、交通事故取り消しなどの恩恵を受けたものは角栄に必ず一票入れる。角栄はそこまで計算して斡旋したのである。

 角栄は、政官財らに餞別として大金を渡した。運転手にも頭を下げて謙虚さをパフォーマンスする。こうした行動は、エリート官僚から政界入りした政治家には理解できない。 昭和四十年、角栄が山一救済のときにつかった日銀融資のアイデアは、「あ、これあるじゃないか」と角栄が日銀法に目を通して適用したのだという。

 角栄はひとを憎まない。

「にくんでなにがいいことある?」というのだ。

 松下幸之助も井深大もまたひとを憎まなかった。

 田中角栄にはインテリにありがちの自意識過剰〝がない。むしろ、自分に関する恐怖さえある。それが謙虚さになる。

「もう偉くなったのだから、ここら辺で偉ぶってもいいだろう?」

 ときかれると、角栄は、

「おれってちっとも偉くなんてないよ」と答えたという。

 角栄はまだ五十歳にもならない。

 四十三年十一月三十日、無役のあと角栄は、第二次佐藤内閣で、自民党幹事長に復帰することになった。

 前幹事長の福田は大蔵大臣になった。

 福田は角栄の最大のライバルだった。

 高等小学校しか出てない角栄とは違い、福田は東大を卒業している。

 角栄は金の力と現実的思想でひとを魅了し、福田は経済成長路線をとりつづければ弊害がおこると考える保守である。

 昭和三十九年の東京オリンピックでは、福田は、公共投資は財政破綻をまねく、と慎重だった。しかし、角栄は金満政治にどっぷりとつかっており、聞く耳をもたない。

 そんな中、戦後の政治家の英雄・吉田茂が昭和四十二年十月二十四日、死んだ。享年八十九歳だった。

 角栄は福田と元首相岸信介に追い落とされた。そのことは同年の佐藤内閣改造人事で、角栄が自民党総務会長になれなかったことでわかるという。

 福田は対角栄に全力をそそいだ。

「いや、佐藤首相あっての田中であって、田中あっての佐藤内閣ではないのだからよい。おれは三十代で大臣にしてもらった恩がある」

 角栄は、憾み節は吐かない。


 角栄は幹事長に復帰した。

 これには裏があるという。福田と岸が角栄を官房長官にさせて力をそごうとした。しかし、角栄は「おらは官房長官にはならねぇよ」といって幹事長になった……という次第である。のちに角福戦争ともよばれる戦いは前哨戦を迎えていた。

 角栄はもうはっきりと次期自民党総裁を射程に収めていたのだという。

 福田は岸派のプリンスといわれていたが、佐藤首相とも仲が深い。

 福田が大蔵省の陸軍兼鉄道担当主計官であったとき、佐藤は鉄道省次官であった。

 佐藤は実兄の岸を強く支持する福田に、好意をもっていたという。

 自民党総裁を目指す角栄にとって、福田はもっとも警戒するライバルであった。

 角栄は五十歳になった。

 自民党幹事長として精力的に働いている。

「高速鉄道を日本中に作りたい。二十年来考えておりましてな」

 角栄は記者にいう。そして、卓上のベルを何度も鳴らす。

「おいっ!」

 秘書がすっとんでくる。

「かばんのなかの鉄道の書類っ!」

 地方からの陳情団体がごあいさつしにくる。秘書が番をつげる。

「はいっ!」

 とたって角栄の前で陳情をする。まるで病院の待合室だ。

 陳情は一分か三分、ダメなものはダメとはっきりいう。

 角栄は例のダミ声で答える……


 角栄が幹事長になっての最初の難題は「大学運営臨時措置法」の成立であった。

 当時、ベトナム戦争反対とするヒッピーたちが暴れまわっており、また中国では百万を越える紅衛兵が毛沢東のプロパガンダ(大衆操作)で暴れまわっていた。

 角栄はそうした若者たちを抑える策を考えていた。

 抗議集会はやはりおこなわれた。

 若者たちは火炎ビンなどで暴れ、機動隊が鎮圧にあたった。

 当時の衆議院議長は重宗雄三(しげむね・ゆうぞう)という男である。

 いつまでも議会開始のベルを鳴らさない。

「あのじいさん、ぶったたいてやる!」

 角栄が怒って重宗のところへいくと、

「早くベルを鳴らせ! じじい!」と怒鳴る。

 議長は、

「角さん、あんたが怒るのも無理はないが、ちゃんとオヤジ(佐藤首相)と話したかね?」 などと取り合わない。

 角栄は忍耐強い性格であったが、この老人には腹が立ってしかたなかった。

「なにいってんだ! じいさん! 学生たちはゲバ棒もって騒いでいる。親は自分たちが食うものも削って倅や娘に仕送りしているんだ。

 ところが、学生はゲバ棒で埋まっている。先生たちは教壇にもたてない。みんな真っ青になってんだ! 早くベルを鳴らせ! じじい!」

 角栄の努力で、法案は成立した。

 法案成立によって、大学紛争は沈静化していった。

 角栄は時期をまっていた。

 田中の人脈は金からでたものであるが、その人脈を通してさまざまな情報がはいってくる。抜群の〝情報網〝をもっていた。


  世は安保闘争の最中であった。

 四十四年十一月、佐藤首相はニクソン大統領と沖縄返還交渉のため渡米した。

 出発の前日は、全学連が羽田で店舗や車に火炎瓶をなげて燃やしたため、首相は首相官邸からヘリで羽田にむかったという。

 首相はニクソンに核なし本土並返還を主張したが、受け入れらないと思っていた。しかし、昭和四十七年に返還されて、成果を得た。

 このとき、日米は繊維貿易で、交渉中で、日本の安い繊維商品のまえで米国の繊維業者は次々と潰れていた。ニクソンは、日本の繊維業者の輸出を制限するように佐藤首相に申し出た。佐藤は答えた。

「前向きに検討します」

 例の有名な言葉である。

 ニクソンはそれが「イエス」だと思った。

 しかし、佐藤の言葉は単なるリップ・サービスだった。

 ……ホワード・ポスチャー(前向き)で検討する…

 これは日本では何もしないということで、野党もそれを承知している。しかし、かりにも一国の首相が国際舞台で、単なるリップ・サービスをいうとはニクソンも思わない。

 ふたりは、にこやかに握手して別れた。

 しかし、日本は繊維商品の輸出を制限するどころか、輸出攻撃をしかけ、米国の繊維企業はバタバタ潰れていく。

 ………騙された!

 ニクソンは舌打ちしたという。


  四十三年冬、佐藤が角栄を幹事長に再任したのは、角栄をひきたてるつもりではなく、しかたなくだった。

 福田は党内で人脈もなく、角栄に幹事長をまかせるしかない。

 福田は明治三十八年生まれで、残された政治家生命は少ない。佐藤が三選されれば、福田の出る幕はない。

 しかし、佐藤は福田よりも首相三選のほうを選んだ。

 角栄は十期目の当選を果たした。

 この年、梶山清六、羽田孜や、小沢一郎らが初当選していた。

 角栄は自分の夢を語った。

「上越新幹線と高速道路をやったら、政界から引退する」

 選挙の結果、自民党は躍進した。

 野党社会党(現・社会民主党)は百三十人から九十人に激減した。

 自民党議員のうち佐藤派は角栄に資金援助や応援してもらっているので、佐藤派というより田中派といってもよかった。


 昭和四十五年(一九七〇)一月十四日、第三次佐藤内閣が発足した。

 角栄は、党幹事長に留任する。

 その裏側には、水面下での福田対角栄の戦いがあった。

 佐藤は角栄だけでも辞めさせようとしたが、前尾、中曽根、三木に反対されたために、新人事は、結局、撤回せざるを得なかった、のである。

 福田は大蔵大臣、角栄は幹事長である。

 角栄は新自動車税を立法したが、首相や自動車団体から反対されて、撤回している。

 福田赳夫は、

「いやぁ、角さんも今度はまかされたよ」と苦笑いしたという。

 角福戦争はまさに絶頂期だった。

 はたや小卒の実力者・角栄、かたや東大卒のエリート福田……

 ようするに学歴だけでは角栄は駄目だが、ブルドーザーのような実力が角栄にはあったということ。その点、福田にはそれがなかった。

 昭和四十六年、角栄はインタビューに答えている。

「うん、まあ政治家はね、正直ですよ。世に喧伝されているほど不正直じゃない」

 あなたの実力は、資金調達能力ですか?

「カネなんてたいしたもんじゃない。カネを政治の条件にするのは間違いだね。政治家はアイデア・マンじゃなきゃあ」

 第三次佐藤改造内閣で、やはり角栄は通産相、福田は外相になった。

 この頃、ベトナム戦争の泥沼に嵌まっていた米国は、中国と国交樹立する。

 キッシンジャー国務長官と、周恩来首相との話し合いがついたのである。

 ニクソン・ショックと呼ばれる出来事である。

 日本のマスコミは「頭越し外交だ!」などと連日報道したが、今にみられる日本のマスコミの姿勢となんらかわらない。表面だけしか報道しない。

 また、ドルと金とのペッグが外され、またもや日本は「ショック」を受けた。

 井の中のかわずは少しのことでも衝撃を受ける。

 福田外相は「中国と米国は国交を回復する。台湾への支援はすぐに中止できないが、南ベトナムより撤退し、中国に北ベトナムを説得してもらい和平を結ぶ」

 と、米国外交官よりいわれ、騙された。

 米国大統領ニクソンはついに北京を訪れ、毛沢東や周恩来らと対面し、ガッチリと握手をかわしたので、ある。                              

         7 大衆の宰相




晩年

政財界に幅広い人脈を持ち、愛弟子の福田赳夫と田中角栄による自民党内の主導権争い(角福戦争)が勃発した際も、福田の後見人として存在感を示した。また、御殿場の別邸で悠々自適の生活を送る一方、保守論壇の大立者として、「自主憲法制定国民会議」を立ち上げる(1969年、現「新しい憲法をつくる国民会議」)など自主憲法論に関し積極的な発言を続けた。

1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙で長女洋子の娘婿であり後年岸派を福田赳夫から継承する安倍晋太郎が山口1区(当時)で落選。地元山口県での影響力低下が取りざたされる。

岸は同選挙区選出の自民党議員・周東英雄の後援会長を務めていた藤本万次郎の自宅を現職総理大臣である佐藤栄作と二人で訪れ、安倍後援会会長への就任を要請する。藤本を後援会長として迎えた安倍は1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で復活を果たし、岸の影響力も旧に復した。

1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙では、側近の1人今松治郎の秘書だった森喜朗が自民党の公認得られず無所属新人として旧石川1区で出馬する際、岸の秘書中村長芳に岸の応援を懇願してきた森の要望を快諾し、岸の応援で陣営に勢いがつき初当選を果たした森は生涯恩義を忘れていない。

弟の佐藤政権が憲法改正などの問題に取り組まないことに苛立ち、首相再登板を模索したこともあったとされる。しかしそのために具体的な行動を起こした形跡はなく、後継者たる福田赳夫の首相就任を悲願としていた。1972年(昭和47年)の自民党総裁選挙で福田が田中角栄に完敗したときは、気の毒なほどに落胆していたという。

1974年(昭和49年)にはシンクタンクである協和協会を設立。また、1976年(昭和51年)10月には〝民主主義・自由主義体制を尊重しつつ、政党・派閥を超えて、国家的課題を検討・推進する〝政治団体「時代を刷新する会」を設立。

1979年(昭和54年)10月7日の衆議院解散を機に、地盤を吹田愰に譲り、政界引退。国際連合から「国連の人口活動の理想を深く理解し、推進のためにたゆまぬ努力をされた」と評価された。






話は変わる。

  佐藤首相は昭和四十七年三月二十七日七十一歳になった。

 冥途にはもうすぐそこである。

 当然、ポスト佐藤の名が次々とあがる。

 野党がそれを指摘すると、

「そのような発言が、野党だけでなく、与党議員からも出れば、その勇気を高くかうのだが、私のところへはもっとやれという支持者の意見が多いのが実情であります」

 と佐藤はにやにやといったという。

 その夜、佐藤の誕生パーティーには六百人が集まった。

 しかし、その後、事件がおこる。米国との沖縄返還交渉の内部情報が漏洩し、暗号も解読されていたというのだ。

 この事件で、外相の福田の人気はまた下がった。

「ここいらで大きな花火を打ち上げようや!」

 柳橋の料亭に集まった議員たちは、角栄にいった。

 政党研究会を〝田中派〝にしようというのである。

 角栄もやる気になり、

「よっしゃやったるべさ!」とダミ声で頷いた。

 田中派の結成に尽力したのは二階堂進、小沢一郎、羽田孜、亀岡高夫、刈谷忠男、小渕恵三、橋本龍太郎、山下元利、奥田敬和、石井一、綿貫民輔ら他、無派閥の渡辺恒三、小沢辰男をあわせて四十人だったという。

 佐藤派は衆議院六十人、参議院六十五人で、計百二十五人である。八十一人が田中派になれば、佐藤派閥の三分の二に近い。

 小沢一郎(現・生活の党実力者)は一年生ながら、乾杯の音頭をとった。

「田中内閣樹立のために乾杯!」

 田中政権万歳の声が大勢からあがる。

 党の実力者たちの中で、角栄だけは派閥をもっていなかった。

 佐藤派の幹部………

 それだけだった。

 しかし、小沢らは、

「総裁候補がいつまでも部屋住まいではまずい。オヤジには派閥の長となって首相となってもらわにゃいかん」と思った次第である。

 田中派の結束は固かったが、それは角栄が繊細な性格の持ち主であったためだ。

 角栄は内向的な性格であったという。しかし、努力して外交的な明るさで振る舞った。 しかし、ときには激怒して喧嘩するような一面も角栄にはある。

 角栄は鬱になると性格がかわったという。しかし、他人への配慮はいきとどいている。(そこは娘の真紀子氏とは大違いだ。彼女は他人の悪口をいい英語が話せるだけの人物に過ぎない)

 臨時措置法のとき、議長の重宗の胸倉をつかみかかる勢いで、

「爺さん、これを強行突破しろ! でないと内閣はもたないぞ!」とがなりたてる。

 議長は反発した。

「なにいってやがる。てめえの首が危ねぇから頼みにきたんだろ?!」

「俺の首などどうでもいい。いまやらないと自民党、佐藤内閣はつぶれちまうんだ」

「俺はどうするんだ?! 責任持つか?」

「佐藤がどういおうと、あんたは辞めさせない」

 角栄は首相を上回るほどの実力者となっていた。


  しかし、角栄は謙虚さも忘れない。

 記者一年生の男がいた。

 角栄は陳情の列をさばくのに手間取り、記者の相手などしてられない。相手は雲の上のひとである。新米記者は「こんな姿、子供には見せられないな」などと思いながらひたすら議員会館で待っている。

 そんなことが一週間続いた。

 すると、陳情の団体がやっととぎれた。

 角栄は、庭の記者を呼んだ。

「こっちにこい。何でもきいてみろ」

 新米記者は興奮して、国会や列島改造論などについて三つほど質問をした。

 すると角栄は、

「お前の狙いはこれか?」と頭の回転の早さをみせる。

 記者は、馬鹿なことをきいた。

「金儲けの方法はありますか?」

 馬鹿者! と一喝されると思ったが、角栄は笑い、

「金(きん)を買え。上がると思うよ。まあ、でも君には資金がないからどうしようもないか」

「もっと現実的な話をして下さい」

「またな」

 角栄は立ち上がった。

 そのあとまもなく金の値段は高騰した。

角栄はなんとなく「金を買え」、といった訳ではなかった。情報をつかみ、値上がりするのを予想していたのである。

「あの新米の家はどこだ?」

 角栄は秘書にきく。郊外である。なのに朝は早くから、夜遅くまで自分にふっついている(番記者)………

 角栄はその新米記者の努力にいたみいった。

 角栄は料亭にいくと従業員に大金の心づけを渡した。ハイヤーの運転手にも大金の心づけを渡した。

 下働きのひとたちに配慮する、これが角栄の策略だった。

 こういうことをすれば、「角栄はいいひとだ」といい噂がたつ。

 角栄は番記者に話す。

「内緒だけど、常にそういったことを頭におきながら行動しなければ、この世の中だめなんだよ」

 まったく至言である。


 次期自民党総裁選挙が迫っていた。

 田中は大平派と手をむすび、三木派とも手を結んだ。

 エリート官僚出身の福田は〝自意識過剰〝である。

「小学校しかでてない角栄なんぞに、この東大卒エリートの私が負ける訳ない」

 鼻持ちならない自意識が、福田にはあった。

 そこが、福田が嫌われた原因だ。

 確かに、角栄は小卒だ。

 しかし、時代の流れを読む敏感なバランス感覚と、集金力、謙虚さ、をもっていた。

 角栄は日本全国を遊説していく。

「大勢のアンチ田中派の議員や野党は『日本列島大改造案』などダメだダメだとばがりいう! ならそれにかわる代案を出しなさい!」ダミ声で熱弁をふるう。

 福田のピンチである。

 中曽根が総裁選に出馬しなければ、福田はきわめて不利である。

 しかし、中曽根が出馬すれば(当時、中曽根康弘は若手のホープと期待されていた)、角栄と三木の期待していた佐藤派票を失う。

 中曽根は悩んだ。

 福田派に従って得る利益と、田中派に従って得る利益を天秤にかけた。

 福田は官僚出身で、対中国戦略では台湾擁護派である。

 田中は中国よりで、ニクソンの真似をして中国と国交樹立する可能性が高い。

 立候補しなければ、角栄が総裁になったとき、主流派に乗れるのは確実だ。

 佐藤首相は沖縄返還を実現させたので、首相を引退することにした。

 佐藤首相は記者クラブの椅子に座ると、

「テレビはどこかね?」ときく。

 すぐに記者会見が開かれると思っていた記者たちは唖然とした。

「ぼくは直接国民と話したい」

「新聞には話さない。文字になるといったことと違ってくるから」

「テレビはどこかね?」

 記者はシラケきった。

 はじめは笑顔だった佐藤の顔がどす赤くなり、

「ぼくは偏向的な新聞が嫌いなんだ。記者たちは帰ってくれ。ぼくはテレビで国民と直接話す」という。

 記者から猛反発があがる。

「いまの発言は、内閣記者クラブとして許せません!」

 首相は目をいからせ、

「それなら出てってくれ!」と怒鳴る。

 記者団が総立ちになって、会場から出ていく。

 このいきさつはテレビで放送された。

 首相はだれもいなくなった会場で、テレビの前で国民だけに語りかけた。

 七年も首相をやった佐藤栄作の未練の醜態だろうが、みていたひとたちはどう思ったのだろう? 著者が二歳児の頃のことだからわからない。

 角栄は佐藤退陣後の三日後、『日本列島改造論』を出し、ベストセラーとなった。

 『日本列島改造論』の要点は、全国の人口の四分の三が太平洋ベルト地帯に集中するから、日本の地方を開発して、公共事業で景気をよくしようというものである。

「田中くんは羽柴秀吉だな。もう少しいけば豊臣秀吉になる。

 頭の回転は早いし、陽気だし、元気はいいし、異色の政治家だな。

 しかもものの要点をみつけるのがうまい。

 大学も出ていないのに、官僚なんかどんどん使いこなしちゃう。

 政治家に必要なのは世論じゃない。国民に対するビジョンとステーツマンシップだな。 そして、アイデア・マンじゃないとだめなんだなこれが。

 福田くんは官僚としては優秀だった。

 頭はいいけど、どこか飄々としている。性格はけしてわるい訳じゃないが、歴史上の人物に例えられない政治家だな。まあ、深く考えるところは徳川家康かな」

 昭和四十七年、総裁選は始まった。

 大平正芳立候補、角栄も福田、三木も立候補した。

 角栄はいう。

「ぼくは月旅行に出掛けるパイロット。コンピューターのネジひとつゆるんでも落ちてしまう。

 宇宙旅行に出掛けるぼくの身になって協力を……」

 拍手があがる。

『三角大福戦争』の幕がきって落とされた。

 政界では、中曽根が田中支持にふみきったことが、最大の関心事になっていたという。 デフレ対策、財政赤字の問題、不況対策………

 日本の問題は山積していた。

 角栄は船田派に電話をかけると、「もう福田候補から金をもらった」という、角栄はすかさず「ならその二倍出そう」といった。

 汚い金まみれの選挙であることは確かだった。

 田中角栄は睡眠が三十分だけという忙しい日もあったという。

 しかし、顔ににあわずお洒落に気をつかっていて、髪のセットや髭反りに時間をかけたという。


  総裁選公示日の昭和四十七年七月五日がやってきた。

 各派は国会近くのホテルに議員たちを泊まらせた。

 造反を恐れてのことである。

 投票のしかたも工夫し、姓名は漢字、名はひらがなにしたという。

 無効票を少なくするためだ。

 自民党二十七回党大会は、午前十時過ぎから始まった。

 新聞は各派の投票を記事にした。

 大平は足早に投票をすませる。

 ずっしりとした貫禄で投票する角栄。

 苦笑いの福田赳夫。

 投票してから手をふる三木……

 角栄は楽勝を確信していたという。

 同日、投票結果がでた。

「田中くん百五十六票、福田くん百五十票、大平くん百一票、三木くん六十七票」

 角栄と福田の差はたった六票差なので、場内に喚声がわいた。それまで悠然と扇子で顔をあおいで目をつぶっていた角栄も、おっと声をもらした。差がたった六票で驚いた次第である。

 予想を十票下回った結果に、角栄は怒りをかくさなかった。

 この結果になったのは、角栄側の議員のうち十人が「どうせ角栄が一位ときまっているなら大平にいれよう」などといって大平にいれたためであったという。

 決戦投票では大差がついた。

「田中くん二百八十二票、福田くん百九十票」

 角栄は大喚声の中でテレビライトを浴び、たちあがってガッツ・ポーズをとった。

 地元でも大賑わいである。

 年老いた角栄の母・フメは、

「うれしいです。これから苦労が多くなるだろうけど、自分で政治家をえらんだのだから、あたりまえでしょう。私も東京(角栄のこと)と会うことがすくなくなるけど、政治家を息子にもったんですから」と標準語で地元のレポーターにいったという。

 角栄は福田派の議員が入院したときでも、見舞いにいった。

 そのたびに札束を渡した。

「これは、裏はない。見舞い金だ。早く良くなってください」

 角栄が渡した見舞い金は、福田の見舞い金の金額より多かったという。

  角栄は首相になった。

 角栄は午前四時には起き、ストレッチして新聞を読んでから、庭を散歩し、食事したという。そのあと大臣たち、知事、大使、財界人、弁護士、一般人と午後時まで、約三百人とあったという。健康には自信があった。

「医者は熟練するほど相手の病名が数分でわかるようになる。俺は二十年間も政治家をやってんだから、相手の要求はすぐわかる。早呑みこみなどといわれるのは心外だよ」

 角栄はまだ五十四歳である。

 身長一六四センチ、体重七五キロ、血液型B型、一周するのに六分かかる目白の豪邸と自慢の子供たち……

 一方、福田赳夫は、

 六十七歳、血液型O型、化粧品はポマードくらい……

 と地味である。

 角栄は大衆の宰相として、歴代内閣最高の六二%という(小泉は七十%)支持率を得た。 しかし、同時に金権政治にたいする批判もでた。

 だが、政治と金はつきものである。

 いまでも議員になるには一億円はいるそうだ。

 角栄のすごいところは、新人議員が「今度立候補します」というと、五千万円の札束をポンと渡した事だという。

 結局はどんなきれいごとをいったところで、世の中は金で動いているということ。

「金などいらぬ。などと聖人ぶってみたところで、金がなければひと切れのパンでさえかえないのだ。それが現実だ」



  角栄は首相になると自由がきかなくなった。

 ある日の深夜、便所にいこうとして間違った襖をあけた。すると男がでてきて、

「総理、便所はあちらです」という。

 角栄はド肝を抜かれて、

「いや、どうも」といってトイレで用をたしながら考えた。

「さて、あいつらは何者だろう。ドロボウじゃないか? いや泥棒にしては礼儀が良すぎる」

 本人にきくのが一番よいと思い、角栄は戻って尋ねた。

「君たちは何もんかね?」

 隣の部屋にいたのは警視庁から派遣された三人の護衛で、角栄が寝る前に隣の部屋にはいり息をひそめていたのである。

「おれにはトイレと髭反りくらいしか自分の時間がないのか……」

 角栄はショックを受けたという。

 中国の周恩来首相は、

「長い間中国を敵視してきた佐藤内閣が終り、田中内閣になったからには日中国交回復もあり得る」という予測をしていた。


 角栄は孫の雄一郎を可愛がった。

真紀子の子である。しかし、真紀子は角栄のいう通りにはきかない。我儘ざんまいに育ててきたことを角栄は反省したという。

 角栄は、日中国交正常化を決心していた。ふたつの中国(大陸と台湾)にはこだわらない。巨大な中国市場を狙った、実に実利的な考えである。

 角栄は庶民宰相と呼ばれた。

 しかし、一方で、〝目白の大豪邸に住んでいて庶民宰相か?〝いうことをいわれると怒りだし、「自分の力でかせいだ金でたてた家に住んで何が悪い!」といったという。

 角栄はとにかく、金をバラまいた。金脈もふえていく。

 凡庸を絵に描いたような、クリーンだが無能な三木武夫は、その金脈か田中自身を、

 ……密室犯罪

 と揶揄したという。

 田中は親族の前で、

「もしかすると俺は百年にひとりの天才かも知れない」といった。

 すると家族は笑いだした。

 角栄は怒り、

「おまえたちは身近にいすぎるから俺の才能がわがらねのだ」といった、という。


         8 角栄よ永遠に!




                  

         8 岸信介よ角栄よ永遠に!


                        

 



  話は変わる。

  角栄はニクソン米国大統領とハワイで会談した。

 昭和四十七年九月一日のことである。

 両国声明で、日中国交回復は世界の緊張緩和に役立つと述べられた。

 角栄はいう。

「中国問題に対する日本の考え方は、ニクソン大統領に十分満足してもらうことができた」 米国の田中評価は、エネルギッシュで話しやすい男だ、といったところだったという。 角栄は、日中国交回復の旅にでれば只ではすまないと思っていた。

 右翼が「国賊田中角栄」と宣伝し、ビラをまくし、角栄が演説中も不審な人物がみつかり、その人物は刃物を隠しもっていた。

 また、事務所に「角栄にあわせろ!」などと怒鳴り込んでくる男もあとをたたなかった。 角栄はいう。

「日本国の総理大臣として行くのだから、土下座外交はしない。国益を最優先して、向こうと丁々発止とやる。いよいよとなったら決裂するかも知れんが、そのすべての責任は俺がかぶる」

 角栄は孫の雄一郎を膝に抱っこし、『ジジはこれからでかけるんだよ』といったという。 反共主義の日本では、中国にいくことなどタヴーだった。

 ……しかし、ニクソンだっていったでねが。

 角栄は強く思った。

 ……おらが日中の国交を回復するんだ!

 角栄が北京に出発する九月二十五日には、暗殺を計った男が警視庁に逮捕されている。 血判つきの抗議文を懐に、猟銃と刃物で狙ったのだ。

 犯人は右翼の青年だったという。

 その朝、珍しく寝坊した角栄は、わかめの味噌汁、漬物などの朝食を食べ、縁側の椅子で〝田中訪中〝の新聞記事に目を通した。

 そこへヨチヨチと愛孫雄一郎ちゃんが真紀子に連れられてやってきた。

「待っていたんだ。待っていたんだ」

 すぐ顔を笑みで崩して孫を抱き上げる角栄。

 ヘリコプターが田中邸の上空近くを飛んでいる。マスコミだろう、角栄は思った。

「ほれ、ヘリコプターだ。ヘリコプターだ」

 雄一郎はおじいさんの胸の中で御機嫌だ。

 玄関に角栄が出ると、万歳三唱がおこった。


  日航特別機は、田中首相と大平外相をのせて、二十五日午前十一時半北京空港についた。

 空港には五百人の中国人民兵たちが整列しており、大きな毛沢東の肖像画と赤字で『全世界人民の団結万歳』と書かれたスローガンが掲げられていた。

 飛行機は定刻に空港に着いた。

 角栄は思う。

 ……俺は日本国首相として、日中復交のためにやってきたんだ。生涯二度と味わえない歴史的な瞬間を、味わってやるんだ……

 かつて一兵卒として中国大陸の地を踏んだ角栄は、今度は日本国の代表として地に足をつけることになる。

 機体にタラップがよせられ、扉があいた。

 見るとグレーの人民服の周恩来首相、葉剣英軍事委副首席らがあらわれた。

 角栄は拍手をあびながらタラップを降りてくる。

 いつもはせかせかと早足で歩く角栄は、日本国首相の威厳をみせるためわざとゆっくり歩いた。

 角栄は、周恩来首相、葉剣英軍事委副首席らと堅い握手を何度もする。

 ……今が大事だ。いまがひのき舞台だぞ……

 角栄は自分をなだめた。

 しかし、興奮は隠せない。

 何か熱い感情が、角栄の全身の血管を駆けめぐった。体がほてってくる。

 中国人民軍が「君が代」「義勇軍行進曲」をたからかに演奏する。

 顔をこわばらせていた角栄に笑みが戻った。

 角栄一行は中国高級車「紅旗」に分乗し、天安門を通り、午後零時半、北京郊外の迎賓館に入った。

 午後三時から角栄は、市内の人民大会堂で周首相と約一時間四十分も話しあったという。 会談ののち、二階堂官房長官は交渉結果を報告する。

「双方の代表は日中国交正常化を円満に成功させるために、おどろくほど素直に、基本的立場や考えかたについて意見をかわし、非常に有意義だった」

 角栄は周首相といろいろな議論をし、約束をとりきめた。

 結局、米国の真似をして中国と国交回復しようと考えた訳だが、そののち円借款などと呼ばれる莫大な支援金を、中国共産党に払わされることになる。

 周首相主催の晩餐会が開かれた。

 角栄は酒を飲んだ。

 演奏が「偉大なる中国共産党」から「サクラ サクラ」にかわった。

 角栄はいう。

「過去数十年に渡って、日中は不幸な歴史を辿ってきました。中国国民に多大のご迷惑をかけたことにたいして、私は深く反省する」

 日本側の通訳が適切でなく、会場からは拍手がなかった。

 ………せっがぐ頭ばさげたのに拍手がね。……

 角栄は戸惑った顔をした。

  二十六日、首脳会議がひらかれた。

 周首相は、

「日中国交回復は政治問題で、法律で解決するものではない」と言い張った。

 問題は台湾であった。

 台湾は中国の一部か、それとも独立国か、はたまた戦前は日本領土だったので日本のものか……

 角栄が「疲れた」というほど会談は難航した。

 かれの血圧はあがり、鼻血を出すほどの体調になったが、角栄は余裕をみせた。

「もし会談が成立しなくても、俺が責任をとるさ。そんな下手なやりかたはしない。必ず成功させるよ」

 角栄は周恩来にいう。

「あなたがたにとって今がチャンスなのだよ。これが最大のチャンスなのだよ」

 角栄はやがて万里の長城に案内される。

 全長二千百キロの城壁である。

 記者たちと一緒に長城を歩く。

 記者が、

「総理どうですか? 今の気持ちは?」ときかれると、

 角栄は、

「まぁ、このぉ~っ…」と例のダミ声でいう。

 迎賓館で周と対談していると、周恩来は「毛首席がお会いする」と告げた。

 角栄は大平や二階堂をつれて、車にのり毛の私邸までいった。

 毛首席は角栄に会うと、かたい握手を交し、笑いながらいった。

「もうけんかはしましたか。けんかはしなくてはなりません。けんかしてはじめて仲よくなれるんですから」

 毛沢東は周恩来とともに共産党軍を指揮し、日本軍とたたかった仲である。

 七十八歳の毛と五十四歳の角栄はよもやま話を始めた。

「北京料理、酒はたいへんおいしいですな」

「あの酒は呑みすぎると体に悪い」

「アルコール度は六十でしたかな?」

 毛は首を横にふり、笑って、

「いや七十五度です。誰かが間違って教えたのかな」

 毛は文化大革命についても語りだす。

「ふるいものはよくありません。ふるいものにしめつけられているのはよくないことです。子供のころ、よく父と喧嘩しました。そんなとき、親が慈悲深くないと子供は親孝行しないと経典にも書いているのになぜとうさんは暴力をふるうのか? と尋ねました」

 角栄は日本の選挙事情などを語り、会談はおわった。

 毛は帰りががけの角栄に『楚辞集法』全六巻を贈り、玄関まで見送った。

「いつまでもお元気で!」

「私はリューマチで足が弱りました」

 毛は苦笑いを浮かべた。

 角栄と毛はがっちりと別れの握手を交した。

 角栄と毛沢東首席が会談したということは、すなわち日中国交正常化が成立した、ということを意味している。

 大平や二階堂も毛にあった。が、それは破格な待遇だった。キッシンジャー以来、この何年も毛は首相や大統領といったトップとしか会わなかったからだ。

 九月二十九日午前十時八分、田中首相と周首相は国交正常化書に署名した。場所は北京人民大会堂であった。

 テレビカメラの前で、角栄は周恩来とがっちり握手する。

 フラッシュが眩しいほどたかれる。

 こうして、角栄は中国とベット・インした。

 角栄の米国模写の成果であった。


  しかし、角栄に逆風が吹いてくる。

 列島改造をやろうとするとインフレになった。

 今度は北方領土返還をやろう、などと思い、

「よし、ソ連(現・ロシア)にいぐべ!」

 といって、モスクワまでいった。

 角栄はブレジネフ議長とクレムリンで握手した。

「おめにかかれて光栄です、田中さん」

 ブレジネフはいった。

 すると角栄は、

「こちらこそ」と笑顔をみせる。

 しかし、会議は何の進展もみせなかった。

 角栄が、開口一番に、

「北方領土返還は……」

 などとダミ声でいいはじめたからだ。

 ソ連(現・ロシア)は北方領土を返す気などサラサラない。

 それどころか、それをカードに日本から何兆円もひきだすつもりである。

 案の定、交渉は決裂した。

 角栄は椅子をけって、会議場をあとにする。

 日本に戻って、待っていたのは立花隆の「田中角栄研究」……

 田中の汚い金脈の大衆紙リークだった。

 国民は角栄の裏の顔を知った。

(日本人の記者はこの〝田中角栄汚金脈〝について「知っていたよ」などとぬかしたという。ならなぜ書かなかったんだ? というと「担当を外されるから」だという。つまり記者クラブという村からしめだされるのが嫌で書かなかった訳だ。馬鹿らしい)

 角栄は烈火のごとく激昴し、

「この男を逮捕しろ!」と怒鳴った。

 しかし、この程度のことで角栄の地盤が崩れるようなことはない。

 首相をやめたとしても、『闇の将軍』として政界を影で動かし続けることができる。

 角栄は、にやりと、笑った。




          角栄よ、岸信介よ永遠に!


 参議院議員選挙が「七夕選挙」と名付けられ、昭和四十九年七月七日におこなわれることになった。

 角栄は参議院選挙が苦手だったという。三年前にも議席が伸ばせず、幹事長を辞任した。今度の選挙で大敗すれば、参議院の自民党の議席が単独過半数を獲得できないおそれがある。

 福田蔵相は昭和四十九年度の予算を十九%減らしていた。

 財政投融資(郵便貯金と簡易保険からの収入)も、年三〇%ずつ増額されていたのを、十三%増におさえた。新幹線、高速道路建設は遅れ、企業は設備投資もおこなえず、運転資金にもこまるようになった。

 さらに中東戦争による石油危機や、深刻なインフレで、景気は後退していた。にもかかわらず労働組合は三〇%ものベースアップを要求してくる。

 逆風の嵐の中、角栄は作戦を考え出す。

 改選議席十九の選挙区に三十五人、地方区五十一人に六十五人の候補者をたてるのである。「十当七落」といわれるほど、選挙資金もつかわせた。十億円つかえば当選、七億円では落選としいう、「へたな鉄砲数打ちゃ当たる」的な戦略である。

 またタレント候補のはしりともいうべき、宮田輝をも立候補させた。

 角栄はヘリコプターを使い、全国の選挙区をまわることにした。

 新潟と名古屋で不地着騒ぎをおこしだが、角栄は、

「たいしたごどねぇ!」

 といって危険もかえり見ず大型ヘリで選挙区をまわりだした。

 ヘリから車にのりかえ、繁華街に向かう。

「皆さん、今はインフレじゃありません! 需要と供給のバランスが崩れているだけです!」ダミ声でまくしたてる。

 角栄は怒鳴るようにいう。

「いまはインフレじゃない!」

 得意の数字をあげて、その地方の一次産業などの比率を出すが、インフレを認めようとしない首相に対して、反感の声がきかれたという。

 選挙は惨めな敗北であった。

 全国区は十九議席と選挙前と同じだったが、地方区は五十一人から四十三人になり、自民党は単独過半数を占めることができなくなった。

 七月十二日、参議院敗北を受けて、三木副首相が辞任。かれは記者会見で、辞任の理由は、

 ……自民党の金権体質の徹底的改善をはかるため

 角栄は後任に三木派の毛利松平をあてたが、さらに十六日、福田蔵相が辞任した。

 三木と福田は申しあわせていたのだ。

 現在の経済状況で、急に蔵相を止めるのはどうか、と自民党長老たちから異議があったらしいが、結局福田は野に下った。

 角福戦争の調整につとめていた、保利茂行管庁長官も責任をとり、辞任した。

 角栄は蔵相の後任に大平を横すべりさせ、外相には大村俊夫、行管庁長官には細田吉蔵を任命した。

 角栄は夏休みをとった。

 秋になれば、また角福戦争が始まるだろう。

 ……まあいいべ。おらの力ば思い知らせてやるべさ。

 角栄は余裕があった。

 ……通常国会が過ぎたあとに党内を結束させればいいべ。

 角栄は楽観しようとした。

 かれはつかれていた。

 休日中のゴルフでも、秘書に手をひいてもらい、年老いたキャディさんに尻を押してもらう有様であったという。

 疲れを解消しようと酒を飲む。酒は飲み過ぎると肝炎や動脈硬化をまねく。

 角栄には逆境を反発する織田信長のような大胆さに欠けていた。

 小沢一郎はいう。

「田中のオヤジは権力を行使しなかった。権利がなんたるか知らなかった。オヤジの弱点は、人のよさ、気弱さだった」

 角栄が欧米から帰国した頃、例の立花隆の『田中角栄研究・その金脈と人脈』、児玉隆也の『淋しき越山会の女王』が掲載スタートされた。

 角栄は、

「せめて児玉の原稿だけでも連載しないでけろ」

 と文藝春秋にはたらきかけた。

『淋しき越山会の女王』

 とは佐藤昭子のバクロ記事である。

 それまで昭子との関係は家族に知られていなかったため、娘の真紀子らになじられ、角栄は肩身のせまい思いをした。

 この男にとっては、金脈を知られるより、佐藤昭子との関係を知られるほうが嫌であったのだ。小沢がいう角栄の「ひとのよさ、気弱さ」が出た瞬間だった。

 ニューズウィーク誌に続き、ワシントン・ポスト紙が、

「ある貧しいカントリー・ボーイ(田舎の少年)が、どうやって金満家の現職総理になったかという月刊誌の記事が、日本で反響をよんでいる」という書きだしで、記事にしている。それによると、文春は角栄が自民党総裁選で三十億円つかって総裁になったという。 選挙費用については調査できなかったが、角栄が東京に二十四億円の土地のほか、巨大な私産を保有していることがわかった。

 次々と角栄の汚い部分が暴露されていく……

 汚い金脈と人脈、脅し、恐喝……

 しかし、角栄は、はじめたかをくくっていた。

「俺は法律にふれるような悪いことはしてないよ。いったん騒ぎがおこっても、人の噂も七十五日だ。いずれ納まる」

 立花は、角栄の汚い部分について追及の手をやすめない。

 会社社長ならまだしも、公の首相が土地をころがし、一方で土地の値上がりをおさえる、といっても誰も信用しないと立花は指摘する。

 立花は、積み上げれば五メートルにはなるだろうという角栄の金脈について研究したのだという。

 福田赳夫は東京のヒルトンホテルに議員を集めて、いった。

「今、自民党は難破しかけていく。ここらで修理、修繕しなければ沈没してしまう」

 福田の頭には、角栄退陣の四文字があった。

 角栄は外国人記者クラブでも質問攻めにあう。

「なぜ財産を公開しないのか?」

「裏ガネはどうなっているのか?」

 角栄はしどろもどろになりながら答えたという。

 角栄は昭和四十九年、オーストラリア、ニュージーランド、ビルマ(現・ミャンマー)に外遊する前に、米国のフォード大統領の訪日を受け、会談した。

 フォードは、

 ………角栄は退陣するだろう。

 とみていた。

 記者会見が開かれる。角栄は浪速節調でいった。

「私は四十年前に東京にハダカで出てきた。自分で仕事しながら、二十代から政界に入り、今日に至っている。

 その間一個人として、まじめでひたむきな努力をつづけてきた。貧乏な農民のセガレとして、ひたむきに走りながら今日まで生きてきた。人の誤解をうけることがありとすれば、公人としてはなはだ遺憾としかいわざるをえない」

 角栄は、違法な行為はなかったといいきった。

 角栄は、フォード大統領帰国後、退陣した。

 そのおり、親分でもある長老の佐藤栄作にいわれた。

「首相とは孤独なものだよ。私は首相の経験かあるからわかる。

 君が首相になったとき、マスコミは〝今太閤〝といって拍手を送った。しかし、文春の記事がでると今度は金脈だ、金権だといって古い話をタネに非難しはじめた。

 しかし、そんなもの相手にすることないよ。君がよいと思うようにやりたまえ」

 角栄は首相をやめたが、『闇の将軍』として政界に君臨しつづけた。

 しかし、そんな佐藤(ノーベル平和賞受賞者)も死んでしまう。

 そして、ロッキード事件である。

 角栄は平成元年に惜しまれつつ政界を引退、すぐに病気が悪化して入院した。

 入院した角栄への面会は、娘の真紀子が許さなかった。

 角栄は口もきけず、歩くのも困難となったが、自宅療養することになった。

 あの熱弁だった男が話せなくなり、全国を走りまわっていた男が、車椅子の世話になることとなった。真紀子は角栄を介護していたが、何を思ったか新潟三区から立候補した。 角栄そっくりの声と抑揚で新潟のひとびとは角栄が帰ってきたような錯覚におそわれた。 真紀子は悪口をいいながら、トップ当選を果たす。

 その前年、真紀子は病気の角栄をつれて、中国に渡っている。角栄は言葉もよく話せず、「あ~っ。あ~つ」としかいえない。

真紀子は角栄に背広を着せ、耄碌した父を選挙民にみせ、

「みなさ~ん。私の公約第一号、目白の骨董品をつれてまいりました!」

 とダミ声で笑顔をふりまいた。

 角栄は、「あ~っ。あ~つ」としかいえない。

 平成五年九月十一日、角栄は東京逓信病院から、東京・信濃町の慶応病院に移った。

 平成五年十二月十六日、角栄は甲状腺亢進症および脳の病気と肺炎を併発し、午後二時四分、帰らぬひととなった。七十五歳だった。

 その後、真紀子の秘書給与横領疑惑が発覚、外相としてはたぐいまれな〝無能さ〝を発揮し、小泉に更迭されている。

    





田中真紀子外務大臣更迭


 確かに田中真紀子女史の演説は文句なく素晴らしい。聴く者を惹きつけ、聴く者を魅了する。

父親の田中角栄氏も演説がうまかったらしい(私は1970年生まれなのでわからないのだが、血は争えない、と多くの田中角栄支持者は言う)。

だが、確かにうまいがその演説はバラク・オバマ米国大統領(当時)のようなスマートなものではない。ほとんどが悪口やゴシップの類である。

だが、あれだけ話題になるほどの演説をする人物も日本人には珍しい。天才、といってもいい。彼女に本当に父上角栄氏のような「政治的な才能・人事力・官僚操作力」があれば、天下も夢ではない。

それだけ演説力だけは素晴らしい。天才だ。

だが、今となっては誰にとっても田中真紀子首相(笑)など只のブラックジョークだろう。

それは「日本のおわり」を意味する。

小沢一郎総理大臣(笑)よりタチが悪い(笑)。

だが、ここでは少しフィクション(架空物語)を交えて、日本社会の「骨の髄までの「男尊女卑」」と「女性の立ち位置・立場」「女性蔑視社会の問題」「男尊女卑など糞食らえ!」というのを創作したい。

(注訳・参考文献は『空飛ぶ広報室』有川浩著作から参考にしたい)

TBSのテレビドラマ化ではヒロインの因幡某というマスコミ関係の女性は、女優の新垣結衣さんがフレッシュに演じていた。猿真似するつもりはない。

だが、その因幡さんを、帝都テレビのガツガツした美貌のマスコミ関係の若い女性を「上杉桃子」と名付けて、話を展開してみよう。

基本的には私は有川浩(ありかわ・ひろ)さんのような女性(有川浩さんは男性のようだが実は売れっ子の女性作家である。

女性の立場での作品はまことに素晴らしい)ではないので信憑性が薄いことになるかも知れない。

だが、私だって「女性の可能性」を信じている。

私だって「男尊女卑」など糞っくらえ、だ!

帝都テレビ(架空の民放テレビ局)の駆け出しの女性マスコミ関係者の、若い、ちょっと美貌の女性レポーター上杉桃子。20代後半で、がつがつした上昇志向の強い、女性である。

一流大学卒とまではいかないが(だからこそ同期に「出世レース」で差をつけられている)けっこういい大学卒である。

がつがつしていて上昇志向が強いが、桃子はきわめて凡庸なのかも知れない。たまに「自衛隊」を「自衛軍」、「団塊の世代」を「ダンコンのせだい」、「(テニスの)シャラポワは天が二物を与えたんですね」を「シャラポワは天が〝にもつ〝をあたえたんですね」と言い間違う。

きわめてジャーナリストでありたいとも願い、「女性だってやればできるのよ」というポジティブな女性だ。

外見は知らん。新垣結衣氏と同じイメージでいいんじゃないだろうか。

自分が正義だと思うと周りが見えなくなるらしく、極めて自分本位な一面ものぞかせる。美貌なだけに非常に「残念」なひとである。

桃子は「「女性は女性、男性は男性」としてしか見られない「男尊女卑的な日本の社会・仕事観・人生観」」を嫌悪に思っている。

そして、上杉桃子の尊敬できる女性・同性は当時の田中真紀子女史であるのだった。

「田中真紀子先生、大ファンです! 私はあなたのような女性になりたいんです!」

 真紀子はにやりとしたまま桃子の話を聞いていた。

この架空の物語では田中真紀子外務大臣(当時)を、ドラマ『空飛ぶ…』の女優の水野真希演ずる「中身がおっさん」の女性として設定したい。

まさに中身がおっさん(笑)である。

「だれが女性だって?」

 真紀子はガマガエルのような声で、大臣プレスでおどけて見せた。

「とうとう性別まで忘れましたか? 大臣」

〝取り巻き〝は苦笑した。

「ケツ見せて糞して寝てなさいってか?」

一同は爆笑した。

「田中真紀子先生、面白い!」

「女捨てていますね!」

同期の政治家は面白がる。

すると上杉桃子は「そうじゃないですよね? 大臣! 計算ですよね?」と鋭い。

「計算って?(笑) 駄目だなこりゃ、なんてな(笑)」

真紀子は茶化した。


「おう! 上杉なんたら! 糞してるか?!」

ある秋の日の国会議事堂内の廊下で、真紀子はひとりっきりの上杉桃子に声をかけた。レポートの仕事で来ていたがカメラマンと照明のおやっさんはディレクターに携帯で呼ばれて、遠くで何故か電話越しに我鳴っている。また、トラブルかなあ?

「真紀子先生、聞いて下さいよ」

「どうした?」

上杉桃子はある話を始めた。

それは報道局の別の班へヘルプで派遣されたときの屈辱であった。その班長は勿論というか中年男性で、桃子の記事のゲラ原文をチェックしては文句をつける。一方の男性の新人の新米のレポーターとはえらい扱いの違いである。

ディスクに座った班長である報道局の中年オヤジ部長はいかにも業界人という感じだ。

「なんだ? 上杉! このゲラは?! 文章が悪い! 全部やり直しだ!」

赤ペンでばつを書かれゲラを叩き返された。

それに対して新米の男性レポーターのゲラは赤線が少ない。「米田! てにをは、を気おつけろといつもいっとるだろ! やり直し!」

「はい!」

桃子は米田のゲラ原稿の文章をみて自分のと比べてみた。

どこがそんなに違うのか?

そこで上杉桃子は策を練った。

また、いつものように上杉桃子と新人米田は部長にゲラを渡し、ゲラ・チェックをしてもらいにいった。

桃子と米田は、チェックを待つために部長のディスクの前で並んでつっ立っている。

「書き直し!」椅子に座ったままの部長はまたも桃子のゲラは全部赤点だ。

だが、部長は笑顔で「おお、米田! いい原稿書けるようになってきたじゃないか! その調子でいけ!」と褒めた。

しかし、褒められた筈の米田某というスーツにネクタイの新米は喜ぶことも出来ず、微妙な顔をしてどぎまぎした表情をするだけだ。

「どうした? 米田」

すると隣の桃子がにやりと含み笑いをした。

「お褒め頂いてありがとうございます! 実はこの米田の原稿は私が書いた原稿で、米田のゲラはこっちです」

桃子は、米田の100点満点の答案用紙のようなゲラ原稿と、自分が持っている原稿を取り換えた。

「す、すいません!」米田は冷や汗をかきながら謝るのみ。

部長も「あちゃ!」という顔をした。

そのエピソードを聞いて真紀子は何故か憤った。

「馬鹿なお嬢ちゃんね! そんなことあんたがヘルプの派遣だから出来る事でしょうが?」

「あ!はあ、まあ」桃子には意外だった。褒めてもらえると思ったが。

「あんたは派遣されているだけですぐいなくなるからいいけど、同じ部署で長年いる仲で同じ事出来る? それこそ社内いじめの標的だわね」

「でも悔しいじゃないですか! 只、女だ、というだけで馬鹿にされて!」

「悔しかったら結果を残しなさい!」

「でも、いつの時代もこうなのですか? 女は「女を武器にする」か「女を捨てて生きていくか」それしか選択肢がないなんて悔しくないですか?」

「しょうがないじゃないの! 日本っていうのは「骨の髄まで「男尊女卑社会」」なんだから!」

「それを変えるのが政治家やマスメディアの力じゃないんですか?」

真紀子は苦笑した。「どうやって?! 革命? 維新?」

同時に田中真紀子は自分が若い頃に、「これだから女は…」「だから女は駄目なんだ」「目白のお姫様……悪口だけ…これだから女は…」等と女性蔑視発言や陰口を受けて、誰もいない女子トイレで悔しくて泣いたことを回想していた。

あの頃より、自分は強くなっただろうか。

あの頃はまあ今だってそうな訳だが、ストレスのあまり円形脱毛症(つまり10円ハゲ)にまでなって驚愕した。おびえた子犬のように立ち尽くした。

その頃より自分は強く逞しくなっただろうか?

だが、それのせいで自分は「女を捨てた」?

馬鹿な。そんな筈は、ない。そんな馬鹿なことは………ない。そう、ないに違いない。

そんなとき議会室から飛び出してきた女性衆議院議員だろうか?

そのレディーススーツ姿の若い議員の女性(辛村小百合衆議院議員・高知3区選出・架空の人物)が廊下の隅っこでちじこまって嗚咽を漏らしていた。

辛村議員は議会での国会答弁で質疑応答にたち、原稿を朗読していた。

そんなときにおやじ議員たちから女性蔑視ともとれる野次を受けた。

「……という訳で金融機関からの国債による国の借金はおよそ1000兆円に迫る勢いであり、これ以上の無駄な公共事業による景気浮揚策は未来の子供達に借金のツケをオーダーするようなもので…」

〝早く結婚した方がいいんじゃないか?〝〝結婚しとらんらしいぞ〝〝お前が早く結婚して子供産んでから発言したほうがいい〝〝子供もいないのに少子化対策や財政問題のツケを将来の子供に?〝〝わははは(笑)〝

そのときは必死に顔に笑顔を無理に作って耐えた。が、議席に戻ると涙が、悔しくて涙があふれ出てきた。

そこで思わず感極まって会議場を後にしたのだ。

桃子は慰めようと近寄ろうとするが、真紀子が止めた。

「やめなさい! 甘やかしちゃ駄目!」

「でも………彼女、このまま政治家辞めちゃうかも…」

「辞めたけりゃ辞めりゃいいのよ。あんた国会議員の女性の比率しっている? 僅か数パーセント……男は80パーセント以上。ここ(政界)はまだまだ男の世界なのよ! 少し野次られたくらいで辞めるような甘ちゃんなら、さっさと辞めりゃいい。政治家になりたいってやつは、五萬といるのよ。しかも政治家は、国民の税金から歳費(給与)もらっているの」

「でも……じゃあ……女性は耐えるしかないんですか? お嬢ちゃんだのお姫様だの馬鹿にされて、騙されて……こんなんじゃあんまりです! せめて……女性だってやればできるんだって証明できるものがないんでしょうか? このままじゃあんまりです!」

その問いに真紀子は「ふふ、まあみてなさい」という。

そして田中真紀子は天才的な演説をして周りを圧倒していく。と、同時に辛村議員の野次に触れて、「このような野次は小泉構造改革並びにグローバルスタンダードに反するものでありとても恥ずべき「男尊女卑」「女性蔑視」発言としてマスコミは野次犯を特定し、謝罪させるべきものと思いますがいかがか?!」と間違いを正した。

後で辛村議員が「ありがとうございます! 勉強になりました!」と真紀子に頭を下げにきたのは言うまでもない。まさに田中真紀子さまさま、である。

そんな田中真紀子が外務大臣となったのは第一次小泉内閣発足当初のことであった。




  田中真紀子外務大臣更迭と外務省改革


田中真紀子元外務大臣は、まちがいなく小泉総裁誕生の立役者の一人である。総裁選の街頭演説で、小泉総理(当時)とともに選挙カーに上がり、懸命に総理の応援演説をしている姿は多くの方が覚えておられることと思う。

実際、彼女の演説は実に素晴らしい。聞く者を飽きさせない、いつの間にか彼女の世界に引き込まれずにはいられなくなるあの話術、身振り、抑揚、弁舌のうまさは天賦のものというほかはない。

あれだけの演説ができる政治家は、永田町三十年の私の記憶でもそうはいない。

父君である田中角栄元総理もまた天才的な演説家であった。角栄総理の演説を知る者はみな、血は争えないものだと感心したものである。

 一九九八年の総裁選(小泉にとっては二回目の総裁選)は、小渕元総理、梶山静六元官房長官、小泉の争いであった。

この総裁選を彼女が「凡人、軍人、変人の争い」と喝破したことでも有名である。

最近では石原慎太郎元都知事の再びの国政活動を「暴走老人」、選挙に落選した自分自身を「老婆の休日」といっている。

石原氏は「やはり真紀子さんは天才だね」という。

よく小泉元総理を「ワンフレーズ総理」とか言う人がいるが、ワンフレーズで物事を表現する能力という意味では彼女の方が上かもしれない。

 最初の組閣で、田中真紀子さんは外務大臣に就任した。

本人の希望だったとも言われているが、真実のほどは分からない。

総理は、こと人事については私にも一切解説したり後口上を言ったりしないので、本当にわからない。

当時の外務省は、外交機密費流用問題で国民の強い批判を浴びており、外務省改革は急務かつ不可避の課題だった。

その意味で、田中大臣の行動力(というか破壊力)に期待するところは非常に大きかった。

彼女を外務大臣に起用した真意も、きっとそのあたりにあったのではないだろうか。

外務省はいろいろな意味で問題のある役所であった。

重要な外交情報が総理に上がってこなかったり、外遊日程や総理会談のセットでも、官邸の意向と関係なく事務的にお膳立てをして、総理はそのシナリオにしたがっておればいいといわんばかりのブリーフを平気でしたりする。

海外勤務が長いからなのかどうか知らないが、組織としての統率が極めて弱く、個々の幹部職員が個人の判断で勝手に記者に情報を漏らしたりすることもある。

語学グループ別の「スクール」「派閥」があり、在外公館では大使は王様気分で、女性スキャンダルも多かった。

田中真紀子元大臣が「外務省というところは伏魔殿だ」と言ったが、それはある意味で当たっていると私は今でも思っている。

国民もまた田中外相(当時)の行動力(というか破壊力)に期待した。

マスコミも女性たち(つまりワイドショー奥様方たち)も高評価であった。

だが、就任早々、田中真紀子大臣(当時)は米国務省の知日派の中心人物であるアーミテージ国務副長官(当時)との会談を一方的にキャンセルし外務省を慌てさせた。

その後もことあるごとに事務方と衝突し、それがマスコミの恰好の話題となり、ワイドショーを沸かせた。(注訳・この当時、私長尾 景虎は「田中真紀子大臣不要論」を新聞で(本名で)記事を新聞に掲載した。)事件のたびにワイドショーは外務省の慇懃無礼さや秘密体質を批判。ごく短期間で事務の秘書官が四人も交代し、中には体調を崩し入院する者も出始める。

話を聞けば仕事以前の問題で、些細なことで満座の前で叱りつけ、直立不動で声をあげて何度も「すいませんでした」と言わせてみたり、指輪の紛失を「職員が盗った」と言って、国会最中に同じものを買わせに秘書官をデパートに走らせてみたり、「職場の部下」と「家事使用人」の区別がついていない(某新聞での表現)としかいえないような使い方をした結果で、どちらかというと外務省職員のほうが被害者だった。

だが、女性の味方のワイドショーは外務職員をやっつけて!とまた喝采をおくるのみ。

当然、外交の仕事どころか交渉どころの話ではない。

外務省憎しの田中大臣相手に、信頼して情報を上げたり、熱心にブリーフィングしたりする外務職員はこうなればいなくなるのは当たり前である。

こうして田中真紀子元外務大臣は、小泉に大臣を更迭されたのである。

それにしてもマスコミは同情的な報道をし、真紀子が涙目で「残念ですねえ、一生懸命やっていたんですけどねえ。更迭だそうです」というときも報道はけしからん節の報道(とにかくワイドショーだけは)に終始した。自業自得であり、何ら酌量の余地はない。

女性だからとか、そんなことではなく事務仕事をする事務方を信頼もせず泥棒呼ばわりし、家事手伝いの使用人並みに扱えば誰だって怒る。

外務官僚は中でもプライドの高いことで知られる。

田中元大臣のようなひとはやはり組織の長にだけはなってはならない。

<「小泉官邸秘録」飯島勲著作 日本経済新聞社出版 107~118ページ>

衆議院を辞職し、今は衆議院議員である。角栄はいい意味でも、悪い意味でもスケールの大きな政治家だった。

 今の政治家に角栄ほどのパワフルな政治家がいるだろうか?

 角栄は『闇の将軍』として、日本人たちにその存在をしめした。

 角栄をしのぶのを故としない。

(「異形の将軍 田中角栄」津本陽著作 参照)

 今の政治家に岸信介ほどのパワフルな政治家がいるだろうか?

 岸信介は『安保の城の妖怪』として、日本人たちにその存在をしめした。

 岸信介をしのぶのもまた故としない。

(「絢爛たる悪運 岸信介伝」工藤美代子著作参照)

                                    おわり






<参考文献>

(「異形の将軍 田中角栄」津本陽著作から大半の文章の参照。他・参考文献「絢爛たる悪運 岸信介伝」工藤美代子著作、落合信彦著作、大前研一著作、堺屋太一著作、藤沢周平著作、「小泉官邸秘録」飯島勲著作、「竹中平蔵大臣日誌」竹中平蔵著作、大前研一著作、ウィキペディア、他著作。盗作ではなく引用です。)

参考文献

立花隆 『田中角栄研究-全記録』上下 (講談社)

立花隆 『ロッキード裁判批判を斬る』全3巻 (朝日新聞社)

堀田力 『壁を破って進め-私記ロッキード事件』上下 (講談社)

徳本栄一郎 『角栄失脚 歪められた真実』 (光文社 著者は訴訟資料を再調査した元ロイター記者 )

木村喜助 『田中角栄の真実』 『田中角栄 消された真実』(弘文堂 著者は一審から上告審まで担当した弁護士)

田原総一朗 『戦後最大の宰相 田中角栄〈上〉ロッキード裁判は無罪だった』 (講談社プラスアルファ文庫)

小室直樹 『田中角栄の遺言』 (ザ・マサダ)『田中角栄の呪い』 (光文社)

井上正治 『田中角栄は無罪である。』 (講談社)

秦野章 『何が権力か』 (講談社)

小山健一 『私だけが知っている「田中角栄無罪論」』 (講談社出版サービスセンター)

田中角栄を愛する政治記者グループ 『田中角栄再評価 ― ロッキード事件も無罪だった!?』 (蒼洋社)

早坂茂三 『怨念の系譜』 (東洋経済新報社)

ロッキード裁判とその時代(1),(2) 朝日新聞

ロッキード事件疑獄と人間 朝日新聞社

ロッキード事件「葬られた真実」講談社

権力者たちの狂宴 ―戦後政治とロッキード・スキャンダル 人間の科学社

「ロッキード」とは何か すずさわ書店

ロッキード売り込み作戦―東京の70日間 朝日新聞社

スポーティーゲーム―国際ビジネス戦争の内幕 學生社

「田中裁判」もう一つの視点―ロッキード捜査と一審判決への疑問 時評社

本所次郎 『騏驎おおとりと遊ぶ<上>-若狭得治の軌跡 運輸省編』 徳間書店、2002年。ISBN 4198614644。

本所次郎 『騏驎おおとりと遊ぶ<下>-若狭得治の軌跡 全日空編』 徳間書店、2002年。ISBN 4198614652。

『限りなく大空へ 全日空の30年』 全日本空輸株式会社、1983年。

ANA50年史編集委員会 『大空への挑戦 -ANA50年の航跡-』 全日本空輸株式会社、2004年。 

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未解決事件シリーズ  天才政治家<闇の将軍>田中角栄~ロッキード事件50年目の真実~ 長尾景虎 @garyou999

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