第24話 千紗、生れて初めてか弱く倒れる

 はぁー、お腹すいたなぁ。どうして四時間目なんかに、体育があるんだろう。校庭を、歩くよりも遅いスピードで、ランニングしながら、千紗は、ため息しか出ない。朝から何も食べていないから、体は軽くなっているはずなのに、こういう時って、どうして、いつもより、体が重く感じるのだろう。足なんて、鉄下駄でも履いているかのようだ。


 六月に入って、急に気温が上がり、太陽は、真夏のそれのように、じりじりと生徒たちを照りつける。そんな中で、誰もが俯いてだらだらと走っていた。毎回、思うけれど、四時間目に体育なんて、間違っている。その上、どうして、ばかの一つ覚えみたいに、体育のはじまりは、ランニングなのだろう。これまた、毎度のことだけどうんざりする。


 日本全国、どこの中学校でもそうなのかな。もし体育で、生徒に一切ランニングをさせない学校があるならば、即刻、転校したいくらいだ、ないだろうけれど。

 などと、つまらぬ愚痴を、腹の中で散々言っているうちに、千紗は、なんとか、校庭を3周走り終えた。

 はぁ、やれやれ。あとはなんとか、適当にこなせば、お弁当の時間だ。と、そこまで考えて、千紗は、眉間に深い縦じわを刻んだ。しまった、忘れていた。今朝は、喧嘩したついでに、お弁当を、家においてきてしまったのだ。はぁ、今日に限って、財布も忘れたんだった。全く、なんていまいましいことだろう。


 その時、千紗は、少し、ふらふらするような感覚を覚えた。気のせいか、少し気分も悪かった。暑いようでもあり、ぞくぞくするようでもある。その上、急に汗が出てきた。もしかしたら、これはあの有名な貧血ってやつ? あたしの人生には、無縁だと思っていたあれか? まさかね。でも、あたし、休んだ方がいいのかな。千紗が、ぼんやりとした頭で、それについて考えようとした時、

「はい。二人一組で体操」

という体育教師の声がかかった。


「ゴンちゃん、一緒にやろう」

と、中西理沙に声をかけられ、そのまま、理沙と組んで、柔軟体操を始めた。

 理沙は、柄が大きい。結構大柄な千紗よりも、もっともっと大きい。決して太ってはいないのだが、太くて頑丈な骨に、密度のある重たい筋肉が均等に発達した、格闘家のような体格をしている。だから、むろん体重もあり、それは、コロッとした体格の人の重さと違って、鋼鉄のような、ずっしりとした重みがある。


 なぜ、こんなことを、千紗が知っているかといえば、柔軟体操をするとき、彼女の上半身を、背中で持ち上げているからなのだ。あの、古くは『ぎったんばっこん』と呼ばれている、胸を開くための柔軟体操だ。

 これまでいろんな女の子を、この『ぎったんばっこん』で潰してきた伝説をもつ少女、中西理沙だが、実は、心優しく遠慮深い彼女は、そのたびにひどく恐縮し、だんだんと、相手を威勢良く持ち上げても、自分は遠慮して、断るようになっていった。

 それを見かねたのか、ある時から、体育の男の先生が、女生徒に代わって、理沙を持ち上げるようになったのだが、デリケートな年頃でもあり、恥ずかしがり屋の彼女にとって、それは、苦行に近いことであったろう。


 が、遠慮深い性格だった中西理沙は、教師と組むことを拒否することなど到底できず、はたから見ててもつらくなるくらい、悲痛な表情で、大人しく、教師に持ち上げられ続けていた。

 ところが、である。新しいクラスに、その彼女を、力強く持ち上げられる女子がいたのだ。千紗だ。以来、柔軟となると、理沙と千紗は、お決まりのペアとなった。


 千紗は、以前から、思慮深く、おっとりと心優しい理沙が好きだったので、この出来事に、かなり気をよくしていた。たとえ、クラス中の男どもから、「怪力二人組」とか「復活、馬場と猪木」などといわれようが、「へん!」てなもんである。

 気は優しくて力持ちって言葉を、知らないか。くやしかったら、もう少し教養と筋肉をつけて来やがれ、この子ネズミどもが!

 からかわれるたびに、上機嫌でこう言い返した。しかし、今日は、今日ばかりは、理沙との柔軟は、勘弁してもらいたい気分だった。


「よーし、じゃあ、いくよー」

理沙は、いつも、自分が先に千紗を持ち上げる。大きな体に似合わず、理沙は、そっと、という感じで、柔らかく千紗を持ち上げる。それに対して、千紗はいつも、いささか乱暴になってしまう。いくら怪力千紗とて、理沙を持ち上げる瞬間には、それこそ、百キロのバーベルを持ち上げるくらいの、瞬発力と集中力が必要なので、どうしても乱暴になってしまうのだ。


 けれど今、理沙の背中は、なんて心地よいのだろう。千紗は、柔らかな理沙の背中の上で、なんだか眠くなって目を閉じた。ぎらぎらと照りつける太陽が、まぶたの裏を赤く染めている。うん? 赤って言うより白? そう思っているうちに、そっと理沙が、千紗を下ろした。なあんだ、もうおしまいか。ずっとずっと、このままでいたかったのに、とぼんやり思った。そしてそのまま、千紗は、重力に負けるように、太陽に押しつぶされるように、地面に倒れこんでしまった。


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