第22話 嵐の後

 三〇分後、獣のような荒い息をしながら、充血した目を血走らせ、千紗は、ひとり自分の部屋にいた。伸行と引っ張り合った髪の毛は、やまあらしのように盛り上がり、ぐしゃぐしゃになっている。

 いったい、今日は何十本、いや何百本の髪の毛を、失ったのだろうか。ま、伸行の髪の毛も、引っこ抜いてやったが。あいつは、髪の毛を短く刈っているから、こういう時、やりにくくって仕方がない。もっとふさふさしていたら、束にして引っこ抜いて、ツルッパゲにしてやったのに。


 体のあちこちが痛い。激しい蹴りあいのせいで、特に太ももが痛い。きっと明日には、あざだらけになっているだろう。けれど、最後の〆に千紗に引っ掻かれ、頬に斜めの縞模様をつけられた伸行の方がダメージが大きいはずだと、千紗は片頬だけで、ひきつった笑いを浮かべた。爪を切る前で、本当によかった。


 しかし、そのゆがんだ笑顔も、すぐに沈んだため息に変わる。正直な話、千紗は今日、ショックを受けたのだ。伸行が、あんなふうに自分のことを思っていたなんて、あんな風に批判的な目で見ていたなんて、思いもしなかった。いつまでたっても、ただのひ弱な甘えん坊だと思っていたのだ。考えてみれば、伸行も、もう小学六年生だ。千紗にとっての六年生といえば、両親の間に、不穏な空気が流れ始めた頃で、かなりいろんなことを考え、心配していたはずだ。


 あの頃。

 仕事仕事と、父の帰りが遅い日が増え、休日出勤も増え、それから、何となく両親の仲がぎくしゃくし始めて、家庭内に不穏な空気が漂い始めていた頃。

 得体の知れない不安で、夜も眠れなくなっていた千紗とは異なり、

「お父さんは、一生懸命、お仕事しているだけなのよ」

とか、

「大丈夫よ。お父さんとお母さんは、仲良しよ」

などという母の言葉を、アホみたいに鵜呑みにして、毎晩、平和な顔して、ぐうぐう寝ていた伸行。

 あの時、あの幾晩も続く、眠れない夜の闇の中で、千紗は、たった一人で不安と戦っていた。お前はいいよな、気がつかなきゃ、何もないのと同じだもんな。のん気な弟の寝顔に、苛立ちを感じた夜もある。


 けれど、いよいよ両親が離婚と決まった時、伸行は、熱を出すほどのショックを受けたのだ。何も気づいていなかった分、その衝撃も大きかったのだろう。熱は一晩で下がったけれど、翌朝、泣きはらしたような顔で、起きてきた弟を見て、千紗は密かに心に誓ったのだ。幼い弟を、守ってやらねばならない。あたしは、お姉ちゃんなんだから、伸行が泣くことがない様に、しっかりしなくちゃいけないと。


 それ以来、千紗としては、弟をかばってきたつもりだった。そりゃ、喧嘩して泣かせたりは、ちょこちょこ…、結構…、まあ、かなりしてしまったが、概ね、自分の誓いは、守ってきたつもりだ。

 いろいろ忠告してきたのも、困らないうちに、傷付かないうちにと、思ってのことだ。それを、伸行のやつ、あんなふうに思っていたなんて。あんな、クソ生意気なこといわれて、あまり言い返せなかった自分にも、腹が立つ。


 千紗は、先程の伸行とのやり取りを思い出すと、再び、怒りのマグマが、ふつふつと煮えだすのを感じた。あたしには、何も出来ないって? 冗談じゃない。あたしはいろいろ考えてきたし、いろいろやってもきたんだ。ただ生意気なだけのガキに、何が分かる。

 小六なんて、頭だけ大人のつもりの、だたのガキじゃないか。千紗は、弟の頬に、もう一本、縞模様をつけたい衝動に駆られたが、その晩は自分をおさえて、頭から布団をかぶった。


 

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