第12話 その日の夜

 その夜、千紗は、洗面所で歯を磨きながら、しみじみと鏡の中の自分を眺めた。あたしの首って、そんなに太くてたくましいかな。千紗は、首を右に左に傾けて、仔細に眺めてみる。やっぱり、華奢なさやかと比べれば、少し太いような気がするな。と、今度は、手に持っていた歯ブラシを口に咥えて、両腕を上げて鏡に写してみる。


「う~ん」

鏡の向こうで、二の腕を持ち上げて、こちらを見返す自分を見て、千紗は、思わず唸ってしまった。太い。さやかの腕と比べると、断然太い。それも、ただ太いだけではなくて、ぷよぷよしている。

 そもそも、さやかのほっそりした腕は、可憐な印象を強くするのに、自分のそれは、なんだか、迫力のようなものを感じさせる。千紗は、とてもそれ以上、自分の太い腕を見る気にはならず、力なく腕を下ろして、鏡から目をそむけた。これでは、菊池にいろいろ言われても、仕方ないではないか。


 千紗は、首をひねった。おかしい。なんで? いつの間に? こんなはずじゃなかったのに。そうだ。ちょっと前までのあたしは、あたしの腕は、こんなじゃなかったはずだ。千紗は、大急ぎで歯を磨きを終えると、下着姿になって、久し振りに体重計に乗ってみることにした。カチャカチャカチャ。その音に、思わず目を閉じる。数字の動きが静まるまでの息づまるような時間。そして、恐る恐る目をあけた・・・。


 弟の伸行が、カバだか牛だか象の吼え声にも似た、千紗の野太い悲鳴を聞いたのは、寝る前の最後のひと粘りと、込み入った算数の問題を、シャープペンシルを回しながら、解いている真っ最中だった。

 しんとした空気の中で、絡まった糸を辛抱強くほぐすように、意識を集中させて考えている時に、千紗の人間離れした野太い悲鳴は、夜の静寂を難なく貫いて、伸行の脳髄に突き刺さり、伸行は、思わずイスから飛び上がってしまったほどだった。


 胸をドキドキさせながらも、落ち着いて考えてみれば、よくある千紗の悲鳴だと気が付いて、舌打ちをした伸行だが、さてもう一度と、椅子に座り直し、問題を解こうとしたところ、先程掴みかけた糸口が、今のショックで、きれいさっぱり飛んでしまい、一から考え直さねばならなくなっていることに、気が付いた。


 すっかりやる気を失った伸行は、二度目の舌打ちをすると、乱暴にノートと問題集を閉じ、苦虫を5匹は噛み潰したような顔で、布団に飛び込んだ。

 布団の中で、伸行は、ぎりぎりと歯軋りをする。くそ。あの女。生きているだけで迷惑だ。本当にもう、どうにかしてくれ。


 

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