第10話 長岡博
しおしおとうなだれる千紗の肩を、誰かがポンと叩いた。顔を上げると、長岡博が笑顔で立っていた。
「久し振り」
「ああ、長岡君。久しぶり」
千紗は、長岡博の笑顔に、心底ほっとしながら返事をした。ああ、あたしは、別に世界中の男子から嫌われてるわけじゃないんだ。そう思うと、一瞬、涙ぐみそうなほどだった。
去年、席替えの時、千紗が自分の早とちりから、鮎川さやかを泣かせてしまった時、「い~けないんだ、い~けないんだ」としつこくからかってきたり(珍しく、千紗はやられっぱなしだった)、あるいは、もっと冷ややかに、視線で断罪してきた男子がいる中で、長岡博だけは、全く態度を変えなかった。彼だけは、いつも通り、いつものテンションで、千紗に話しかけてきた。
千紗はその時、彼からの信頼というものを感じたのだ。たとえ下手をこいたとしても、そこには何らかの千紗なりの真実があったに違いないと、多分、長岡博は思ってくれている。
「そうか、長岡君、今年、生徒会の書記だったね。いろいろ忙しいね」
「そう。三年生の生徒会役員って、自分の仕事以外に、雑用全部やらされるんだ。やっぱ、最高学年だから」
「へええ、そうなの。そりゃ、大変だ。でも、長岡君なら、大丈夫だよ」
「どうだろうなぁ。今年の生徒会は、最悪になったりしてな」
「そんなわけないよ」
「いや、それがそうでも…。あ、山崎が呼んでるから、俺、行くわ」
会議室の教壇を囲んで、生徒会役員の山崎たちが、なにやら打ち合わせを始めている。そこに駆け込んで交ざる長岡博を、千紗はぼんやりと見つめた。
去年の夏休み明けに、千紗の身長をあっさり追い抜き、その後もぐんぐん伸びて、手足の長いすらりとした長身男子になった長岡博。物静かで穏やかで、千紗からすると、いささか優等生過ぎると感じる時もあるが、でもやっぱり、精神的に大人だから、一番、話しやすい男子だった。
そう言えば、去年、生徒会の選挙シーズンに、来年は高校受験だからと、推薦されながら、立候補をしなかった生徒が結構いた中で(残念ながら、菊池もその一人だった)、長岡博が選挙に打って出たことは、千紗にとって、意外な出来事だった。
堅実で、決して危ない橋をわたったり、博打を打ったりしない彼が、そういう冒険をするとは思わなかったのだ。ただ、激戦だった生徒会長や副会長など見向きもせず、比較的地味で堅実な書記に立候補するあたりが、いぶし銀の長岡らしいと言えば言えるのだが。
彼が生徒会役員に立候補した時、千紗は、もしかすると、あたしは、長岡君のことを、大して分っていなかったのかもしれないなぁと、思った。長岡君は、案外、腹の据わったやつなのかもしれない。
しかし、そんな思いとは別に、千紗は、以前のように、長岡博と打ち解けて話すことが、出来ないでいた。もちろん、今だって、千紗にとって長岡博は、サルでもガキでもない数少ない男友達だ。でも、去年、夏休みが終わった最初のあの日、千紗が勇気を出して、クラスの皆に向かって、家庭の事情で、自分の苗字が『権藤』から『佐藤』に変わったと、打ち明けた時、真っ先に千紗を「佐藤」と、呼び改めた長岡博に、どうしても以前と同じような気持ちで、接することが出来なくなってしまったのだ。
自分で「佐藤に変わったんだから、佐藤と呼べ」といっておいて、自分を佐藤と呼んだ長岡に屈託を感じるなんて、矛盾しているもいいところだ、と、自分でも思う。クラス全員の前で、あれだけ大見得切った言葉は、嘘だったのかと言われれば、それは違うと声を大にして言いたい。でも、あの日以来、何かが引っかかって、それまで通りに長岡博に接することが出来なくなってしまっていた。
それは、もしかしたら、長岡博ではなく、千紗自身が、千紗の中の何かが、変わってしまったからなのかもしれないと思った。だって、長岡君は、何も悪くないもんな。
千紗がため息をつこうと、深く息を吸い込んだ時だった。
「グエ」
千紗は、踏みつけられた蛙のような声を出して、机すれすれまで、深く頭をバウンドさせた。何者かが、千紗の後頭部を、ぐいっと押したのだ。油断しきっていた千紗は、あと少しで、机におでこを激突させるところであった。
「誰だ!」
驚きと怒りと首の痛みで、顔を赤くしながら、千紗はどなった。
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