第7話 上出来とはいえない、新学期の始まり

 ゴールデンウィークを直前に控えた、四月最後の金曜日。千紗は、歩きなれた学校の廊下を歩きながら、不思議な気持ちに襲われていた。


 万感胸に迫るような気持ちで、菊池と並んで、最後の学級委員会へとこの廊下を歩いたのは、ほんのふた月前のことだ。なのに、また、こうして同じ廊下を、学級委員として歩いている。これでは、あの日の劇的な思いが薄まる、というより、台無しではないのか。まあ、そこが、千紗らしいと言えばそうなのだが。


 もちろん、今回、千紗と一緒に学級委員をやるのは、菊池亮介ではない。千紗は、自分の斜め後ろを歩く新しいパートナーに、チラッと目をやった。どこをどう見ても、去年のパートナー菊池亮介とは大違いだ。

千紗は、頑なに自分と微妙な距離をおいて歩く相棒を見て、そんなにあたしと並ぶのが嫌なのか、と、苦々しく思った。

 そもそも、第一印象からして、お互いあまりよいものではなかったのだ。それなのに、どうして、そんな二人が、そろって学級委員に選ばれてしまったのか。


 新学期初日。

 始まりのチャイムが鳴り響く中、千紗は、必死で階段を駆け上がっていた。千紗はすっかり忘れていたのだが、三年生の教室は三階にあり、二年の時より明らかに不利なのだ。

  スカートの裾を蹴り上げながら、三段飛ばしで階段を駆け上がる自分の姿がいけてないことは、重々承知していたが、そんなこと、構っちゃいられない時もある。


 チャイムの最後の音がもう余韻となり、消えかかっている。千紗は、徒競走のゴールに飛び込むような気持ちで、最後の階段を登りきり、必死で教室の後ろ扉に手を伸ばした。


 ガガガガ! バーーン、ドン。


 もちろん千紗だって、扉を力いっぱい開けたらどうなるかくらい、わかっている。だから、自分なりに手加減したつもりだった。しかし扉は、轟音を立てて短いレールの上を勢い良く滑り、開いたと思った途端に、再び千紗の目の前で、閉まってしまったのだ。


 一瞬にして、開いて閉まった扉の前で、さすがの千紗も呆然となった。恐る恐る扉に耳を近づけてみると、教室の中は、しんと静まり返っている。知らない顔だらけの新しいクラスで、みんな、なんとなく緊張して、静かにしていたのだろう。そこに、自分が無神経な轟音を立てたことを思うと、千紗は、再び扉を開けることに、大いなる恐怖とためらいを感じた。


(どどど、どうしよう…)。

 しかし、いつまでもここに突っ立っているわけにも行くまい。千紗は、しぶしぶ扉を開けてみた。もちろん、今度は細心の注意をして、静かに、静かに、だ。

 開けてみると、覚悟していた、クラスメートの『刺すような視線』はないのだが、何となく様子が変だ。どうやら、前扉に何かあるらしい。

 そう思って、千紗がおずおずと身を乗りだして、前扉をのぞくと、千紗と同じような格好で、前扉から身を乗り出して、こちらを伺う貧相な男と目が合った。


(ハンガー!)

と、千紗が思ったその瞬間、それまで、水を打ったように静まり返っていた教室に、凄まじい大爆笑が起こった。それは、雷でも落ちたかというくらいのすさまじさで、千紗は、驚くと言うより、すっかり怯えてしまい、ますますそこから動けなくなった。


 しかし、さすがに大人で、しかも、三年三組の新しい担任教師であるところのハンガーは、生徒の大爆笑にひるみつつも、頭を掻き掻き、教室に入ってきた。

 ちなみに、ハンガーは、去年も千紗の担任で、山本という日本名がちゃんとあるのだが、痩せて肩が怒って見えるから、生徒からはハンガーとかハンガーマン、などと呼ばれている。ハングリーではなく、衣紋掛けのハンガーの方である。口の悪い連中は、死にぞこないとか、棺桶などと呼んだりもするが、彼の社会科の授業には定評があり、地味ながら、生徒の信頼は厚かった。


 ハンガーが教壇の前に立つのを見て、千紗も、まだ笑いが止まぬ教室に、爪先立ちで入っていった。そして、本人としては、なるべく目立たぬように気をつけながら、空いている席に滑り込んだ。その時だ。

「初日から、ド派手に遅刻かよ。それも、先公より偉そうだなんて、上等じゃん」

 つぶやくような、低い声だが、千紗に向かって発せられたと、はっきり分かる声だった。


 声のほうを振り返ると、斜め後ろに、ライオンの鬣みたいな、もじゃもじゃの髪を振りたてた少年が、ふんぞり返って千紗を睨んでいた。丸顔に獅子っ鼻、しかしその上にのっている眼光鋭い眼差しと太い眉毛が、意志の強さを表しているような顔だった。しかし、どうやら背は、千紗より小さいらしく、椅子からはみ出る足は、長くはなさそうだった。


「遅刻じゃなくて、ギリです」

と、言い返したかったが、さすがの千紗にも、新しいクラスで、そこまでの度胸はなく、何も言い返すことが出来ないまま、力なく正面を向き直るしかなかった。

(何だ、あいつ。自分こそ、何でそんなに偉そうなんだ。先生でもないくせに、あたしを注意するなってんだ、このチビめ。悔しかったら、あたしと背比べして見ろ)と、口に出していえない分、腹の中で毒づいた。

 そしてその後、ひどく気持ちが暗くなった。始まったばかりの新しいクラスで、誰かから敵意をもたれるのは、正直、しんどいことではあった。



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