第6話 新学期の朝 3
喜び合うもの、失望するもの、様々な表情をかき分けて、掲示板の前に急ぐ。その時になって、千紗は初めて、今年は、権藤ではなく、佐藤で自分の名前を探さなくてはならない事を、思い出した。佐藤千紗、佐藤千紗。千紗は間違えないように、新しい自分の名前を唱える。
一組には佐藤千紗の名前はない。けれど、山田奈緒の名前はある。ああ、今年もやっぱりか、軽い失望の中、千紗は急いで自分の名前を探す。佐藤千紗、あ、あった。千紗の名前は、三組にあった。
「やっぱり、あたしと山ちゃん、今年もクラス、別々になったね」
「これで、三年連続、全滅だね」
そんな事を奈緒としゃべりながら、千紗は三組に菊池亮介の名前を探す。ない。やっぱりない。何度も何度もお祈りしたけれど、奇跡は起きなかったのだ。
その瞬間、千紗の中で、ほとんど事実になりかかっていた、自分と菊池が中睦まじく歩く姿が、すうっとぼやけて小さくなり、そのまま儚く消えていった。これでお終いだ、と、千紗の胸の奥で静かな声がした。これで、千紗と菊池を結ぶ糸は切れてしまった。
クラスが違ってしまえば、菊池は、千紗にそれほど関心を払わなくなってしまうだろう。ほとんど忘れてしまうかもしれない。そう思った途端、みぞおちにぎゅっと力が入った。
けれど次の瞬間、そんなことわかるもんか、と、千紗は慌てて思い直した。未来なんて、どうなるかわからないのに、勝手にくよくよするのは、あたしじゃない。
千紗は、沈む気持ちを何とか取り直し、菊池のクラスを探す。いったい菊池は何組になったのだろう。四組、隣のクラスだ。少しだけ希望が湧く。しかし、同じ四組に鮎川さやかの名前を見つけて、衝撃を受ける。なんで、あたしよりずっとずっと菊池と親しい鮎川さやかが、今年も同じクラスになれるんだ。教師どもの目は、節穴か。こういうのを、不公平って言わないか?
「ゴンちゃん、どうした? 大丈夫」
奈緒に声をかけられ、千紗は我に返った。
「ううん、なんでもない」
「菊池君、クラス違ったんだね」
「うん。四組だった。ま、あいつと同じクラスになる可能性は、一〇〇パーセントないって、わかってたことだけどね」
最終的には、三〇四回も菊池と同じクラスになることを想像したくせに、千紗はそんなことを言った。
「まぁ、一緒に学級委員をやっちゃうと、翌年は厳しいもんね。でも、隣のクラスだから、しょっちゅう会えるよ」
「会えるったって、あたしたち、そんなに親しかったわけじゃないからねぇ。去年のようなわけには、いかないよ」
「あれ? 鮎川さんも四組なんだ」
掲示板を眺めていた奈緒が、言った。
「そう。ま、大好きなさやかと、今年も同じクラスになれて、菊池は万々歳なんじゃない」
奈緒は、あえてさばさばした口調で強がりを言う親友の顔を、黙って見つめた。去年の夏休み明けくらいから、急に菊池亮介の話ばかりするようになった千紗。毎日毎日、菊池があんなことをした、こんなことを言った、今日は喧嘩した、むかついて口も利かなかった、と言いながら、菊池の話をしない日は、ないと言っていいくらいだった。
そうやって、毎日菊池の話をしながら、千紗はいつも、「あいつ、本当にむかつく」とか「頭にくる」といった、否定的な言葉で話をしめくくるのだ。どうやら千紗は、山田奈緒に対してと言うより、自身に対して、自分が彼に好意を持っていることを、認めたくないらしかった。
しかし、いくらそうやって、言葉で否定して、カモフラージュしようが、菊池の話をする時、どうしても輝いてしまう瞳や、生き生きとしてしまう表情まで、隠せるわけもないのだった。
むしろ、千紗本人が、自分がどんな顔をして、菊池の話をしているのか、見えていない分、その表情の変わりようは、あからさまなほどで、目は口ほどにものを言うって本当だなぁと、改めて山田奈緒を感心させたのだった。
ゴンちゃんがわかりやすい性格なのかもしれないけど、でも、昔の人がいうことって、当たってる。そして、そこまで夢中になれる男の子が近くにいるなんて、ゴンちゃんはいいなぁ、と思う奈緒なのだ。
しかし、誰かを好きになるということは、楽しいことばかりではない。奈緒は、千紗が、菊池に関するあれやこれやで、柄にもなく、といっては失礼だが、繊細に傷付いたり、失望したりしているのを、痛々しい思いで見てもいた。誰かに片思いするのは、大変だ。
それぞれ、もの思いにふけりながら、千紗と奈緒は校舎に入って行った。下駄箱で、背中を丸め、のろのろと靴を履き替える千紗に、威勢の良い声が飛んできた。
「よぉ、ゴリエじゃん。相変わらず、元気そうだな、お前」
振り返ると、春風をまといながら、菊池が下駄箱に走りこんできた。驚きのあまり、仁王立ちになる千紗。菊池は、ぼさっと突っ立っている千紗をよそに、手早く靴を履き替えながら、
「今朝、寝坊してよ。あせったぜ、ほんとに。初日から遅刻してたら、しゃれにならねぇからな」
といって、音を立てて靴を下駄箱に放り込んだ。
「お前も急げよ。もう、チャイムが鳴るぜ」
と言うと、千紗を置いて、さっさと行ってしまった。
菊池の後ろ姿をあ然と見送りながら、千紗は改めて思った。もう、菊池と同じ教室には入れないんだ。うつむきかけたが、急に思い直して、相撲取りのように、両手で頬をばちんと叩いた。くよくよするのなんて、大嫌いだ。あたしは、こんなことで俯いたりなんかしないんだ。
その時、最初のチャイムが鳴った。
「ごんちゃん、急ごう!」
奈緒が先に立って呼んでいる。
「うん」
様々な思いを振り捨てるように、猛烈は勢いで走り出した。なんにしろ、初日から遅刻は、しゃれにならない。だから、一気に階段を駆け上がり、新しい生活の場となる教室に、頭から飛び込んでいった。
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