"SHI"季とおれ
りあ
"SHI"季とおれ
おれがそのサイトの存在を知ったのは、高校二年の冬のことだった。
「上手くいかないあなたのお話、聞かせてください」
そう銘打たれたインターネット掲示板は、この世に絶望した人、生きていたくない人が、互いの悲しみを打ち明け合う場所で。
自分の悩みを誰にも言えなかったおれも、ダメもとで自分の悩みを投稿したことを覚えている。
おれよりもっと苦しい人がいた。おれよりずっと生に絶望している人がいた。
彼らの悲しみを、怒りを聞いて、おれの苦しみを、嘆きを吐露して。
嫌なことはなんでも、そこに書き込むようになっていった。
「……ちょっと、これ。どういうことなの」
夕食のあとで、自室に戻る前に、母さんに呼び止められた。
その手には、先日の模試の結果。限界まで細かく刻んだはずだった志望校判定の紙を、母さんはつぎはぎして、自分の手元に置いていた。
「どういうことなのって、聞いてるのよ」
最後に彼女の眉間の皺を見なかったのは、いつのことだっただろう。
顔を合わせれば小言、八つ当たり。父はほとんど家に帰ってこないから、母の苛立ちの目標はいつもおれだった。
「あんた、次のテストはがんばるって言ったわよね?いい大学受かるんでしょう?もう時間はないの。わかってるでしょう?」
黙り込むおれに、母さんは針を突き刺すように、言葉を重ねる。
おれにどれだけお金をかけてきたか。おれが昔どういう目標を語ったか。……おれが本当はどれだけ優秀な子なのか。
耳にタコができるほどとは、まさにこのことだろうと、現実逃避気味に思う。実際、ここ数ヶ月の間、母さんの話は完全にループしているように感じた。
「もう七月なのよ?わかってるでしょ」
「うん」
「じゃあ、やるべきこともわかるわよね」
「うん」
「わかったなら早く取りかかりなさい。時間はないんだからね」
「うん」
おれは母さんの前だと、頷くことしかできなくなる。口答えはおろか、言い訳もできない。ただ、恭順して、嵐がさるのを待って、部屋に戻ってから、掲示板に愚痴る。
おれの高校最後の夏は、こうして過ぎていくのだと思うと、悲しいやら、悔しいやら、強く拳を握ることしかできない自分に、おれはいつも失望しながら諦観していた。
『模試の結果がよくなくて』
『今日も母さんに色々言われたんだ』
いつの間にか、全体の愚痴チャンネルに書き込むのはやめていた。今では、見てすらいない。
雑談チャンネルはそもそも存在しないし、おれはこの半年の間に、掲示板での新しい関係作りはやめてしまった。
では、誰に母とのことを打ち明けているのかと言えば、それは「SHIki」という推定女性のユーザーだった。
『わかります。ほんっと、この時期親うるさいですよね。私も進路、てきとーに決めちゃったんで、両親が心配なんだか気にいらないんだか』
おれたちは決まって二十時頃から雑談を始めて、メッセージのやり取りをしながら勉強をする。
母さんならば、こんなのは勉強に集中できているとは言わないから、もっとちゃんとしろ……なんて言うんだろうけど、おれにとっては彼女とのこの時間が、何より集中できる時間だった。
『シキは芸大、行くんだよね』
『まあ……今のところは』
この半年間の間、掲示板で仲良くなった人たちは、シキ以外みんないなくなってしまった。
彼らがどこにいったのか、どうなったのかは気にならなくはないけれど、おれにとっては自分の進路と母さんの機嫌のほうが重要なことだった。
学校へ行けば、同級生はみんなぴりぴりしている。
共通入試は半年後だが、推薦などを狙っているやつらは、もうすぐそこまで試験が迫っているし、些細な物音すら許さないような、息の詰まる日常がそこにはあった。
窓際から校庭を眺めれば、後輩たちが体育の授業に励んでいる姿が見える。
ぼんやりとしている時間は、作らないほうがいい。
頭を過ぎていくのは、悪かった模試の結果、受験関係のストレスのせいで険悪になってしまった友人とのこと、母さんの癇癪、そしてそんな問題を抱えているのに、未だぼんやりしている自分への苛立ち。
ただ、雲を眺めるだけで酷く陰鬱な気持ちになって、おれはシャーペンで自分のこめかみを小突いた。
「暇ならこれ、代わりにやってくれよ」
「なんで」
「ぼーっとしてただろ?俺もうすぐ推薦なんだよ。暇ないの」
少し前まで馬鹿やって笑い合っていた友人に、一束の書類を押し付けられる。
吹奏楽部引き継ぎ事項一覧と書かれたそれは、確かにおれと友人のどちらかがやらなければならない仕事だった。
太平洋に程近いだけで、特に珍しいものもないうちの高校で唯一、おれの所属している吹奏楽部だけは、少しだけ有名だ。
かなり昔の部長が、音楽室を巡る合唱部との小競り合いに敗れたとかで、うちの吹奏楽部は屋上で練習を行う。
海が見える校舎の上で行う練習は、そこそこ爽快だが、夏は暑く冬は寒い。
結果、話題性はあっても新入部員には恵まれず、おれの年の部員はおれを含めて二人だけなのだった。
三年生が部活引退までに、後輩に引き継ぎ事項を伝えておくのは、どの部活でも同じことだ。
おれも友人もずぼらなせいで、こんな時期までずれ込んでしまったわけだが、他の部に所属しているやつらもやってきたはずなのだ。
「なんで、おれが」
それなのに、口をひらけば不平をこぼす、そんな自分の性根が、嫌いだった。
『シキ、おれさ、ちょっと疲れたよ』
『どうしたの、急ですね』
別に、急なことでもない。そう思った。
勉強道具を広げたのはいいけれど、おれはペンを走らせることなく、メッセージを打ち込んだ。
『どこかで、もし、少しでも時間が取れたら、オフとか……してくれない?』
メッセージ欄の向こうにいる「シキ」に会ってみたい、そう思ったのは、決して今回が初めてのことではなかった。
ネットリテラシーとか、犯罪対策だとか、画面の向こうにいる誰かが、本当に自分の知っている人じゃないかもしれない、なんて教育は散々受けてきた。
でも、それでもいい。
シキが、おれの思っている同年代の女の子じゃなくたって、構わないと思った。
性別を偽ってても、年齢を偽ってても、もしかしたら、人間じゃなかったとしても。
おれはおれに唯一親身になってくれる、「SHIki」という「誰か」に会ってみたかった。
『いいですよ』
これまでどれほど会ってみたいと思っても、彼女の負担になるだろうからと、我慢を重ねてきた。
だから、肯定を意味する返信が、あまりにもあっさりと返ってきて、おれは酷く驚いたのだった。
『え、なんか……意外』
『意外って。私も会ってみたいと思っただけですって』
『じゃあ、お願いします』
『なんで敬語!?こちらこそ、お願いします』
互いになんとなく住んでいる場所は知っていたけれど、ちゃんとすり合わせて、それで……週末、近くの海で、おれはシキにリアルで会うことになった。
思い返してみるまでもなく、おれはこの時自殺を考えていた。
理由は多岐に渡るけれど、それらをまとめれば「生きているのに疲れた」というところが正しいと思う。
大人になれば小さなことだと笑い飛ばせるらしい悩みは、おれの心にしんしんと降り積もって、体にとっては重石となっておれを縛る。
もがくことも、変わることもできずに沈んでいくおれ自身が酷く惨めで、そんな自分がどうしようもなく嫌いで、それで、おれは死ぬことを選んだのだった。
シキに会いたいと思ったのは、別れを告げるためと。
ほんの少し、おれと一緒に逝ってはくれないかと、そう、本当に少しだけ。思ったからだった。
夏の海は騒がしい。
おれがシキと会う約束をした場所は、海水浴場から少し離れた岩礁だった。
遊泳禁止のそこならば、さすがに静かだろうという希望的観測から指定したのだが、残念ながら海を見にきた人で、そこもやっぱり騒がしかった。
一時間半も早く着いてしまって、スマホを眺めるでもなくベンチに腰掛ける。
岩礁に打ち寄せる青いうねりと、遠くまで続く同じ色の空が、練習を思い出させて、懐かしいような、苦しいような、いろいろな感情を思い起こさせた。寄せては返す、あの波みたいに。
「早すぎじゃないですか?」
苦々しさを感じながら海を見ていたら、突然後ろから声をかけられた。
耳に心地よいソプラノボイスに聞き覚えはなくて、不審感を募らせて振り返れば、そこには小さく手を振る少女がいた。
染めているのだろうか?シルバーピンクの髪が、一番最初に目に留まる。ゆるく内側にカールのかかったミディアムヘアは、鮮烈に花をイメージさせる。
彼女の瞳は、おれがさっきまで眺めていた海より、なお蒼く。
首元には、暑いのにもかかわらず、薄い白のストールが巻かれており、足に至っては、真っ黒なブーツに包まれていた。
全体的に季節外れでちぐはぐなファッションを、目の前の少女はその愛らしい顔立ちと、人形じみたスタイルと雰囲気で、完璧なまでに着こなしていた。
「えっと」
「あ、ごめんなさい。私……シキです」
「なんで、おれのこと」
「えー、なんとなく、かな?」
おれの待ち人だったらしい美少女は、豪胆にも顔も知らないおれに話しかけたようだ。
待ち合わせには早すぎて、まだどんな服を着ているかも連絡をしていなかったのだから、勘の鋭さというか、引きの強さにおれは酷く驚いた。
「あー、一応、初めまして」
「はい。初めまして」
彼女が微笑むと、花びらが舞うようだ。もう、とっくに夏なのに。
おれは彼女の美しさに見惚れる……というよりは、その非現実感にどこかぼんやりと、自分たちを外側から見ているような気分になっていた。
「来てくれて、ありがとう。嬉しいよ」
「ううん。私も、会ってみたかったから」
冷静に考えてみれば、掲示板のチャットだけの関係だった相手が、実際に会ってみると偽りなく女性で、かつこれほど可愛らしい……という事態、実はとんでもなく珍しいことなのではないか。
おれは、会う前には感じていなかった緊張をやにわに感じて、シキから目を逸らした。
「あの」
「……なに?」
「疲れちゃったって、言ってましたよね」
それは、オフの提案をする前に、おれが彼女にぽつりと漏らした言葉を、持ち出される。
おれは少しだけ黙って、今度はシキをちゃんと、見つめた。
「うん」
「よかったら、聞かせて。どんなことでも」
ひとつ、ひとつ、またひとつ。
シキに促されるまま、おれは自分の心の奥底に溜まった澱みを掬って、言葉に変えていった。
「勉強うまくいってないのは、前に言ったと思う。でも、なんか、それだけじゃなくて」
「おんなじ部活の親友との、仲とか」
「クラスでのみんなの雰囲気とか」
「将来やりたいことが、わかんなくなっちゃったこととか」
「……母さんの、こととか」
ぽろり、ぽろり、欠けた心のカケラを零すように。
おれはシキに、抱えきれなくなった重石の話をした。
「それで、おれ、なんかさ」
「もう……どうでもいいなって、思ったんだ」
疲れてしまった。それだけいえば、簡単なことだけど、その疲れを癒せる居場所がもう、今のおれには残っていなかった。
シキにこうして自分の弱みを告白できたことが、奇跡みたいなものだ。
「あの掲示板、おれは半年前から書き込んでるんだけどさ。おれが最初の頃、よく話してた人とか、仲の良かった人って、もう掲示板では見ないんだよ」
「……たぶん、潰れちゃったんだろうなって、本当のところはどうかわからないけど、ふっとそんなことが頭の隅に湧いてきて」
そうしたら、もうダメだったんだ。おれは、力なく笑った。
朝起きて一日に向けて足に力を入れることが、急に怖くなっていた。
楽しかった教室でのひと時が、いつの間にか息苦しいものに変わっていた。
なにより、おれは母さんのことが。
「だから、おれ、今日はさ」
「それ以上は言わないで。言わないでください」
蒼い瞳が、まっすぐおれを射抜いている。
目の前の少女は、出会ってからずっと崩さなかった微笑みを、真剣なものに変えていた。
「ねえ、ほんとうに、それでいいの?ううん、この言い方じゃ、失礼ですね」
「後悔、してない?あなたの、本音を教えてください」
シルバーピンクが潮風に揺れる。
おれとチャットで愚痴を言い合い、雑談の中で互いを肯定しあっていたシキが、たぶん、おれを否定していた。
「本音も、なにも、おれは」
「だめ。簡単に、選べる道じゃないですよ、『それ』は」
ぎゅ、と。彼女はおれの両手を包むように握った。
おれが、決定的な言葉を紡ぐことを、シキは許してくれない。
「なんでもいいんです」
「来月の予定でもいいし、来週発売される漫画のことでも、明日の晩御飯のメニューでもいい」
「『今』よりも『先』のことに、わずかでも未練や、心残りや、希望や、なんでもいいですから、思うところがあるなら」
「今日で終われるわけ、なくないですか?」
形のいい唇を引き締め、彼女はおれが『逃げる』ことを認めてくれないようだった。
「じゃあ」
「どうすれば、いいんだよ……」
「どう、生きてけば」
「どうやって、頑張ればいいんだよ……!」
思わず、絞り出すように声を荒らげ、シキの手を振り払う。
おれの中を覗いてくる、紺碧の瞳から視線を外して、精一杯彼女を拒絶した。彼女の言葉を拒否した。
「だから、本音を聞かせてくださいって、言ってるんです」
「自分の向いてる方向がわからなくなっちゃって、どうしようもなくなって、もがいて、逃げて、救われたくって」
「それでも、生きてなきゃダメなんです。生きてないと、なにも始まらないんだから」
「前を向かなくてもいいから、また明日も生きているために」
「あなたの本音、教えてください」
おれを諭すようでいて、その声はとても、切実で。
彼女の方が、今にも泣きそうだった。
強く、強く、唇を噛み締める。
シキに泣きつくつもりだったのに、彼女に一緒に終わる道を選んで欲しかったのに、今はどうしても、目の前の少女の前で、涙をこぼしたくなかった。
「おれは……っ!」
なんで、こんなにこの子は強いんだろう。
おれと同い年で、おれと同じく悩みを抱えてて、それなのに。
シキは、おれにこんなにも力強く、『生きろ』と叫ぶ。
「母さんに、認めてほしい。おれが……」
「吹奏楽で、戦えるってこと」
「音楽で、生きてくこと……っ!」
部活はめんどうなことも、不便なこともたくさんあった。
でも、親友と奏でる音が、おれは好きだった。
これからも音楽と共にありたいと、親友がいなくても、吹奏楽と生きていきたいと、そんな青臭いことを思ってしまうくらいには。
それを『本音』と認めてしまうくらいには。
「じゃあ、あなたはこんなところで死ねませんね」
「まだ、奏でたい音も、たくさんあるでしょ?」
そう言って、シキはくしゃっと笑った。
その後は一言、二言会話をして、おれたちは別れた。
送って行こうか、と提案したが、彼女はやんわりと断って、去っていった。
おれの脳裏に強烈な印象を残し、おれの心を簡単に救っていった彼女に思いを馳せながら、おれも帰路に着く。
帰ったら、母さんと話をしようと思った。
それが終わったら、親友と音楽の話をするんだ。たとえ、うざがられても。
その後は……。
ふ、と足を止めてスマホを見ると、一件の通知が目についた。
『ごめんなさい!今日、急な用事で行けなくなっちゃいました……!』
ああ。
きっと「彼女」には、おれの「死季」には。
おれがずっと歳をとって、真っ白になるまで、もう……。
こぼれかけた涙を笑顔で隠して、おれはまた、歩き始めた。
fin.
"SHI"季とおれ りあ @hiyokoriakyo
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