第60話 朝がくるまで
「紫水さんって、寒がりなんですか? 全然そんなふうには……」
「見えない?」
光を透かす絹糸のような髪と乙女の持つ濡羽色とが重なりました。
「はい。どっちかでいうと、暑いほうが苦手そうに見えます。着込んでるところも見たことないですし、それに――――」
ゆっくりまばたきをする千鶴は、いまにも眠りに落ちてしまいそうです。
「それに……なんだい?」
「…………紫水さんは少し体温が低いから、そうかなあって思ったんです」
出会ったあの日、海辺で繋いだ手は、はじめに抱いた涼しげな印象のとおり、とりたててあたたかいわけではありませんでした。
それでも、疲れ果てていた当時は、大きな手に包まれているだけで、歩を進めるごとに積み重なっていた不安も疲労も、少しずつ消えてなくなっていくような気がしたのです。
「『体温が低い』、か。念のため、確認しておくけど…………。比較対象は、君自身……それ以外には、いないね?」
緊張を含んだ声と一緒に感じた吐息は、彼の体温からは想像もつかないほど熱く、夜気にさらされていた肌を擽ります。
「もちろんですよ。好き好んで、わたしに触れようとする人なんて……ひとりもいませんでしたから」
症状の出始め――伝染病の疑いをかけられていた当時――は、道を歩くだけで避けられるだけではなく、千鶴の通ったあとはしばらく人が寄り付かないといった有り様でした。
「
低く掠れた声の主は、千鶴が抱擁の許可を出す前から、身体を近付けてきています。
「……優しいのは、紫水さんのほうですよ。わたし、怖がりなだけじゃなくて寒がりだから……。朝がくるまで、あっためててくださいね?」
心身ともに寄り添おうとしてくれる紫水に胸を打たれた千鶴は、彼の首元に擦り寄りました。
「朝までとは、生殺しだなあ……。でも、滅多に頼み事をしてこない千鶴の願いだ。叶えてあげるとも。……ただし、途中で暑くなっても離してあげないよ。いいね?」
図らずも忍耐力を試されることになった紫水は、長い腕のなかに千鶴を閉じ込めてしまいました。
「望むところです」
「いい返事だ。……そろそろ訊いてもいいかな。千鶴はどうして、私を訪ねてきたんだい? 君の部屋からここまで来るなんて、よほどのことがあったんじゃないかと思うんだけれど」
「…………風が。……風の音が、人の声みたいに聞こえて……。すごく、不気味で……」
千鶴は、胸の前に放っていた手を握ります。
「うん」
短い相槌に込められた慈愛の深さを、一体誰が正しく測れたでしょうか。
「布団被って、やり過ごそうとしてたんですけど、布団被ってからのほうが風の音が大きく聞こえるようになっちゃったんです。幻聴だったのかもしれないんですけど、怖くて……。いつまでも寝付けないし、ひとりでいたくなくて、ここまできちゃいました」
「風の音か……。気にしたことはなかったけれど、意識してみると、確かに不気味だね」
「すみません。こんなことで…………」
「千鶴にとっては『こんなこと』じゃないんだろう。気にすることはないよ。……私はむしろ、君が頼ってきてくれて、嬉しいんだから」
真相を知った紫水は、薄い耳に直接、想いを乗せた言葉を吹き込んでいきました。
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