第3話 見えず、言えず、聞けず、知れず


 買い物をする際、気をつけなければならないことはいくつかある。

 まず何よりも優先すべきなのはセール品だ。これはマストである。半額だろうが一割引きだろうが兎にも角にも安さは正義。これを買うほかに選択肢はない。これが第一。

 第二に、理想の商品を手に入れるため、店のホームページやチラシ広告に記載されているセール情報を目を皿にして観察し、その時々の状況に合わせて臨機応変に情報を取捨選択するのも重要である。無論、より安いものを買い求めるために複数の店舗で一連の流れを行う。その後、お財布と相談だ。ここでポイントなのは先にお財布と相談するのではなく、目ぼしい商品を見つけた後で懐事情を鑑みることである。なぜなら情報を取捨選択するよりも前に限度額という制限が頭の中に存在してしまうと無意識的にセーブがかかり、望むと望まざるとに関係なく事前情報の段階で有益なセール品を見逃がしてしまうからだ。

 第三は時間帯だ。一般的に、スーパーでタイムセールが始まるのは午後六時以降であることが多い。昼間に売れ残った商品をはけさせようと店側が割引シールを貼り、仕事帰りのくたびれた会社員やセール品に飢えた主婦が血眼になってそれらを奪い合う魔の時間帯だ。はっきり言って、六時以降のスーパーは戦場である。ごった返す人並みの中、幾度どなく伸ばされる他人の腕を掻い潜り、商品棚に陳列されているお宝を己の力で奪取しなければならない。もちろん敵も生半可ではない。特に、歴戦の主婦の動きはもはや人のそれを凌駕している。猛者と真っ向からやりあえば、争いに勝っても負けても這う這うの体になるのは必至である。

 だが――

「ペッキーがさんて~ん……ポリッツがさんて~ん……」

 日曜の午前十時なら、スーパーはそこそこ空いている。

 客足はまばらで店を巡回する店員の数もピーク時とは比べ物にならない。歴戦の猛者の姿も見えないので、俺は悠々と目当ての物を購入することができた。

「フェンタグレープがにて~ん……フェンタオレンジがにて~ん……」

 まだ眠いのか、目の前に俺という客がいるにも関わらず、金髪のレジ店員はあくびをかみ殺しながら商品のバーコードを読み取っていく。

「え~、お会計は三千十二円になりまぁ~す」

 おっ。縁起がいい。俺の誕生日と同じじゃないか。

「ポイポイでお願いします」

 俺はポケットからスマホを取り出し、液晶画面に映し出されたQRコードを読み取って電子マネー決済を行う。現金で支払うよりもお手軽だし、何よりポイントが還元されるのでお得だ。これが第四の注意事項である。

「ありやとやっした~」

 店員からの謎の呪文を聞き流しつつレジ傍の台へ行き、購入した商品をマイバッグに詰めていく。お菓子やらジュースやらを買っただけにしては高くついたが、弟と妹たちのことを思えばこれくらいどうってことない。それに、先週は謎部の活動が忙しくて園には行けなかったからな。二週分だと考えればむしろ安い方だろう。

 諸々の作業を終え、俺は店を後にする。二リットルのジュースが二本あるためバッグはずしりと重い。ここから園までは徒歩で十数分かかるのでちょっとした重労働だ。

 道すがら、何とはなしに考え事をする。今日の晩ご飯や、今後の謎部の活動方針や、そこで知り合った連中のことなど、脳裏をかすめてはすぐに消えていく思考をぐるぐると巡らせる。曲りなりにも探偵を生業とする者として日頃から研鑽を積んでいる、わけではない。暇があればあれこれ考え事をするのは俺の昔からの癖だ。

 考え事は良い。なにせ金がかからないうえに、いつまでも時間を潰すことができる。最高のひとり遊びだ。

 考える事柄は何でもいい。例えば、すれ違う人の背格好からその人の職業を推測したり。例えば、世界には犬派と猫派どちらの人口が多いのかを予想したり。例えば、ちょっとした重労働という表現は果たして適切なのかどうかを想像したり。

 どうして人の血管は青く見えるのか。どうして夢は起きたらすぐに忘れてしまうのか。どうして黒崎くろさき先生は飛ケ谷ひがやに二千円をあげないのか。……最後のは、本当にどうしてだろうなぁ。

 大方、教師が生徒に現金をあげるのは倫理的にうんぬんということなんだろう、きっと。そういうことにしておこう。

「にしても、あっついな……」

 ひとまず思考をよそに置き、俺はいったん意識を現実に引き戻す。

 春も終わりかけの今日この頃。いよいよ夏に片脚を突っ込んでいるせいか、五月下旬の福岡はうだるように暑い。

 たかだか十数分の移動が無性にきつい。単純にバッグが重いというのもある。園に向かうときの足取りはいつも軽いのに、今日は暑さにやられて歩みが遅くなっている。

 俺は首やら背中やらに玉のような汗をかきつつゆっくりと歩を進める。すると、大濠おおほり公園に差しかかった。

 大濠公園とは、福岡市中央区にある県営の都市公園だ。周囲が約二キロメートルもあり、国の登録記念物にもなっている結構すごい公園である。大きな池を持っているのが特徴で、池を貫くようにしていくつかの島が点在し、それぞれが橋でつながっているため中央部を経由して池を渡ることもできる。近場には美術館や放送局があり、花見の名所にもなることから福岡市民の憩いの場として親しまれている。かくいう俺もここはお気に入りの場所だ。

 流石にこの時期だととっくに桜は散ってしまっているが、それでも緑は豊かで自然があふれている。日曜なだけあって、朝から公園を訪れている家族連れは多い。

 せっかくだ、ちょっとベンチで涼もう。いやしかし、園まであと数分だから頑張るべきだろうか。結局はそっちの方がゆったりと休憩できそうだ。それにジュースもある。長時間暑い場所に置いておくのは良くない。

 よしっ。

 休憩をしないことに決め、俺は池の形に沿って曲がる歩道を行く。できるだけ木陰を選ぶのも忘れない。大濠公園を抜ければ園は目と鼻の先だ。

 そんな折、ふと、見覚えのある黒髪が目に入った。

「ん~、んん~」

 見覚えのある黒髪、という表現もどうだろう。日本人の多くは生まれつき黒髪だ。ゆえに髪を染めでもしなければ長さや髪型以外に差別化を生み出すのは難しく、「黒い髪」という無個性の特徴からだけでは個人を特定することは非常に困難である。

 だというのに、俺はそれが彼女だと一瞬でわかった。

 彼女の黒髪は、明らかに他のそれとは一線を画している。

「んんっ、んん~ん~」

 黒よりも黒いセミロングの髪を靡かせ、気持ちよさそうに鼻歌を歌う女の子。鼻歌につられたのか数羽の野鳥が彼女の傍に群がっている。その様は神秘的なまでに美しく、まるで彼女が池に住まう女神か木に宿る妖精のようにさえ見えた。

 俺はその絵画のような一場面に、昔の人はこういう光景を見て女神や天使なんていう上位存在を描いたんだろうな、とぼんやり思う。が、顔にはおくびにも出さない。こいつにその心情を知られるのが絶対に嫌だからだ。

「ん~、ん~ん…………おや? 意外な巡り合わせだね」

 美しい旋律を奏でていた鼻歌が止まる。こちらを振り向いた彼女の頭には鳥が一羽ちょこんと立っていて、なんというか、いかにも間抜けだ。

「……よお」

 不本意だが、知り合いと目が合って挨拶もしないほど俺は薄情じゃない。適当に手を挙げ、適当な言葉をかける。

「今日の正座占いは六位だったんだけど、その結果がこれなのかな。……うん。なかなかどうして、馬鹿にはできないね」

 と、よくわからない独白を呟いた彼女はベンチから腰を上げ、真っ直ぐ俺の方に向かってくる。頭上の鳥は据え置きだ。なぜ逃げない。野生を忘れるな、野鳥。

 ピピピピと何事かを囀る音がしだいに大きくなる。彼女が俺から数歩離れたところで立ち止まるとついに鳥は羽ばたいていった。

 そして、

「やあ。奇遇だね、明日見あすみくん。奇跡とは、呼ばないけれども」

「当たり前だ。この世に奇跡なんてものはないからな」

 彼女――警凛護けいりんごは、わずかに口許をほころばせた。

 朝の挨拶にしては夢のない会話だが、俺と警のやり取りは大抵こんなものだ。意味があるんだかないんだかわからないことを宣う奴に対し、俺が心底投げやりに返事をする。俺たちは仲睦まじく会話をしているようでその実どちらも相手に言葉を向けていない。これが俺たちのディスコミュニケーションだ。

 俺と警との関係を簡潔に述べるなら、それは「中学生の頃からの腐れ縁」となる。もっと詳細に述べるとすれば、それは「同じ学業特待生仲間」となる。旗雲学園に導入されているいくつかの特待生制度のうち、学年のなかで最も学業に秀でている男女一名ずつのみに与えられる学業特待生の立場。俺と警はそれを分け合う仲なのだ。

 警は目を細める。

「久しいね。いつ以来だろう。一昨日ぶりかな」

 その通り。だからまったく久しぶりじゃない。こいつは何を思ってこういう発言をするのだろう。不思議でならない。

「金曜は普通に学校だからな。そりゃどっかで会ってるさ」

 俺はそう気安く返す。警相手には配慮も遠慮も必要ない。だってこいつ、俺の話なんて毛ほども聞かないし。

 俺たちのクラスは異なるが、特待生という括りで事あるごとに学校から招集をかけられるため接する機会は多い。だが、かといって仲間意識が芽生えることもなければ、こいつにだけは負けたくないと対抗意識を燃やすこともない。ゆえに俺たちは互いに学を修めんとする友人とも、しのぎを削りあうライバルともつかない微妙な関係を続けている。

 警が俺の右手にあるバッグを指さした。

「重たそうだね。どこへ行くんだい」

 隠すことでもない。素直に答える。

正心せいしんこども園に行くんだ。俺の生まれは警も知ってるだろ」

 普段は公にはしてないが、以前、話のはずみで警にはいろいろと俺の出生について教えたことがある。正心こども園もその一つだ。園は俺が育った場所で、数か月前まで実際に住んでいた。今は幸良こうらを筆頭に俺の弟妹たちが育代いくよ先生と一緒に暮らしている。

 ちなみに育代先生とは俺や幸良の保護者であり、育ての親であり、命の恩人だ。

 警はぴくりとも表情を変えずに言う。

「そうか。つまりそれは子どもたちへのプレゼントってわけだね。重たいはずだ。なにせ袋いっぱいの愛が詰まっているんだから」

 ぐっ……。相変わらず恥ずかしいことでも平気そうに言う奴だ。まあ、俺の事情を知ってなお、態度も対応も変えないマイペースさだけはありがたくないこともない。もしくは俺にいらぬ負担をかけないように警なりに気を遣ってくれているのだろうか。

 ……こいつが? まさか。俺の考えすぎだ。

「というわけで俺は急ぐ。じゃあな」

 無駄話をしている暇はない。愛すべき家族が俺を待っているのだ。

 挨拶もそこそこにして警の横を通り過ぎようとする。が、腕を掴まれた。……なんだよ。

「つれないことを言うじゃないか。私を付き合わせておくれよ」

 警の声は明るい。社交辞令で言っているのではなく、進んでそう提案したのだということがわかった。警は渡り鳥のように気まぐれだが、こういう一面も持っていたりする。

「いや、悪いから」

 俺は言葉少なに断る。誘いは普通にありがたいし、その気持ちも嬉しいのだが、警を弟たちに会わせると変な影響を受けそうで怖い。

 あいつらには真っ直ぐ育ってほしい。警に見習えるところがあるとすれば、それは頭の良さと幾ばくかの優しさだけだ。その二点を除いた警はとてもじゃないが真人間とは言えない。

「ううん。悪くないよ。というより悪いのは君の方さ。こんな美少女に出会っておいて、ほったらかしにしようとするんだからね」

「また馬鹿なことを……」

 おしゃれ着を見せびらかすようにくるりと一回転する警に、俺はやるせなく嘆息する。

 警の装いは、透明感のある真っ白なブラウスに膝下までの真っ黒なフレアスカートという爽やかなものだ。開かれた胸元を彩るシルバーネックレスや、素足に履かれたクロスストラップのサンダルがいかにも涼しそう。

 楚々というかお淑やかというか、お嬢様然としているのはなにも服装だけではない。くるんと鮮やかなウェーブを描く長い睫毛。その下に横たわる物憂げな瞳。儚い印象を与える色の薄い唇。そして、天地開闢以来の華麗な黒髪は筆舌にしがたい。警凛護の実態を知らない人が見れば彼女はまるで深窓の令嬢のように映るだろう。

 しかしその中身は……。

「今朝は寝覚めが良くてね。朝にしたシャンプーの泡立ちも申し分なかった。朝食はいまいちだったけれどそれもまた良し。でも、占いは微妙でね。だから散歩をしたかったんだ。最初は家の近くを歩くだけのつもりだったけれど、ふと鳥たちに呼ばれたような気がしてはるばるここまで来たってわけさ。とはいえ、用がないんで暇していたところだよ」

 本当に何を言っているのだろう? シャンプーとか占いとか鳥に呼ばれたとか脈絡がなさすぎる。要点は何だ。

「だから悪くないってことさ。さあ、行こう」

 言って、警は歩きだす。もう俺が何を言っても聞かないだろう。

 こういうときの俺の判断は早い。一にも二にも諦めることだ。俺の負け犬根性を舐めないでほしい。それに、考えようによってはボランティアを一人獲得したわけだからマイナスではない。無料というのは何を置いても優先される。弟たちへの影響は、俺が阻止すればいい。

「道、わかるのか?」

 俺は彼女の後を追う。警は体を半分だけ振り返らせて手を伸ばした。

「さあね。君が隣に来てくれれば、もっとはっきりするんだけれど」

 口の減らない奴だ。持って回ったセリフばかり言いやがって。

「素直にわからないって言え」

 足を速めて追いつく。伸ばされた彼女の手にバッグの持ち手を片方乗せる。この気遣いまで断るのは、流石に俺が不躾だ。

「そうだね。君も素直になったら考えないこともない、かもしれないよ」

 うぐっ……。人の悪い所ばかり言っていたら自分に返ってきた。たしかに俺も礼儀を欠いていたかもしれない。

「……ありがとな」

「うん。どういたしまして」

 そんなこんなで、俺たちは連れ立って正心こども園を目指す。何がどうしてこうなったかは知らない。たぶん、星の巡り合わせが悪かったんだろう。さっき警も星座占いがどうとか言ってたし。

「そういえば明日見くん、こんな話を知っているかい。かの家康公が今川家で十年以上も人質生活をしていたときのエピソードなんだけれど――」

 考え事は最高のひとり遊びだが、二人以上のときはろくに遊べないという難点がある。隣に警がいるともなればなおさらだ。

「ああ。うん。それな」

 湯水のように溢れてくる警の無駄雑学をあしらいながら、俺はほんのちょっと軽くなったマイバッグを持ち直す。

 いつの間にか、暑さは少しだけ和らいでいた。


×  ×  ×


 数分後、俺たちは正心こども園に辿り着いた。

 住宅街から一つ二つ道を外れ、雑木林に囲まれた細い道を抜けた先にあるだだっ広い敷地。そこにぽつんと陣取っている建物こそ我らが正心こども園である。

 園は全体的に角ばった風体で、二つの大きな丸窓とその下にちょこっとついている三角窓が合わさると建物に顔がついているように見える。通称、「四角だるまくん」だ。

「へえ。こんなところにあったんだね」

 背伸びをして、警は物珍しそうにきょろきょろと辺りを見渡す。といっても、敷地内にあるのは園そのものと小さな砂場とみすぼらしい体育館だけで警の興味を惹きそうなものはない。殺風景と言われればその通りだが、質素倹約の産物だとする見方もできる。

「ちょっと外れた場所にあるからな。近所の人でもここを知らない人はそこそこいる」

「素敵なところだね。気に入ったよ。特にあの『シミュラクラ現象ちゃん』は最高だ」

「ちがう。『四角だるまくん』だ」

「そうかい。なら、そうなんだろうね」

 などと、毒にも薬にもならない問答を繰り広げつつ敷地内に足を踏み入れる。防犯として、関係者以外が簡単には入れないよう普段からスライド式の鉄扉が閉まっているが、元住人である俺には鉄扉横にある関係者用出入口のドア鍵が渡されているので出入りは容易だ。警も俺の後に続く。

 ちょうどそのとき、玄関から一人の少女がてくてくと出てきた。

「おおっ。純恋すみれじゃないか。お~い」

 俺は学校では絶対に見せないであろう快活さでもって純恋に手を振る。横で警が目を丸くしているのが少し面白い。

「あっ。かいくん、ほんとうに来たんだ……」

 対して、我が愛すべき妹の一人である明星みょうじょう純恋は俺の顔を見るや否や渋面をつくり、うへぇっと口を歪めた。小学五年生の童顔には似合わない皺が目元に寄る。

 うむ。そんなところもすこぶる可愛い。

「もちろん来るさ。お兄ちゃんだからな。本当はまだ一緒に住みたかったんだが食費とか通学のことを考えると寮の方が都合が良くてな。寂しいだろうけど頑張って耐えてほしい。離れているからこそ深まる愛もあるだろう。そういや純恋、最近どうだ? 学校でなにかあればすぐにお兄ちゃんに――」

「や、そういうのいいから。恢くん話長いし」

 ばっさり。

 取りつく島もないとはこのことだ。う~ん、純恋は相変わらずクールだなぁ。最近やたらと俺に冷たいし、誕生日プレゼントも純恋だけ俺にくれなかったし……。まあ、そういう奥ゆかしいところが純恋のいいところでもあるんだけど。

「それでその人は……」

 俺の言葉をずばっと切り捨てた純恋はちらと警の方に目をやる。が、すぐに視線を俺たちの間に滑り込ませた。そこには俺と警とを繋ぐマイバッグがぷらついている。

 俺は咄嗟に警からバッグを奪い取った。

「おや?」

 警が突如空いた手をしげしげと見つめる。無礼極まる行いだが、妹の前でそんなことに気を配える俺ではない。すまん、警。礼は必ずこの後でするから。

 続けて俺は何事もなかったかのように警を紹介した。

「そうそう。こいつは警っていってな、平たく言えば俺の同級生なんだ。たまたま公園で会ったんだが是非ともみんなと遊びたいって言うから連れてきたってわけ。純恋たちが嫌だってんなら申し訳ないけど帰ってもらうことも全然できるから心配は――」

「だから長いって。あと、そんな失礼なことしちゃだめだよ。バッグ、一緒に持ってもらったんでしょ。ちゃんとお礼は言ったの? 無理させたんじゃないの?」

 はーあ、と純恋は肩をすくめる。やけに堂の入った仕草だった。

 ……なんだろう、この感じ。可愛い可愛い純恋なのに、なぜか育代先生と話すときみたいな緊張感がある。いつの間にこれほど成長したのか。

「お礼は、言った。無理はさせてない……と思う」

 思わず返事がにぶる。その自信のなさを突かれ、純恋の声が一層厳しくなった。

「そんなだから恢くんはだめなんだよ。すぐに調子乗っちゃうし純恋たち家族以外に無頓着だしお金にがめついし。心配してくれるのは本当にありがたいけど度を超すと素直に感謝できなくなっちゃうよ」

「や、その、それはだな……」

 俺はなんとか弁明を試みる。しかし純恋は止まらない。

「それに、いま警さんにしたことだってかっこわるい。育代おばあちゃんがあんなの見ちゃったら恢くん勘当一歩手前だよ。純恋、かっこわるい恢くんなんて見たくないな。だから、あとはわかるよね?」

 可愛い妹にガチで叱られ、もう俺のメンタルはぼろぼろだった。俺はもはや涙目でしゅんと頭を垂れる。

「あ、はい、わかります。すみませんでした……」

「ううん。わかってないよ」

 …………。

 姿勢はそのままに俺は体の向きを変える。もちろん、警の方へ。

「ここまでバッグを持っていただいて誠にありがとうございました。つきましては、最後に私めが働いてしまった無礼について、心からの謝罪を送らせていただきたく思います。……申し訳ありませんでした」

 場の雰囲気に呑まれたせいか、警への謝罪が若干堅苦しくなってしまった。それだけに、俺の意志とは反して逆にふざけているかのようにも見える。果たして警はこれをどう受け取るのか。

 警は笑顔で黒髪をさらりと撫でつけた。

「別にいいよ。どうでもね」

 こいつ!

 無意識的に反発の声が出かける。が、俺はすんでのところで自分の口を塞いだ。悪いのは間違いなく俺なのだ。これ以上、恥の上塗りをしてたまるか。

 こうして俺の罪が清算され、ようやく一段落がつく。はあ……。まだ着いたばかりなのにどっと疲れた。

 肩を落とす俺の傍で純恋と警が言葉を交わす。身長は警の方がわずかに高い。

「さて、あらためて自己紹介だ。私は警凛護。よろしくねスミスミ」

 差し出された警の左手を純恋はぎゅっと握った。

「はい。よろしくお願いします警さん……って、スミスミ?」

「そうとも。だって明日見純恋ちゃんだろう? だったらあだ名はスミスミしかない」

 途端、純恋の頬が朱に染まる。

「なっ、あっ……ち、ちがいます! 恢くんと純恋は結婚してなくて……っていうか純恋はまだ結婚できる歳じゃなくて……。と、とにかくちがうんです!」

 う~む。慌てふためく姿ははちゃめちゃに可愛いが……妹よ、何か間違ってないかそれ?

「ああ、ごめんね。そういう意味じゃなかったんだけど、混乱させてしまったかな? 私はスミスミと明日見くんが兄妹だと思ったからそう言ったんだけど……どうやら私の勘違いだったらしい。余計なことを言ったね。気を悪くしないでおくれ」

 ぼっ。純恋の顔が一瞬で真っ赤に染まる。

「っ~~~! す、純恋こそごめんなさい! ちょっと、あの、盛大な勘違いをしちゃったみたいで……! お、お恥ずかしい限りです……!」

 そして純恋は小さな両手を精一杯に広げて赤い顔を覆い隠すのだった。

 は? なんだこの天使? 最上か?

 さきほどまで大人顔負けの詰め方をしていた純恋だが、ひとたび皮が剝がれれば年相応の初心な女の子である。男女の苗字が同じならそれは夫婦にちがいないと想像するなんて、いかにも思春期真っ盛りといったところだ。

 一方、はわわと焦る純恋を前にした警は、

「ふうん……なるほど、ね」

 と、意味深な笑みを浮かべていた。

 何がなるほどなのだろう。いまのやり取りから察せられることなんて、純恋の人智を超えた可愛さしかないというのに。

 ま、警の真意を考えたところで徒労に終わるだけだ。俺は無駄な詮索はしない。

 警から純恋へと視線を移す。と、純恋の手には見覚えのある包みが提げられていた。デフォルメされたネコがプリントされた包みだ。あれは……。

「幸良の弁当か、それ?」

 純恋は思い出したようにはっと声を上げた。

「あ、そうだ。純恋、いまから幸良お姉ちゃんにお弁当を届けなくちゃいけないんだった」

 幸良よ、また弁当を忘れたのか……。

「なんだっけ。たしか、敬老会の集まりで公民館に行くっつってたか」

「うん。育代おばあちゃんの付き添いで幸良お姉ちゃんも今日は朝から出てるんだ。でも幸良ちゃんだけお弁当を忘れちゃってて……」

 もう何も言うまい。おっちょこちょいな部分も幸良の魅力なのだ。

 俺はスマホで時間を確かめる。時刻は午前十一時半。もうすぐお昼時だ。

「なんなら俺が持っていこうか。公民館の場所もわかるし、純恋ひとりで行かせるのも心配だし」

 言うと、純恋はぷくっと頬を膨らませた。

「こども扱いしないで。もう五年生なんだからこれくらい楽勝だよ。恢くんは園でみんなと遊んでて。あと、今日はおばあちゃんの代打で育美いくみお姉ちゃんが来てくれてるからちゃんと挨拶しなくちゃだめだよ」

「はいはい。わかったわかった」

 申し出を断られ、俺はふっと小さく息を吐いた。

 背伸びしたいお年頃なんだな。うんうん。俺も純恋くらいのときは年上の言うことにあれこれ反発してたからな。わかるわかる。

 純恋は警に向き直り、ぺこっとお辞儀をする。

「それじゃあ警さん、純恋はここで失礼させてもらいます。またお会いしましょう」

 続けて、俺に向けて矢継ぎ早にまくし立てる。

「お昼ご飯は向こうで食べるから気にしないで。園に帰ってくるのもおばあちゃんたちと一緒にするから心配はいらない。たぶん、三時には帰ってこられると思う。それまで恢くんは帰っちゃだめだからね。絶対に待っててよ。絶対だからね」

 そして、純恋はとことこと園を出て行った。なかなかの勢いだ。ああいう他人の心配ばかりして口数が多くなるところは、いかにも育代先生っぽい。優しさと厳しさの共存だ。そう思うと、純恋の将来が楽しみでもあり怖くもある。まあ、大切に見守っていこう。

 俺がそんな風に考えていると、警は顎に人差し指を当て、こんなことを呟いた。

「スミスミは明日見くんを『お兄ちゃん』とは呼ばないんだね」

 言われて、思い出す。そういえばそうだ。

「たしかにそうだな。でも、それがどうした?」

「ん。いや、幸良や育美って子には『お姉ちゃん』をつけていたからどうしたのかと気になってね。けれど私が気にすることでもなかったみたいだ。明日見くんは、気にした方がよさそうだけれども」

 なんじゃそりゃ。

 やはり警の考えていることなどこれっぽっちもわからない。わかろうともしない。

 俺は警を置いて歩き出す。

「早く中に入るぞ。もうすぐ昼飯の時間だ」

「私もお呼ばれしていいのかな。恢お兄ちゃん」

「次それ言ったら叩き出してやる」

「それは残念。なら、次の機会は育代おばあちゃんが帰ってきた後にしよう」

「…………」

「んふふっ」

 くそっ。笑うんじゃねぇ。だから俺は嫌だったんだ。こいつをここに連れてくるなんて。

「ちっ」

 俺は舌を打ち、天に輝く魚座を恨みがましく睨みつける。

 まあ、まったく見えないんだけど。


×  ×  ×


 正心こども園は、言ってしまえば児童養護施設だ。

 元住人である俺を含め、いまも正心こども園で暮らしている幸良や純恋といった八人の少年少女たちはそれぞれの「家庭の事情」があったために本来の家を失い、紆余曲折あって、ここに流れ着いた。

 その「家庭の事情」が何なのかを詳細に明かすことはできない。家庭の事情は家庭の事情だ。各々の人生にいろいろあったのだ。だから、施設で育った俺たちは「九人きょうだい」ではあるもののそこに血の繋がりはない。俺や幸良や純恋の苗字が異なるのは、そういう背景があるからである。

 そんな俺たちを懸命に育ててくれているのは、正心こども園の園長である千歳ちとせ育代先生だ。先生は七十をゆうに超える年齢だが心身ともに若々しく、ともすれば孫の育美さんよりも頑健かもしれない。そんな先生のことを、園で暮らすみんなは親しみを込めて育代おばあちゃんと呼んでいる。俺は、恥ずかしいから呼んでいない。

 育美さんとは、育代先生の孫にあたる人で俺たちの姉のような存在だ。現在大学三年生で地元の国立大学に通っている。その性格は先生とは真逆でおっとりしていて天然っぽい。そんな育美さんのことを、園で暮らすみんなは親しみを込めて育美お姉ちゃんと呼んでいる。俺は、恥ずかしいから呼んでいない。

 あまり一般的ではない境遇の俺たちだが、しかし、だからといって自らの運命を嘆いてばかりではない。血よりもはるかに濃い縁で結ばれた家族とともに、毎日を明るく楽しく騒がしく笑って過ごしている。

 その証拠に、建物内に入った俺と警はまさに台風の目となって周囲に笑顔を与えた。

 まず、大量のお菓子とジュースを持参した俺たちは熱烈な歓迎を受けた。

「にーにだ! にーにきた!」

「えっ、にぃきたの? わっ、ほんとだ!」

「やった! 兄ちゃんきた! おかしおかし!」

「うちペッキーも~らい」

「えーそんなのずるいよ! はんぶんこはんぶんこ!」

 次に、園のみんなに警を紹介すると爆速で気に入られた。

「おねえたんはだれー?」

「あたし知ってる! 彼女ってやつだよ!」

「かのじょって?」

「さあ? でもきっとそうだよ!」

「きゃはは。かのじょだかのじょだ」

 さらに、並んで食卓を取り囲んだ俺と警は育美さんから怒涛の質問攻めにあった。

「ご飯のお味はどうかしら? 凛護ちゃんのお口に合えば良いけど」

「それで二人はどういう関係なの? 詳しくお姉さんに教えて」

「将来設計は考えているのかしら? 学生のうちからしっかりしないとだめよ」

「具体的にはどこまで済ませてるの? 恢ちゃんは奥手だから、いざってときは凛護ちゃんがリードしてあげてね」

 最後に、天清なんかとは比べものにならないほどの圧倒的な活発さで、俺と警は子どもたちにしっちゃかめっちゃかにされた。

「にーに! あそぼあそぼ! ボールなげ! ボールなげ!」

「ちがう! にぃはおままごと!」

「うちはお姉ちゃんといっしょにお絵かきしたい!」

「おねえたんみてみて、どぉだんご」

「ザリガニ釣りしよう! バケツもってくる!」

 普段は一緒に遊べない俺と警の取り合い合戦。それはまさに戦場の最前線だ。セール時のスーパーなど足元にも及ばない無法地帯である。

「はやく! はやく! こっちきてにーに!」

「もう! だからにぃはこっちだってば!」

「どうこれ! すっごくきれいに描けてるでしょ!」

「おねえたん、といれ」

「カエル捕りしよう! バケツ持ってくる!」

 あちらを立てればこちらが立たず。こちらを構えばあちらが構えず。ちょっと目を離せばそこかしこでケンカが勃発し、目を離さずとも言っていることが一瞬で変わるので対応が追いつかない。けれど子供たちの破天荒っぷりは収まるところを知らず、俺たちを底なし沼へとどんどん引きずり込んでいく。

「わ、わかったわかった! わかったからそう慌てるな。順番だ順番」

「あ、ええっと、髪を食べるのはやめてほしい……かな」

もう、俺も警も汗だくだった。泣き出したかった。それでも何とか必死に食らいついた。学年きっての秀才二人がこの体たらくだった。学校での成績など、若さの前にはほとほと無力だということを俺は今日学んだ。

 そして――現在。

「すぅ……すぅ……」

「く~……か~……」

 食後の昼休憩の時間となったことでようやく静かになった子どもたちの傍らで、俺と警は死体もかくやといった容態で床の上に転がっていた。

 こ、子どもの元気さを侮っていた……。まさかこれほどとは……。

 それになんというか、警がいるからか今日のは特に凄まじかった。一体全体、小さな体のどこにあれほどの元気を蓄えているのだろう。

「いやあ、はあ、しかし、これは、ちょっと、予想外、だった、ね」

 と、ぐでーっと床に横たわった態勢で盛大に息を切らす警。飄々としていない彼女の姿は非常にレアだが、そんなことにかまけている余裕はなかった。俺は天井を仰いだまま言葉を返す。

「わ、わるい。どうやら、滅多にない、お客さんに、はしゃいじまった、らしい」

「や、うん、元気なのは、何より、なんだけれど、ね」

 ふう、はあと深い呼吸で警の胸部が上下する。暑さで火照る彼女の表情はいやに艶めかしく、黒髪から覗く汗で濡れた首筋は扇情的だ。

 その様を「年頃の男女が床の上で激しく息を切らしては苦悶に喘いでいる」などと恣意的に書けば何やら官能的だが、実際はまったくロマンティックではない。現実は、精も根も尽き果てて使い物にならなくなった高校生二人がボロ雑巾のように寝転んでいるだけである。

 ああ、疲れた……。もう何もしたくない。いっそ、このまま俺も寝てしまおうか。

 その魅力的な案に脳をジャックされ、俺は目をゆっくりと閉じる。そんなとき。

「恢ちゃんも凛護ちゃんもおつかれさま~。お茶とお茶菓子を用意したから食べたかったらいらっしゃ~い」

 疲れた肉体に染みわたる甘い声が頭上から聞こえた。目を開けるとエプロン姿の育美さんがいる。日本人形のように精巧な顔立ちと、お団子ヘアにまとめられた白にちかい銀色の髪がアンバランスながら妙にマッチしている。つまり神話的に美人な女性だ。そして何より、平均からは大きく逸脱した胸の起伏は見ている者を狂わせる魔力を秘めている。

「早くしないとお茶が冷めちゃうわよ~」

 育美さんはにこにこ顔で俺たちを手招く。流石に普段から子どもらの相手をしているだけあってまだまだ元気そうだ。

 しかし、お茶とお菓子か。それはまたなんとも。

「……警」

「……だね」

 むくり、と死屍累々の体から俺たちは立ち上がる。天からの福音の如き申し出を受けて寝てなどいられない。お茶。お菓子。ああ! なんと甘美な響きだろう!

「うふふっ。それじゃあリビングに行きましょ~」

 すやすやと寝ている虎を起こさぬように俺たちは静かに部屋を抜け出す。リビングに着く。そして一服。

「は~……うまい」

「おいしいです。育美さん」

 急須で淹れられた熱いお茶を啜り、俺と警は感嘆の吐息を漏らした。

「よかった~。さ、お菓子も食べて食べて~」

 それが年下を可愛がる年長者の常であるかのように、育美さんは大量のお菓子を俺たちに勧める。ここに飛ケ谷がいたら大喜びしそうだ。

 俺はほどほどに、警は一つ二つ食べてまったりとした時間を過ごす。虎が目を覚ますまでの束の間の休息だ。

「育美さんはよく園に来られるんですか」

「ええ。あの子たちもまだ小さいし、おばあちゃんも結構な歳だから。大学が暇なときは来るようにしているわ~」

 警と育美さんは笑みを交えながら談笑する。今日が初対面の二人だが、何事にも大らかな育美さんにかかれば時間の長短など関係なく、二人はすっかり仲良しになっていた。ちなみに、育美さんが誤解していた俺と警との関係性については念入りに否定したおかげで無事に解けている。

「小さい頃の明日見くんはどんな子でしたか」

「ちっちゃいときの恢ちゃん? とっても可愛かったわよ~。すこーし偏屈さんだったけどそこがまたキュートなの。いっつも文句を言うわりにはおばあちゃんにべったりでね。あっ、凛護ちゃんアルバム見る?」

「ぜひ」

 おい、そこ。勝手に人のプライベート写真を披露するな見ようとするな。

「まってください育美さん」

 俺は立ち上がった育美さんを制止しようとする。が、俺がすべてを言い終わるよりも前に育美さんは何かを思い出したように動きを止めて、

「あっ、そういえば、お昼ご飯の後でお掃除してたら見つけたんだけど」

 と、エプロンのポケットから一枚の紙切れを取り出した。

 紙を受け取った警はその内容に目を通し、首を傾げる。

「これは……なんでしょう? 妙な文が書かれていますね」

 警の反応を見て、俺はなんとなくその内容に目星がついた。

 恐らくそれは――

「たぶん、だと思う」



「暗号、ですか……?」

 警は丸くなった目を瞬かせて首を傾げる。なぜそんなものが? と言わんばかりの表情だ。まあ、暗号なんていう言葉は日常生活でそう易々と触れるワードじゃないからその気持ちはわからんでもない。

 しかし、正心こども園で暮らしたことがある者にしてみれば、それは日常生活を象徴するものだった。

 事態が呑み込めない警に俺はざっくりと説明する。

「育代先生はよく俺たちに挑戦状を送るんだ。この謎を解いてみろってな」

 俺の拙い説明を育美さんが補足してくれた。

「うちの園は見ての通り裕福じゃないからゲーム機も変えなくてね。だからお金をかけずに長く遊べる娯楽をってことでおばあちゃんが昔からやっているのよ」

 たったそれだけの説明で、警は得心がいったように深く頷いた。

「へえ、そういうこと。要は謎解きゲームってわけだ」

 さすがは学年トップの才女。理解が早くて助かる。

「ああ。こういう紙が園のいたるところに隠されててな。先にそれを見つけた奴が謎解きに挑戦できる仕組なんだ。もちろん誰かと相談して解くのもオッケーだが、そうすると謎解きの報酬が減るから基本はひとりで挑むことになる」

「報酬って?」

「煎餅とかクッキーなんかのお菓子が一個だけ。あと、ごく稀に百円玉。これは超激レアだぜ」

「んふふっ。それはそれは、私もぜひ見てみたいものだね」

 子どもたちが百円玉をもらっている場面を想像したのか、警は微笑ましいもの見るような目つきでくすくすと笑った。

 さて、すっかり一段落ついたことだし、俺も育美さんの手伝いをするか。

 手始めに洗濯でも、と腰を上げたそのとき、育美さんが思いがけないことを口走った。

「この暗号をね、恢ちゃんに解いてほしいの」

 ……はい?

 俺は不意のお願いにたじろぐ。学校だと謎部の活動でよく謎解きを依頼されるが、まさかここでそんなお願いを聞くことになるとは思ってもみなかった。

「えっと、それはどういう……?」

 育美さんが豊満な胸の前でぱちっと手を合わせる。プルン。

「せっかく園に遊びに来てくれたのにごめんね~。でも、私どうしても気になるの。だってこの紙、いちょう教室にあったから」

 その言葉に、俺はただならぬ違和感を覚えた。

「え。でもあそこは」

「そうなの。ね、不思議でしょ」

「はい。気になりますね」

「だから調べてほしくって」

「……あの、すみません。いちょう教室というのは?」

 園の事情に精通している俺たちの会話についていけず、警が申し訳なさそうにゆるゆると手を挙げて尋ねる。

 それには育美さんが答えた。

「うちの教室には子どもたちが判別しやすいように『つつじ』とか『れんげ』とか花の名前をつけててね、『いちょう』もその一つで、そこはいま物置部屋になってるの。だから普段はまったく使わない教室だし、物が落ちてきたら危ないからって理由でおばあちゃんが十歳未満の子どもたちの出入りを禁止にしてるんだけど……」

 それで警も状況を把握したらしい。なるほど、と相づちを打つ。

「普通は入れない場所なのに、なぜかそこに育代おばあちゃんからの暗号が置いてあったわけですね。それは、たしかに気になりますね」

 俺も同意見だ。知恵比べをするには必ず対戦相手が要る。だというのに育美さんが見つけた暗号にはそれを解こうと奮起する相手がいない。これではせっかくの謎解きゲームが成立しないではないか。

 じゃあ、そこにはどんな意味が?

 ……わからない。調べてみないことには。

 育美さんが再び胸の前で手を合わせた。プルルン。

「私が解決できればいいんだけど、お洗濯とかお夕飯の準備で時間がなくって。それにこういうの恢ちゃん昔から得意だったから、ね? お願いしてもいい?」

 上目遣い。懐かしい匂い。包み込むような声。プルン。親愛なる姉からのお願い。

 こんなの、断れるわけがない。

「わかりました。精いっぱい考えてみます」

「ほんと? ありがとう恢ちゃん!」

 いまにもハグしてきそうな育美さんから逃げつつ、俺は小さく息をはく。

 今日は完全にオフのつもりだったが……仕方ない。素人探偵には公私などないということだろう。我ながら難儀な道を選んだものだ。

 しかし、恩義ある育美さんのためになるのならどんな苦難も俺の敵ではない。家族のためなら無償の奉仕を全力で行うのが明日見恢という男なのだ。ようし、頑張るぞぅ!

 そう気持ちを新たにした俺の横で、警が不敵に目を細めた。

「んふふっ。面白くなりそうだね」

「……えっ」

 なに、お前もやんの?


×  ×  ×


 育美さんと別れた後、俺たちは早速謎解きに取りかかった。

「まずは発見現場を見てみようじゃないか」

 と、無駄にやる気を見せる警の提案を受け、俺たちはいちょう教室を訪れた。

 スライド式ドアをからりと開けて入口付近にある照明スイッチを押す。が、点かない。電灯が切れているようだ。カーテンも閉じられているため部屋は薄暗く、古くなった机や段ボール箱が山積みにされていて埃っぽい。育代先生がここに暗号を隠したとはにわかには信じがたい状態だった。

 それは警も思ったようで、

「これだけ物が乱雑しているとかえって隠し場所には不向きだろうね。探すものも探せなさそうだよ」

「だな。この中から紙切れ一枚を探し出すのは俺たちでも苦労しそうだ」

 いまも園で暮らしている子どもたちの中で一番の年長者は中一の幸良、次点で小五の純恋である。純恋より年下は小学校低学年以下なことを考えると、やはりこの暗号は育代先生が子ども向けに設置したものではないだろう。育代先生なら、年齢に関係なくみんなが平等に謎解きに挑める場所に暗号を隠すはずだ。

 警がひょいっと部屋の中を覗き込む。

「ここは出入り禁止だそうだけれど出入りは容易なのかな」

「……なんだって?」

 よくわからない質問に聞き返す。もっと平易な質問にしてほしい。

 警は噛んで含めるように言った。

「立ち入り禁止のいちょう教室には心理的には入りづらいだろうけれど、物理的な侵入は容易なのかどうかを問うているのさ。明日見くんが普通にドアを開けていたからね。鍵はかかっていないのかと気になっていたんだよ」

 そういうことか。じゃあ最初からそう言え。

「この教室は鍵穴がひしゃげてるから施錠できないんだ。だから物理的な問題に限れば出入りは簡単だな」

 だが、簡単に入れるからといってそこに暗号を置くのはナンセンスだ。あの育代先生にかぎってそんな意地の悪いことはしない。それは断言できる。

 ひとしきり部屋を観察した後、警は唇に指を添えた。

「何かあると思って来てみたけれど、どうも空振りらしいね。仕方ない。暗号を解いて手がかりを見つけるほかなさそうだ」

 言って、警は育美さんから預かった紙を満面の笑みで取り出す。何がそんなに楽しいのだろう。俺は訝りつつも警の手元に視線を移した。


こいのたいたないぞをたいといけた

すいたたなばへいたむかたえ


 そこには、筆跡がわからないように細工された角張った文字がつらつらと整列していた。

紙面に並んでいる文章はそれだけで、あとは端っこの方に狸と芋虫のイラストがちょこんと載っているのみ。なんともシンプルな暗号である。

 う~ん。警の唸り声が聞こえた。

「不思議な文字の羅列だね。初めの文を素直に読むと『鯉の炊いたないぞを鯛と活けた』だけれど、果たしてそれがどう意味かまでは……」

 奴にしては面白みのないジョークだ。俺は鼻で笑う。

「せめてもう少しマシな冗談にしてくれ。お前らしくもない」

 ところが警は細い眉を上げて、

「うん? なんの話だい? 私はいたって大真面目だけれど」

 と、真っ直ぐな瞳で俺をじっと見つめるのだった。

 ……まさかマジか?

「お前、これを見て最初にどう思った」

 警はいかにも真剣に答えた。

「平仮名ばかりだなと感じたよ。あとは……文中に『い』と『た』がやけに多いね。紙の端に描かれている狸と芋虫の絵も気になる。私が思うに、これは暗号を解くヒントになるんじゃないかな」

 おい、それもうほとんど答えじゃねぇか。

「そこまで気づいてなぜわからん。お前、成績優秀じゃないのかよ」

「それとこれとは話が別さ。知識と知能が同列には語れないのと同じようにね」

 ……それ、遠回しに自分の知能が低いって言ってないか?

 どうやら警は俺を揶揄っているわけではなく、本当にこの謎の答えがわかっていないらしい。勉強はすこぶるできるくせに応用が利かないという彼女の意外な弱点に、俺はたまらず苦笑する。

 まあ、警の言うことも一理ある。いくら知識が豊富だからといってそこから理論を組み立てるのは意外と難しいものだ。知識と知能を結びつけるには、それなりの閃きが求められる。

 でもそれにしたって、

「これくらいは詰まらずに解いてくれよ。狸と芋虫の絵は『た』を抜いて『い』も無視しろってヒントだ。よくある初歩的な暗号だろうが」

 すると、警はらんらんと瞳を輝かせた。

「ああ! そういうことか! となると、これが意味するところは『この謎を解け 砂場へ向かえ』になるわけだね。いやあ、思いもよらなかったよ!」

 まるで世紀の大発見でもしたかのようにはしゃぐ警。その拍子に黒のフレアスカートがひらひらと揺れた。

「おいおい……」

 なんだか不安になってきた。警探偵は果たして役に立ってくれるんだろうか?

 そんな俺の心配など露知らず、警はわくわく顔で先を急かす。

「善は急げだ。すぐに砂場へ向かおう!」

 はいはい。


 砂辺に着くと、そこには砂しかなかった。

「あれ、変だね。明日見くんの推理が外れているとは思えないけれど」

 警がきょろきょろと砂場周辺に目を配る。一方俺は砂場にしゃがみこみ、両手で穴を掘り始めた。

「おや。犬の形態模写かな」

 相変わらずふざけたことを抜かす奴だ。俺は悪ふざけに付き合うことなく端的に返す。

「目立ってちゃ意味ないだろ」

「……ああ。さすがは経験者」

 警も理解したようで、俺と同じようにしゃがみこむと手が汚れるのも構わずに砂を掘り始める。こいつ、見た目は清楚なのに意外とアグレッシブなんだよなあ。

 俺たちは手当たり次第に穴を増やしていく。しばらくして、ようやく目当ての物に掘り当たった。

「あったぞ。しかもまだ続くらしい」

「みたいだね。さしずめ二枚目の挑戦状ってとこかな」

 砂中からサルベージした紙を警がはたき、ぱらぱらと砂が落ちる。その中身はこうだ。


 さねにぜんてこ

 かょいすゅけさてなめおお


「さねにぜんてこ……んふふっ。なんだか可愛らしい響きだね」

 微笑む警を差し置き、俺は二枚目の紙をつぶさに観察する。

「文字の書き方も配置の仕方もさっきと似てるな。製作者は同じとみて間違いなさそうだ」

 砂の中にありはしたものの、紙自体も一枚目と変わらない普通のものだ。ただ前回とは異なり、今回の挑戦状には狸や芋虫のようなイラストは書かれていない。あるのは二つの暗号文だけだった。

 警がもにょもにょと口を動かす。

「かょいすゅけさてなめおお……だめだ、ぜんぜん上手く言えないや。どう発音するんだろう。明日見くん、ちょっと試してくれないかい」

「かょいすゅけさてなめおお」

「うん、どうもありがとう。私よりも下手だったよ」

 うるせえ。

「馬鹿なことやってないで早く次に行くぞ」

 俺は警を放って砂場を後にしようとする。が、警はぴくりとも動かない。その代わり、もにょもにょしていた唇だけが再び動いた。

「どこへ行こうというのかね」

 お前はどこぞの大佐か。

「どこもなにも次の場所だ。二枚目に書いてあるだろ」

 警は堂々と宣った。

「書いてあるからといって読めるとは限らないんじゃないかな」

「はあ……」

 いっそ清々しいくらいの言い草に俺は言葉も出ない。

 だから、わからんならわからんと素直に言え。お前、基本的に笑顔を崩さないせいで表情から何も読み取れねぇんだよ。

 だが、これではっきりした。警探偵は確実に「迷」が付くほうの探偵だ。俺はとんだ疫病神をバディにしてしまったのかもしれない。

 ……しょうがねぇなぁ。

 どうするかあれこれ考えた挙句、俺は警にヒントを出すことにした。余計な問答は手間だが、こいつ相手に明らかな優位に立てる機会は少ないので、その上下関係を楽しみたくなったのだ。

「さっきも言ったけど一枚目と二枚目の形式は同じだ。特に配置の仕方は似すぎてる。なら、序文の内容も同じだと考えるべきだろう」

「序文……というと、『こいのたいたないぞをたいといけた』と『さねにぜんてこ』が同じ意味だってことかい?」

「その通り。つまり『さねにぜんてこ』を訳すと『このなぞをとけ』になるわけだ。で、じゃあどうすれば『このなぞをとけ』が『さねにぜんてこ』へと変貌するのかを考えるわけだが――五十音表を頭に思い浮かべるだけでいい」

「五十音表?」

 俺は砂場をキャンパスにして指で『あいうえお かきくけこ』と書いた。

「本来の文字から何文字かずらして暗号を作るってのはよくある手なんだ。例えばこの場合、『愛』と伝えたければ一つ下にずらして『言う』と書く。『丘』と伝えたければ『柿』と書く。五十音表の上でも下でも横でもいいが、こんな風に一文字ずらすだけでも意味は全然ちがってくる」

 きっと、暗号文が平仮名だけで構成されているのは五十音表をイメージさせやすくするためのヒントなのだろう。正体不明の出題者は案外優しい人物なのかもしれない。

「ははあ、なるほどね」

 察しは抜群に悪いのに、知識の吸収力が珪藻土を超える警はこれだけの説明ですべてを理解したらしい。考える素振りも見せず即座に答えをはじきだす。

「『このなぞをとけ』を『さねにぜんてこ』にするには、奇数番目の文字を五十音表の通りに一文字上にずらし、偶数番目の文字を一文字下にずらせば完成ってわけだ。つまり暗号の意味は……『きゅうしょくしつにむかえ』になるね。こうしちゃいられない。さあ、早く給食室に行こう『いしむ』くん!」

 のうのう。


 給食室に着くと、そこには給食しかなかった。

「おや。嘘とは感心しないね。米粒一つ落ちてやしないじゃないか」

 警に窘められた。ってか、ナチュラルに俺の思考を読むんじゃねぇ。ちょっとふざけただけだ。

 しかし警の言うように、給食室に特筆すべきものは何もない。せいぜい食器棚といくつかの調理器具があるだけだった。

 さもありなん。なぜなら正心こども園は基本的に給食を外部から購入しているため給食室を使うことがほとんどないのだ。一応例外として、今日みたいな休日は育代先生や育美さんが手料理を振舞ってくれるが、その作業も台所で行うのでここは使用しない。したがって「給食室」と大層な名前がついたこの部屋は完全なデッドスペースと化していた。

「とりあえず挑戦状を探そう。話はそれからだ」

 給食室に入った俺たちは暗号が書かれた紙を探す。極端に物が少ないため捜索範囲は限定的だ。使い古された鍋の中、年代物の棚の裏、埃まみれの換気扇……は、最後の最後にしよう。

 そうこうしているうちに警に呼ばれた。振り向くと、その手にぺらぺらの紙切れが握られているのが見える。三枚目だ。

「明日見くん、見つけたよ。こっちの戸棚の上に置かれてた。でも、せっかくだから私の華麗なジャンプを君に見せてあげればよかったと今さらながら後悔しているところだよ」

 無視無視。

「それで内容は」

「さあ。まだ見てないからなんとも」

 言うが早いか、警は興奮が抑えきれない笑顔で三枚目の挑戦状を開く。さっきからてんで解けていない割にやる気だけは満々だ。その心意気だけは買ってやらんでもない。警迷探偵の今後の活躍をお楽しみに!

 三枚目の中身はこうだった。


Go to this place.

11 9 20 3 8 5 14


「おや? がらりと暗号文のテイストが変わったね。平仮名が続いていたのに今回は英語だなんて。それに数字も大量に出てきた。数が大きい順にも小さい順にもなっていないのは何かのヒントだったりするのかな?」

 そうすれば謎が解けるとでもいうように、警は暗号文を穴が開くほど見つめる。その口の端は不敵に歪んでいるものの、三度目ともなれば、それが謎が解けた快感からくる笑みではないことは俺にもわかった。

「で、どうする。ヒントが必要か?」

 そう何気なく口にすると、意外にも警は笑みを崩して半目で俺を睨みつけてきた。いわゆるジト目だ。彼女の薄い唇もどこか尖って見える。

「もう、明日見くんは面白くないほどすぐに解いてしまうね。私と一緒に和気藹々と謎解きを楽しもうという気が君にはないのかい。私は初心者なんだ。もっと優しく扱ってくれないと」

 ……なんだこの反応。

「え、なに? お前、もしかして拗ねてんの?」

「そう見えるんならそうなんだろうね!」

 ぷんすかと語気を荒げ、柄にもなく腕を組んで怒りを露にする警。こいつとの付き合いはもう三年になるが、こんな姿の奴を見るのは初めてのことだった。

 正直、これを相手にするのは心底面倒くさい。が、まったく相手にしないのもそれはそれで面倒くさい。俺は両者を天秤にかけ、結局、前者を選ぶ。

「……だったら、答えを知らない体で俺も一緒に考えてやる。これならいいだろ」

 にこぱっ! 警の表情が一瞬で明るくなった。

「君のそういうところ嫌いじゃないよ。さあ、学年首位の共同作業といこうか!」

 調子の良い奴め……。

 すっかり機嫌を直した警の隣で、俺はあらためて暗号文に目を通す。

「まず気になるのは文が英語に変わったことだ」

「『Go to this place』……『この場所にいけ』って意味だね」

 なんとも流暢な発音だった。学年首位の能力は伊達ではないということか。推理面での活躍が待たれるばかりである。

 はふむと顎に手をやって考える。

「これまでの暗号から察するに、文が英語に変わったのはヒントだろう。暗号の答えか、もしくはそこに至るためのプロセスに英語が関わってくるはずだ」

「だね。実は私もそこまではかろうじて予想できたんだよ。本当さ」

「別に疑ってない。強調すると逆に嘘っぽく聞こえるぞ」

 俺は咳払いで間を取る。

「次に気になるのは意味不明な数字の羅列だ」

「ぜんぶで七つあるね。最小が3で最大が20までの数字がめちゃくちゃな順番で配置されてるけど……う~ん。どういう意味だろう?」

 さあ? 俺にもまるで見当がつかない。あ~こまったこまった。

「最初に『Go to this place.』ってあるくらいだからこれらの数字が指し示すのは場所だ。一枚目と二枚目の流れからして園の敷地内のどこかだろう。これはわかるな?」

「だね。実は私もそこまではかろうじて予想できたんだよ。本当さ」

 おい。さっきより予想のボーダーラインが高くなってるぞ。お前の発言はいったいどこまでが本当なんだ。

 平気な顔で嘯く警の真意は窺えない。もはや気にするだけ損である。これは知る人ぞ知る秘密だが、俺は損が大嫌いだ。

「英語と数字、それと暗号だな。この三つのキーワードから連想されるものはあるか?」

 警がノータイムで答える。

「そういえば昔、小学生だった頃の私はレンタルビデオ屋で見かけた『R18』と書かれた暖簾を見てあれは何かとパパに尋ねたことがあるんだけど、そんな私にパパは『あれはRがアルファベット順で十八番目だからそう書いているんだ』と笑顔で教えてくれたんだ。今になって思うと、あのときのやり取りはパパが私に与えた謎解きだったのかもしれないね」

 なんだそのちょっと面白いエピソード。思わず笑っちまったじゃねぇか。

「馬鹿馬鹿しいけど馬鹿にできない笑い話だな。それ、お前の漫談の十八番にしろよ」

「十八だけにかい。上手いことを言うじゃないか。それじゃあこの話はイザってときのために大切に箱にしまっておこうかな」

「お前の家って歌舞伎の家系だったっけ」

「いいや。推理作家と女優の普通の家庭さ」

「それ全然普通じゃないだろ……」

「そうかな。職業はちょっと変わってるけど会えば普通の大人だよ。紹介してあげるから今度うちに来てごらん」

 警が目を光らせる。まるで新しい玩具を見つけた幼子のようなその瞳は、先ほどまで育児疲れでぶっ倒れていた俺を震え上がらせるには十分だった。

「誰が行くか。同級生の女子の家で親に紹介されるとか気まずいんだよ。それこそ、お前が十八にでもなったときに他の男子を誘え」

 断ると、警は大きなため息を吐いて肩を竦めた。

「まったく明日見くんは敏感すぎるね。過敏と言ってもいい。というか自意識過剰だよ。誰も愛だの恋だのの話はしてないじゃないか。ましてや結婚なんて私と明日見君の間にはまだなにも――あっ」

 と、謎解きからかなりかけ離れた学年首位同士のウィットに富んだ会話が続いていた最中、いきなり警が上擦った声を上げた。それはまるで、突如として天啓を受けたかのような反応だった。

 どうしたと尋ねるより早く、警は溢れんばかりの喜びを爆発させる。

「わかった! わかったよ明日見君! ついに私にも閃きが下りてきた!」

 警は嬉しさのあまりその場でぴょんぴょんと飛び跳ねる。その様はさっき拗ねたとき同様、初めて見る彼女の一面だった。

「閃いたって言うと、三枚目の謎が解けたってことか?」

 半音ほど高くなった声でもって警が答える。

「そうとも。完璧な答えさ。証拠を見せてもいい」

「証拠?」

 言わんとするところがわからない俺は一瞬だけ眉を寄せるが、次の言葉を聞き、彼女の推理が正しいものであることを確信した。

「この三枚目の謎に照らし合わせると明日見君の下の名前は『11 1 9』の数字で表せるね。どうだい、合っているだろう。これで君も私を見直す気になったかな?」

 はっ、馬鹿を言え。

「これしきで見直すほど俺はお前を見くびってねぇよ。お前はやればできる奴だ」

「おお! これは嬉しい評価だね!」

 にこにこぱっ! 警の笑顔がさらに明るくなる。よしよし良い傾向だ。時にはゴマをするのも円滑なコミュニケーションには重要だからな。機嫌を取ってやりさえすれば面倒事も減るってものだ。

「で、どういうプロセスを踏めばそうなるんだ」

 ご機嫌取りの一環として、俺は警に説明を求めた。往々にして人は他人に何かを教えるとき、自分の方が立場が上だと錯覚して気を良くするからだ。

 果たして狙い通りに警の鼻は高くなった。

「ふふん、いいとも。この暗号を解く手順は実に単純だったよ。なにせ英語を数字に置換するだけでいいんだからね」

「というと?」

「そのままの意味さ。Aを数字の一、Bを二、Ⅽを三って具合に置き換えればいい。するとKはアルファベット順の十一番目でAとIはそれぞれ一番目と九番目になる。これで明日見君の名前が完成するってわけさ」

「それじゃあ警の場合だと『11 5 9』で苗字になるってわけだな」

「だね。苗字と名前で違うけれど。こう見ると私たちは似たもの同士ってことになるのかな。……んふっ、面白いね」

「いいや嫌な見方だ」

 うへぇっと渋面をつくる俺をないものとして警は本題に戻る。

「とまぁ、そういうわけで暗号文の数字が対応している英語は順にK、I、T、Ⅽ、H、E、Nになる。この程度の英単語、今どき小学生でもわかるよね?」

 ちらと警が俺を見やる。……こいつ、俺の頭が小学生レベルとでも言いたいのか。

「なめんな。キッチンだろキッチン。次の目的地は台所だ」

 俺が投げやりにそう言うと、警はやれやれと大げさなジェスチャーで首を横に振った。

「はーっはは。おいおいミスター明日見そりゃあないだろう。発音がお粗末すぎてボブが笑ってるぜ。きちんと『KITCHEN』って言ってくれないとな。はーっはは」

「うっぜぇ……」

その身振りも口調もクソつまらないジョークも、警の言動すべてが低級ハリウッド映画の日本語吹き替え染みていて、洋画マニアな俺はかえってその再現クオリティのショボさに非常にイラっときていた。つーか誰だよボブ。帰れよボブ。

 俺の気持ちが伝わらなかったのか、警は小芝居をやめずに満足げにサムズアップした。

「Let's go to the next place」

 8 1 9 8 1 9。


 キッチンと呼ぶにはあまりにも和風でオンボロな我が愛すべき台所へと向かう道すがら、警が世間話を持ち掛けてきた。

「明日見君は昔からこういうことをやっていたのかい?」

 こういうこと、というのは今俺たちがやっているような推理ゲームのことだろう。俺は素直に頷く。

「ああ。小学校に入学する前からやってるからもう十年以上になるな。おやつ欲しさに推理したり、弟や妹たちに頼まれてよく頭を悩ませてたよ」

 俺が解いて答えを教えるだけじゃ教育に悪いから、警にしたように手ごろなヒントを教えることで弟たちが自主的に考えるよう色々と工夫したものだ。時には俺が考えたクイズやら謎やらを出題したこともあったっけ。

「良い話だね。麗しき家族愛ってやつだ。そういうの、私はとっても好きだよ。きっと明日見くんのルーツはこういう謎解きゲームから来ているのかもしれないね」

「……そう、かもな」

 たしかに警の言う通りだ。育代先生がこういったゲームを開いてくれなければ、俺が謎部を立ち上げることは決してなかっただろう。それだけじゃない。幼少期から目の前の問題を解く快感を覚えていなければ、学業特待生になるどころか旗雲学園に入学できたかどうかさえ怪しい。ともすれば、俺と警は知り合う機会さえなかった。そう思うと、何やら感慨深いものが胸の底からこみ上げてくるような気もする。

 しかし、感慨に浸るのはまだ早い。なにせ俺たちが解き明かさなければならないのは「紙に書かれた暗号」ではなく、「何故いちょう教室に暗号があったのか」という謎だからだ。既に三つも暗号を解いているというのに、本命の謎が解けていないのでは話にならない。

 だが、まったくの手がかりなしというわけではないことも事実だ。

 まず大前提として、一連の暗号を作ったのは育代先生ではない。それは確実だ。あの育代先生にかぎって、立ち入り制限のあるいちょう教室に謎を隠すわけがない。

 次に判明しているのは、このゲームがに向けて作られているということだ。

 五人というのは俺、幸良、純恋、育代先生、育美さんのこと。なぜそう言えるのかは単純明快で、いちょう教室に立ち入りが許可されるのが十歳以上だからだ。俺たちの中の誰かが暗号を見つけなければそもそもゲームは始まらないから、俺たち五人の中にターゲットがいるのは間違いない。

 では、五人の中の誰に向けてゲームが開かれているのかというと……それはまだわからない。ここから先を推理するには手がかりが少なすぎる。

まあ、いずれにせよ暗号の製作者は園の関係者しかありえない。最悪、どうしようもなくなったら全員に聞き込み調査をすればいいのだ。焦らず悩まず気楽にいこう。

「着いたみたいだね」

「んぁ?」

 警のセリフで思考の海から引き上げられた俺は目の焦点を合わせると、たしかに台所についていた。

「かなり気合の入った台所だね」

 とは警の言葉。俺もその意見には激しく同意だった。

 こびりついていて取れないシンクの水垢、見る者に昭和を感じさせるレトロなガスコンロ、ごうんごうんと不穏な音を発する冷蔵庫などなど。

 まさしく正心こども園が誇る年季の入り過ぎた台所だ。ここを洋風にキッチンと呼ぶ勇気は俺にはない。が、これはこれで趣深いので俺はここが嫌いではなかった。

「良いとこだろ。どことなく情緒を感じる」

「私たちが気づかないだけで情緒は案外どこにでも落ちているものだよ。さ、早く四枚目の暗号文を探そう。でないと子どもたちが起きてしまう」

 世間話もそこそこにして俺たちは暗号文を探し始める。捜索範囲が狭いおかげで暗号文はすぐに見つかった。

「あったよ明日見君」

「なんて書いてある」

「まあ待ちなって」

 言って、警が意気揚々と紙を広げる。そこには、もうすっかり見慣れてしまった角ばった文字が無機質に並んでいた。


 おめでとう 並べ変えて振出しに戻れ 

       st

    nd

          rd


 これは……。

「『おめでとう 並べ変えて振出しに戻れ』……か。今までで一番シンプルなのに一番意味不明な暗号文だね。『rd』とか『st』の意味もよくわからない。気になるのは、三つの文字がどういうわけか横一列じゃなくて段差をつけて配置されていることだけれど……」

「……」

 警はぶつぶつと呟きながら思考をまとめる。俺は何も言わず、ただ四枚目の紙をじっと見据える。

 それが気になったのか、警はちらちらと横目で俺の顔色を窺ってきた。

「うん? どうしたんだい明日見君。早く私に手がかりを献上してくれたまえよ」

 それがさも当然の権利であるかのように警はヒントを強請る。少しは自分で考えたらどうなんだ迷探偵。

「…………」

 警に促されても俺は口を開かない。目線を紙に落としたまま動かさない。

 それで察したのだろう。警は鬼の首を取ったように目尻をぐにゅんと曲げ、人の悪い笑みを俺に近づけてきた。

「おや。おやおやおや。どーしたんだい明日見君。どーしたんだい名探偵明日見君。まさか、いやいやそんなわけはあるまいとは思うがしかしまさか、この暗号が解けないとでも言うんじゃないだろうね明日見君。あれだけ私を小馬鹿にしておいてイザ自分が解けない問題にぶつかったらダンマリを決め込むのかい明日見君。いや、うん、君がそんなこすっからいことをしないと私は信じているよ? すぐに自信満々な態度で見事な推理をご披露してくれるものだと私は知っているよ? だけど、だけどね明日見君。今の君の姿を見ていたら私の信頼も揺らいでくるというものだよ。申し訳ないけれどね。んふふっ。ほら、早く何とか言ったらどうなんだい。ええ、ほらほら」

 …………うっぜぇぇぇぇぇ。

 うざい。うざすぎる。いや、本当にうざい。うざっ。人がちょっと調子悪いだけであれこれ好き勝手言いやがって。そんなんだから俺もお前も友達がいねぇんだよ!

 けれど言い返そうにもその指摘自体はいたって的確なので俺は反駁できない。謎が解けない探偵に存在価値などないのだ。

 とはいえ、俺だってまったく歯が立たないわけじゃない。

「俺はお前とちがって謎を解く手がかりは掴んでる。あとは『並べ変えて振出しに戻れ』の意味を推理するだけだ」

「ああそう。なんだ、つまんないの」

 警は一気にテンションを落とす。本当に失礼極まりないなこのアマ。

 ふう。しかし、さて、どうしたものか。

 ここまできて諦めたくはないが、だからといって推理の進展が見込めない今、俺たちに打つ手はない。せいぜい天啓が降ってくるのじっと待つか、解決の糸口を見つけるまで粘ることしかできないわけだ。……これは困ったことになった。

 仕方ない。俺は頭をかきながら提案する。

「とりあえずいちょう教室に行こう」

「というと?」

「暗号文には振出しに戻れって書いてある。このゲームが始まったきっかけは育美さんがいちょう教室で暗号文を見つけたからだ。だったら、ゲームの振出しに戻ればヒントがころがっていてもおかしくはない……はずだ。たぶん」

「うん? やけに自信なさげだね」

 弱気な発言が気になったのか警が表情をうかがってくる。俺はその視線から逃れるように四枚目の暗号用紙で顔を隠した。

「警もいちょう教室の散らかり具合は確認しただろ? だからわかると思うが、あそこに謎解きのヒントを隠す奴はまずいない。余計な物が散乱しすぎてて宝探しどころじゃないからな。俺の予想だと、十中八九いちょう教室にヒントはない」

 断言する俺の横で、警はこてんと首を傾げた。

「そうかな? わざわざ振出しにーなんて書いてあるってことはさ、これの作者は私たちをもう一度いちょう教室に連れていきたいってことでしょ? なら、そこに行けば新しいヒントが貰えるって考えるのは自然だと思うけれど」

 いいや、それだと説明のつかない箇所がある。

「もしも暗号の製作者が回答者をもう一度いちょう教室に行かせたいんなら、そのまま『いちょう教室に行け』って書けばいい。でも、実際にあるのは『振出しに戻れ』なんていう回りくどい文章だ。どう考えてもこれは変だろ」

 ふむ、と警は片目を瞑る。

「あ~、言われてみればそうかも。私たちが解いてきた三つの謎にはどれも『○○へ向かえ』って記されていたのに、今回だけはなぜか『振出しに戻れ』って書いてある。……うん。たしかにこれは妙な変化だよ」

「ああ。だからこの不自然な変化には必ず意味があるはずなんだが……」

 俺はここで言葉を区切る。その先の推理がまだ出来上がっていない以上、下手なことは言えない。言えばまたぞろ警に煽られてしまうからだ。それは避けたい。

 そんな俺の涙ぐましい心模様を露ほども知らない警は暢気に背筋を伸ばす。

「まあ、何はともあれここにいたってしょうがないし、ひとまずいちょう教室に行こう。行けば何か思いつくかもしれない。それに、捜査は足で稼げとか現場百回とかって刑事ドラマでよく聞くからね」

 るんらんりん、と独特なリズムを刻みながら警は歩きだす。言ってることはすこぶる正しいのに奴が言うだけでそれに従いたくなくなるのはどうしてだろう?

「はあ……」

 正義の前では反抗心など塵に等しい。俺は無駄に元気な警の背中を追って、とぼとぼと力なく歩を進めた。

 嗚呼、無駄だと知って動くことのなんと虚しきことかな。

 ままならない世を憂いつつ、それでも俺は脚を止めない。用のなくなった台所を後にして、ついさっき来た道を戻りながらいちょう教室へと向かう。


「なあ警」

「なにかな明日見君」

 その最中、俺は警に馬鹿にされたことを密かに根に持っていたので、まったく謎が解けていないのではないというアピールをすることにした。

「四枚目に書いてあった三つの意味不明な英語のことだが――あれは多分、一から三までの数字を表してる」

「えっ」

 いきなりのネタばらしに警の瞳が丸くなる。

 奴の意表を突けたことに満足して俺は解説を続ける。

「具体的には『st』が数字の一で、『nd』が二、そして『rd』が三だ。どうしてそうなるかわかるか?」

 警はふるふると首を横に振る。俺はもったいぶらずに理由を説明した。

「英語は横並びじゃなくて段差をつけて配置されてただろう。右の『rd』が下で真ん中の『st』が上、左の『nd』がその中間ってかんじにな。この配置がヒントなんだ。きっと警も似たような配置をどこかで見たことがあるはずだぜ」

「私が? う~ん、どうだろう。そんな記憶はないけれど……」

「ならこれでどうだ。テレビ、スポーツ中継、順位発表――」

 そこで警があっと声を上げる。

だ!」

「そう、スポーツ大会の表彰式でよく見るあれだ。あの台の形通りに暗号は配置されていた。三位の場所には『rd』が、一位の場所には『st』がって具合にな」

 警はふむふむと感心したように顎に手を置く。

「へえ、そういうこと。つまり『st』や『nd』ってのは『first』や『second』を意味していたわけだ。いわゆる序数ってヤツだね。うん。それなら私も見たことがあるよ。英語の授業なんかで『third』のことを『3rd』って表記していたりするからね」

「だろ? 今回の暗号だとあえて数字を消してその意味するところをわかりづらくしていたけど、表彰台の通りに配置されていることに気づければ英語から数字に置換することは難しくなかった」

「たしかに。こう見ると今回の暗号は前回と真逆だね。数字から英語に変換した三枚目に対して、四枚目は英語から数字に置き換えることが求められている……って、あれ?」

 と、ここで警がむむむっと唇を不思議そうに突き出した。面白い顔なのに、美人がやると可愛く見えるのはどういう原理なのか。

「どうした」

 警は胸に溜まったもやもやを絞り出すかのように口を開いた。

「えっと、それじゃあ、え~っと、要するに私たちは、一と二と三の数字を並べ変えて振出しに戻らなくちゃいけない……ってこと?」

「推理が正しければそうだな」

「いや、うん。これは私の直感だけれど、さっきの明日見君の推理は間違っていないと思うよ。きっとそれで正解さ。……でも、それだと『振出し』ってなんのことだい?」

 そう。そこだ。俺もその意味がまるで理解できない。

 振出しって言葉は、辞書的には「スタート地点」とか「物事のはじまり」とか、まあ、そんなかんじの意味だ。用語自体は別に難しくない。

 でも、それじゃあ、この暗号で言うところの『振出し』がいったい何を指しているのかというと……ぶっちゃけ俺にはまったく見当もつかなかった。

「正直まったくわからん。一応、謎の答えを導き出すには三つの数字を並べ替えればよさそうだってことが判明したからとりあえず全部のパターンを考えてみたんだが……」

 そこまで言うと、警があっと感嘆の声を上げた。

「そっか! 暗号文そのものに意識を取られて難しく考えすぎていたけれど、要は異なる三つの数字を正しい順番に並び替えればいいのか! いやあ、明日見君は頭が柔らかいね。とっても単純なことなのに私は言われるまで気づけなかったよ」

「そりゃどうも」

 しかしどうだろう。俺にしてみれば、言われたらすぐに事態を把握できるこいつの方がよっぽど柔軟な頭脳も持っているように思う。一を聞いて十を知るというか、十を知って百を話せるというか。あとは発想力さえ備わっていれば、警は俺なんかをはるかに凌駕する凄腕の探偵になるだろう。

「んーっと、あり得るパターンは3×2×1で六通りだから……」

 そんな未来の名探偵はどこからともなくシャーペンを取り出すと、四枚目の暗号用紙の裏面にすらすらと文字を書き込んだ。


 123 132 213 231 312 321

 犯人はこの中にいる♡


「…………」

 前言撤回。やっぱこいつアホだわ。

 ツッコミを入れるのも面倒なので後半は無視し、俺は六つの数字に注目する。

 三つの数字を並べただけなので至極当然にすべて三桁の数字だ。どれも平方数や立法数でもなければ素数でもない、これといって特徴のない普通の数だった。

 けれど、この六個の中に唯一の正解となる数字があることは間違いない。そして、その数字は『振出し』と呼んでも差し支えない意味を持っている。

 果たしてどれがそう呼べるのか、そう呼ぶにふさわしいのか。

 俺はいま一度頭を搾る。

 振出し。スタート地点。物事のはじまり。

 それも、たった三つの数字を並べるだけで表すことができるようなものとは?

 ……そうだ。警の書き込みを見てふと思いついたが、「日付」というアイデアはどうだろう。四つ目の暗号は、何かが始まった日付を指しているという推理だ。

 たとえば宇宙が始まったのは約百三十八億年前だし、地球は四十六億年前に始まったとされている。もっと身近な例で言うと新年がスタートするのは決まって一月一日からだ。どれもこれも物事の『振出し』と見なすには適切なタイミングだし、どうにかこじつければ一と二と三の数字を並べ替えるだけで表せるかもしれない――……


そういえば、


「どう? なにか思いついた?」

 ……なにか浮かびかけた気がしたが、警に話しかけられたことで沈んでしまった。なんだろう。なにか、重要な閃きを得たような気がしたんだが。

 まあ、沈んでしまったものはしょうがない。いつか無事に浮き上がってくるのを願うばかりだ。

 俺は自分で自分に救難信号を送りつつ、一応警にもSOSのサインを出してみた。

「参考までに訊きたいんだけど、たとえばお前の中でこれこそが私のスタート地点だって言えるくらいの強烈なエピソードはあるか」

「あるよ。君と出会ったことさ」

「……や、そういうのいいから」

 真面目な顔でふざけたことを抜かす警。一瞬、そのあまりの格好良さに危うく惚れかけたが、なんとかすんでのところで踏みとどまることができた。にしても今のは冗談なしに危なかったな……。

 気を取り直して再度尋ねた俺に対し、警はにこにこと顔を綻ばせる。

「私にとってのスタート地点ね。んふふっ。いかにも哲学的で私好みの質問だよ。そうだなぁ……ありきたりな答えだと、物心が付いたときってのが私のスタート地点になるかな。警凛護が警凛護を自覚したっていうか、自分と他人との境界をはっきり認識しだしたっていうか」

「ふうん、そんなもんか。じゃあ、ありきたいじゃない答えはなんなんだ」

「さっき言ったよ。君に出会えたことが私にとっての――」

「だからいいってそういうの」

 二回目ともなれば耐性がついている。俺は悪ふざけに付き合わず途中でばっさりと切り捨てた。

 つーか、どうして警といい飛ケ谷といい俺の知り合いにはナチュラルにイケメンムーヴをする女子が多いんだよ。俺の立つ瀬がないだろうが。

「つれないなぁ。もっと優しくしてくれてもいいのに。私が泣いたら結構大変なんだよ?」

「うっせ。いっそマジに泣かせてやろうか」

 と、俺がイケメンムーヴを繰り出せない原因の一端を垣間見たところで今度は警から質問があった。

「そういう君はどうなんだい。自分の中の原点はこれだーって言えるおめでたいエピソードはないのかい」

 おめでたい?

「どうしてめでたい必要があるんだよ」

 突然生えてきたその妙な条件付けの真意を尋ねると、警はやれやれと言わんばかりに馴れ馴れしく俺の肩に手を置いてきた。置くな。

「もしかして明日見君って試験問題の注意書きは読み飛ばしちゃうタイプ? よくない。よくないね。いつか痛い目を見るからそのクセは早く直したほうが身のためだよ」

「はあ? 何言ってんだ?」

 いきなり話が脱線し、また警の悪ふざけが始まったのかと俺は苦言を呈する。

ところが警に茶化すようなそぶりはなく、むしろ重要な事実を見逃している俺を揶揄っているようだった。

「君こそ何言ってるのさ。暗号文の最初にちゃーんとおめでとうって書いてあるじゃないか。だったら私たちが

 それは想定外の指摘だった。

 思いもよらない視点からの指摘を受け、俺の脳は数秒だけ機能を停止する。

「え、でも、あ~……そう、なのか?」

「そうとも。だって書いてあるんだから意味がないわけがないだろう。違うかい?」

「……いや、違わない。警が正しい」

 そうだ。たしかに暗号文にはおめでとうとしっかり書いてある。書いてあるじゃないか。どうしてそんな重要な文を無視していたんだ俺は。馬鹿か? 馬鹿なのか?

 どうやら俺も警と同様に意味不明な暗号文ばかりに気を取られ過ぎていたらしい。

 わからない部分があるのなら、わかる部分から解いていくのがこの世の常だというのに――。

「なんで俺はそんな簡単なことを……」

 馬鹿だ。馬鹿すぎる。なんなら自分があまりにも馬鹿すぎて、そんな俺との引き合いに出されてしまう馬と鹿に申し訳ないまである。

 再起動した俺の脳は警の発言を全面的に肯定している。そのせいで自らの察しの悪さに嫌気がさし、自分で自分を貶める自己嫌悪に陥っていた。

 かたや警は良い所を見せられたのがそれほど嬉しいのか、いつも以上に不敵な笑みで胸を張る。

「ふっふーん」

「チッ……!」

 俺は憚ることなく盛大に舌を打つ。ムカつく顔だ。にやにやしやがって。

 けど、ああ! 今はそれどころじゃない!

 屈辱的だ! ひどい気分だ! まさか警に出し抜かれるなんて。警のおかげで謎がすべて解けるなんて……。

 落ち込む俺をよそに警の自慢は止まらない。うざったらしい表情をうりうりと近づけてくる。

「どうだい明日見君、私もなかなかやるだろう。褒めてくれたっていいんだよ」

 鬱陶しい。本当に鬱陶しい。が、ここで負け惜しみを言えば憧れのイケメンムーヴなど夢のまた夢。……くっ、背に腹は代えられない。俺は身を切る覚悟で腹を割る。

「ああ、さすが警だ。俺のパートナーはお前しかいないよ」

「……ふぇっ?」

 警の顔が瞬く間に真っ赤に染め上がった。

「ちょ……や、うぇっ⁉ い、いくら私でもいきなりそんなこと言われたら――」

 奇声を発しつつ警は耳まで赤くなった顔を俺から背けると、くねくねと怪しく体を揺らし始める。

 おい、いきなりどうした。不審な行動はやめろ。妹たちに見られたどうするつもりだ。

 でもまあ、いま俺たちの周囲に家族はいないし、こいつの謎行動も今に始まったことではないので正直どうでもいい。それより今は暗号だ。

 結論は既に出た。

 あとは答え合わせをするだけだ。それだけで謎解きゲームは終わる。計四問にも渡った長い長い謎解きゲームがようやく終わるのだ。

 試合終了。ゲームセット。延長はなし。終わる終わる詐欺もない。

 正真正銘の終わりだ。

 そう。終わり、なんだけど……。


「――っはああああああああぁぁぁぁぁ……」


 俺はその場に蹲り、これ以上ないくらいに肩を落とした。

「え、あれっ⁉ ど、どうしたの明日見君⁉」

 俺の唐突なクソでかため息に驚いた警はトリップ状態から目を覚まし、突如小さく丸まった俺の背中をゆさゆさと揺らす。

 視界がぐわんぐわんと不安定に揺れ動くなか、俺は叶わない願望を吐露する。

「過去に戻りてぇ……。できれば大濠公園に入る前に戻りてぇ……」

「ちょっ、明日見君⁉ ほんとうにどうしたの⁉ 急に今日の私たちの出会いをなかったことにしないでほしいな!」

 俺の悲痛な願いを受けて警も俺と同じくらい悲痛な願いを叫ぶ。なんて悲しみに満ちた世界なんだろう。それもこれも腐った社会のせいだ。なんもかんも政治家が悪い。

 いや、まあ、さっきの願望も政治批判も半分は冗談なんだけど。流石の俺もそこまでは思っちゃいない。なんやかんや警はそこまで嫌いじゃない。

 でも、過去に戻りたいという部分は、あの発言だけは、紛れもない俺の本心だった。

 より具体的には育美さんから一枚目の暗号を受け取った場面まで時間を巻き戻したい。全てをなかったことにしたい。それこそ、ゲームが振出しに戻るくらいに。

 思えばあそこがターニングポイントだった。あれから前に一歩でも進んでしまえば、もう取り返しはつかなかったのだ。

 しかし気づいた頃にはもう遅い。後悔は先に立たず、祭りは終了し、謎は解けた。

 解答編から出題編に戻ることは、もう不可能だ。

 そのときだった。

「――そっか。恢くん、ぜんぶ見ちゃったんだね」

 後ろからの声に振り返る。

 見計らったようなタイミングで現れたのは我が愛すべき妹。

 明星純恋が冷ややかに微笑んでいた。


×  ×  ×


「か、帰ってきてたのか」

 ふらふらと立ち上がった俺は何と声をかけていいのかわからず、現実逃避するように当たり障りのないセリフを吐く。

 対して純恋はまっすぐに俺を見据えた。

「うん、さっきね。幸良お姉ちゃんも一緒だよ。育代おばあちゃんは頼まれごとされたからってまた出かけて行ったけど」

「そ、そうか。育代先生も元気だな。あの感じじゃまだまだ長生きしそうで安心だ」

「そうだね」

「……」

「…………」

「そ、そうだ純恋! おいしいお菓子をいっぱい買ってきたんだ。育美さんに言えば出してくれるから食べてきたらどうだ」

「そう。ありがとう。けど今はいいかな。気分じゃないし」

「……」

「…………」

 だ、だめだ! 会話がまるで続かない! 空気が重い!

 普段の純恋ならもっとツンケンした大人びた態度で接してくれるのに、今はどこか拗ねた幼子のようにキリキリと俺を責めるオーラをびしばしと発している。どっちも俺に冷たいことに変わりはないものの、冷たさの種類的には後者の方が断然恐ろしい。

 というか辛い。シンプルに辛い。妹に蔑まれるのがお兄ちゃん辛い。

 と、ここで警がおずおずと手を上げた。

「え~っと、あの、ごめんスミスミ。ちょっといいかな」

「はい。なんでしょう警さん」

 さしもの奴も純恋のオーラに戸惑っているようで、純恋の顔色をうかがいながら申し訳なさそうに尋ねた。

「悪いんだけれど、いや、本当に申し訳ないんだけれど、差し支えなければ私にもわかるように事情を説明してくれないかなー……なんて」

 純恋の視線が警の方へと移る。それだけで俺は心なしか肩が軽くなった気がした。

「説明ですか。なんの説明でしょう」

 びくり。警の肩が震える。

「あ、うん、えっと、なんだかさっきの二人のやり取りを見ていると気になる部分があってね。それでもしかしたらスミスミは暗号のことを知ってるんじゃないかと思って……」

 その疑問に対する純恋の返答は非常にあっさりしていた。

「暗号というと、私がいちょう教室に隠しておいた暗号のことでしょうか」

「……っ! じ、じゃあこのゲームを始めたのはスミスミなんだね」

 自白に等しい返答に警は動揺を隠せない。食い入るように純恋を見つめる。

 ところが純恋は首を横に振った。

「いえ、私はこれを企画しただけです。初めたわけではありません」

「企画はしたけど始めてはいない……? ど、どういうことスミスミ?」

 トンチにも聞こえる理論に警は目を丸くする。そういう屁理屈を言うのは自分の十八番だろうに、人から言われると対応できないのはいかがなものか。

 要はこういうことだ。

「俺たちが解いてきた一連の謎解きゲームの企画者は純恋だ。四つの暗号も純恋が考えたんだろう。でも、それを発表するよりも前に俺たちが勝手にゲームを始めてしまった。だからゲームを始めたのは自分じゃないって寸法さ」

 だから純恋は怒っているのだ。自分の企画を台無しにした俺たちの無責任な行動を。

 ぎろり。再び純恋の視線が俺をとらえた。

「始めるだけならまだ良かったよ。なのに恢くん、純恋が見ていないところで好き勝手にゲームを進めてしかも終わらせちゃうんだから」

「うぐっ……ご、ごめん純恋」

 高一が小五に怒られてガチで凹んでいる。そんな情けない光景がそこにはあった。

「謝ってもだめっ」

 純恋はぷいっとそっぽを向く。しかし数秒も経たないうちに、その表情にはうっすらと笑みが浮かんでいた。

「……はあ。でもまぁ、しょうがないか。それが恢くんだもんね」

 しゅんと項垂れる俺を見てアホらしくなったのか、あるいは俺を打ちのめしたことで気分が晴れたのか。

 純恋はふうっと軽く息を吐くと、体から発していた鋭いオーラを収めてくれた。

「もっと上手に隠してなかった純恋も悪かったから、いいよ。そんなに怒んないであげる。大成功とはいかなかったけど純恋の目的通り恢くんを驚かせることには成功したみたいだし」

 そして純恋はにこやかに微笑みかけてくれる。とびっきりの笑顔で俺を癒してくれる。

 その様はまさに天上におわす上位存在の如き美しさで、この世の悪を浄化する力さえ秘めているようだった。

 天使だ! ここに天使がいるぞ!

「す、純恋……! ありがとう! さすがは俺の愛する妹だ! この愛情を表現するにはどれほど言葉を言い尽くしたところで一割どころか一パーセントも――」

「や、そういうのいいから。恢くん話長いし。あと妹って言わないで」

 兄の心妹知らず。俺が妹愛を長々と語り始めようとしたところでばっさりと一刀両断される。そういうクールなとこがまた可愛いんだよなこれが。

 きゃっきゃうふふ。俺と純恋は仲睦まじく談笑を交わす。

 堅苦しい空気はとっくに微塵もなくなり、これで大団円といった温かい雰囲気が場を包む。あとは夕日をバックに決めポーズを取れば物語はおしまいだった。

「ちょーっと待った!」

 ところがそれを許さない人物がここに一人。

 言うまでもなく警凛護だ。

「展開が急すぎるし雑すぎるよ。明日見君もスミスミも私を置いて行かないでほしいな。特に明日見君、自分のパートナーを放っておくなんて探偵失格だよ」

 純恋の体がぴくっと跳ねた。

「パートナー……? どういうこと恢くん」

少しだけ、あのオーラが見えた気がする。

「なんでもないよ。なんでもないから」

 すかさずフォローを入れた俺はこの話題を打ち切るべく即座に警に向き直る。奴が言いたいことはわかっていた。事件の全容を説明をしろってことだろう。

 俺は了承を得るために純恋を横目で見る。しばらく純恋は得心のいかない顔で俺をじろじろと観察していたが、最後にはこくりと頷いてくれた。

 よし。

 んんっ、と俺は一度空咳をしてから話を切り出した。

「前提として、今回のゲームは俺、幸良、純恋、育代先生、育美さんのうちの誰か一人がターゲットなのは間違いなかった。一枚目の暗号文があったいちょう教室は十歳未満立ち入り禁止だからな。まあ、今日は特例として警もいたけど流石にこの可能性は無視していい。警がここに来たのは偶然だ」

「いや、大濠公園で明日見君と出会ったのは運命だけどね」

「運命……? どういうこと恢くん」

「なんでもないよ。なんでもないから」

 純粋すぎる純恋が警の悪ふざけに引っ掛ってしまわないよう留意しつつ俺は続ける。

「五人の中にターゲットがいるのなら、考えるべきことは五人の振出しだ。一から三までの数字を並べ替えてできるスタート地点を見つければよかった」

「私が書いた六パターンのやつだね」

 けれど俺はここで苦戦した。振出し――つまり何かのスタート地点なんていうアバウトすぎる概念から答えを導くのは不可能だと思った。にっちもさっちもいかなくなり、苦し紛れの策として迷探偵に助力を願ったりもした。

 そこで、天啓ならぬ警からのお告げがあった。

「警から指摘されて気づけたんだ。四つ目の暗号は、製作者から回答者に向けたメッセージなんじゃないかって」

「メッセージ?」

 意味不明な暗号文に意識を奪われすぎていた俺はそのワードをまるで無視していたけど、それが明確に誤りだった。

 暗号はそこに書いてあるもの全部ひっくるめて暗号だ。

 意味のない文字など、一つとてない。

「おめでとうってのは誰かに何かおめでたいことがあった際に送る祝いのメッセージだ。じゃあそのメッセージが暗号文に組み込まれてたってことは、――と、俺は考えた」

「誰かの何かを祝う、暗号文を模した手紙……」

 警がぽつりと呟く。そう文字で表せば何ひとつ要領を得ることはできないが、わかるところから情報を精査していけば自ずと正解は形を成す。

 誰かってのは、五人のうちの誰かのこと。

 何かってのは、並べ替えた三つの数字が示す振出しのこと。

 そして、暗号の製作者が手紙に託したメッセージは祝辞。

「つまり、六つのパターンの中には五人の誰かに関係がある〝おめでたい数字〟が紛れ込んでるはずなんだ。……で、俺はそれを見つけた」

 言って、書き込まれたメモの下から二番目を指さす。

 警に話しかけられたせいで沈んでしまったのはこれだ。俺にとって、メモ書きの中ではこの数字だけが振出しだった。

「312……? でも、それがどうして」

 これでも警は気づかない。まあ、当然か。俺とこいつは知り合って数年経つが、一度たりともそのイベントを祝い合ったことなどないのだから。

「あー、その、これはだな……」

 非常に言いにくい。言いにくいが、言うしかあるまい。

 高校生にもなってそれを同級生に得意げに教えることに若干の気恥ずかしさを感じながら、俺は告白する。

「312――

「……はあ⁉ た、誕生日ぃ⁉」

 警の口がぽかーんと開く。今日一番の面白い顔だった。

 そう。毎年の三月十二日、今年で言うと俺がまだかろうじて中学三年生だった二か月前のこの日、俺はひとつだけ歳を取った。十五歳になった。

 誕生日――この世に生を受けた日というのは、誰しもが持つ自分という存在の明確なスタート地点だ。生まれたときから誰にでも平等に用意されている始まりの日だ。

 それを振出しと言い換えることはあまりないが……まあ、並べ替えた数字が奇跡的に俺の誕生日になることと、あのメッセージの存在を鑑みれば許容できない範囲ではない。

 純恋は謎解きゲームという形で俺の誕生日を祝った。

 そう考えれば、すべての事柄に辻褄が合う。

「要するに今回の一件は、純恋が俺のために企画したサプライズだったんだ」

「はぇー……そうだったんだ」

 ただ、現時点においてあくまでこれは推測に過ぎない。情報を組み立てたらそう解釈することもできるという可能性の一つに過ぎない。

 だから推理が的中しているのかどうか、俺は純恋に視線で問う。

 果たして答えは――

「はいはい、それで合ってるよ。合ってるからドヤ顔するのやめて。普通にムカつく」

 とは言いつつも、純恋の頬にはえくぼが浮かんでいた。笑いながら悔しがっているような、それでもどこか清々しいような、そんな不思議な笑顔だった。

 その優しい笑顔に安心して、俺はほっと胸をなでおろす。

「でもごめんな純恋。俺もまさかこれがサプライズだとは思わなかったんだ。最初からそうだってわかっていれば一枚目の時点で謎解きなんてしなかったのに」

「だから気にしなくていいって。純恋の目的だって半分は成功したんだし。だいたい始めからサプライズってわかっちゃってたらサプライズの意味ないじゃん」

「ああ。そりゃそうか」

「うん。そりゃそうだ」

 そして、純恋は人懐っこいネコのようにぐぐーっと警に身を寄せる。

「あーあ、それでもやっぱりちょっとだけ悔しいかな。まさかお使いに行ってる間にぜんぶバレちゃうなんて。純恋も恢くんが悩んでる顔見たかったのに。ずるいなぁ警さん」

「おっと、それは申し訳ないことをしたね。どうせなら明日見君の写真でも撮っておけばよかったかな」

 駄々をこねる純恋に迫られ、警はあははと困ったように目を細める。

 次いで、ふと思い出したように手をポンと叩いた。

「あれ? でもスミスミ、どうして時期が二か月もズレてるんだい? 今日はもう五月の終わりだよ。誕生日のサプライズなら当日にするのが普通だと思うけれど」

「あ、そうそう。それ俺も訊きたかったんだよ」

 俺の誕生日が三月中旬なのに対して今日は五月下旬である。どうして二か月も経った今になって純恋はこんな大掛かりなサプライズを決行したのか。その点だけは俺もどうしても納得のいく説明が付けられなかった。

 純恋は落ち着かない様子で服の裾をきゅっと引っ張る。

「それは……あの時はまだプレゼントが全然出来上がってなかったからしょうがなく延期したの。でも、一昨日やっと完成したから今日渡そうと思って」

「プレゼント?」

 へえ。ゲームの他にも贈り物があったのか。至れり尽くせりだな。流石は俺の妹。

「あ、あの、恢くんっ!」

 そんなことを思っていると、純恋は頬を軽くぺちぺち叩いて自分に気合を入れ、それまでの弛緩していた空気を引き締めるように居ずまいを凛と正した。……なんだ?

「恢くんっ!」

 二回続けて純恋は俺の名前を呼ぶ。いつの間にかその表情からは笑みが消え、代わりに幾ばくかの緊張が滲んでいた。

「は、はいっ! な、なんでしょう?」

 その緊張が伝播したせいで変な受け答えをしてしまった。しかし純恋はそれどころではないらしく真剣な姿勢を崩さない。

 さりとてその様は、背伸びをして無理に大人っぽさを演出する少女ではなく、照れるあまりに切羽詰まってありのままの自分を曝け出すしかない年相応の女の子のようだった。

「お、お誕生日のお祝い遅くなってごめん……。で、でも一生懸命つくったから! 純恋がんばったから! だ、だからこれ……受け取ってほしい、な」

 そうして純恋から渡されたのは、俺の掌にようやく収まりきるかどうかというほどに大きな、手作り感満載の御守りだった。

「これは……」

 俺は手元の巨大な御守りを感慨深く見つめる。

 手作り感満載とはいうものの、だからといって拙さは微塵も感じない。むしろ、そこらの大量生産品と比較するのも烏滸がましいくらいに丁寧で完成度の高い御守りだ。

 深紅色をした手触りの良い厚手の生地には中綿がぎゅうぎゅうに詰められている。そのためふっくらと柔らかいが、握ると綿の中に百円玉くらいの硬い金属物が入れられているのがわかる。  

 全体的にデザインはあっさりしていて、中央に「御守り」の白い文字がずどんと鎮座しているのと、右下端の方に俺のイニシャルがポップな星に囲まれているだけのシンプルな装飾だった。

 ところがどっこい。

 なんとこの文字、驚くべきことに糸で出来ている。

 そう、つまりは刺繍だ。別の生地を文字の形に切り抜いて上から縫い付けているのではない。一本一本の細い糸を何度も何度も縫い重ねることによって文字を浮かび上がらせているのだ。

 いったいどれだけの時間をかけて、どれほどの想いを込めて、純恋は御守りを紡いでくれたのか。

 裁縫にとんと興味のない俺でさえ、その作業がいかに手間のかかるものであるかはすぐにわかった。努力の痕跡が御守りのいたるところに現れていたからだ。

 これは並大抵の努力で作れるものではない。一般的な御守りの三倍以上はあろうかという代物を、純恋の小さな手で完成させるのは困難を極めただろう。

 二か月の――それ以上の月日の気持ちが溢れ出た、世界にたった一つだけのプレゼント。

 ……やばい。すげぇ泣きそう。

 一気にかあっと目頭が熱くなり、体の奥の方からじんじんと涙が湧き上がってくる。そのまま勢いに任せて純恋を抱きしめて、何をしても足らない感謝を思いのままに伝えたくなる。

 けれど、俺は兄として、妹の純恋の前で情けない姿は見せられない。涙ぐましい努力に涙で応えてはならない。

 俺は漏れ出そうになる嗚咽を唇を噛むことでぐっと堪え、努めて気丈に振舞った。

「……これには、どんな効果があるんだ」

 純恋は指折り数える。両手はともにグーになった。

「交通安全とか、無病息災とか、学業成就とか、あと商売繁盛とか……恢くんに必要なものがいろいろ入ってる。ぜんぶ入ってる。だから、すごい効果がある」

「そりゃあ……すごい代物だな」

 俺は笑う。あるいは泣いているかもしれない。

 純恋も笑う。俺の分まで笑ってくれる。

「うん、すごいの。とってもとってもすごいの。だから大事にしてほしい。できればずっと……いつまでもずっと――大切にしてください」

「純恋……」

 その健気なお願いに、俺は言いようもなく胸を打たれた。

 ――大切にしてほしいなんて、悲しいことを言わないでくれ。

 ――もしかしたら大切にされないかもなんて、悲しい想像をしないでくれ。

 そんな当たり前のこと、お願いされるまでもない。

 血の繋がりこそないけど俺と純恋は家族じゃないか。

 血よりも深い絆で結ばれた家族じゃないか。

 何よりもかけがえのない家族からの贈り物を、俺が大切にしないわけがない。

 だから、渾身の力を込めて断言する。

 その想いに背くことはないと宣言する。

 ありきたりだけど、ありふれてるけど、それでも精いっぱいの想いを込めて、誓う。

「ありがとう純恋。絶対、一生大切にする」

「――うんっ!」

 純恋は、今にも泣きだしそうに微笑んだ。


×  ×  ×


 現在、時刻は午後五時半。

 俺と警は這う這うの体で帰路についていた。

「つっっっかれたぁぁぁ……」

「つっっっかれたねぇぇぇ……」

 あの後、俺が純恋から素敵な素敵なプレゼントを頂戴した後、絶妙なタイミングで目を覚ました虎によって拉致られた俺たちは散々しっちゃかめっちゃかにされた。

 おにごっこ、かくれんぼ、縄跳び、トランプ、おままごと、折り紙、エトセトラエトセトラ……。ありとあらゆる遊びに駆り出され、息をつく暇もないくらいに弄ばれた。

そしてあれよあれよと時は過ぎ、ようやく解放されたのがついさっき。俺たちは正心こども園に別れを告げ、緩慢な足運びでとぼとぼと歩く。

 そんな折、隣を行く警がちらちらとこちらを見てきた。

「やー、しかしもうこんな時間かー。まだまだ明るいとはいえ女の子ひとりで帰るには不安だなー。怖いなー。あーあ、か弱い可愛い私を送ってくれる人がどこかにいないかなー」

 うざっ。

「そんな棒読みでアピールしなくても送ってやるよ。俺だってそれくらいは弁えてる」

 いや、本当は育美さんに警を家まで送るよう厳命されたからなんだけど。

「へえ、意外だね。君はもっとドライに私を道端に捨て置くものだと思っていたけれど。これは何か裏がありそうだ」

 俺の養殖イケメンムーヴを目の当たりにした警は訝しそうに目を細める。俺にどんなイメージ持ってんだお前は。図星なだけに言い訳しづらいだろうが。

「俺はドライなんじゃない。クールなだけだ」

「クールな人は自分をクールとは言わないよ。明日見フール君」

「だれが愚か者だ」

「じゃあグール君」

「人を化け物みたいに呼ぶな」

「ムール君」

「かいはかいでも貝じゃねぇ」

「クックドゥードゥルドゥー君」

「鶏でもねぇ! つーか原型なくなってんじゃねぇか!」

 素人の漫才じみた応酬に苛立ったせいで思わず叫んでしまう。その音に驚いたカラスが木々からバサバサと飛び去った。

「んふふっ。明日見君は打てば響いてくれるから面白くていいね。そんなつもりはないのについつい悪ふざけしてしまうよ」

「逆に俺はお前を打ってやりたいくらいだ。出る杭的な意味で」

「んー、あんまり上手いことは言えてないかな。四十二点」

「人に点数つけんな。……もういい。面倒だからこれで手打ちにしといてやる」

「あ、それは少し上手いかも」

 などと、暇つぶしにさえならない馬鹿話を繰り広げながら雑木林をくぐる。


「――せっかく来たのに挨拶もせんで帰るつもりかい」


 そこで、本日二度目の避けたかった出会いがあった。

「げっ……!」

 どうやら今日の俺の運勢は最悪らしい。ここにきてラスボスが登場するとは。

 そこには世界を統べる魔王――というか仁王立ちの育代先生がいた。

 まるで老いを感じさせない覇気のある冴え冴えとした瞳。健康体であることを主張する血色の良い肌。背丈は低いものの腰はまっすぐに伸びていて、育美さんとの血の繋がりを感じさせる整った顔立ちにはくっきりと深い皺が刻まれている。

 まさしく魔王の風格。最後の最後に相手にしていい相手じゃないぞこれ。

「ああん? なんだいその態度は。恢、あんたちょっと見ない間に随分と大物になったみたいだね。大口をたたくようになったみたいだね」

 先生は鋭い小言をチクチクと遠慮なしに刺してくるが、俺もその舌鋒には慣れたものなのでへらへらと軽口を返す。

「あ、久しぶり育代先生。出かけたって聞いてたけど帰ってきたんだ。おかえりおかえり。や~元気そうで何よりだよ。なんなら十年くらい若返ったんじゃない? すごい綺麗になった気がするよ、いやほんと」

「はんっ。そそくさと帰ろうとしていたくせによくもまあ抜け抜けとご立派な社交辞令を言えたもんだ。そういうところは相変わらず狡賢くて小者臭がすごいね。逆に感心しちまうよ。あと、あたしのことはばあちゃんと呼びな」

「オケオッケー。今後は善処するよう前向きに検討を重ねていくよ」

「……なんだいその腹が立つ謎の返事。変なこと覚えてくるんじゃないよ。チビたちが真似したらどうするつもりだい」

 あ、やっぱり俺以外もイラつくんだこの言葉。よし、今度飛ケ谷にさりげなく教えてやろう。

 とまあこのように、育代先生は基本的に俺に対して当たりがかなりキツイ。幸良や純恋たちには普通に優しいのに、それが俺となると滅茶苦茶に厳しい皮肉を平気でポンポンぶつけてくるのだ。

 まあ、先生が俺にだけ厳しいのは昔から俺が先生の指示をずっと無視してきたことが原因だから自業自得と言えなくもないけど。

「それで、そちらのお嬢さんは」

 育代先生が警に水を向ける。

 俺が紹介するまでもなく警は流れるように自己紹介に入った。

「初めまして育代おばあちゃん。私は警凛護といいます。明日見君の友人です」

 おい、お前が呼ぶな。

 育代先生は皺の寄った眉を少しだけ和らげる。端から見ればわかりづらいものの、それが先生の見せる笑顔だった。

「純恋から話は聞いとるよ。チビたちの面倒を見てくれたそうじゃないか。帰る前にあたしからも礼を言わせとくれ。今日は助かったよ、ありがとうね」

 深すぎず、けれど浅すぎず。折り目正しく両手をそろえ、絶妙な角度で楚々と頭を下げる。なんとも品のある所作だった。

「そんな、私は大したことはしてませんから……」

 ふるふると両手を振ってお礼を固辞する警。

 先生は顔を上げ、もう一度わかりづらい笑みを投げかけた。

「こういうときは素直に受け取っとくもんだよお嬢さん。それとこれも純恋から聞いたんだけど、どうも隣のバカ息子がなにか失礼を働いたそうだね。良い機会だからそっちも謝らせとくれ。すまなかったね」

「あ、はい。そっちは喜んで受け取らせていただきます」

 やめろ。勝手に俺を受け取るな。

 このまま警に場の主導権を持たせていては何をしでかすかわからない。俺は二人の間に割って入る。

「挨拶しに行かなかったのは悪かったけどさ、こっちも色々と都合があるんだよ。これから警を家に送らなくちゃいけないし説教はまた今度にしてほしいんだけど」

「説教なんてしやしないよ。あんたは言って聞く子じゃないだろ。第一、何事も自分で考えて行動しなくちゃ意味はないからね」

「だったら――」

「まあ待ちなって、せっかちな子だね。説教はしないけど用はあるんだよ。どうしても恢に訊いておかなくちゃならないことがね」

「訊いておかなくちゃならないこと?」

 何やら嫌な予感がする。まさか、俺が学園の寮で寮母さんの目をかいくぐって学生向けの賭場を開こうとしているのがバレたのだろうか。それはまずいな……。

 けれどそれは杞憂で、質問はもっとソフトなものだった。

「あたしも詳しくは知らんが、どうやらあんた暗号が書かれた紙をいくつか渡されたみたいじゃないか。公民館にいたときに純恋が教えてくれたよ。帰ったら謎解きゲームを始めるとかどうとかね」

 なんだ、またその話か。

「ああ。ま、厳密には違うけどたしかに貰ったよ。四枚ほどね」

 これも一種の誕生日プレゼントだと解釈した俺は、額縁に入れて飾ろうとしていた四枚の紙をポケットから取り出す。でも、これがどうしたというのだろう?

「ちょっと気になることがあってね。あたしにも見せとくれ」

「暗号を? でもこの謎は全部解けたから今さら――」

「いいから寄こしな」

「あっはい」

 迫力に気圧された俺はすごすごと渡す。ここだけの話、俺は育代先生にだけは頭が上がらないのだ。……よくよく考えると大体の人に頭が上がってないな俺。

 まあ、先人曰く実った稲穂ほど頭を垂れるそうなので、大体の人に頭が上がらないということは、逆に俺が謙虚で徳が高くて教養も深い完璧超人であることの証左とも言えるだろう。きっとそうにちがいない。

 俺がどうでもいい考え事をする傍ら、育代先生は受け取った紙をざっと一瞥する。四枚合わせても五秒かかるかどうかという短い時間だった。

 しかし、たったそれだけの時間で全容を把握したのか育代先生は軽く鼻を鳴らして、

「あの子もいつの間にか粋なことをするようになったもんだ。わかっちゃいたけど、子どもの成長ってのはあっという間だね……」

 と、遠い過去を思い出すような眼差しで虚空を見つめるのだった。

 ……なんだろう。子どもの成長を知ってノスタルジーに浸るのは一向に構わないが、それを今このタイミングで披露されても困る。俺は早く帰りたいのだ。

 しかし、それはそれとして俺も純恋の成長速度には語りたいところがあるので今度あらためて席を設けることにしよう。

「あ、そうだ。他にも良い物くれたんだぜ。ほら」

 俺は誇らしげに巨大な御守りを見せびらかす。先生はそれをじっくり眺めると、嬉しそうに何度もうんうんと頷いた。

「へえ、よく出来てるじゃないか。純恋は手先が器用だからねぇ。あんたも良い妹をもったもんだよ。ま、プレゼントが手作りの御守りってセンスは不器用な性格のあの子らしいけど」

「そうだろうそうだろう。しかも見た目だけじゃなくて効果もすごいんだぜ。だから一生大事に飾るんだ」

 妹煩悩な夢を語る俺を先生がにわかに一蹴する。

「飾るのはよしときな。御守りってのは身に着けてなんぼだよ。それに、生地を厚い丈夫なものにしたのも装飾を華美にしなかったのも恢が普段使いしやすいように工夫したからさ。その気遣いを汲んでやりな」

「あー、たしかに」

 なるほど。さすが育代先生。細かい箇所にも目が届く観察力は健在だな。

 まあ、普段使いするにはいくらなんでもサイズがサイズなんだけど、これは純恋の気持ちの大きさが前面に現れた結果だろうから不服に感じるわけもない。よし。それじゃあ首から下げていつも身に着けることにしよう。ナイスアドバイス先生!

「……で、恢はなんて返事したんだい」

 先生は四枚の暗号用紙を俺に手渡しつつ、なぜか神妙な面持ちでそう尋ねた。

 俺はその表情の裏側を思案することもなく答える。

「そりゃあ普通にありがとうって――」

 刹那、俺に雷が落ちた。


「このバカちんがぁっ!」


「おわっ⁉」

 落雷に度肝を抜かれた俺は仰け反りたたらを踏む。えっ? なに? なんでいきなり怒鳴られたの?

「びっ……くりしたぁ……!」

 驚いたのは俺だけではない。突然の怒声に警も身を竦めている。

 かたや育代先生は、金剛力士像のように仁王立ちしていた。

「こんなこともわからないのかい。鈍感な男だね。やっぱり確認しに来て正解だったよ。これじゃあの子があまりにも不憫だ」

 と、育代先生はひとりでに何事かを納得する。だが、それを見せられたところで俺と警が先生の行動の真意を承知できるはずがない。わけがわからない。

 それでも言われっぱなしでは終われない。後先考えずに反抗する。

「な、なんだよ急に。いきなり怒鳴んないでくれよ。鈍感とか不憫とか急に言われても意味わかんないって」

 先生の厳しい態度は変わらない。どころか眼光の鋭さがよりいっそう増した。

「無能であることは決して不善じゃないけど、無能であることに気づかないのは立派な罪だよ。それをこうも見せられちゃ怒鳴りたくもなるってもんだ」

「は、はあ……? な、なにが罪なんだよ先生。何がどうしたらそうなる。さっきまで俺たち普通に会話してただけじゃんか」

「はんっ。これでもわからないのかい。あんたが罪を犯したのは今じゃない。あんたは純恋に対して不実を働いたのさ」

 ……なんだって?

「俺が? 純恋に?」

 そう言われても心当たりがまるでない。いや、サプライズを勝手に初めて勝手に終わらせてしまったという失態はあったけど、その件については純恋本人からの許しを既に得ている。今さら育代先生に怒られる道理はないはずだ。

 だというのに、先生の眉間の皺はさらに深くなっていく。

「礼儀知らずどころの騒ぎじゃない、恥知らずもいいとこさ。よくもまあありがとうだなんて生半可な返事で済ませたもんだ」

「な、生半可じゃないって。俺だってちゃんと真剣に考えて返事したよ」

「だからその考えるべきことが誤りだって言ってんだ。あんたは端かっら思考の方向性が間違ってんのさ。そしてその過ちに気づきもしないで気楽に帰ろうとしていることにあたしは怒ってる。……それさえわからないとは、恢。あんたも腕が落ちたね」

「う、腕が落ちたって……」

 ここまで言われて俺はようやく気づく。これはもう育代先生の口が悪いとかどうとかのレベルじゃない。悪いのは先生ではなく、俺の方だ。

 俺は叱られ、責められている。先生は「明日見恢は礼儀知らずの恥知らず野郎だ」と、他ならぬ俺自身に知らしめようとしているのだ。

 けれど、俺がいったい何を間違えたというのか。

「んなことも察せられないあんたは大間違いのアホンダラだよ。少なくとも、今日に限っちゃ探偵としても兄貴としても落第もんさ」

「――っ!」

 その言葉は、俺の心に重い一撃を与えた。

 落第。たしかに先生は落第と言った。

 探偵として、兄として、今日の俺は不合格の落ちこぼれだと烙印を押した。

 ダメだ。それはダメだ。前者はどうでもいいが後者の評価だけは絶対に取り消してもらわなければならない。

 俺は誓ったのだ。兄として、家族として、純恋の想いに背くようなことはしないと。

「な、なんでそんなことまで言われなくちゃいけないんだよ! ついさっき暗号文を見たばっかりの先生になにがわかるってんだ!」

 何がそこまで育代先生を駆り立てるのか。正体不明の原動力に俺は言い知れぬ恐怖心を抱きながら、滅多打ちにされようとも必死に食い下がる。

 それでも、続く育代先生の指摘には、俺はもう息を飲むことしかできなかった。

「それじゃあ聞くけど恢。あんた、を本当に理解してるんだろうね」

「――なん、だって……?」

 その言葉の意味を、俺は本気で理解できなかった。

 理由? いちょう教室に暗号があった理由? そんなの、純恋以外にわかるはずが……。

「いちょう教室だけじゃない。砂場に、給食室に、台所に――を、あんたは一度だって考えたことがあるんだろうね」

「ば、場所に意味があるってまだ決まったわけじゃ……」

 先生は力強く否定する。

「せっかくサプライズを用意してるんだ。純恋にしてみれば落ち着ける場所であんたとゆっくり過ごした方が楽しいに決まってる。……それなのに、あの子はあえて暗号を隠したんだよ。それも四つの場所にね。だったら、そこには特別な理由があるとは思わないのかい。あんたはそれが意図的な配置だとは思わないのかい」

「………」

 呆然とする俺を先生は許さない。鋭い指摘が心を切り裂く。

「『おめでとう 振出しに戻れ』……。あんたはそれを誕生日のことだと思ったみたいだけど、とんでもない。それはただのカモフラージにすぎないよ。純恋が本当に伝えたかったメッセージは別さ」

 四つの場所? 意図的? カモフラージュ? メッセージ?

 なんだ。何を言っている。先生は何が言いたい。

 そしてそれ以上に俺は――……

「……俺は、何を見逃した」

 もうほとんど話は聞けていなかった。聞ける精神状態じゃなかった。

頭の中がぐちゃぐちゃに掻き乱されていく。積み上げられた推理が瓦解していく。俺を形成する要素が軒並み形骸化していく。

 それでも、最後に残った兄としての理性が口を衝いて出た。

「……教えてくればあちゃん。俺は……俺は、どうすればいい」

 皺の寄った眉がやっと少しだけ和らぐ。

「そっから先は自分で考えな。このツケは、将来必ずあんたに返ってくるからね」

 そして育代先生は踵を返し、有無を言わさぬ毅然とした態度で俺たちを見送った。

「――だから精々、ずうっと健康でいるこった」

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謎部 初手えあぷ @shoteeapu

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