故郷インカ

ねこみゅ

故郷インカ

 故郷インカ。500年近く経っても、あのあたたかい日々を忘れることはない。

 どれだけ今の仲間と楽しい時間を過ごしても、あの日々には到底敵わない。人の冷たさを知る前には戻れない。

 突然やってきた侵略者に父が連れて行かれたあの日、私ははじめて、失う恐怖をおぼえた。そのときに、生贄にされた少女の母親が泣いていた理由がやっとわかった。もう会えないかもしれない。もう声が聞けないかもしれない。もう私の話を聞いてくれることもないかもしれない。そんな混乱している状態の私に、父は「元気でな」といつも通りの太陽のような暖かい笑みをくれた。それが私が見た父の最期だった。

 私は侵略者たちに無理やり連れられ、父とは引き剥がされてしまった。その一か月くらい後、彼らから父が亡くなったことを伝えられた。

 父と過ごした日々は、本当に退屈で、つまらないものだった。幼い頃はどっちが先にゴールできるか、かけっこをした。いっつも父が手加減してくれてたけど。ちょっと成長して、この国の文化や歴史を父ご自慢の絵で教えられた。正直言って、父の絵はヘタだったけど。私が風邪を引いたときは、トマトのスープを作ってくれた。どう考えても、味が濃すぎだったけど。面倒なときは、父の長話なんてまともに聞いてすらいなかった。織物に夢中になってた時期は、話しかけられるのが嫌すぎて、早くいなくなってほしいなんてことまで考えてた。

 毎日全部が同じようなことの繰り返しで、面白みがなくて、一番くだらなくて、一番あたたかかった。

 結局、大切なものに気付かされるのは、いつも失ったあと。いつか失うことなんて分かりきっているのに、なぜか、きっとまだ失わないだろうと呑気にしていた。失う時がこんなに突然やってくるだなんて、思ってもいなかった。

 失った人が私の前に現れることはない。もう会えない。話せない。父の死因は知らされていないが、あの時代の侵略者のことだ。おそらく神のために逝くはずだった父の言い分など何一つ聞かなかったのだろう。

 インカはもうない。インカは、もうないのだと侵略者に何度言い聞かされただろうか。私はインカを捨てることなどしないが、今の私は、インカではなくこのペルーというこの国の精霊なのだ。父の遺したものを守りながら、今あるこのペルーの行先を見守っている。

 そういえば、クスコで父が作ったものであろうキープが見つかったんだっけ。これは、インカの人々が情報や思いを伝えるために使った、要するに文字の代わりのようなものだ。文字とは違って、色とりどりの紐を使って言葉を綴るのだけど。もともとはカラフルで可愛くて、綺麗なものなのだけれど、今見つかるほとんどの物は、長い年月のせいで色あせて、ぼろぼろになっている。

 父が遺したそれは、先月預かってからまだ一度も出していない。私は覚悟を決め、埃を全く被っていない箱を無理やりこじ開けた。その中には、確かに父の癖のある結び方がわかるキープが入っていた。いつ作ったものかわからないが、私の記憶の中には、はっきりとその解読方法が残っている。色が薄くなっていてわかりづらいが、

「娘の大切な将来に、私の影が残らぬよう、私が死んだことは黙っていてほしい」

と綴られているのがわかった。その内容に驚いた私は、そのキープを思わず手に取った。その瞬間、箱の底に紙切れを見つけた。そこにも、同じ内容が書き慣れていないスペイン語で書かれていた。久々に父の温度を感じ、たった一人で悲しくなりながら、静かに笑った。

「Seguro que están cerca.」

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故郷インカ ねこみゅ @nukonokonekocha

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