雪原の王
「あれは去年の極夜が終わった頃の事……、そうじゃな。ジョージがあのハンマーを置いて行って半年ほど経った頃じゃ。ワシはアザラシを狩りに出かけたんじゃ。二頭の犬にソリを引かせての。一人での狩りは危険も伴うし、効率も悪い。……が、昔ながらのイヌイットの暮らしを続ける仲間も少なくなった。ま、狙うは小型のアザラシじゃ。セイウチやクジラを狩る訳じゃないから、一人と二頭で十分じゃと思ったんじゃ」
ブブ爺は当時を思い出すように中空を見上げながら話し始めた。カイとジョージは黙って耳を傾けている。時にはブブ爺の顔に視線をやり、時にはランタンの炎を見つめながら。
「アザラシの呼吸孔を見つけるのは昔から得意じゃった。遠くからでも氷に空いた小さな穴をワシは不思議と簡単に見つけられた。二頭の犬の気配でアザラシが逃げないように、遠くに穴を見つけたら犬をその場に止めてワシ一人でその穴に向かったんじゃ。その日も、いつものように。穴の傍まで辿り着いたら、そこからは持久戦じゃからの。アザラシがその穴から顔を出すまでの持久戦に生き物の気配は少ない方がいい。犬は呼べば寄って来る距離じゃからの。何の問題もないはずじゃった」
ブブ爺は話を続ける。
「じゃが、その日はおかしな事に見つけた穴に近づいて見ると見間違いだったのか穴などなくて、その場で顔を上げてみると少し先に穴がある。そして、その穴に近づいてみるとやっぱり穴などなくて、顔を上げると少し先に穴がある……、そんな事を何度も繰り返したんじゃ。するといつの間にか犬達からは遠く離れていて、そしてすぐ傍でグルルと低く唸る声が聞こえたんじゃ」
「まさか、雪原の王!?」
ずっと黙って聞いていたカイが叫んだ。
「雪原の王?」
ジョージはカイに聞き返す。
「あぁ、超大型の白熊さ。普通の白熊は積極的にヒトを狩ろうとはしないんだけど、雪原の王と呼ばれる白熊だけは、ヒトを食う為に策を練る……それくらいの事を噂されているヤツなんだ」
「マジかよ」
カイとジョージは顔を見合わせ、すぐにブブ爺に向き直る。
「その通り。あれは雪原の王に違いなかった。噂に聞いていた黄味がかった顔と、以前に撃たれた時に欠けたという耳。その特徴を持った巨体がワシの後ろにおったんじゃ。今にもワシに襲い掛かってこんという体勢で」
ブブ爺の話を前のめりになって聞いているカイとジョージの喉の奥で唾を飲み込む音が鳴る。
「ワシはジョージにもらったハンマーを手に持っておった。アレは大きさも重さも手ごろで、氷から頭を出したアザラシを一撃で昏倒させるのに重宝しておったんじゃ。じゃが、どうする? 随分離れてしまった犬達の加勢は望めない。手に持ったハンマーはアザラシには有効でも臨戦態勢の雪原の王に立ち向かうにはリーチも短い、そもそも殴ったところでひるむのかさえ分からない。ワシはおそらく数秒、何も出来ずに立ちすくんでおったよ」
中空に目をやり懐かしむように話していたブブ爺の目はそこで子供のような無邪気な笑みを湛えた。
「ありがとう、ジョージ。オマエがくれたハンマーのおかげで、ワシは今、こうやって生きておる」
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