ギャシュリークラムのタクシー
弟夕 写行
ギャシュリークラムのタクシー
昨日は、2日後に地球が大彗星の衝突で滅亡すると信じている若い夫婦を乗せて、常連客だと言い張れる程には行き慣れた青木ヶ原樹海へ向かった。
夫婦はどっちも、これが今生の別れだからって必死に愛を囁き合っていた。そんなメロドラマは自宅のベッドの上で済ませて来い。茶を飲むのも気まずかった、いい迷惑だ。
そいつらを運んでやると、あなたもどうですか、だなんて言葉をかけられたが丁重に断っておいた。こういう今際の際の狂った"善意"を振りかざしてくる奴らが割といるが、何が悲しくて自殺志願者の気に当てられて自分まで死ななきゃいけないのか。
俺が"自殺者"専用の個人タクシーなんてやってるのは、あくまでニッチビジネスを追い求めた先に行き着いただけだ。間違えてほしくないが、自殺に尊厳を感じたり、共感をして応援しているだなんてスタンスはちっとも取ってない。と言うより、むしろ、俺はジャンヌ・カルマンの年を超えて、ギネスに載るぐらいまで長生きしたいと思ってる口だ。それなのに、何を勘違いしてるんだか、たまにいる死を美化して、俺にも進めてくるバカ......もとい"迷惑客"はいちいち物言いがイライラするので、乗車を拒否したくなる。まあ、そんな奴ほど再乗車率は驚くほどに低いので文句はこれくらいにしておく。
そんなこんなで無事に彼岸に送り届けた帰り、スマートフォンを確認すると、女子大生らしい女から仕事の依頼が来てた。上野で落ち合うことになったので、依頼人を拾いに東京まで戻る前に、どこかのサービスエリアに入って腹ごしらえをすることにする。
ソバだのハンバーガーだの唐揚げだの、こういった所に置かれた食事を扱う自動販売機の素気なく安っぽい飯も、今のような少し風も冷たく感じる涼しい深夜に食べるとなかなかどうして、普通の食事より3割増しで体に染みるように感じる。こんなつまらない無味乾燥な仕事をしてる中での小さな心のオアシスだ。
腹ごしらえを早々に済ませ、車を走らせて上野駅の前に着くと、車を路肩に置いて、メッセージに送られ来た特徴に合致する相手を探して、駅周辺をそれとなく辺りを見回す。
ウサギのぬいぐるみ型の鞄をしょってるって話しだったが......おっ、居た居た。
「すみません。ご依頼主のヒビキさんですか?運転手の本郷です。」
「ああ......はい。本郷さん、ありがとう...ございます。ご足労...いただいて。大学生の、えと、ヒビキです。よろしく......お願いします」
目にかかるぐらい全体的に長い黒髪で、上下真っ黒手前の灰色、チャコールグレーって言ったけ、で揃えた露出を限りなく無くした服装。黒のマスク。手には、年に似合わないぐらいやけに年季の入った鶴見済の『完全自殺マニュアル』と、百人一首の札を2枚持ってた。どことなくメンヘラ臭が漂っている。
こういう奴は、話しかけてもろくなレスポンスが無いから、車内が気まずくてしょうがなくなるんで、あまり客としては好ましくない。まぁ、悲しいことにそういう奴ほど俺の仕事のメインの客層とドンピシャリなわけだが。
今回は依頼ありがとうございます、そうやって礼を口にすると、女、ヒビキは黙って頷く。
あーあ、こりゃメンヘラでストライクだわ。つまらない無言の旅を想像してげんなりする。
「車、ここからすぐのところに停めてるんで、早いところ行きましょうか。」
俺の言葉の後に、何か、?う?っぷ...られて?いいですね、みたいな声がところどころ聞こえてきたけども、生憎よく聞き取れなかったから、仕方なく愛想笑いをしておいた。
自分とか周りとかに不貞腐れてるのか知らねえけどもさ、メンヘラさん、ぶつくさ言わずにもっとハキハキ話してくださいよっつう話だ。
「わあ......車、こんなに大きいタイプなんですね。タクシーだって言っていたので......もっと小さな軽かと思ってました。」
おっ?予想と違って自分から話しかけてきた。これなら無言コースは避けられそうか?
「たまにね、一家心中する家族とか、ネット掲示板で知り合ったとかいう複数人の団体とかから依頼が来たりするんです。だから、軽じゃなく、6人乗りのワンボックス。」
そうなんですね、女は合点がいったらしく、小声でそう呟く。
このヒビキって女、さっきから小声で聴き取りにくさはあるけども何気によく俺へ話しかけてくるな。今更思うと、さっき愛想笑い返した時、おそらくは、駐禁切符切られてないといいですねって言ってたんじゃなかろうか。
どうやらメンヘラとは違うらしい。勝手なレッテル貼り申し訳ないと謝っておく。
「で、どこまで行きますか?」
「えと、それじゃあ...... 波戸岬灯台でも......良い......ですか?」
灯台まで、これは結構よくありがちな注文だ。
ただそれ以上に来る奴の半数は青木ヶ原樹海と東尋坊、それと犬吠埼を無難によく選ぶ。だから、そこに向かう奴らを俺は「アトイ」って勝手に一括りのグループにして呼んでる。
「分かりました。ハドミサキ......ハドミサキと.........佐賀県唐津市!?」
スマホで調べてみると佐賀の灯台だった。これまた、かなり大きく出られた。
正直言って遠出は面倒なのだ。さっき言ってた「アトイ」はどれだけ行っても中部地方内で帰って来られる。
前にはそれぞれ一度、恐山までってのと、神戸ルミナリエを見てから逝きたいとは言われたことはあったが、九州まで乗り継ごうとされるなんてのは初めてだ。
やっぱり、このヒビキって女、メンヘラなんて言葉一つではちっとも語れそうにない、只者じゃない雰囲気である。
ヒビキを乗っけて、一般道を通る。俺は高速道路を使いたかったが、客からの道指定の要望にはどんなタクシーであれ、基本応えるものだ。
「ヒビキさん、何か流してもいいですか?」
こくりと小さくヒビキが頷く。
正直、確認を取らずに音楽なり、ラジオなり流してもいいのだが、時たま静寂で死にたがる厄介な奴がいて、そういうのが文句を言ってくる。
本当に静寂のままに死にたいのなら、こんなタクシーなど使わず、自宅で首を括ればいい話だ。所詮、死ぬ前の見栄っ張り。ただのポーズでしか無い。
俺はダッシュボードに置いたスマートフォンを付け、音声データをランダム再生でかける。
『朝早くから雨が降っている』
今日は「ずぶぬれの木曜日」からか。イラストの記憶を頭の中で浮かべていく。
俺はエドワード・ゴーリーが好きだ。
愛読書にしている。本当はこのつまらない仕事中、読んでいたい。
ただ、彼の絵本を読みつつ、ながら運転というのは当然、道交法違反である。
だから、朗読音声として聴き流すことにしている。今で言うオーディオ・ブックみたいなことだ。音声は、5年前、ある若い女を客に乗せた時に、親友の最期に立ち会いたいからと、車に乗りたがった声優かナレーターの女に、例外的に同乗を許可する代わりに読ませたものを使っている。
『ブルーノはどこだ?』
気高く利口な黒い犬も、どうやら主人の傘を探す仕事に乗り出したようである。
「あの......これってゴーリーって絵本作家の人の作品ですか?......Aはエイミー落下死した......みたいな。」
「そうです、そうです。エドワード・ゴーリー、アメリカの絵本作家。日本では"大人の絵本作家"なんて言われ方して有名でね。内容が結構、暗かったり、ナンセンス的だったりが多いから。ヒビキさんが言ってるのは『ギャシュリークラムのちびっ子たち』ですね。Aはエイミーかいだんおちた。Bはベイジルくまにやられた。Cはクララやつれおとろえ、つってね。」
ヒビキの言葉につい舌が摩擦なく滑らかに、ペラペラ動き出してしまう。
代名詞の猫すら殆ど出てこないこの一風変わった作品で、絵も見ないで雰囲気からゴーリー作品だって分かる人間だと嬉しいもんである。
「すみません。興が乗ってしまって、ペラペラと。......ところで、ヒビキさんは競技かるたでもやっていらしたんですか?」
「え、あ......どうして......そうお思いに?」
「いや、完全自殺マニュアルと一緒に百人一首の札を持ってるので、そうなのかなと。」
「これは......祖母からのメッセージなんです、小野小町の句。」
坊主捲りしかしたことのない俺には、そう言われても知らない。
ヒビキもそれを察したのか、続きを話し始める。
「えっと......桜の花が色褪せたように、物思いに耽る間に自分の容姿もすっかり老けて衰えてしまったことを詠んだ句なんです。きっと祖母は私の容姿が枯れるまで長生きしてほしい、そう思って......この句を残したんだと思います。それに、この完全自殺マニュアルも。古書店から買ってきたらしくて、私に渡したんです。そのあとすぐ亡くなってしまったから真意は......どうか分かりませんけど、死を知って長生きして......ほしかったんじゃないかな、祖母は。......その思いに......応えたかったんですけどね。」
バックミラーに目をやると、どこか郷愁と悲哀混じりの微笑みを浮かべていた。
いつもはそんなことないが、どうにもこの女、ヒビキのことが気になった。
「それなら、どうして自殺を?あ、答えたくなければ大丈夫ですよ。」
「いえ......私、不幸を周りに振りまいてしまう体質なんです。それがいい加減、嫌になってしまって......」
その言葉に相槌を打ったが、ヒビキの話には到底納得できなかった。
人間の幸不幸は完全に偶然の産物でしかない。
不幸体質だとか卑下する輩も、天に好かれているだとか憚らずに語る輩も、見方によって生まれる虚像でしかない。そういうのは、結局のところ、不幸にばかり、または幸運にばかり目を当てているだけだ。況や、ウイルスがごとく他人から不幸がばら撒かれるだなんてのは勘違い甚だしい論説であるとしか思えない。そう考えつつ、神奈川に入った。
それから、ときたま適当な他愛のない雑談をしつつ、ゴーリーの朗読を聞きながら、車を流していると、愛知も安城に入る辺りで、信号待ちをしていた折に車のドアをノックされた。
そちらを見ると、大きめの白の鞄を持った女が立っていた。いわゆる白ギャルの様な出で立ちをした金髪ポニーテールの女。どこか見覚えがある気がしてが、こんな感じの人間は五万といるだろうから気のせいだろう。
窓を開けると、ギャル風の女から意外な言葉が返ってきて面食らうことになった。
「本郷さんだよね。自殺者専用タクシーの。アタシもさ、そっちの子の自殺旅に相乗りさせてほしいなーって。」
女は猫のように目を細め、悪戯そうに笑う。
記憶違いではなかったようだ。かつて、乗せたことがある客だろうか。
「そう言われましても......困りますよ。いまは空車じゃやないんで。」
そうだ、実車なのだ。だから諦めろ。早く、早く信号よ青に変わってくれ。
こんな奴、確実に乗せれば凶事しか待ってないだろう。
「えー、つれないな。ねぇ、そっちの子からもケチンボの本郷さんに言ってよ。」
この流れは不味い。早く、信号!何してるんだ、こんな時に限って!
「......乗せてあげてくれませんか、私は......構わないので。」
「お、マジ!?こう言ってることだし、ほら扉開けてよ。」
愚痴なり呪詛なり吐きだしそうになるのを何とか我慢して、後部座席の扉の鍵を開ける。
そうして、客は3人になった。まったく嫌なことをしてくれたもんだ。
ギャルの女、ユアは満面の笑みで礼を言いながら、ヒビキの腕を掴んでぶんぶん振っている。
ヒビキもノリの違う相手に困惑している様子である。
何にしてもだ。ユア......名前に覚えはないが、兎に角、コイツの真意を探らないといけない。
「あの、どうして相乗りを希望されたんです?こういうの聞くのは野暮ったいかもですけど。」
「あー、そりゃ自殺したいからっしょ。アタシさ、今年で27なんだけど、重―い心臓病なんだよね、キョウシンショウとか言うやつ。1年前になっちゃってさぁ。それで5年で50%ぐらい死ぬかもって言われたからさ、結婚してた彼氏とさ、一緒に乗ったんだよ、このタクシーに。」
話始めると初めのあっけからんとしたあの様子はどうしたのか、次第に声のトーンが下がっていく。
「樹海行って、首吊ったんだよ。二人で最後に恋人ツナギして。でもさ、アタシだけ死にそびれちゃったんだ。これってセキニン問題だよね、アンタのさ、本郷!」
そう言って首を俺の前ににゅっと出すと、俺の首に包丁を突き付けて怒鳴った。その時に舌が見えた。スプリットタン。思い出した、あの時の客だ。クソ、なんで気付かなかった。
「待ってください、あなたはヒビキさんの自殺に相乗りしに来たんでしょ?」
「あー、あれ。嘘だよ。自殺する気なんてこれっぽっちもないから。したいのは......」
そう言うと、後ろに戻り、包丁を俺の首に向けつつ、太めの麻縄か何かを取り出し、徐に首に巻き始めた。なんだ、何してんだこいつは。頭の中が真っ白になる。
「アンタに手を汚さすことだよ!刺されたくなきゃ、これでアタシを絞め殺せ!!そしたらアンタはヒトゴロシになる。嫌だろうなぁ、だってアンタはアタシらの自殺の立ち合いすら断ってたもんねえ!」
怒り、いやもう発狂のレベルに達してやがる。そして嫌なことに、こいつのやろうとしてるのは正しく俺に対する復讐として100点満点だ。この仕事をしてると、手助けを求めてくる輩がいる。でも俺は絶対に手を貸すことはしない。なぜなら俺の仕事はタクシー運転手であって、自殺幇助人じゃ決してない。だから手なんて何が何でも汚してたまるか。といって刺されるのも当然無しだ。
「俺に引っ張れたって車を運転してるんですよ?どうやってあんたの首を締めろって?」
「そんなん簡単だよ、ヒビキとか言ったっけ、この女が片方を、アンタがもう一方を引けばいい。ハンドルぐらい片手で操作できんだろ、プロならさぁ。」
くそ、適当な理詰めじゃ崩せないか。彼氏の、コウジだっけか、あいつの話は......いや、絶対無しだ。そんなこと話したら火に油注ぐだけだ。
「ほら、はやく根性決めろよ!それとも首をずぶっと刺されるのが好みなのかよ?」
あぁ、やっぱり凶事が降ってきやがった。乗せるんじゃなかった。
「分かった。要求通り、首を絞める。ただ、待ってくれ、広島の福山サービスエリアで車を止めて、そこで首を絞める。それでいいだろ?」
「なに、チンタラしたこと言ってんの?今スグだよ、今スグ!」
「いいや、福山だ。それを飲まないなら、俺は対向車線のトラックに突っ込む。ほぼ確実に俺は死ぬ。そしたら、お前の悲願も達成できない。それでもいいんだな。」
「はぁ?アンタ、立場分かって」
「いいんだなって聞いてるんだ!いいか。これはな、取引なんだよ。お前が俺の家じゃなく、俺の車に乗った時点で、お前の悲願が達成されるかは俺の匙加減だ。福山だ。そこでお前の望み通りに手を汚してやる。最悪だよ、全く。」
「分かった、必ずのその福山でやれよな。そうしなきゃ、メッタ刺しだから。」
ユアは舌打ちして俺の首元からは包丁を離す。しかし、信用しきってないのか、以前としてそのギラギラ嫌に光る狂気を手放す気は無いらしい。
ようやく鼓動が落ち着いてゆく。これは因果応報か。そう頭で芽生える意識に、ゴーリーの作品のタイトル『デザートだけ、単なるデザート』の言葉を漬物石の様において、なりを潜めさせ、どうにか心を落ち着けた。
福山が次第に近くなっていくなか、岡山の人気のない田舎道、そんなところにポツンと一人、人が立っていた。酔っ払いか?俺は何度もクラクションを鳴らす。
ただ全然、どきやがらない。車通りは少しも無いのでスピードを緩めつつ逆車線に入ったけども、そいつはわざわざ車の前の方に走ってくる。
迷惑な輩だ。思わず舌打ちが出た。イライラしつつ仕方なく車を左側に寄せて一時停車する。
「ちょっと、あんた。道の邪魔になってんのが分」
「黙ってろ!怪我したくなきゃ、お前の車に乗せんだな。早くしろ!」
出て行って文句を言おうとした。ただ、目の前の輩ーバイクのヘルメットを被った男ーが怒鳴って俺の文句を遮ると、興奮しながら、俺への威嚇にナタを剣みたく振るって来やがった。
どうやら男は本気だ。触らぬ神に祟りなしである。
イヤイヤながらに、車に招くと、男は助手席側のドアを開けた。
現状、車の中は包丁片手に麻縄を首に巻いた女、そしてそれの片端を持つ女が居る。カオス真っ盛りである。
流石にこれには面食らって男はポカンとして、少し静かになったが、諦めてはくれずに助手席に乗って、早く俺に車を出発するよう促す。
何でもこうも俺ばかり。今日は本厄だったか?自然に眉間に皺がよる。
俺は頭を抱えたい気持ちを抑えて、運転席に戻ってキーを回す。
「野暮ったい真似しちまったかな。でも、悪いけんど、痴話喧嘩は俺が居なくなってからにしてくれや。いいか、下手なことすんなよ。」
男は錆びたナタを後ろの2人に翳して、暴れない様に釘を刺す。
その男の声は最初より随分落ち着いていた。おそらくさっきのCPUフリーズで興奮がいくらか解けたのだろう。そのまま処理落ちして動作停止して欲しかったもんだが。
しかし、こんなことは10年仕事をしてきて初めてのことだ。
この危なっかしい二人を優雅に叱責する自転車に是非とも連れていって欲しいものだが、悲しいかな。今日は金曜。"火曜日より後で、水曜日より前"ではない。
現実逃避をしている場合じゃない。何にせよ、邪魔者コンビを波戸岬灯台までにこの車からどうにか出さねば。そうでないと仕事に支障が出る。
できるだろうか、いや、ねばならない。
ここからの解決法を見つけることは、イアブラス氏が"弦のないハープ"を執筆するよりずっと簡単な筈だ。
あの利口な犬に思いを馳せつつ、口にする。
「『きっとどこかにあるはずだ』」
聞くと、男、ナラサキは20時間前に空き巣からの居直り強盗を働き、そのまま山道の中をひた走って逃げてきたらしい。
「しっかし、女二人連れとはいいご身分な野郎だ......いや、修羅場だからそうでもないか。」
ナラサキはヘルメットを外し、足を手に入れたためか、余裕が出来たようで軽口を叩く。
その時、腹の音が鳴った。出所はナラサキだった。
「おい、なんか飯買ってきてくれ。丸一日飲まず食わずだったんだ。勿論、お前の奢りでな。」
ナラサキの命令。思いがけない幸運である。この強盗が飯を食いたいと言い出してくれたお陰で一筋の光明がさした。唐突に現れた男、今の俺にはデウス・エクス・マキナに見えた。
「これ、ハンバーガー。全員何も食べてないですから、早めの朝ってことで。あと飲み物は俺が好きなんで果汁100%のグレープフルーツジュースを。」
全員にジュースのペットボトルとハンバーガーを回して渡してゆく。ナラサキには特別カロリーの高そうな肉肉しいのを3つ渡した。俺以外が食事を始める。ナラサキは3つに加え、小食で残したらしいヒビキのバーガーも食べていた。それを煩わしそうにみながら、ユアがジュースで薬を飲む。バックミラーを見つつ、俺は内心ほくそ笑んだ。
それから1時間せずして、ナラサキが舟をこぎ始めた。
来たか。丸一日食べてないだけであれだけ一気に炭水化物を取れば、急激な血糖値スパイクが来て当然だ。そうなりゃ、うとうとぐっすりコースである。
俺はナラサキが完全に眠りこけたのを確かめ、そのま助手席の扉の鍵を開け、思い切りナラサキを蹴り飛ばす。扉が開いてナラサキは抵抗することも出来ずに車道に鉈ごと投げ出される。ま第一関門クリアだ。
突然の俺の行動に後部座席の二人は詰まったような驚きの声を上げる。そうして暫くするとようやく状況を飲み込めたらしいユアが再び、息を巻きだした。
「邪魔者も居なくなったし、あとは福山まで行くだけだね。そこでアンタはジ・エンド。」
「いや。そうはならないんだな、これが」
俺はガードレール越しに広がる海を見ながら言葉を返す。
バックミラーを見ると、俺の反抗的な言葉に文句を言おうとでもしているのか口をパクパクさせるが出るのは擦れた呻き声だけ。それからすぐに胸を押さえて苦しみ出した。
「狭心症の人間が、そのための薬をグレープフルーツと一緒に服用しちゃいけないんだよ。お前、テレビの医療特番とかそういうのろくに見てないだろ。」
一気にドリフトをかける。鍵はかけないでおいた。こいつをガードレールから瀬戸内の海に落っことすためだ。しかし、すんでのところでユエは首に巻いた縄を俺の座席に引っ掛ける。クソっ、往生際の悪い。そう思ったのも束の間、ドン、驚くことにヒビキがユアを押した。車から完全に飛び出したユエはそのままガードレールに体をぶつけ、海の方に見えなくなった。
そうこうして、ようやく指定された先である波戸岬灯台の前に着いた。
代賃を支払って降車すると、灯台の方におぼつかない足取りで向かうヒビキ。
俺はその姿を呆然と眺める。
あの時、そうユアを押した時、ヒビキの目には光があった。死とは遠い目の輝きがあった。
純粋に死に取り憑かれてるやつとは大違いの。
「あんたさ、もうちょっと生きてみたら。」
俺はさっき買ったコーヒーを飲んで、開けた窓から大きめなボリュームでそう声をかけた。
ヒビキは振り返って俺に物憂げな微笑を向けた。そうして、またすっとろく灯台へ歩く。
「帰るか。いや羽伸ばして中洲にでも立ち寄るとするかな。」
俺は博多に向かうべく、エンジンをかける。
これから、ヒビキは、よく知らない女はどうするのだろう。そんなこと俺には関係ない。
ただ、明日の朝、彼女がどこかで陽の光に眩しさを感じていたのならば、ほんの少しだけ、愛車に着いた傷に対して、明日の俺は寛容になれるような気がした。
ギャシュリークラムのタクシー 弟夕 写行 @1Duchamp1
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