短編 北三条通り公園

阿賀沢 周子

あずまや 真理

 5月の末、花村真理は北三条通り公園の遊歩道を西へ向かって歩いていた。雲は厚く、雨上がりの歩道に、八重桜が散り始めてへばりついている。芝生のあちこちにはタンポポがたくさんつぼみを付けていた。

 真理は、公園の十三丁目のあずまやで気持ちを落ち着けるために一服しようと考えた。二時間ほど前に小さなクリニックで起きた出来事は、今の真理には何の痕跡も残していない。少し痛みが出て来るかもしれないといわれたが、どこにも異常は感じられなかった。 

 母がいる家へ帰る前に気持ちを整理しようとあずまやを覗くと先客があった。青と緑のタータンチェックのひざ掛けを腰に巻いて、編み物をしている田畑キヌがいた。掛物の上にピンクのかたまりを散らし、一心にかぎ針を動かしている。

 あずまやの北側に、キヌと真理が入居しているサンライズマンションがある。キヌは二階で、長男の修三と暮らしている。真理は真上の三階で母親と二人暮らしだった。

「今晩は。おばあちゃん、もう五時ですよ。家に入らないのですか」

 キヌは訊ねる真理の声にひと時ばかり遅れて顔を挙げたが、眉間に皴を寄せて口をもぞもぞさせるだけで声を挙げない。編み物の手は止まらない。

「冷え込んできましたよ。もう家に入ったほうが・・・」

 真理はキヌの鼻が赤くなっているのを見て寒いだろうと思ったのだった。

 キヌの膝の上のかたまりは、直径十㎝ほどの大きさの、ピンク色の毛糸で編んだ花形のモチーフだった。花が一列に繋がったのや繋がっていないのが膝から零れ落ちるほどたくさんあった。キヌの手と針は、動き続けて花を産み出している。

「お花、かわいいですね、おばあちゃん」

 真理はキヌのそばにしゃがんで、足元に落ちている花を拾い集めた。

「あっ、真理ちゃんだ。お帰り」

 かぎ針をくるくるとひねってはさみで毛糸を切ると、眉間のしわをキュッと伸ばしてキヌは笑顔になり、いましがた気がついたかのように真理を見詰めた。

「ただいま。こんなにたくさんのお花で何を作るの」

 毛糸玉が入った紙袋の横に真理は座って、拾い上げた手の中の花を膝に広げた。一枚一枚ごみを払って袋に入れた。

「あらあら、丁寧にありがとうね、真理ちゃん。なんだかあんたの顔が白く見えるのはピンク色を見続けていたからかね」

 『えっ、そうなの』真理はマンションの一階のケーキ屋の”アン”を見るふりをして顔を逸らした。キヌは出来上がった花を空にかざすようにして振っている。

「これはね、修三のベッドカバーにするの」

 真理は、修三が花にくるまれた姿を想像して笑いのツボにはまった。手に残っていた花のモチーフで顔を覆って笑いこけた。面白過ぎて涙が出てきたと思いたいが、両手を顔から離せずにいた。そっと拭いた涙は毛糸にはじかれた。笑い顔に見えるかと心配しながらキヌを見る。

「おじさんは、ベッドが花柄でも嫌がらないの」

 真理の顔をちらっと見て、キヌは黙ってポケットに手を入れ取り出したティッシュペーパーを渡した。泣いていたのを知られたかと、恥ずかしく思いながらも、少しほっとして濡れた毛糸の花びらをティッシュでぬぐって鼻をかんだ。

「ベッドの花柄が嫌だって寒いよりはましでしょ」

 修造は、母親が少しボケているから何かあればすぐ連絡してくれ、と隣近所に携帯電話の番号を書いて頼んでいた。真理のバッグにもその紙片が入っている。それ以来、真理はキヌの姿を見たら声を掛けるようにしていた。

「おばあちゃん、タバコ吸っていいですか」

「いいよ。私も一本もらおうかな」

 母親が嫌がるので、家ではタバコを喫わない。バッグから白っぽい紙包みを出して一本咥え火をつけてキヌに渡した。自分の煙草に火をつけていると、キヌはいきなり深く吸い込み咽た。

「おばあちゃん大丈夫ですか。タバコを喫うの初めてなの?」

 真理は喉まで赤くなって咽るキヌの背をさすった。

「きついもんだねぇ」

 キヌは真理が握っていたポケットティッシュの残りを取り、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を拭いた。

「ごめんなさい。てっきり喫えると思ったの」

「私が頂戴って言ったんだからいいのよ。この世とおさらばする前に、一度タバコをやってみたかったの。他にもまだあるのよ。死ぬまでにやっておきたいこと」

 目を赤くしたキヌが、悪戯をする子どものような顔つきで自分の部屋を見上げ、舌をちらっと出すのが見えた。

「やっておきたいことってなんですか」

「なんだと思う。当ててみて」

 キヌは再び花形のモチーフを編み始めた。輪を作りその中にかぎ針で編みこんでいく。二回り目も三回り目も同じように編み進み最後は花びらのように丸みをつけていく。六辺の花びらが完成すると、最後に引き抜いて閉じ、毛糸を切る。本も見ずに数分で一個を完成させる。編み始めたら、真理の存在を忘れたように一心になっていた。

「わからないから教えてください。お願い」

 真理はもう一個花びらが出来上がるのを待たなければならなかった。

「降参かい。あのね」

 キヌは真理の膝に触れくつくつ笑う。

「ぴ・あ・す」

「ピアスってこれのこと」

 自分の耳を指さしキヌを見つめた。

「年寄りのくせにっていう顔をしているね。タバコを勧めたあんただから打ち明けたのに」

「反対しているのじゃあないんです。どうしてピアスがしたいのかなと思って」

 あずまやのそばの街灯が燈った。いつの間にか”アン”のイルミネーションが明るさを増し、角の”河合書房”のネオンが目を惹く。

「そろそろ修造が帰ってくるね」

 キヌは目を凝らして十丁目の北大植物園の方を見る。

「ピアスのこと教えてください」

「私くらいの齢になると、本当にしたいことなんて思いつかない。食べたいものも、行きたいところもない。あとはお迎えを待つばかり。やり残したことが何かないか探したって見つからないものだよ。でも真理ちゃんのおかげで、二つ見つかった」

 キヌは二人の間にあった紙袋をよけて真理にくっつき、腰に巻いてあった膝掛けを広げて二人の脚に掛けた。肩に手を回され、上背のある真理は背を丸くした。雲の厚い夕暮れは早く、冷たい風があずまやをくぐる。キヌとくっついているからか寒くはなかった。

「あんたは公園の雪が解けると、ここでタバコを吸ってから部屋に帰るようになった。編み物をしながら窓から見ていたよ。幸せそうに、ほっと吐く息が聞こえそうな顔で。家の人ものんでいたの。いい香りをさせてね。私はどんなにかおいしいものなんだろうと思っていた」

 キヌが部屋から公園を見ていたのには気付かなかった。

「一度はそのおいしそうなタバコをごちそうになろうとねらっていたのよ。でも今日は真理ちゃん、いつもよりおいしそうにしないし、むせちゃうし」

 真理はゆっくりと絹の腕を肩から下ろした。小さなキヌの腕がきついだろうと思ったし、丸め背が痛くなってきたからだが、キヌが肩をすぼめて寒そうに見えたので、思わず左腕で抱きしめた。

「わたしも今日の煙草はいつものようにおいしくはありませんでした」 

 真理は今日の出来事を考えると、いたたまれなくなって首を小さく振り腹に右手を当てた。キヌが真理の顔を見上げたのにも気づかない。

「悲しい」

 真理は自分がそういったと思ったが、キヌの声だった。自分の身に起きたことがキヌにわかったのだろうかと考えた。ボケているというのに? 「悲しい」のはあこがれていたたばこが思ったほどうまくはなかったからだろうと思うことにした。

「おじさんが帰ってくる前に部屋へ戻りましょ」

 気温が下がり吐く息が白くなっている。

「ここで待っているよ」

「寒いでしょ、おばあちゃん」

「大丈夫。ここだったら修ちゃんが帰ってきたのがわかるし。そろそろ来るはずだもの」

 キヌは編み物の道具を紙袋に入れ、がさがさと折りたたむ。真理は少しでも暖かいようにひざ掛けを広げてでキヌをすっぽり包んだ。

「ピアスはねぇ。去年の秋の公園祭りの時、真理ちゃんが輪っかの耳飾りをしていたのが可愛くて」

「輪っかって、フープピアスのこと?」

「それで、私が結婚して間もないころ、フラメンコが流行っていたのを思い出したの。テレビで見ていると、耳にきらきら光る輪っかをして激しく踊っている。どうやって耳につけたのかも分からなかったけど、憧れていたんだよね。少し前に、ピアスっていうものだって河合書房の奥さんに教えてもらったの。ああ、そういうこと出来るんだって嬉しくなって」

 真理はいつの間にか腹部に置く自分の手の上に、温かくさらさらしたキヌの左手が重ねられているのに気づいた。絹の頭が真理の肩に心地よくもたれるている。

「ピアスって痛いのかい」

「おばあちゃん、痛いですよ。耳に穴をあけるのですから。でも、少しの間だけです」

 植物園の方から、仕事帰りの人が数人こちらへ向かってくる。薄暮に十一丁目の角の美容室やカフェのライトが際立つ。六時過ぎのいつもの風景だった。公園沿いの十七丁目まで散在するマンションに吸い込まれていく人々や車が一番多い時間帯だった。

「私は皮膚科へ行って開けてもらいました。先生が機械で耳たぶを挟んで『いいですか』って言った瞬間にバチッとやられるんです。その時より後の方が痛かったけど。気になったのは三日ぐらいでした」

「河合書房の奥さんは、みんな自分で穴を開けるって言っていたけどね」

「そういう人もいますけど、失敗して、化膿したりアレルギーみたいになったり、結構大変だって聞いていたし。私は自分でする勇気もなくって病院へ行きました」

 今回は耳の時とは比べ物にならない苦痛があった。自分だけを痛めることではなかったから。

「私の耳たぶは薄っぺらいから自分でできるね」

 キヌは右手の親指と人差し指で耳たぶを挟んで引っ張った。キヌの手が離れたところへ夕の寒さが戻ってきた。

 遊歩道を、背広姿の中年男性が二人話をしながら近づいてきた。声のする薄暗いあずまやを覗くようにして通り過ぎて行った。

「どうしてもピアスをするのですか?」

「どうしてもする」

 キヌはそう言ってコロコロと笑った。真理から頭を離し今度は両手で耳を引っ張った。

「身体髪膚、これを父母に受くって。大事にするのが孝行と教えられたけど、親より長生きしたからね。少しぐらいあの世の親も大目に見てくれるよ」

『難しいことは分からないけど、ピアスが親不孝だったら、私はとてつもない不孝者になっちゃう』

 真理は反射的に体が震えるのを感じたが、笑顔をキヌに向けた。このボケているという老女は真理のことに関係なく楽しそうに話をしているが、真理の心に一番近いところにいる気がする。おじさんが来るまでキヌと一緒にいよう。今日あったことを伝えなければならない人がいるのだから、もう少し冷静になれるように。

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