第二話 地下牢の男(前編)

 私がその人に会ったのは今から三年前、六歳の頃だった。その頃はトレーニングをしておらず、私は自由気ままに日々を過ごしていた。その日も学校をサボって中庭を散歩していたのだが、突然石一つないところで躓き、疑問に思った私は躓いた辺りを手で探ってみることにした。

 すると何かの出っ張りを捉え、指でなぞると、見事に取っ手のようなものを描いた。その「何か」の上には土が軽く被っているだけだったので手できれいに払ってみることにした。手が真っ黒になりながらも、一払いするたびに口元に緊張が走り口角が上がっていく。とうとうその何かが地下へと繋がるハッチだとわかったとき、私の好奇心は最高潮に達した。私はすぐさま取っ手を掴み、引き上げた。...がダメだった。満身の力を込めてもうんともすんともいわないし、強化魔法を自身にかけて再挑戦してもびくともしなかった。自分の手が取っ手なぞという無機物に拒否されているようにさえ感じられ、酷く落ち込み諦めかけたが、ふと何週間か前に行った‘てこ’の実験を思い出し、裏門近くに位置する倉庫に丁度いいものがないか探してみた。都合よくバールを見つけ、なるべく早く中庭へ戻った。ただ、見かけよりも重く、そして自分の身長と対して変わらないほどに大きかったので、不本意に倉庫から中庭まで引きずった跡を作ってしまった。幸い石畳の道からは外れていたので、もしものときは隠すことができるが......。

 バールの短い方を取っ手に引っ掛け、支点を地面に固定し、長い方を力点にして思い切り引き下げた。それでも中々動かなかったが、ズッズッと鳴っていたのでしばらく続けているとゴアッ!という大きな音と共にとうとうハッチの扉部分が浮いた。どうやら長年使われず、サビついていたために摩擦が強く働いて開きにくくなっていたらしく、後は軽く持ち上げることが出来た。中を覗き込むと暗い穴になっていて、壁に梯子が付いている。私はバールをハッチ入口の傍らに置いて、指先に魔法の明かりを灯して慎重に梯子を降りていった。

 壁一面に苔がむし、異臭が漂い、それでいて思いの外穴が深かったため、私は恐怖してしまい、いっそ何も見なかったことにして戻ろうかと考えた。手を上の方へ伸ばしたその時ガラガラ、ジャラジャラとけたたましい音が鳴り響いた。

 金属同士がぶつかる音だろうか?いや、そんなことより…この下に誰かいる。

 私の好奇心は再び覚醒し、脚をすべらせやしないかという不安も忘れ、さながら逃げ惑う昆虫のように手足を動かしてあっという間に穴の底に着いた。金属音は尚も鳴り続け、上を見上げると入口が硬貨一枚分ほどの大きさしかないように見えた。

 底には二人同時には通れない一本道が続いていて、水はけが悪く水たまりと怪しいキノコがあちこちに出来ていた。暫く進むと音が段々と大きくなり、一応灯りを消して壁伝いに進んでいった。ふと、壁の感触がなくなり、部屋のようなものがあるのかと考えた。音の正体は部屋の中から聞こえていて、目を凝らすと、道と部屋を隔てている鉄格子がかすかに見えた。牢屋だった。

 そこから顔が歪みそうなほどの腐敗臭が鼻を突き刺し、真っ暗な中で誰かが暴れまわる音だけが聞こえていた。目が暗闇に慣れてきて、牢屋の中にある小さな蝋燭だけでなんとなく見えるようになった。私は息を呑んだ。

 どす黒い緑色の鱗の塊が何色とも判別できない布切れを腰に巻いて奇声をあげながら頭を壁に打ち付けていたのが見えた。獣人系の人種らしく、背丈は男の大人っぽかった。その人の額からは血がドクドクと流れ、むき出しの肌にも無数の爪痕が付いていた。目が大きく見開かれ、真っ赤に充血し、苦痛と憎しみに苛まれたその心そのものが顔面に刻まれていた。

 私はその狂気に当てられて思わず後ずさり、派手な音を立てて足を水たまりに入れてしまった。瞬間、牢屋の男がこちらを振り向き、その拍子に蝋燭が倒れ火が消えてしまう。そのとき、ここには血の滴る音と荒い息遣いしか存在しないように思えた。

 でも、男はここにいる。あの恐ろしい目で、こちらを見据えている。あの憎しみをこちらにぶつけてくるのではないだろうか。その気になればこんな鉄格子、ひょいと折り曲げて、あの大きな爪で私を八つ裂きにするのではないだろうか。そんな考えが頭をよぎる。今すぐ逃げたいのに、ここに来たことを後悔して仕方がないのに、脚がすくんで動かない。手が震える。唾を飲み込む。全身に力がこもって呼吸の仕方も忘れてしまいそうだ。こうやって立っているだけでこの男に命を削られていく気がする。

 それでも、一つの思いが私の勇気を奮い立たせた。この人を助けられないだろうか、と。きっとなにか悪いことをしてここに閉じ込められているに違いないだろう。しかし、その凶暴性を見せつけられても、いやむしろ見てしまったからこそ生まれたこの気持ちを蔑ろにすることなんて出来なかった。この気持ちが、想いが、なんなのかは分からない。でも、とにかくこの人と話をしてみなければ分からないまま終わってしまう。そんなのはいやだ。

「…あの。」

 私は掠れ、裏返った声で言葉を発した。

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