聖女になれなかった聖女

夏樹

第1話 前編

 

「愛、か……」


 愛子は鏡に映った自分の輪郭をなぞりながら、ぽつりと呟いた。

 静まり返った部屋のなかで、それは空気に溶けるように消えていったが、愛子自身の中にはいつまでもしこりのように残った。

 ここにきて随分と時が流れた。

 あっという間でしたね、と笑う人々や、今までよく頑張りましたね、と労わる人々を思い出しながら、愛子は己の心の奥底の、一番深くに沈めた箱の口が一段と硬くなったことがよく分かった。


「アイコ様、そろそろお時間です」

「はい……」


 部屋の隅に控えていた侍女から告げられ、愛子は静かに立ち上がった。

 控えていた侍女がそっと愛子のドレスの裾を直し、掛けられているベールを確認してそっと手をとった。扉の外では、先日愛子の養父となった男が待っているのだろう。

 今日は愛子の結婚式だ。

 愛子がこの国、この世界に来たのは今から七年前になる。

 当時高校一年生だった愛子は、部活動が終わって帰宅する直前、突然足元に広がった光に驚く間もなくこの世界に連れて来られた。

 驚きに瞑った目を開くと、歓声に包まれた大広間。見たこともない衣装をまとった男たちに囲まれ呆然とする愛子を、男たちはあっという間に貴賓室に連れて行き、この国の現状を切実に説明し始めた。


 一に、この国はそこかしこで瘴気が溢れ出し、国中の魔物が増えて大変である。

 二に、瘴気に汚染された大地は生物が育たず大変である。

 三に、瘴気を根絶出来る人間がおらず、苦肉の策で異世界より聖女を召喚した。


 おおまかにこの三つを説明した男たちは、その聖女が愛子であると言った。

 突然のファンタジーに目を白黒させていた愛子だったが、ひとつだけ、これだけは確認しなければならないことがあった。


『私は、元の世界に帰れるんですか?』


 愛子の問いに、男たちは一瞬口をつぐむと、彼らは一様に言い淀んだ。

 沈黙が広がるなか、一人の老年の男性が頭を下げた。

 男性は高位の人間であったのか、彼が頭を下げただけで周囲はどよめいた。しかし、愛子にとってそんなことは関係なく、ただ男性の言葉は愛子を絶望させるには十分なものだった。

 彼は言った。召喚は一方通行で元の世界には返せないこと、こちらの都合で呼びつけて申し訳ないこと、愛子の身の安全と生活の保障は必ずすること。だからどうか、この国に力を貸して欲しいこと。


 当時はあまりのショックでぼんやりとしていたが、はっきりいって脅迫に近いなと、今では思う。

 突然問答無用で異世界に連れ去られ、帰れもしない少女に生活の保障と引き換えに助力を乞う。脅迫以外の何物でもないだろう。

 現に、当時の愛子には拒否する頭もなく、ショックでぼんやりしていたこともあって流されるように城の一画に居住が決まっていた。


 愛子にはベテランの専属侍女がつけられ、分からないことは何でも彼女に聞いた。母よりも年上かと思われる侍女長は、愛子の前では朗らかで気さくな笑顔を絶やさなかった。おかげで、こちらに来た当初の愛子は随分助けられた気がする。


「ああ、アイコ、綺麗だよ」


 扉が開くと、養父となった男性が眩しいものを見るように愛子を見つめて囁く。


「ありがとうございます」


 愛子がベールを崩さないようにそっと頭を下げると、養父は薄い布の向こうで苦笑した。きっといつまでたっても他人行儀な愛子に困っているのだろう。しかし、彼とは養子になってからまだ三回しか会っていない。実質他人だ。

 養父はそれ以上は何も言うことなく、愛子の手を取って教会の入り口に向けてゆっくり歩き出した。後ろからは侍女たちがベールが汚れないよう持ってついてくる。こんな風に愛子が何も言わなくても、周囲は目まぐるしく変わっていく。

 教会への道は日が差し込み、今日と言う日を神が祝福しているようだと言ったのは後ろの侍女たちだ。 

 ふと、全員の足が止まった。


「殿下」


 養父の声にどきりとする。

 そっとベールの向こうをみると、数歩先の柱の陰にこの国の第一王子が立っていた。


「式の前に少しアイコと話したい。時間をもらえないだろうか」

「恐れながら殿下、神聖な聖女の結婚式の前に、新郎である辺境伯より先にアイコ様に会いにいらっしゃるのはいかがなものかと。何より、聖女の結婚を」

「聖女の結婚を妨げはしないさ。本当に、少しだけだ」


 養父の言葉を遮るように言った王子の声音は切実さが溢れており、養父は少し考えたあと、愛子をエスコートしていた手をそっと放した。


「すまないアイコ、式のためのコサージュを部屋に忘れてきてしまったようだ。少し待っていてくれ。殿下、私が戻るまでアイコ様をよろしくお願いします」

「ああ、分かった」


 わざとらしい養父の言い訳に頷くと、王子は付かず離れずの距離で愛子の横に立った。

 養父に言われ、侍女たちも一人残らず彼について行った。人気のない廊下に王子と愛子の二人きりだ。


「アイコ」


 名を呼ばれ王子に顔を向けると、彼はとても苦しそうな顔をしていた。


「殿下……」

「もう名前で呼んでくれないのか?」

「殿下との婚約は解消されています。もう私に呼ぶ資格はありません。既に、新しい婚約者の方も内定しているのでしょう?」

「誰に聞いた」

「殿下の叔父である侯爵様から。娘さんのようですね」

「あやつか」

 

 恐らく牽制の意味もあったのだろう。婚約解消をした聖女が未練がましく王子を求めないようにと、次の婚約者は自分の娘なのだとわざわざ挨拶にきたのだから、意地が悪い。


「今は私と君の二人だけだ、構わないだろう」

「……殿下のご命令であらば」


 愛子が感情を押し殺して答えると、王子はまるで傷ついたような顔をした。


「もう、以前のように話してはくれないのか?」

「……分かるでしょう」


 愛子の言葉に、王子は何かを堪えるようにぎゅっと拳に力を入れた。


 七年間、愛子は第一王子の婚約者だった。

 召喚された当時の愛子は右も左も分からない赤子同然であり、国の歴史や地理以前に、文字から学ばなければならなかった。そんな愛子の保護を一任されたのが第一王子だ。

 世界の知識や魔法の勉強はもちろんのこと、文化の違いに戸惑う愛子を側で親身に支えてくれていた。

 そんな王子を愛子が頼りにし、やがて心の支えにするのは可笑しなことではなかった。

 周囲に無条件で頼れる人間がいない中、見目が麗しく紳士的な人間が、自分を真綿に包むかのように大切にしてくれる。そこに居心地の良さを感じ、愛子が想いを寄せるのも当然のことだった。

 聖女を国に縛りたかった王家は、もろ手を挙げて賛成した。あっという間に聖女と第一王子の婚約は決定され、国も祝福ムードで歓迎した。

 当時、愛子の魔法訓練が順調だったことも関係しているだろう。

 聖女として召喚されただけあって、愛子には聖女の素質があった。愛子の魔法は訓練すればするほど上達し、半年もするころには、最上位の聖魔法を難なく行使できるまで腕を上げたのだ。それは王国としては何よりも喜ばしいことだった。

 しかし、愛子の異世界生活が順調だったのはその最初の年までだった。

 この異世界は、どこまでも愛子の心を置き去りにする。

 愛子は今日、王子ではなく辺境伯と結婚する。


 沈黙が二人の間に落ちた。

 何か言おうとしては口を閉じ、悲痛に奥歯を噛み締める王子に、愛子は諦念と共に憐れみを覚えた。

 少し傲慢で融通がきかないところもあったが、根が真っ直ぐで素直な人だった。だからこそ、今は罪悪感で押し潰されそうなのかもしれない。


「殿下が気に止む必要はありません」

「何故だ⁉ 君はこの私に、理不尽にも婚約解消されたんだぞ。そのうえ今日は、会ったこともない相手へ嫁がされる。それでも何も恨み言はないとでもいうのか!」

「ないとは言いません。でも、全部仕方のないことです。殿下の責任ではありません」


 それに、ここで愛子がいくら叫んでも、現実は変わらない。そのことは、王子が一番よく知っているはずだ。


「私は、君と結婚するつもりだった‼」


 感情が高ぶったのか、王子が強く声をあげた。だが、すぐにその勢いをなくしてしまう。


「結婚するつもり、だったんだ……」

 

 力なく項垂れる姿に、愛子は何も言わなかった。

 分かっている。この七年の全てが嘘だったとは思わない。多少の打算はあろうとも、王子が愛子を愛しんでくれたことも本当だった。

 だから、王子が国と愛子を天秤にかけ、国を選んだことも、決して責めはしない。なにより。


「殿下、貴方は悪くない。誰が悪い悪くないの話ではなく、仕方ないことだったんです」

 

 心とは、それを持つ本人にすら思い通りにならないものだ。だから、本当に仕方なかったのだ。



「待たせたね。殿下もありがとうございました」

「ああ」


 すっかり重く気まずい雰囲気となったところで、養父と侍女たちが戻ってきた。気づいているだろうに、素知らぬ顔で再びエスコートしてきた養父にのっかり、愛子はそのまま手をとった。


「では殿下、失礼します。行こうか」

「はい」


 教会に向けて再び歩きだす。愛子は振り返らなかった。


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