ガラス瓶のドレスコード

班目眼

プロローグ 誓いのキス


被写体をはっきりと照らすメインライト。演者の一挙手一投足が記録される大型のカメラ。この場を統率するドラマ監督。撮影の現場ではいつも張り詰めた空気が流れている。

きらめくスポットライトも様々な角度から僕をとらえるカメラのレンズも大人からの欲望混じりの生温かな視線も。そのすべてが僕を圧迫して息苦しさを覚える。

周りからの期待は重い。だがその期待に応えようと無理をしている凡才。それが隠しようのない真実。ドラマではなく現実。誰にも見せられない僕の本当の姿。

凡人である僕が演技の天才であると周りをだまし続け、フィクションの世界だけでなく現実の世界でも天才を演じ続けること。それにより生まれた重圧に耐え続けなければすぐにボロが出てしまうこと。僕には生まれ持った才能などない。そんなことは百も承知であった。


だけど、憧れのあいつの隣で演技を続けたかった。

今はあいつに追いつくことで精一杯。演技の実力は天と地ほどの差だ。だけどいつか、あいつの隣に胸を張って並びたい。頑張る理由はそれだけで十分だった。




「はい!オッケー!!!完璧だよ咲人君。これで撮影は全て終わり。君のおかげで完璧なドラマを作ることができた。ありがとう」



ドラマ監督からのねぎらいの声。いつも通り台本に忠実に役柄を演じただけ。ただ作者の意図を汲み取り演技をしただけで褒められる世界。それが僕にとって役者の世界のすべてだ。

世界中がうらやむスーパースターになれる?

誰もがうらやむ憧れの世界?

そんなかっこいいものじゃない。きっとここは実力がすべての泥臭い世界。

周りは僕を天才子役と呼ぶが、きっとそれは期限付きの情けない肩書かたがきで、他人はまがい物の僕を特別にしようと必死だ。

僕はそんな空虚な期待に答えようと紛い物の天才を演じる。いつも、誰よりも必死に。


額に浮かんだ汗を腕で拭いながら、やっと終わったと安堵感を感じていると。一人の少女が僕に近づき何かを差し出した。


「ほら、あんたの分の水とタオル。別にあんたのために用意したわけじゃないけど、たまたまそこにあったから。ほらあげるわ」



冷たい態度をとりながらも僕に優しく接してくれる大切な仲間。僕にとっての憧れ。本物の演技の天才、水瀬みなせ水月みつきは特別な存在だった。僕とは違う本物の天才役者。僕のようなまがい物の才能ではない。これが本物だと見せつけられているかのような圧倒的な存在感。誰もが憧れる魅力的な容姿。それに加えて見ているものすべてを虜にする大人顔負けの演技。


僕にはない全てを持ち合わせる彼女の隣に立って演技ができることが嬉しかった。だけどその反面。いつまでたっても彼女の隣に並ぶにふさわしい演技ができない自分に腹が立つこともあった。



「ありがと、水月。いつももらってばっかでごめんね」



そうやって歩きながら僕たちは撮影スタジオを後にした。そのまま僕たち2人はいつもの秘密の場所へと向かう。そこはビルの中の誰も来ない非常階段の一角。

妙に埃っぽいこの場所の空気はいつも通りで薄暗い照明は二人の空間をくっきりと映し出す。

僕たち2人はいつもこの場所で同じ時間を過ごしている。大人達の視線から逃れてほっと一息つける場所。それがこの誰も来ない非常階段の一角だった。


僕が腰を下ろすと水月もその隣に自然と腰を下ろした。漂うアロマな香り、これは彼女の唇に塗られているリップの香料だろう。

普段は香らない特別な香りのせいか魅力的な彼女の雰囲気から目が離せず固唾を飲む。

そんな彼女を見ているとなぜか無性に喉が渇き、右手に握られたままのペットボトルのキャップをとり外し何気なく口をつけながら水をごくごくと飲んだ。

無味なはずの飲料水はいつも通り甘さを感じさせる。乾いた喉に冷えた飲料水は想像以上に刺激的だ。


いつもよりおいしい水の甘みを感じていると、突然水月からの鋭い視線を感じた。まじまじと見つめた彼女の顔はほんのりと赤みがかかっており、僕は不思議そうに魅力的な少女と目を合わせた。

依然彼女はキッっと捕食者のような鋭い眼光で僕をにらみつけ、血色の良い唇を震わせながら言葉を発す。



「あんた!いっ、いつもは口なんてつけて水飲まないじゃない!今日に限ってどうして_______」



「………………?それが…どうかしたか?」



いつもと違う様子の彼女。それを見て僕は動転した。

彼女の動揺した姿はあまり見られるものではないからだ。いつも冷静で大人顔負けの演技をする彼女だから、こんなにも動揺している姿を初めて目撃した僕は驚きを隠せなかった。

だが先ほど口をつけたペットボトルの飲み口から水月の唇から香る匂いと全く同じアロマな香りが漂っていることに気がついてしまった。もしかしてこれは彼女の飲みかけで、これはいわゆる間接キスだったのではないかと。

慌てて彼女に聞き返す。


「もしかして、間接キス?」



そうすると水月は顔を赤らめ下を向く。両手で顔を仰ぐ彼女の仕草が体温の上昇をにおわせた。



「そっ、そうよ。私の飲みかけ…。」



歯切れの悪い彼女の言葉からやってしまった事の重大さに気が付き、僕は即座に謝罪をする。


「ごめん」



と返すが水月からの返事は帰ってこない。水月のご機嫌をうかがうように無意識に飛び出ていた右手は行き場をなくしたまま宙ぶらりん。

そのまま数秒間何を言えばいいのか分かず黙りこくってしまった僕の態度が気に入らなかったのか彼女はもう一度僕を睨む。



「__ッ。なによ!何よその反応!そんなにおどおどして、私との間接キスが嫌だったみたいじゃない!」



「…そんなこと、ないよ!」



「ウソだ。なら何でもっと喜ばないのよ。私の通ってる小学校の男子は間接でもキスしたいっていっつも言ってるのに…」



そういわれて僕は口ごもってしまった。間接キスは嬉しい。だけどそれを素直に言葉にできるほど僕は大人ではない。

またも沈黙が流れる。耳に聞こえるのはどこからか流れるエアコンの風の音。その空気に耐えかねたのか、彼女は辛抱ならないとばかりに頬を膨らませて見せた。そして膨らんだ頬のまま緊張した様子で僕の方に顔を近づけ始める。



「ふーーんだ!嬉しくないんだ!!いいわ…!なら本当のきっ、キ…スをしてあんたのそのすまし顔真っ赤に染めてやるんだから!」



そういった水月は僕の方へゆっくりと顔を近づける。

いつも突拍子もないことをおいそれと行ってしまう水月だがキスだなんていい始めた水月を見るのは初めてだった。



「なな、なに言ってるんだよ?きっ…キス?ダメだって!!」



言葉では抵抗を見せるものの僕はその場から動けない。水月が僕の肩をつかみ身動きが取れないからだ。



「いいの!もう決めたの!あんたは黙って私にキスされればいいの!」



そういって強引に僕の唇を奪おうとする水月。ただでさえ魅力的でいつも正面から見ることははばかられる彼女の破壊的とまで言える顔面が僕の目と鼻の先まで迫る。 

閉じられた瞳は長いまつ毛に彩られ、唇は鮮やかなピンク色をしている。魅力的な彼女の顔がゆっくりとけれど勢い強く僕に迫る。一切のためらいもなさそうに見える彼女も全く冷静と言うわけではなく尖らせた唇はプルプルと震えていた。その様子を見てどうにかキスを回避しようと顔をのけぞらせるが水月も負けじと顔を近づけてくる。


キスなんて大事なものを僕が奪うわけにはいかない。そう言うのは多分恋人同士がするもので、およそ僕なんかが彼女から奪っていいものではない。そう決意し彼女を遠ざけようと腕に力を込めるが、眼前に迫った水月のその勢いは思ったよりも早く、抵抗しても無駄だと感じるほど力強い。

僕は抵抗を諦め、なすがまま彼女を受け入れた。そのまま俺の唇に水月のアロマな香り漂う柔らかい唇が触れると思ったのだが…



ガンっ



っとおよそキスとは思えない鈍い音が鳴った、何が起こったの一瞬分からなかったが強烈な痛みが俺の歯に襲い掛かる。当然水月の方もそれは同じようで痛みに耐えるように唇を人差し指で抑えていた。おそらく水月の勢いが有り余って俺と水月の歯と歯がぶつかり合ったのだ。



「いったぁーい!なんで?キスってもっとやわらかいものじゃないの?」



「………___ッ。ダメだって言ったのに、ほんとにするなんて…」



「…でも、ほんとにキス。しちゃったね?」




僕はテンパってしまって、歯の痛みなど忘れてこれは本当にファーストキスになるのだろうか、なるのなら僕はとんでもないことをしでかしたのではないかなどと考え不安に苛まれる。

だが彼女は僕の不安など考えず、これをきちんとキスとしてとらえているようで、先ほど僕と触れ合った唇を指で静かに触りながら顔を赤く染めている。自分がやったことの重大さなんて知らないとでも言いたげな彼女。だが、僕の反応を見て何やら不満げな表情を残す。そうしてぼっそと何か小さな声で言葉を紡ぐ。



「なんで…なんでなんで?なんであんたは喜んでくれないの?私はあんたとキスできてこんなに嬉しいのに。あんたは嬉しくなかったっていうの?」



「………そんなの、嬉しいに決まってる」



水月の虚ろな瞳が僕をとらえて離さない。魅惑的なピンク色の唇は先ほどのキスを僕に思い出させる。不意に身震いするような高揚感が身を包み全身に血が巡る。目線のすぐ先にある水月の小柄な体躯が僕を狂わせる。いつもそうだ。こいつといるといっつも自分の行動に理性が伴わなくなる。馬鹿になる…


もう、しらねぇ。どうとでもなればいい。今日この場において、理性など必要のないものだ。


僕はそっと水月の赤く染まった頬に手を伸ばした。彼女は察したようにそっと瞼を閉じる。



「いいよ」



彼女の唇からはやはりアロマな香り。

ゆっくりと顔を近づけながら僕たちはお互いを確認する。


僕たちはそっと互いに触れさせ重ね合わせた。ほんの数秒の時間はそれを深く感じるには十分。

それは_____アロマな味ではなく、檸檬の味がした。




・・・・・・・・・・・



「ばっ、バカぁぁぁぁぁぁぁ」



非常階段の一角に彼女の大声が響き渡る。水月の溶け切ったかのような表情には一切の鋭さは感じられない。



「あんたからしていいなんて、私言ってないんだからね!!いや、言っちゃったかも…?

とにかく、私にも心の準備がいるの!」



「…そうだよね。ごめん、僕なんかが…嫌だったよね」



「いっ嫌とは、言ってないんだけど!!嫌じゃなかったけど!!

____ただ…」



「ただ?」



僕は緊張した面持ちで水月に言葉を返す。冷ややかな冷房が肌を刺す。

水月は顔を伏せた。顔の赤さが耳までたどり着いている。そのまま自信なさげな声が俺の赤くなった耳にも届いた。



「せっ…責任取りなさいよね!歯と歯がぶつかっちゃったとはいえ私の、いや未来の天才女優のファーストキスを奪っただけじゃなくて、もう一度…その、したんだから…」



水月の慌てたように口早な言葉が僕を責め立てる。そんな彼女がかわいくて、たぶん口には出さないが僕は彼女が特別だ。

だからきっと僕の返事はこうじゃなきゃいけない。



「…うん。責任、とるよ。僕がなんでもしてやる」



まっすぐな僕の本心。その言葉のさきにある未来は誰も知らない、だけどきっと水月となら良い方向に進んでいけると信じている。

そんな僕の言葉を聞いて面食らったのか一瞬彼女は言葉を詰まらせる。だが次の瞬間には崩れた顔の表情を元に戻し、溢れんばかりの笑顔で僕の方に小指を差し出す。



「__じゃあ。あんたにしか叶えられないお願いにするからね」



「…うん。何でも言ってよ。きっと水月の願いならなんでも叶えられる気がする」



「わかったわ。じゃあ言うわよ…」



そういった水月の顔はいつものだれにも崩すことのできない鉄仮面ではなく、ただの幼い少女のような笑顔だった。

差し出された小指に視線を落とすと、その手は小刻みに震えていて彼女の緊張にいまさらながら気が付いた。水月が「言うわよ」と言ってから少し間が空き、口ごもっているのもきっと緊張のせいなのだろう。

僕は彼女の隣にいるために差し出された右手を握りしめた。



「なんにしたって、僕たちの関係は変わらない。そうだろ?」



その瞬間彼女の顔からは不安が消え去った。

やっぱり彼女は演技が上手い。こんな些細な表情の変化、僕じゃなきゃ気付かない。



「…そうね、そうよね。だから私あんたが…いや、あんたじゃなきゃダメなの」



そういった彼女の言葉からは固い決意が溢れ出している。そうだ、僕は水月のこう言う自信に溢れた顔が好きなんだ。


水月が口を開く。そして小指をもう一度僕の方にグイっと差し出した。手の震えはもう止まっていて、彼女の瞳は僕の方をだけをただ見つめている。僕の全てを見透かされているかのような視線に晒され、その時間が何分にも何時間にも感じ取れた。


どのくらい時間が過ぎたのかはわからないが、

今だけは時が止まったかのように、全ての空間が僕たちだけのものだ。


______そっと彼女は僕に笑いかけた。



「……いつか、いつかでいいんだよ。私たちは天才的な役者になって二人で主演を飾るんだ。あんたが主役で私がヒロイン。他のどんなことを忘れてもいい。だけど絶対に絶対にこの約束だけは忘れないで」



僕たちだけの空間。僕たちだけの時間。全てが一瞬のことだが、この時間が永遠に続けば…いい。



「約束、してくれる?」



言葉がうまく見つからない。天才を演じる僕があこがれの人と同じ未来を目指して進むことができるなんて、想像していなかった。

僕のこれまでの血がにじむほどの努力が報われた気がした。それは気のせいではないはずだ。

とめどなくあふれる涙を止めることができない。


今日はきっとこれまで生きてきた中で最高の日だ…。

こぼれ落ちる涙を手のひらで拭うが止められない。心配そうにこちらを見ている水月は俺の返事を今か今かと待ち侘びている様子。

それを見て、できる限り涙を拭う。だけど、止められない。



「………………僕は、、、。僕は!君と、同じ道を歩みたい。…でも、本当に僕なんかでいいの?天才でもない凡人で本当に…いいの?」



僕の顔は多分涙や鼻水やらでぐしゃぐしゃだ。

ここで感情をコントロールできない僕はやはり天才ではない。だけどそんな僕でも、何も持たない僕でもいいのだろうか?彼女の隣に並んで演技をしていいのだろうか?



「…ふふっ。そんなの私が決めることじゃない。あんたが自分のことどれだけ低く評価してるのか知らないし、私があんたの心中を慰める方法を知ってるわけでもない。でもね…ただ一つ言えるのは、私が唯一隣に並んで演技したいって思える人はあんただけってこと。

___約束、してくれる?」



誰かの評価を気にして、型にはまった演技しかできなくなったのはいつからだろうか。ミスを恐れて進化を拒んだのは誰だろう。

全部全部僕だ。僕の未来を決められるのは僕だけだ。だれのせいでもない。僕の人生だから、これからは後悔しない人生を生きたい。だから、僕は情けない涙を袖口で拭う。だから、僕は彼女の小指を握り返す。



「______うん。約束……」



水月の顔には満面の笑み。当然僕もそうだ。


そうしてこの日僕たちは未来を誓い合った。



・・・・・・



長い間小指を握り合っていると、突然非常階段の入り口の扉が開き1人のお嬢様がこの秘密の場所に現れた。



「やっぱりここにいましたね!目を離すとすぐ2人でどこかへ行ってしまうんですから。困ったものです!…って!あなたたち二人だけで小指を握り合っていてずるいですわ!

……わたくしも!」



そういって僕たち二人の小指に自分のものをまじりあわせるお嬢様。

彼女の名前は鬼灯ほおずき檸檬れもん。小柄で可愛らしい印象を抱く女の子。彼女の夢は僕たちと同じ役者であり、僕と水月と檸檬は同じ年齢だ。

同じ夢を抱く僕たちは、会ったその日に意気投合し、気づいた頃には親友になっていた。


檸檬が絡ませた小指から、僕たちの未来への約束事が共有されたように感じる。

彼女は何気なくつなぎ合わせた小指なのだろうが、これも運命のいたずらというものだろう。

そう思うとどこからともなく笑みが零れ落ちる。水月も僕と同じことを考えていたようで、口角が上がっていた。

僕たち二人がまるで通じ合っているかの如く笑い始めたことが気に入らなかったのか、檸檬の顔には嫉妬のような感情が混じっているように感じる。



「むぅぅぅぅぅ。二人してどうしたのですか?突然笑いだしたりして!

わたくしだけ仲間外れですか?」


「…いやいやいや!違うよ檸檬。むしろその逆で僕たちはやっぱりつながってるんだなって感じて笑ってたんだ!」


「ふーんだ!ほんとかどうか怪しいものですわ…」



「…ほんとだって!信じてくれよ、親友だろ?」



「ふん!ですわ!!信じられません。」


ツンとそっぽを向いた檸檬を宥めるために、彼女が僕を見下ろすように見つめるその視線を見つめ返した。すると檸檬は焦ったように僕の顔を両手で挟み上げる。



「へっ?___こっ、これはどうしたのですか咲人様。目が赤いですわよ!もしかして……この性悪女に泣かされたんですの!?もしそうだとしたら許せませんわ!」



「…いや、、、そう言うわけでもないこともないんだけど…」



このお嬢様は何かと水月に突っかかることがよくある。なにより気が強くて自分の意見を曲げない頑固なお嬢様にとって、何事にもあまり興味を示さない水月は相容れない存在なのだろう。



「はぁ。また檸檬。あんたなの?わざわざ私に絡んでも良いことなんてないわよ?」



「な…ななな?!!!わたくしがいつあなたに絡んだですって?勘違いも甚だしい!わたくしはただ咲人様を心配しているだけですわ」



「ふふっ。かわいい…。それならわざわざ私を睨まなくてもいいじゃない。あんたは勝手に私のことをライバルだなんて思っているのかもしれないけど…一方的な好意は相手に嫌われるってことを知らないの?ほんとおこちゃまなんだから。」



「_____ッ。勘違いしないでください!わたくしがいつあなたに好意を持っているなんて言いましたの?わたくしはあなたに嫌われようが何されようが構いませんわ!!ほっといてください!それとわたくしはおこちゃまではありませんから!!」



「はいはい。お嬢様、お嬢様。これでいいでしょ?」



「もぉ!!!!!あなたはいっつもわたくしを馬鹿にして…いつか見ておきなさい。ぜぇーたいに後悔させてやりますからね」



やはり水瀬みなせ水月みつき鬼灯ほおずき檸檬れもんは相性が悪いらしい。その後もお互い一歩も譲らない口喧嘩が始まった。いつも通りといえばそうなのだが、止めに入るこちらの身にもなってほしいものである。ただ、二人にとってはこの口喧嘩もコミュニケーションの一環らしく、喧嘩するほど仲が良いとはこのことだろう。



「わたくしはおこちゃまではありません!もう立派なレディですわ!そうですよね咲人さん?」



唐突に僕の会話のターンがやってくる。こういう時はいつも返答を間違えると大怪我をする難問ばかりで今回もそうらしい。

檸檬の容姿や言動から判断するに彼女はまだレディといえる年齢ではないのだが…彼女が欲しいのはそんな正論ではないのだろう。



「そ、うだな…檸檬は立派なお嬢様だと思うよ…」



僕は必死に正解の回答を導いたつもりだったのだが、僕は返答を間違ったらしく檸檬の頬がみるみるうちに膨らんでいく。



「ちがいますわ!わたくしはレディかどうか聞いているんですの。お嬢様かどうかなど二の次なんです。」



そういって檸檬は僕の頬をつねる。


「いてててて、ごめん、ごめんって檸檬!」



僕は必死に謝るのだが、檸檬は許してはくれないらしい。檸檬の嗜虐的な微笑みが視界の端に映る。こいつはいつも僕をいじめるとき笑っている。なんとか檸檬に手を離してもらおうと言葉をひねり出すのだがなかなか檸檬はつねるのをやめてくれない。

するとそれを見かねたのか水月が立ち上がって檸檬の頭をなで始めた。



「…だ~か~ら~。察しの悪い子ね。咲人もあんたのことはお子様だと思っているから言葉を濁したのよ。そんなことも分からないからまだあなたはおこちゃまなのよ?」



「むぅぅぅぅぅぅう。おこちゃまじゃありませんったら!!わたくしだって、立派なレディを目指して頑張っているのです。そんなに言わなくてもいいじゃないですか___」



檸檬は肩を落とす。それを見た水月はバツが悪そうにそっぽを向いた。



「…ふーん。確かに言いすぎたかもしれないわね。あんたも頑張ってることがあるんだ?」



「そう!そうですわ!」



「ふふっ。何を頑張ってるの?」



意地の悪い水月の言葉。だが檸檬はその言葉を待っていたようだ。表情を明るくさせ、はりきった声音で鼻を高くして返答する。



「へへっ。よくぞ聞いてくださいました!

聞いて驚きなさいませ!わたくし!なんと!なんとですね!ドラマへの出演が決まりましたのです!!どうでしょう?頑張っているでしょ?」



檸檬は得意げに水月へ返答した。

だが、水月はいつも通り意地悪な様子だ。



「……ふーん。すごいね。尊敬しちゃう…」



軽くあしらう水月の顔にはバカにしたような嘲笑。

それを見た檸檬は顔を真っ赤にして大声を出す。



「…むぅぅぅぅぅぅぅ。まっ、また!わたくしを小馬鹿にして!もう知りません!もう知りませんわ!!あなたなんて絶交ですから」




檸檬は瞳に涙をためていた。泣き虫なこのお嬢様の今にもこぼれそうな雫をぼくが指で拾い上げこの場を収集する、その大変さは誰も知らないのだろう。



でも、そのやりとりが心地よかった。3人でいられることが嬉しかった。

同じ夢を共有し、ともに高めあえる仲間。彼女たちと笑いあい励ましあいながら成長していけるだけでよかったのに…。



___そんな日が続くことがどれだけ幸福な事か知ったのは、平々凡々な日々はいとも簡単に崩れ去ることを知ったあとだ。



僕の罪はきえない。



瓦礫に押さえつけられた檸檬の右目は赤く染まって血がどくどくとこぼれ落ちる。右足は瓦礫に挟まれ本来曲がる方向とは逆に足が曲がっていた。れもんの表情は苦痛にまみれ俺にできることは、ただ彼女の手を握ることだけ。

「ごめん」そう呟きながら、謝ることしかできなかった。



「ごめん。れもん…ごめん」



「…ふふふ。しん…ぱい、しすぎですわ…………だいじょうぶ………………ですから。わたくし痛くも痒くもありません」




そんなことを口では言いながらも痛みに悶えている檸檬。苦痛に塗れたレモンの唸り声が頭に響く。

未だ助けは来ない。この場にいるのは檸檬と僕だけ。水月は助けを呼びに行ったきりだ。


僕はどうすればいい。何もできやしない、無力だ。

僕は必死にその場かられもんを助け出そうと努力するものの瓦礫は動かない。檸檬を助けられない。



「わたくし、やっと、端役だけれど…役を貰えましたの。わたくし、頑張りましたの…」



「___ッ。…喋らなくていい!喋らなくていいよ!今はそんなこと___」



彼女にとってそれが「そんなこと」ですましていいことでないのは重々承知だ。わかっている。わかっているが、僕は冷静になれない。

檸檬は大怪我をしている、いま彼女を救えなければ、彼女が努力して勝ち取ったのであろうその端役を演じることでさえ不可能だ。


彼女を救いたい。救いたいのに僕にできることは何もない。


無力感に打ちひしがれる僕と対照的に檸檬の表情は優しげだ。痛みはあるはずなのにそれを隠して笑っている。


僕は確信した。


ああ、彼女はきっと立派な女優になれるだろう。だから、今は檸檬を救わなければ。



「演技、少しは…上達しましたのよ。咲人様に見てもらいたくて、一緒に演技したくて頑張りましたの」



「わかってる。でも!今はそんなこと言ってる状況じゃ…ないんだ!」



「ふふっ。だいじょうぶ、ですわ。咲人様が…隣にいてくれている間は、この痛みも、我慢できます…わ」



「______。すぐに、この瓦礫から救ってあげるから、頑張るから。もう少しだけ我慢してくれ」



虚な表情でこちらを見ている檸檬。その口から漏れる嘆息が彼女の状態の深刻さを表現していた。

ふと、彼女の笑い声が聞こえる。



「ふふ。」



そして捻り出されるように綴られる次の言葉。



「これが、最後…かもしれませんから…。ひとつだけ、お願いをしてもよろしい…です、か?

…卑怯と罵られるかもしれません。でもわたくし、あなたたち…が羨ましい」



「______うん。聞くよ。檸檬のお願いなんて10個でも100個でも聞いてあげる。聞いてあげるから____……最後なんていっちゃダメだ!きっと最後じゃないよ!檸檬はきっとこれから、できることがいっぱいある。演技だって、恋愛だって、なんだってできるんだ…」



そう、彼女はこれからなんだってやれるはずだ。檸檬なら与えられた端役を踏み台にして素晴らしい役者になれるはずなんだ。

僕は必死に彼女を励ます。


だが、僕の声は彼女の耳には届いていないらしく、ひとりで虚空に向かって話を続ける彼女が僕の心を打ち付ける。

そこまでして彼女が伝えたい気持ちを僕は黙って聞く。



「…わたくし、見てたんです…。あなたたちがキス、している…ところ……………。

……うらやまし、かった………。

だから………………………………………………

………………………………………………………………………………………………………………

わたくしにもキス…してくださる?」




振り絞るように、最後の力を出し切って語られた彼女の願いは。




______僕とのキスだった。



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