P.42 家路

 腐臭を洗い流すように、甘さを帯びた涼風が頬を撫でてゆく。

 驚いて見廻すと、杏子あんず林の中に居た。地下のラボではなく、劉のこしらえた庭園でもない。

 山野を覆い尽くす杏子あんずの花が、見渡すかぎりを薄紫に染めている。

 景色に見覚えがあった。ミッションで潜入したことがある――新疆ウイグル。   

 この子の故郷なのだろう。

 少し離れた樹々の下に、燈火のような人影があった。黄色とオレンジの混ざった民族衣装の女性。

 ──マザー。

 まどろんでいた男児が目を開く。名を呼ばれでもしたように。

 シュウの腕を抜け、温かい大地に素足で立つ。マザーめがけて駆けだす。

 あの子には自分の母親に見えるのだ。

 男児は一度だけ振り返り、満面の笑みをくれた。

 マザーが迎える。

 二人は手を繋ぎ、木漏れ陽の中、花の奥へと歩み去った。

 ──さらばだ、劉。

 杏子あんずの山野が霞んでゆく。風景が光の中へ溶ける。

 淡い光の中にシュウ一人が取り残された。

 ――ここは何処だ? オレは死んだのか?

 それなら家族が居るはずだ。先に逝った人たちが。

 とうさん。かあさん。佳奈……

 光の先へ足を踏み出す――


     *


「見失った」カスミが唇を噛んだ。「反応無し」

 シュウの歯茎に埋め込まれた極小インプラントからの信号が消失した。それは、宿主のブーステッドが生体電流を供給できなくなった事を意味する。

 ECHIGOYAの通信衛星が中継するが、増幅が大き過ぎて背景バックグラウンドノイズがひどい。

 乱れたモニター画面に、それでも皆の目は希望を探す。

 しかし、東シナ海の小島にフォーカスされた画面に、シュウを示す☆マークが再表示されることはなかった。

 南西諸島沖を航行するクルーザーの中だ。コクマーとカスミ、それにベンケイと凪沙が乗船している。

 沈黙が降りた。誰も、何も口にできずにいる。

 沈黙に耐えかねた凪沙が、逃げるようにアフトデッキへ出た。海風が髪を舞い上げる。ベンケイが後に続く。

 たなびく雲を輝かせて陽は落ちかけていた。海原が橙色に染まっている。

「シュウは生きている」凪沙は呟くように言った。「ぜったい、生きてる」頬を伝うものが低い陽光に光った。

 夫の腕が凪沙の肩を抱く。「あたりまえだろ。そのうち笑って顔を見せるさ」そして、自身に言い聞かせるように続けた。「──アニキは、悪運が強いんだ」


     ***


 無感情なが宇宙空間にある――

 太陽系に向かっていたブラックホールが進行を止め、闇のただ中で停止した。まるで、自分を呼ぶ声が途絶えてしまったかのように。

 地球周回軌道上の宇宙望遠鏡が、暗黒のホールを捉え、映像が地上へ送信された。その姿は、まるで、底無しの虚無の目。

 に見られている──人類ヒトは、誰もが一様に、そんな居心地の悪さを覚えた。

 冷たい宇宙空間から、は黙したままじっと見つめ続ける。小さな天体の表面でうごめく、人類ヒトの営みを──



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闇より出でし者〈Boosted Man file.04〉 安西一夜 @nohninbashi

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